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2009.05.04

江戸のたそがれ-天保期のスーパー才女-

<江戸時代>
江戸期は260年余り続いた。この時代は鎖国体制を敷き、朱子学を中心とした儒教の教えが日本人の行動を律し、およそ科学的、合理的な思考は発達しなかったように思いがちであるが、それは認識不足であり天文学の麻田剛立や数学の関孝和のような優れた人材が出たことは、伊能忠敬を主題にした以前のウェブログでも触れた。

  • 伊能忠敬の墓所-浅草源空寺-

    中村士氏の「江戸の天文学者 星空を翔ける」(技術評論社刊)を拝読すると、律令時代の陰陽道(占い術)としてスタートした日本の天文学が、江戸時代になって科学に脱皮していく過程がよく分かる。京都西陣に陰陽師、安倍晴明を祀る晴明神社があるが、その子孫が土御門家を名乗り江戸時代まで暦編纂の家柄として続いた。

    Seimeijinjya
        晴明神社(提灯に五芒星シンボルマーク)  陰陽博士安倍晴明公居館之跡

    日本の暦は9世紀に中国の宣明暦を輸入して以来、800年以上使い続けられた。本家の中国ではその後も改暦が繰り返されたが、日本では菅原道真が遣唐使の派遣を中止したため新たな暦法が入ってこなかったからという。このため江戸期の太平の世に入ると日食や月食の予報の誤りがたびたび指摘されるようになった。

    1684(貞享1)年になって渋川春海が科学的観測と中国の最新の暦法に基く貞享暦を作って初代天文方になり、徳川幕府が編暦の実権を京都朝廷から奪った。関孝和もこの時期に中国暦の理論を研究し、渋川春海でさえ理解できない理論を孝和のみは理解していたという。

    江戸時代には享保、寛政、天保の3大改革があったと学校の歴史で習う。これらの改革は財政改革だけではなく、改暦を伴うこともあった。つまり当時の先端科学を取り入れて日食や月食をよく予測する新しい暦を公布することは、天下に号令することであり威信を示すことに繋がるという、古来からの為政者の権限行使である。

    1716(享保1)年に徳川8代将軍になった徳川吉宗は、享保の改革で目安箱を設けて民の声を聞いたり、あまり身分の上下や家柄を気にしなかった将軍として人気があり、「暴れん坊将軍」のドラマのタネにもなっている一方で、天文学にいたく傾倒して自ら観測装置を工夫したり天文観測を行い、当時では屈指の光学研究者といっても良いレベルだったらしい。

    吉宗は西洋天文学による改暦を熱望したらしいが、幕府天文方の御用学者の実力が不足し、伝統的な編暦の家柄であった京都の土御門家との確執の壁もあって存命中には達成できなかった。吉宗の孫にあたる松平定信の寛政の改革の時、1795(寛政7)年に西洋天文学を研究していた大阪の麻田剛立一門の、高橋至時が幕府天文方に任命され寛政の改暦にあたることになる。

    この流れが伊能忠敬の日本地図作成の大業を生み、1804(文化1)年に天文方になった高橋景保(至時の長男)が、伊能忠敬死後の1821(文政4)年に大日本沿海與地全図として完成させた。高橋景保はシーボルト事件で獄死したが、その弟、影佑は渋川天文方を継ぎ、水野忠邦の天保の改革時、1844(天保14)年に天保の改暦を行った。

    水野忠邦は1834(天保5)年に老中となって天保の改革を断行したが、施政が厳格に過ぎて人望を失い、1843(天保13)年に免職となるが、翌年再び老中に復した人であると、学校の歴史では習った。

    しかしこのような財政改革や改暦を実施して一時的には幕府の威信回復になったとしても、米本位経済から商品経済への時代の流れに幕藩体制ではいかんともし難く、次第に幕府の力は衰えて、幕末まであと30年ほどの天保期(1830-1844)は、いわば江戸のたそがれともいうべき時期であった。

