対馬の道-雨森芳洲と司馬遼太郎の足跡-
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清水山城跡から厳原港を望む(長崎県対馬市)
雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)のことである。琵琶湖畔、現在の滋賀県伊香郡高月町雨森地区に生を受けた雨森芳洲は、江戸中期の朝鮮外交に活躍して対馬で生涯を過ごし、お墓も対馬の厳原(いずはら)にあることは以前のウェブログ「中江藤樹と雨森芳洲」で触れた。
滋賀県に住んでいるので、生家跡に建てられた高月町東アジア交流ハウス雨森芳洲庵も訪れ、館長の平井茂彦氏の著書も読んでその生涯に触れ、雨森芳洲の章もある司馬遼太郎の「街道をゆく第13巻 壱岐・対馬の道」も読んで、対馬には一度行きたいと思っていた。
昨年、27年間付き合ったオカメインコが天寿を全うし世話役を免じてくれたので、この正月休みに雨森芳州と司馬遼太郎の足跡を訪ねて対馬へ行くことを思いついた。博多から空路もあるが一足飛びでは旅情に乏しいので、博多-厳原を2時間弱で結ぶジェットフォイルヴィーナスという高速船を利用することとし、2008年12月30日~2009年1月2日に対馬を訪れた。
<対馬>
対馬の道(「街道をゆく」から)
対馬は地理的には福岡県に近いが明治初期から長崎県である。歴史という点では対馬は日本で最も古いといえるのではないか。何しろ3世紀の魏志倭人伝に、倭の一国として堂々と出ているのである。卑弥呼の邪馬台国は未だに論争があって比定出来ないが、對馬国は今の対馬であることに誰も異存がない。
司馬遼太郎が「街道をゆく」で訪れた対馬の道は左図の通り、下島の厳原と上島の比田勝とを結んでいる国道382号線である。最近は、上島の東側を通る県道39号線が全線開通して比田勝-厳原間の所要時間が短縮された。
対馬は国境の島でもある。韓国とは50km(京都-大阪間の距離)しか離れていないので、魏志倭人伝以来、対馬と朝鮮半島との間には色々な因縁があり、現代にまで続いている。滋賀県のような本土の真ん中に居住している我々は平和ボケして国境感覚に乏しいが、ここ対馬では韓国との間に色々問題を抱えている。
戦後、李承晩大統領が、対馬は歴史上朝鮮の属国なので割譲せよ、とGHQに主張したが、ダレス国務長官が対馬は古来日本の固有領土であると一蹴した。当時小学生であった私もリショーバンという名前が記憶に残っている。竹島問題が日韓関係に陰を落としている昨今、一部の韓国人がまたこの主張を持ち出しているという。
<厳原の町>
厳原は古代、対馬国の国府がおかれた地とされ、明治維新までは府中と呼ばれ、宗(そう)氏10万石の城下町であった。現在は対馬市役所が所在している。律令時代は大宰府代官の阿比留(あびる)氏が鶏知(けち)で対馬を治めていたが、1246(寛元4)年に宗氏に滅ぼされ、その後宗氏が島主となった。府中(厳原)が宗氏によって対馬の統治府になったのは1468(応仁2)年という。
宗氏は、蒙古襲来(文永・弘安の役)、倭寇の活動、豊臣秀吉による朝鮮出兵等の、朝鮮半島が絡む大事件勃発時に常に第一線の戦闘役や交渉役となった。このため、関ヶ原の戦では西軍に味方したにも関わらずお咎め無しとされて徳川幕府に重用され、朝鮮との和平交渉や通信使招聘を担当し、対馬島主・藩主として明治維新まで約600年続いた。
厳原の町は厳原港から南北にのび、京都の高瀬川を彷彿させる柳並木の川が流れている。標識を見ると厳原本川と書いてあった。護岸の所々に絵入りの案内プレートが観光用に貼ってある。ハングル文字も併記してあるので、なるほど韓国との関りが深いのだと実感した。
また至るところに石垣があり、ちょうど穴太(あのう)積みの石垣が多い大津市坂本や穴太に良く似ていて親近感を抱く。厳原の石垣は少し赤みを帯びており、宮原とか中村という地区には武家屋敷の石垣がかなり残っており、歴史と趣を感じさせる町並みになっている。5千円札に刷られている樋口一葉の師であり恋人でもあった半井桃水(なからいとうすい)の生誕した館が中村地区にある。
