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2009.03.16

天璋院篤姫雑感

Tenshoinbosho
             天璋院篤姫墓所の案内板(東京上野寛永寺霊園 徳川綱吉公霊廟勅額門前)

<天璋院篤姫のこと>
2008年のNHK大河ドラマ「篤姫」は面白かった。宮崎あおいさん演じるところの篤姫に魅了されて視聴率も高かったらしく、幕末の女性ものを扱ったドラマは人気がないというそれまでの定説を覆したという。首相がすぐに交代する今の低レベルの政界に、こんなしっかりした人がいたらと真面目に思った視聴者が多かったらしい。

原作は宮尾登美子さんの「天璋院篤姫」である。大河ドラマになるとお茶の間の多様な視聴者を楽しませるため、原作者の描く人物像とはかなりかけ離れるのが常であるが、宮崎篤姫は写真や絵で見る天璋院とは外見は大分違うものの、天璋院の強さを見事に演じきって日本中に天璋院篤姫という偉大な女性の存在を知らしめた。

東京上野の寛永寺に夫の徳川13代将軍家定と並んで葬られている天璋院のお墓は非公開であるが、この人気のために昨年、勅額門の前に冒頭写真の案内板が立ったことは以前のウェブログ「上野と滋賀と天海大僧正」で触れた。秋には特別公開もされたという。

  • 上野と滋賀と天海大僧正

    相方の和宮については、「皇女和宮」という書物が親父の本棚にあったので子供の頃から名前は知っていて、幕末、公武合体政策の一環として皇女和宮が東下したが、夫の徳川14代将軍家茂(いえもち)が早逝してその目論見は失敗し、戊辰戦争が始まったくらいの知識はあった。その本をパラパラ見たことはあったが、天璋院のことはあまり認識していなかった。

    天璋院のことを認識したのは、勝海舟の語録をまとめた「海舟座談」や「海舟余波」を読んでからである。ご多分にもれず司馬遼太郎の「竜馬はゆく」を愛読したとき、竜馬がミイラ取りになった勝海舟という人物に興味を抱き、海舟の語録をまとめた「氷川清話」、「海舟座談」、「海舟余波」などを読んで、天璋院の存在を知った。

    <勝海舟の見た天璋院>
    勝海舟は幕府全権として官軍と対峙し、江戸城無血開城を実現させた人物であるから、大奥にも出入りして天璋院や和宮を実際に知っており、江戸城明け渡し時には両者を説得したり、行く先の世話をしているので、海舟の江戸弁の述懐から天璋院の実像がかなり分かる。

    「天璋院はしまいまで慶喜(よしのぶ)がきらいサ。・・それに慶喜が女の方はとても何も分りゃしないといったのが、ツーンと奥へ聞こえているからネ。そしてウソばかり言って善い加減に言ってあるから、少しも信じやしないのサ。」 つまり徳川慶喜は天璋院を女だと馬鹿にして、幕末の出来事について真実を明かさなかったので、天璋院は慶喜を終生嫌ったというわけである。

    「慶喜殿が帰られた時に天璋院を薩摩へ還すという説があったが、大変に不平で、「何の罪あって里にお還しになるか、一歩でも、ココはでません、もし無理にお出しになれば自害する」というので昼夜懐剣を離さない。・・・誰がいってなんと言っても聞かれない、なかなかの議論でどうにもこうにも仕方がないというのサ。それじゃアおれが行こうと言ってまず通じてもらった。」

    つまり京都で幕軍が官軍の作戦に引っかかって逆賊となったので、慶喜が京都から逃げ帰って謹慎し、幕府は天璋院を実家のある薩摩に還そうとしたが、天璋院は自分は徳川の人間であるといって頑としてはねつけ、江戸城明け渡し、大奥撤退についても頑強に抵抗したらしい。そこで勝海舟が天璋院説得に乗り出したというわけである。

    「それからおれは先ず言ってやった。「これ迄アナタの方へ上って色々申し上げたでしょうが、それはみなウソです。ウソを申し上げたのです。・・・・・・・今日、実際の事はこうこういう訳で御座います。これでもしアナタ方が自害などなさったり、どうしてもココをお出にならんと仰ると、こうこういうようになります」と言って、何も明白に言ったよ。」