    <江戸のたそがれ期に日記をつけた井関隆子>
     井関隆子のエスプリ日記
    Isekitakako_2このたそがれ期の1840(天保11)年から1844(天保14)年の5年間、一人の女性が詳細な日記をつけていたことが近年判明した。昭和女子大学の深沢秋男教授は、35年ほど前に鹿島神宮大宮司家に秘蔵されていた日記を見せられ、その史料的価値の高さや、それまで全く知られていなかった井関隆子というその著者の魅力に魅入られてしまったと仰る。

    深沢教授は近世初期の仮名草子がご専門であるが、専門研究の合間に井関隆子の研究を進められ、一般向けには、2007年末に左の写真に掲げた「旗本夫人が見た江戸のたそがれ 井関隆子のエスプリ日記」(文春新書)を発刊された。日経書評を見て購入していたので、前編で触れた天璋院篤姫との関連がどうだったのかと思い再読してみた。

  • 天璋院篤姫雑感

    井関隆子は1844(天保14)年の日記を絶筆として60歳で他界しており、1856(安政3)年の篤姫江戸城輿入れはその12年後であるから、残念ながらこの日記には天璋院や和宮の描写はない。しかし隆子の孫が1863(文久3)年に大奥の用人となって天璋院と和宮のお世話役をしたというから、もし隆子がその時まで存命し日記を続けていたらと思うが、歴史にたら話はない。

    <井関隆子の日記執筆の動機>
    井関隆子は56歳の1840(天保11)年1月1日に、「重要なことは公的記録に記されているし、私的なことも優れた人達によって記されているから、私がとりたてて言うこともないが、これといって為すこともない老いの身としては、とりとめもないことでも書き記して慰めとしたい。」として日記を書き始めた。

    隆子は最初の結婚に失敗し、30歳のときに再婚して井関家へ入った。しかし42歳の時に夫が死に、以後は血の繋がりのない息子夫婦と孫夫婦と一緒に井関家を切り盛りした。兄の影響で早くから日中の古典に親しんだ教養ある女性だったらしく、井関家でも夫の死後は一家の主婦としての役目も終わり、学問や歌に磨きをかけたらしい。

    日記を書き出した頃は既に隆子の晩年に入っており、井関家の最年長者の母・祖母として家族の皆から尊敬され、離れに住んで鹿屋園(かやぞの)の庵主と称して気ままに毎日を送れる恵まれた境遇であった。江戸時代は女大学に代表されるように女性には忍従を強いる男尊女卑の社会であったように思うが、井関家は礼を守る絆の強かった家庭のようである。

    <高い史料価値をもつ日記>
    当主である息子の親経は12代将軍徳川家慶の側近を勤め、隆子が日記を書き出した2年目の天保12年に、大奥を担当する広敷用人に抜擢され、11代将軍家斉の正妻、広大院の掛を担当していた。因みに広大院は薩摩島津家の出身であり、この縁から後に島津家から篤姫が輿入れすることになる。孫の親賢もこの当時は将軍家慶の側近であり、後に父の後を継ぎ篤姫や和宮の掛になる。

    親経、親賢父子とも役目柄色々な情報が入りやすい部署にいた上、お城から帰ると、まず隆子に城内の様子を報告していたことが日記から推察される。このため、日記を書き始めた当初は、日々の慰みとしてとりとめないことを書くという隆子の意識が、彼女を取り巻く江戸の社会が激変期に入り幕政の変革に出会ったことから、これは捨ててはおけない、このことは是非書き留めて後世に伝えたいという意識に変化していったという。

    日記は全部で12冊あるらしい。最初の年(天保11年)は4冊あって、四季の変化、江戸の年中行事の見聞、幼い頃や若い頃の思い出、学問、和歌、物語など、彼女の動機に沿った自身の内面的感情を示すような内容が多いが、2年目以降はそれぞれ2冊づつとなり、人物、社会、政治やそれに対する彼女の批評のような内容が主体になってくる。