それほど大きな町ではなさそうなので大晦日の31日に歩いて巡ることとしたが、資料館や郷土館等の公共施設は正月休みなので見学は出来ない。対馬観光物産協会のウェブサイトに、厳原の歴史に触れるモデルコースが記載されており、雨森芳洲のお墓も入っていたので、この案内図を頼りに芳洲ゆかりの地を探訪することにした。
<長寿院-雨森芳洲の墓所->
今回対馬行きを思い立ったのは、滋賀県在住者として雨森芳洲に敬意を表するためであるから、まず彼のお墓のある長寿院を探した。出発前に京都で父母の墓参をすませた後、縁もゆかりもない歴史上の人である雨森芳洲の墓に正月休みに参ろうという我が発想に、自分でもいささかあきれている。
長寿院は厳原町北部の日吉にある。長寿院の前の通りの歩道のフェンスには、「誠信之交」、「たはれぐさ」、「交隣提醒」等の雨森芳洲の語録や著書の解説プレートが取りつけられており、さながら芳洲ロードの観がある。長寿院の門前には厳原町教育委員会による雨森芳洲の業績紹介とお墓の案内板が立っている。
案内板には、雨森芳洲、寛文8(1668)年近江国生まれ、対馬藩に仕え禄高200石、宝暦5(1756)年没、88歳、木下順庵の高弟で新井白石、室鳩巣等と共に木門5先生の一人に数えられ、対馬藩への出仕が元禄4(1691)年で、正徳4(1711)年の朝鮮通信使が新井白石の改革した接待案に強い不満を示した時、芳洲はその間にあってよくこれをまとめあげた、とある。
実際には雨森芳洲は、この正徳の第8回朝鮮通信使と、1719(享保4)年の享保の第9回朝鮮通信使の2度に渡って接待役を務めている。享保の時の朝鮮側の製述官が申 維翰(しんゆはん)で、「海遊録」を著して雨森芳洲との論争や偉大な人物であることに触れている。
案内板にはさらに、芳洲は文献実証を尊重し、「記録さえ確かなら何百年も長生きした人を左右に置くのと同じ」と言って、藩政の記録を重要視したので、現在も対馬藩の日記類・記帳類は膨大な量が貴重な資料として保存されている、ともある。長寿院の裏山が墓地になっており、案内図によると芳洲のお墓は山の頂上付近にあるので裏山を登ってみた。
ちょうどフェノロサのお墓がある大津市三井寺を思い出す雰囲気の林間を通って行くと、途中にもお墓が散在している。対馬藩士のお墓だそうで、頂に近いほど重要人物のお墓であるらしい。雨森芳洲のお墓は確かに頂の少し開けたところにあり、石垣で囲われた立派な墓所である。やはり厳原町教育委員会による説明板が立っている。
説明板には、雨森芳洲(1668-1755)は滋賀県で生まれ、長崎で中国語、釜山で韓国語を習得し、22歳から88歳まで対馬藩に仕えた外交官で、国際交流の基本は相手をだましたり、喧嘩することなく、「誠信の交わり」が必要であると説いた、とある。鎖国していた江戸時代に朝鮮通信使を通して、医学、文学、技術等進んだ大陸文化がわが国にもたらされた、ともある。
左半分はハングルによる説明文になっている。厳原町も韓国人に配慮した説明文にしているのだろう。雨森芳洲は、廬 泰愚(ノテウ)大統領や小泉総理が挨拶に引用したほど、江戸時代の日韓交流の要ともいうべき人なので、韓国からの観光客は多いと思われる。ここに墓参に来た韓国の人々が雨森芳洲のことを知り、日韓交流の一助になると良いと思う。
「街道をゆく」では、朝早く目が覚めた司馬遼太郎氏が厳原の町を散歩していると、同行の在日韓国人の考古学者で朝鮮通信使の研究者でもある李進熙(りじんひ)氏に出会い、雨森芳洲のお墓に詣でて来た、と聞いて驚いたくだりがある。30年以上前は日本の知識人より韓国の知識人の方が雨森芳洲を良く知っていたのかも知れない。
長寿院裏山でまずは目的の一つである雨森芳洲のお墓表敬ができたので、次の芳洲ゆかりの地を目指すこととし案内図を見たところ、長寿院の近くに国分寺という寺があり朝鮮通信使の客館跡とあったので、国分寺を訪ねることとした。