    「なかなか剛情で容易には服さないが何しろ分かってるからズンズン聞いたよ。女だと思って何も言わずにあるのだもの。悪かろうじゃないか。」 と、海舟はそれまでの幕府役人が天璋院に真実を明かさなかったことをズバリ指摘して、明確に状況を説明して天璋院の質問にも的確に答えたらしい。

    そして天璋院に自害を諦めさせる場面が噴飯物である。海舟は、天璋院が自害をすると私が名を上げますよ、と言ったという。「ナゼかと言うのサ。「それはアナタ天璋院が御自害なされば私だって済みませんから、その傍で腹を切ります、するとお気の毒ですが心中とか何とか言われますよ」と言ったら、「御じょう談を」なんテ笑ったよ。」

    「それから「明日も入らしてください。まだ伺いたいから」と言うのサ。それから明日も行ってトウトウ三日かかってようやく納得サ。それはひどい剛情なものサ。それから太平記だのいろんなものの質問サ。「幕府650年の結末をつけるので、徳川氏だけの事ではありませんから」と言ったのだが、段々分かってネ。しまいにはそれはチャンとした分かったものだったよ。」と、海舟は天璋院をほめている。

    勝海舟全集の中に、江戸城明け渡しの後、徳川家が移住した静岡にいた海舟のもとへ、天璋院が出した手紙が出ているらしい。海舟の健康を気遣い、好みの品を送り、お帰りを待っている、という内容である。自分を、女だと馬鹿にせず、正当に扱ってくれた海舟には、以後、天璋院は全幅の信頼をおいたと思われる。

    明治維新後も、海舟は天璋院の面倒を良く見たらしい。天璋院を自分の姉といって東京の街を案内し、いろいろな庶民の生活を見せたので、天璋院は自分で生活を万事改革して、徳川家達(いえさと)の養育も質素に行ったと言っている。

    「天璋院のお供で所々へ行ったよ。八百善にも二、三度。向嶋の柳屋へも二度かネ。吉原にも芸者屋にも行ってみんな下情を見せたよ。これで所々に芸者屋だの色々の家を持っていたよ。腹心の家がないと困らあナ。私の姉といって連れてあるいたのだが、女だから立小便も出来ないから所々に知って知らぬふりをしてくれる家がないと困るからノ」

    「後には、自分で縫物もされるしネ、「大分上手になったから、縫って上げた」などと言って、私にも羽織を一枚下すったのを持っているよ。三位(家達)は、さういう風にして育てたから、大変に質素だよ。外に出る時でも、双子(綿織物)より外に着せはしなかったのサ。」

    つまり海舟の見る天璋院からは、非常に理解力があり優れた識見をもてる女性であるのに、慶喜を始め幕府役人から女ということで適当にあしらわれ、実情を知らされないことに怒りを覚え、敢然と反抗した女性像が浮かんでくる。平成の今の時代ですら女性は子供を産む機械だなどの発言が飛び出すので、寛永寺の天璋院は、嘆息しているかも知れない。

    <宮尾登美子氏の天璋院篤姫像>
    宮尾登美子氏は、天璋院篤姫を書いた動機について原作巻末のあとがきや対談で、以前から和宮の事蹟を読むたびに徳川にいじめられたというようにあり、何か違うんじゃないかと思ったので、と仰っている。つまり宮尾氏は、それまでは、皇女和宮の姑であり、意地悪婆さんとして扱われていた天璋院の、歴史上の再評価を試みたというわけである。

    しかし徳川の御台所に関する資料がないので大変困ったが、鹿児島に取材に行って郷土史家や島津一家から話を聞いたり、少し資料が入手できたことや、天璋院が育てた徳川家達の娘さんが存命されていて、「うちの家訓は代々家茂(いえもち)が毒殺されたということを後々子々孫々まで伝えよ」と天璋院が堅く言い伝えたとの話を聞いたことが、天璋院像を描く拠所になったと仰っている。

    <慶喜嫌い>
    海舟の述懐にあるように、天璋院は女ということで自分に事実を明かさない慶喜を終生嫌ったのは事実のようであるが、さらに宮尾氏は徳川家の言い伝えから、天璋院は慶喜が家茂を毒殺したと信じていたことも、それに輪をかけているのであろうと推定されて、天璋院像を組み立てられている。