    親経、親賢父子も、隆子の日記執筆に協力を惜しまなかったろうから、天保の改革の実態や江戸城内の将軍家と大奥の動きについて、隆子の得る情報はかなり正確なものであったと思われ、さらに隆子自身の優れた判断力や執筆力が加わって、史料価値の高い日記になっていると評価されている。

    <水野忠邦の天保の改革>
       水野忠邦
    Mizunotadakuni水野忠邦は唐津藩6万石の藩主から浜松藩に転じ、上述したように1834(天保5)年に老中となった。当時は農村に商業的農業や加工業が発達して物価騰貴が起こり、百姓一揆や打ちこわしが増加し、それに天保の飢饉や大塩平八郎の乱があって社会が混乱に陥った時期である。

    本丸老中首座となった水野忠邦は1841(天保12)年から天保の改革と呼ばれる一連の改革を行った。奢侈の禁止や風俗矯正、借金棒引きはいつの改革も同じであるが、特に江戸、大阪近辺を幕府直轄領とする上知(あげち)令と、株仲間の廃止を目玉にしたものの、内外の反対を招いて失敗し、1843年に忠邦は失脚したと歴史辞典には出ている。

    <水野忠邦に対する辛らつな批評>
    隆子が日記をつけた時期は、まさに天保の改革の時期と合致する。彼女の日記には、1840(天保11)年から天保15年までの全てに水野忠邦が登場するが、天保の改革の推進者である水野忠邦に対する彼女の見方は辛らつである。

    天保11年に水野忠邦は三方所替を発令し酒井、松平、牧野の3大名を国替させようとした。隆子は11年11月12日の日記で、「酒井氏は家康の時代に大功あって庄内藩を賜ったのに、現在の当主が驕り高ぶり女を集めて遊んでいるという理由で国替するということだが、川越藩の松平氏が富裕な庄内藩を望み、幕府にも得になるから水野忠邦が損得で推進しているのではないか。」と、忠邦を疑っている。

    さらに隆子は、「水野殿は世間には節約するようにと厳しい触れを出しておきながら、自分の領地は増やして貰っているし、世には厳しく禁じている賄賂も自分自身は何事につけても受け取っている。そういう人物である。」と、まことに厳しい評価をしている。

    ただし天保の改革それ自体は隆子も異存なく、発令の翌日の12年5月18日の日記に、「この度享保、寛政の頃の趣意に従って何事も節約し、驕りを省き、賄賂などによる昇進の人事も改め、武術は平和な時代にも忘れず励むよう仰せ出された。今の将軍様の御心からの掟には、御自ら費えを省き、臣下には恵みを下されているので、皆この命令に異を唱えるものはいない。」と記して期待している。

    12年6月16日の日記では寛政の改革を断行した松平定信について、「その頃、世の中は贅沢に走り、服装も華美に流れたが松平定信はことごとく改めた。まず自分自身の生活を切り詰め、賄賂はいうまでもなく追従さえ嫌った。掟は厳正であり、政策に私情を挟まなかった。故に下々も命令に従い世の中もたちまち改まった。」と高い評価をしている。

    しかし水野忠邦に対する見方は厳しく、12年から13年にかけての日記には、「水野殿は以前からとかくの評判がある。しかし今は権勢を誇っている。」とか、「この人については世間ではあれこれ噂が絶えないけれど何の処分もない。虎に翼が生えたように大変な勢いである。」と、隆子は忠邦のことを、改革に私情をはさんで自分に有利に進めている人物と見て批判している。

    <水野忠邦の罷免>
    隆子の見方は正しかった。続徳川実記は、天保14年9月13日に「宿老水野越前守忠邦、国政の事、不正の趣あるによて職とかれて、前の如く雁間席を命ぜられ、御前とどめらる」と水野忠邦の老中罷免を伝えている。隆子は同じ9月13日の日記に、「この人はそれほど愚かな人物ではないと思うが、自分から身を滅ぼしたのは多くの人々の恨みによるものであろう。」と記している。