<国分寺-朝鮮通信使の客館跡->
長寿院から川沿いに南下し、天道茂という地区に入り東に向かうと立派な山門に至る。門前に国分寺の山門と記した案内板があった。案内板によると対馬随一の四脚門で、徳川家斉の将軍襲職を祝う朝鮮通信使の聘礼式挙行のために1807(文化4)年に客館と同時に建立された。客館は明治になって解体されたが、山門は当時のものであるという。
国分寺はもとを辿ればもちろん大宝律令の時代に遡るわけであるが、現在地に移ったのは1683(天和3)年である。雨森芳洲が対馬へ来たのは1693(元禄6)年であり、没したのが1755(宝暦5)年であるから、芳洲が来た時は国分寺は既にこの地にあり、芳洲も訪れたり何かで関わったりしたのだろうが、この山門が建った時には芳洲は既に他界していた。
1807年建立の国分寺の山門 国分寺本堂(大正時代に焼失、新築)
聖武天皇の命により全国に国分寺、国分尼寺が造られたのは741(天平3)年頃であるが、対馬では最初は島分寺(とうぶんじ)と呼んだらしい。厳原西部の国府付近にあったと推定されている古代島分寺は平安時代に焼失し、宗氏が府中(厳原)に居を構えた1468(応仁2)年頃、国分寺の復興が命じられ宗氏の菩提寺になったという。
その後1665(寛文5)年に宗 義真(そうよしざね)が屋形を拡張した際に、長寿院のある日吉地区に移された。宗 義真は雨森芳洲を対馬藩に招聘した21代藩主である。義真は早くから藩校「小学校」を作り、近江から中江藤樹の3男常省(じょうせい)も招聘して学校奉行としており、近江と縁が深い。国分寺はさらに上述のように1683(天和3)年に現在地に移っている。
次に訪れるべき芳洲ゆかりの地を案内図で探すと、対朝鮮外交機関であった以酊庵(いていあん)が置かれていた西山(せいざん)寺というお寺が厳原港近くの山腹にあるので、それではと西山寺を目指した。
<西山寺-対朝鮮外交機関「以酊庵」跡->
厳原港から西へ向い国道382号線を越えた山裾に西山寺がある。西山禅寺の石碑のある階段を上がって行くと西山寺本堂と鐘楼があり、左手に以酊庵がある。西山寺は857(天安1)年に島分寺が焼失した後に建てられた堂が起源とされ、1512(永正9)年に宗 貞国夫人の菩提寺となって西山寺と呼ばれたのだが、対朝鮮外交機関の以酊庵と直接の関係があったわけではない。
1580(天正8)年に宗氏は朝鮮外交の必要性から景轍玄蘇(けいてつげんそ)という禅僧を博多から招聘し、対馬藩初代外交僧として朝鮮との交渉役を託した。玄蘇は、豊臣秀吉の朝鮮出兵時の和議交渉や、徳川家康の国交修復使節をこなし、死去する1611(慶長16)年に天道茂に以酊庵を建立した。1683(天和3)年の国分寺との寺地交換で日吉に移ったが、1732(享保17)年に焼失したので、ここ西山寺に移転したというわけである。
以酊庵の正面には初代の外交僧、景轍玄蘇と2代目の玄方(げんぽう)の彫像の写真が掲げてある。
朝鮮との交易に頼る対馬宗氏は秀吉の朝鮮出兵を何とか阻止したかった。玄蘇はしばしば文書改ざんや偽降伏文書でもって秀吉と朝鮮国王の和議工作をしたらしい。しかし文禄・慶長の役がおき、さらに関ヶ原の戦では西軍についた宗氏は取り潰しは免れたものの、その代り崩壊した李氏朝鮮との関係修復を家康から命じられた。
当時の19代対馬藩主、宗 義智(そうよしとし)と景轍玄蘇の苦労は並大抵ではなかったが、1609(慶長14)年に両国の基本約定を結ぶことに成功し、玄蘇は、家康はもとより朝鮮国王や宗主国の中国からも顕彰されたという。1635(寛永12)年になって宗氏の国書改ざんを重臣の柳川氏が直訴する柳川事件がおきたが、3代将軍家光は宗氏は咎めず柳川氏と2代目外交僧の玄方を流罪とした。結果を重視した家光のこの辺の感覚は徳川政権が長続きした一つの要因にも思える。