    宮尾氏の原作「天璋院篤姫」には、女に先に将軍死去の情報を漏らすと、取り乱して騒ぎになったという先例から、夫、徳川家定の死を1ケ月も経った後に事務的にようやく知らされ、怒りとともに毒殺ではないかと報告者に問いただす場面がある。しかし死顔を見ることは許されず虚弱だった家定がようやく安らぐことになったという気持ちもあり、その詮索は諦める。

    しかし夫を亡くした天璋院の支えでもあった若き将軍、徳川家茂が大阪で逝去し、遺骸が江戸城に戻って天璋院が棺の中の顔を拝したときは、その顔が真っ黒に黒ずんでいたことや、その年の4月頃からの家茂の病状から、毒薬に詳しいものから情報を集め、何者かが微量の砒素を与え続けたための砒素中毒であると固く信じ込む。

    そしてその何者かを、天璋院は一橋慶喜(後の徳川慶喜)であると思い込む。それは自分が初対面でもった慶喜に対する印象が、陰険で二言のある油断のならぬ男と思ったのと、養父島津斉彬が慶喜を抱いて新幕府を樹立する野望があったことを合わせ考えた結果であった。

    徳川家定毒殺説は実際に流布したらしい。そのいきさつが2007(平成19)年12月に発刊された「幕末の大奥 天璋院と薩摩藩」(岩波新書)に出ている。著者は東京都江戸博物館学芸員の畑 尚子氏で、大奥女性の手紙や日記、分限帳、幕府・諸藩の記録などの近年発見された史料をもとに、大奥研究専門家の目で天璋院像を描かれた方である。

    それによると1858(安政5)年7月3日に大奥の寝所で家定が重症になり、脈を取った奥医師が毒がまわったと言ったらしい。医師は脚気の毒がまわったという意味で言ったのだが、毒殺という噂が殿中や大奥を襲ったらしく、毒薬を盛ったのは一橋派ではないかとの家定付お使番の手紙が残っているという。

    従って大奥にいた天璋院がその噂を耳にし、夫は毒殺されたと思い込んだことは十分考えられ、その認識が家茂の若すぎる死の時にも、慶喜に毒殺されたという思い込みを招き、徳川家達に忘れるなと言い伝えたのかも知れない。

    また、宮尾本では天璋院は夫の死を1か月も経って知らされたとなっているが、上記の畑本には、家定の臨終の際には、大奥御寝所に大老や老中を召したとの彦根藩の記録があるので、実際には天璋院も家定の病床を見舞うこともあったのではないかと書かれている。

    <婦徳の人>
    宮尾天璋院はこのように徹底した慶喜嫌いではあったが、官軍の江戸城総攻撃の時には私情を捨て、同じく慶喜嫌いの和宮とともに官軍や西郷隆盛に対し、徳川家の存続を強く訴える。宮尾登美子氏描くところの天璋院は、いわば婦徳の人であり、NHK大河ドラマの基本ストーリーになっている。

    1867(慶応3)年に江戸で薩摩藩邸焼討ちがあり、慶喜が薩摩征討を朝廷に願い出た時、薩摩藩が天璋院引取を打診しに来たが、天璋院がはねつける場面があり、そのくだりの天璋院の言葉に宮尾氏の描こうとされた天璋院像が凝縮している。

    「女が一旦嫁したからにはその嫁ぎ先の家が即ち終焉の地であって、たとえ実家と婚家先が戦火を交える如きことに相成ろうとも、この儀は未来永劫変りはせぬ。これが真の女の道であることはいまさら申すまでもないことじゃ。・・・・・薩藩が私をたって連れ戻そうとするならば私はこの場において自害する。さような自明の理をわざわざ伺いに来る暇あれば、来る戦に備えて戦力の充実をはかるがよい。」

    このような天璋院の強い覚悟が、かかる婦徳の精神はもう全くすたれたといっても良い平成の現代において、むしろ新鮮なカッコ良い生き方として大河ドラマの視聴者の共感を得たようである。もっとも一見可憐に見える宮崎篤姫が言うから受けたのであって、本物の天璋院が今、大河ドラマで同じことをいえばどうだったろうか、などと思ったが・・。