    しかし井関隆子は冷静な判断力の持ち主であった。14年10月10日の日記には、「罷免された水野の主が決めた掟にも宜しいものも多いのに、世間の噂の常として悪い点のみ言い立てるものである。近年江戸の町に火事が少ないのは火の取締りが厳しい故だが、これは水野殿の功績であろう。」と記している。平成のマスコミにも心して欲しいまともな見方である。

    水野忠邦は罷免1年後の15年6月21日に再び老中に返り咲いた。この日の隆子の日記には、「あの水野殿が再び召されると聞いたが本当だろうか。・・・この水野の主の政策の大部分が改められたのは、良くないからであるのに何事であろうか。世には人も多くいるのにどうしてなのか、などと人々は呆れているということである。」と至極もっともな感想で首をかしげている。

    つまり学校で習う歴史や歴史辞典を見ただけでは、天保の改革は施政が厳格過ぎ、上知令を撤回して水野忠邦が失脚したとしかわからないが、井関隆子の日記から、改革指導者が私情をはさんで施政を行ったり、賄賂を受けとったりしたという基本姿勢が人望をなくし、失敗に繋がったという実態がよくわかる。

    <合理的な考えをしていた井関隆子>
    隆子の描いた眼力太夫
    Ganrikitayu1井関隆子は江戸時代の、それも女性の考え方としては驚くような合理的な考えをしていた。浅草の見世物に眼力太夫という子供が出ており、目玉の出し入れが自由で、飛び出した目の玉に縄をかけて重い物を吊るして見せるという噂を聞いて、隆子は自分も好奇心をそそられたと、左図を日記に描いている。ここまでは絵心のある当時の女性なら珍しくないであろう。

    しかし彼女は、「自分が幼かった頃、舌長娘がいて長い舌に物を掛けて見世物にしていた。舌は誰でも少しは伸び縮みするので、さほど珍しいとは思わなかったが、目の玉を出し入れして物を吊るすのは怪しいことである。」と書いて信じていない。家相見、地相見、墓相見などの迷信は不用のものであるといって信じなかった。

    <人工衛星を予見していた?>
    また隆子は、「紅毛人は地球は円いと書物に書いてあるという。実際自分で見ていないのに断定的にいうことは納得できない。・・・証拠もないのに断定してはいけない。この天地の有様を完全に知りたいと思うならば、一度この地球から出て、遠くから観察しなければ断定できないだろう。」と、実に合理的なことを言っている。

    このくだりを読んだドナルド・キーン氏は、「井関隆子が早くも人工衛星を予見していたとも思わせるではないか!」と、1984(昭和59)年に発刊した「百代の過客」(朝日新聞社)の中で評しているとのことである。キーン氏も江戸時代における一女性の感覚としては飛びぬけていると驚かれたのであろう。

    <仏教批判、法事無用論>
    当時の将軍であった家斉、家慶父子は日蓮宗を信じていたので、大奥のさる役人が毎日法華経を写経したところ、女房たちの評判となって将軍の耳に届き出世したという話を聞いて、隆子は「もとより出世を目的としてとった行動であるが、本当にこの宗派にそんな徳があるのだろうか?」と、将軍の意に反して日蓮宗を批判している。

    さらに隆子は年に2、3回はある法事についても、当時としては飛びぬけた考え方をしている。「他界した人の法要も古くは行わなかったが、現在は当然のように行うようになった。家計の苦しい人はその費用の為に借金をしても行う。・・・・菩提寺から法要日の案内があったら断ることもできずに執り行うが、このような法事は無用のことである。」

    「今は大方の人が仏教に傾いているようであるが、法事の為に寺へお参りした人々は、お経を聞いてもわけはわからず、ただうるさいと思っている者が多い。人の代りに来た男などは座っている足も痛いので、早く読経が終わって欲しいと陰であくびをして、早く物を食べたいとそれが待ち遠しい様子である。」