以酊庵はその後、徳川幕府崩壊の1866(慶応2)年まで外交業務を続け日朝善隣友好時代を築いた。1693(元禄6)年に対馬に来た雨森芳洲は、以酊庵が西山寺に移ったときはもう65歳であったから、日吉時代の以酊庵が主な活躍場所だったのかもしれない。対馬で歴史的に朝鮮通信使に貢献した人物をあげるなら、宗 義智、景轍玄蘇、雨森芳洲の3人になるという。
<宗 義智の苦難の人生>
宗 義智は、信長、秀吉、家康、秀忠と続く激動の時期に19代対馬藩主になり、秀吉からは腹心の小西行長の娘、マリア(洗礼名)を娶らされた。夫人の影響で義智も入信したというが、関ヶ原の戦後行長は処刑され、家康の信を得るため夫人は離別され5年後に長崎で死んだという。厳原町の八幡宮神社にマリアとその子を祀る今宮・若宮神社がある。
義智の妻でもあった小西マリアを祀る今宮・若宮神社(厳原八幡宮神社境内)
冒頭写真に掲げた清水山城も朝鮮出兵を発令した秀吉の命により、1591(天正19)年に義智が築いた駅城である。朝鮮の事情や地理に通じている義智は本意に反して秀吉に利用され、関ヶ原では義父の縁で西軍につき、戦後は対馬の所領安堵のため夫人を離縁するという苦難の道を歩まざるを得なかった。
義智は1615(元和1)年に48歳で逝去したが、20代藩主、宗 義成(そうよしなり)は苦労の多かった父義智の供養のため一寺を創建し、1622(元和8)年に義智の法号に因んで万松院(ばんしょういん)とした。万松院は1647(正保4)年に現在地に移り、以来宗家累代の菩提寺となった。
厳原町の雨森芳洲ゆかりの地を辿る仕上げに、万松院に向った。
<万松院-歴代対馬藩主の墓所->
万松院は対馬市役所から西方の西里にある。この付近には宗氏の屋形であった金石(かねいし)城跡や復元された櫓門、対馬歴史民俗資料館、郷土資料館もあり、厳原町の中心地ともいえる。大晦日とあって行き交う人も少なく資料館も閉館であるが、万松院へ向う金石川沿いの参道からは有明山と思しき山が見え美しい。
参道を進むと広場に至り、まず朱塗りの山門が目に入る。背後の山とマッチしてなかなか風情のある山門である。万松院は1701(元禄14)年と1727(享保12)年の2度の火災で焼失したが、山門だけは火災をまぬがれて創建当初の桃山様式を今に伝えており、対馬最古の建物という。
左手の入口から境内へ入り受付で由緒書を貰う。写真撮影もフリーとのことであった。由緒には山門両側の仁王尊は享保年間に守り神として祀られたとある。今の本堂・庫裏は、1879(明治12)年に宗家33代の伯爵、宗 重正公から寄進されたものであると記してある。
1615(元和1)年建立の万松院山門 1897(明治12)年寄進の万松院本堂
徳川歴代将軍御位牌安置所 朝鮮国王から贈られた三ツ具足
本堂の右手の部屋には、なぜか徳川歴代将軍位牌安置所がある。外様である対馬藩としては、徳川将軍から朝鮮との外交や交易という重要な役割を一任されていることを良く認識しているという証に、位牌安置の許可を願い出たのかもしれない。20代藩主義成の時に発覚した柳川事件の家光の処置を見ても、その関係は深いようである。
本堂を辞して境内を流れる案内アナウンスに従って、歴代対馬藩主の御霊屋へ向った。百雁木(ひゃくがんぎ)と呼ばれる132段の石段をフーフーいいながら登っていくと、途中から一族の墓が現れ、登りきると歴代藩主の墓碑がずらりと並んでおり、壮観である。
ずらりと並んだ歴代藩主(中には夫人も)の墓碑はそれぞれが石垣で囲ってあるから、壮大な墓地である。金沢の前田藩墓地、萩の毛利藩墓地と並んで、日本三大墓地の一つといわれているらしい。
藩主の名前も表示してあるので宗家の歴史を良く知っている人には参考になるのであろうが、こちらは雨森芳洲ゆかりの藩主の名前くらいしか知らないので、19代義智と20代義成、および芳洲を対馬に招聘した21代義真の墓碑を見つけた。
19代義智(よしとし) 20代義成(よしなり) 21代義真(よしざね)
苦難の道を歩んだ19代義智の墓標は他の藩主と比べて小さく粗末なので驚く。また石囲いもない。これに比べ息子の義成と孫の義真の墓標は大きく立派である。義真の時代は対馬の黄金時代といわれているから、逝去した時の経済力を示しているのか、本人の遺言なのか興味あるところであるが当方に知識がない。