    <和宮への意地>
    宮尾氏はこのような強い天璋院が形成される過程には、和宮に対する意地があったとされている。つまり徳川家への輿入れにあたっては単身輿入れした自分とは違い、生母勧行院も同行し、事あるごとに兄の孝明天皇に不満を訴える、自立心のない和宮に対する意地が、そのような強さを生んだというわけである。天璋院のそのような意地は2回爆発する。

    一度は1860(万延1)年の和宮輿入れの際、姑の身分が武家の出では皇室を穢すという懸念を大老井伊直弼が抱き、天璋院を薩摩藩に戻す話が出た時である。天璋院は激怒し、ご降嫁といえども徳川に嫁に来る以上は夫や親に孝道を踏むはずで、前御台所を里へ帰すなど朝廷の本意ではないはず、自分は近衛右大臣家息女であり皇室を穢す立場にはない、とはねつける。井伊大老はその後桜田門外で倒れ話は消えた。

    二度目は、1863(文久3)年の江戸城炎上の時、本丸に戻った天璋院に西の丸が復帰するまで仮屋に住むよう幕府からの指令が出た時である。天璋院はこの指令が京都朝廷の意向を汲んだものと聞かされ、少し融和しかけた和宮が本丸での同居を嫌ったものと思い込み、周囲の反対を押し切って二の丸へ移ってしまう。

    前述の畑本によれば、この二の丸引き移り事件も実際にあったらしいが、和宮が同居を嫌ったというのは誤解らしい。またたとえ和宮が天皇の威厳を利用して天璋院に本丸から出るよう要求しても、先例からは理不尽ではないとの畑氏見解である。天璋院は一旦思い込むと相当頑固なタイプであったらしい。

    <和宮との融和>
    しかし、生母勧行院や孝明天皇の逝去後、自立心を示しはじめた和宮に対しては天璋院は心を開き、江戸城総攻撃の時には力を合わせて徳川家存続に貢献する。和宮は明治に入って一旦京都の実家へ戻ってしまうが、天皇が東京へ移ってしまったのでまた東京へ戻り、戻ってからは2人の交流が和宮の死去まで続く。

    勝海舟も天璋院と和宮の軋轢と融和について、始めは仲が悪かったのはお附きのせいだとか、和宮から天璋院へのお土産の包み紙に敬称がなかったとか、和宮が維新でいったん京都へ帰ってまた東京へ戻ってきた後、海舟の家に2人が来てご飯の給仕でもめた時、海舟が飯櫃を二つ出したとかのエピソードを述べている。

    宮尾本にも飯櫃のエピソードは取り上げられており、飯櫃ではなく、杓文字を二つ海舟が用意したことになっている。大河ドラマにもこの場面はあったと思う。

    <東京の天璋院贔屓、京都の和宮贔屓>
    宮尾氏によると、京都へ旅行した時に京都の人に天璋院のことを聞くと、いまだに「和宮さんをいじめはった」というようなことを言うと仰る。つまり京都人にとっては和宮は身内であり、徳川へ嫁入りして姑の天璋院にいじめられたと受け留めた文化があるということらしい。

    これに対し江戸の人は天璋院に何よりも味方して、天璋院ほど英明で聡明なお方はないという気風があったと仰る。天璋院の逝去の時には、弔問に訪れた人はおびただしかったといい、天璋院という人の影響力をあらためて世間に認めさせたという。つまり東京には天璋院贔屓の文化がある。

    昨年の大河ドラマで宮尾天璋院と宮崎天璋院により、天璋院の実像が東京風に再評価された形になったが、大奥研究の専門家である畑 尚子氏は、婦徳を軸にした宮尾天璋院は偶像であって、実際は自己主張のはっきりした性格で、自分の判断で行動するタイプであり、上昇志向が強く見栄っ張りであると分析されている。

    斉彬の実子として鶴丸城に入ったときは、小さく拳を握り締めて「やった」といったかもしれないし、家定の御台所に決まった時は、人の見ていないところで小躍りしたかも知れないというのが、畑氏の描く天璋院像であり、時宜に即して冷静に物事を判断した和宮に比べ、天璋院はやや感情に流される様子があると見ておられる。

    東京生まれで京都育ちの弊方には、どちらに贔屓するか、なかなか難しいことが分かった。

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