    「法事の料理が良ければ心を入れた法事だと誉め、質素な料理だと省略した法事だなどという。誉めるのもけなすのも料理によってである。法事を行う施主とても今日の法事は心がこもっていて尊い、これで故人も成仏するだろうなどと思う信心深い人は滅多にいない。仮にそのような人がいたとしても、それは賢明な人ともいえない。」

    と、隆子は仏教や法事に対して全く徹底して合理的な考え方をもっていた。日本近代史家の渡辺京二氏は、「これを読んで私はわが眼を疑う。これは現代の法事の様子を述べた文章ではないのか。・・・・天保年間に江戸人がこれほど脱宗教化を遂げていようとは、・・」と、著書「江戸という幻景」(弦書房)の中で驚かれている。

    確かに、織田信長が女に生まれ変わって、未だ信心や迷信のはびこっていたと思われる天保の世に、再び現れたような感じを受ける。しかし彼女は法名は不要とは言わなかったらしく、死後「知清院殿悟蕃貞心大姉」という最高の法名を、親経、親賢や菩提寺から贈られている。

    <批評精神旺盛なスーパー才女>
    井関隆子を発掘された深沢教授は、隆子のことを幕末のスーパー才女、樋口一葉、与謝野晶子も仰天(したかも)!と、驚きをもって文春新書に紹介されている。豊かな学識と知性があり、旺盛な好奇心と批判精神が確かな歴史認識や人間認識に繋がっていると、最大級の賛辞を贈られている。

    江戸時代は男尊女卑の社会であり、女性にとっては忍従の一生を送る社会であったというイメージが強いので、隆子の場合は、本人の天賦の才能や若いときからの学問への努力、再婚先の家庭の環境に恵まれたなど、特別な例かもしれないが、天保の改革の本質を見抜く力や、物事への合理的な考え方は痛快でさえある。

    天保10年に60歳で他界した国学者、林国雄の「言葉の緒環(おだまき)」を読んだら不審な点が多いので、問い合わせたところ返事が全く的外れであったという。隆子は、「このものが昨年他界したということであるが、いつまでも生きながらえて世間に迷惑するような本を書くよりも早く他界したのは宜しいことである。」として、その理由を丹念に説明しているそうである。

    かといって知性と教養を身につけた近寄りがたい女性ではなかったらしく、お酒が好きで花見だ、月見だと家族で酒を酌み交わすのが楽しみだったらしい。息子の親経は下戸で飲めないので、酒好きな母の寝床に薦被りの酒樽をドンと据えるといういたずらをしたエピソードもあるという。

    平成の今の世の政治家を井関隆子に批評してもらったら、早く他界した方がと日記に記される者もいるかもしれないなどと、ふと思った。

    <後日談:著者の深沢秋男先生と知己を得る!>
     芸文稿 (クリックで拡大)
    Dsc08472_3江戸時代にこんな痛快な考えをしていた井関隆子という女性の存在を、我々に知らせて下さった深沢秋男先生に、この感想文をお送りしたところ、深沢先生から大変丁重なお返事を頂き、ご専門の仮名草子の研究を一時中断してまで井関隆子に没頭された経緯も伺った。

    さらに深沢先生やご関係の文学者の先生方が発刊されておられる「芸文稿」という文芸専門誌に、「旗本夫人が見た江戸のたそがれ-井関隆子日記-」の書評・新刊紹介・コメント等の紹介という一文を寄せられ、その一つとして、私の駄文を掲載して下さったのである。

    朝日、日経、東京、埼玉などの各紙に紹介されている文芸評論の専門家の書評を見ても、この著書が紹介した井関隆子の知性、好奇心、批判精神、合理的思考などに新鮮な驚きを感じ、江戸時代にこのような女性がいたことに愉快さを感じたという評論が圧倒的に多い。

    私がこの本を購入したきっかけとなった日経書評は、「良書との出会いは時に読者の人生を変える。・・・人物や力量に優れ尊敬できる女性は昔からいたと改めて納得させてくれる良書である。」というものであった。深沢先生と知己を得たことでこのことを実感している。


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