御霊屋の標識のあるあたりに巨大な杉が3本生えており、万松院の大スギと書いた説明標識があった。この3本の大杉の樹齢は万松院創建(1615年)以前のものといわれるとある。以前のウェブログ「房総の海」で触れた房総半島の清澄寺にあった樹齢1000年超の清澄の大杉を思い出した。
<対馬の道-街道をゆく->
2009年1月1日は対馬は寒かったが好天であった。レンタカーを借り、厳原を朝出発して司馬遼太郎の「街道をゆく」と同じコースを辿って佐須奈(さすな)湾まで行くことにした。佐須奈は「街道をゆく」の最終章でもあり、1672(寛文12)年から開港場となって、釜山の倭館に行った雨森芳洲も利用した港である。
<大船越・万関橋-対馬海峡と朝鮮海峡を結ぶ->
厳原から国道382号線を北上すると美津島町(みつしまちょう)に入り、いったん東へ向って対馬空港近辺を過ぎたあたりで大船越(おおふなこし)という地を通り、また北上して多数の島が散在する浅芽湾(あそうわん)の東側を通り万関橋(まんぜききょう)を渡る。もともと対馬は全島が地続きであったのだが、大船越と万関瀬戸の2箇所が開鑿され朝鮮海峡と対馬海峡を結ぶ運河になっている。
船越とは、一方の海から舟を引張り上げて陸路を運び、再び他方の海に浮かべた場所のことである。大船越は1671(寛文2)年に宗義真がここを堀切って運河を開いた。従って雨森芳洲の頃には、府中から舟に乗ったままで西海岸に行けたと思われる。その後拡張工事が繰り返され、現在は国道382号線の「おおふなこしばし」が架かっている。
万関水道は、1900(明治3)年に旧日本海軍が艦船を通すために山を割って開鑿した人工の運河であり、万関橋はここに架かる橋である。国道382号線で対馬の上島と下島を結ぶ橋で、橋長 81.6m、橋巾 5.5m、高さ 25.5mである。現在のアーチ型の橋は3代目になり、1996(平成8)年に開通したとのことである。
<梅林寺-日本最古の寺->
「街道をゆく」には出ていないが、万関橋からさらに北上した美津島町小船越に日本最古の寺院と伝えられる梅林寺がある。6世紀頃、百済の聖明王から欽明天皇に仏像、経典が献呈されるとき、百済の使節がここに一宇を建立し仏像を仮安置した仏跡と伝えられる。宗家第5代の宗 経茂の菩提寺でもあるという。
学校の歴史で習った仏教伝来という日本史における一大事件に、対馬が一役買っていたことを始めて知った。梅林寺が小船越にあることは地図で見ていたのだが、たまたま国道の左側にあった小さな道標に気がついたのでラッキーであった。「街道をゆく」でも、小船越の古社、阿麻氐留(あまてる)神社に触れてあり、この辺りは相当由緒の古い処であるらしい。
<和多都美神社-海の女神・豊玉姫を祀る->
美津島町から豊玉町(とよたまちょう)に入ると、国道は西北に向う。仁位(にい)というところで国道から浅芽湾の方へ折れると、海中に鳥居があることで知られる和多都美神社(わたづみじんじゃ)に至る。祭神が彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と豊玉姫命(とよたまひめのみこと)である。
古事記の海幸彦と山幸彦の伝承をもち、彦火火出見尊(山幸彦)が兄の火照命(海幸彦)と釣針を取り替えたが亡くしてしまったので、釣針を探してここ海宮(わたづみのみや)に辿り着き、三年留まって豐玉姫命を妃としたという。元日の朝とあって近郷の人々であろうか、次々に初詣に来ていた。その中に混じってお参りをした。
2009年元旦の初詣(和多都美神社) 神話の雰囲気のある海中鳥居
「街道をゆく」には、この神社のことが少し出ている。平安時代にまとめられた延喜式神名帳に、対馬国上県郡和多都美神社の記載があるが、ここ仁位の和多都美(わたづみ)神社なのか、後述の木坂の海神(わだつみ)神社なのかで、江戸時代から両社で論争があったらしいと触れてある。ここ和多都美神社で貰ったパンフレットには、堂々とここであると書いてある。
それはさておき、和多都美神社の背後にそびえる烏帽子岳に、浅芽湾を眼下にみられる展望台があるとのことで、お参りの後早速行って見た。車で5分も走れば展望所の駐車場に着いたが、360度のパノラマを見ようとすると、徒歩で少し登らねばならない。気温が0度で凍りつくような寒さであったので登山は諦め、駐車場からの景色で我慢した。
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烏帽子岳から浅芽湾を望む(長崎県対馬市)
<海神神社-対馬国一ノ宮->
仁位の町を抜けて再び国道382号線に戻りさらに北上すると峰町(みねちょう)に入る。宗氏は1398年に7代貞茂が峰町に館を開き、1408年には峰町佐賀(さか)に府を置いたので、1468年に10代宗 貞国が政治の中心を府中に移すまでは、中世の対馬の中心地は峰町であった。
司馬遼太郎は、30年以上前の「街道をゆく」の対馬の旅では、対馬の史家で海神神社(わだつみじんじゃ)の社家の永留氏に案内されたからか、峰町木坂(きさか)にある海神神社について詳しく書いている。対馬は古代海洋民族の神と人の根拠地であったので、ここ海神神社は対馬の海部(あまべ:海洋民族)により船と航海の安全を祈って海(わだつみ)の神が祀られたのだろうとしている。
峰町の三根というところで、北上する国道から折れて三根湾沿いに西南に進み、半島を回って北上すると木坂の集落に入る。左側は入江になっており御前浜(おんまえはま)という。ここから韓国の巨済島が見えるという話が「街道をゆく」には出ているが、この日は白波が怒涛のように押し寄せそれどころではなかった。
御前浜の向いに伊豆山という神山があり麓に海神神社の鳥居が建っている。鳥居の側に「壱岐対馬国定公園、海神神社、長崎県」という表札があるが、「街道をゆく」で用いられていた「わだつみ」ではなく、「かいじん」と振り仮名がつけてあった。
鳥居をくぐって境内に入ると海神神社の大きな説明板もあり、Kaijin Shrineとあるが、日本語の振り仮名には「わたづみ」と「カイジン」の両方が使われていた。前述したように仁位の和多都美(わたづみ)神社との間に、延喜式記載の神社がどちらかという論争が古くからあるらしいので、長崎県としても決めつけるわけにはいかず、一般向けの表札には海神(かいじん)としているのかも知れない。
説明板によると、主神は豊玉媛命(とよたまひめのみこと)であり、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)は合殿とある。由緒書には、延喜式神名帳所載の対馬上県郡の名神大社和多都美神社に比定されると、ここも堂々と宣言している。両社の論争は現在のところどうなっているのか知識がないが、おそらく今も続いているのであろう。
また、本社は八幡本宮と号して対馬国一ノ宮と称され、明治4年に海神神社と改称したともあり、中世では対馬一ノ宮であったらしい。しかし祭神が海の女神、豊玉媛であり、山幸彦も祀られているから仁位の和多都美神社と共通である。宝物館には8世紀の新羅仏(銅造如来立像)があり重文になっているが、室町期の李氏朝鮮の廃仏毀釈の結果日本へ持ち込まれたものらしい。
海神神社本殿は伊豆山の頂上にあるので、急で長い石段が続いている。司馬遼太郎氏はこの石段を昇るのには相当苦労されたらしく、その様子が「街道をゆく」の記載から伺える。万松院で見たような杉の巨木が多く、一際太い杉には元日だからなのか注連縄がしてあった。
ともあれ2009(平成21)年の元旦は、海の女神である豊玉姫を祀る対馬の2つの神社で初詣をするという、思わぬ新年になった。孫娘にご利益があることを願いながら海神神社を後にした。
<ツシマヤマネコの生息地>
対馬と聞けば、ツシマヤマネコを思う人もいるだろう。ツシマヤマネコは日本では対馬にのみ生息する野生ネコで、推定生息値は80-110頭、国指定の天然記念物であり、国内希少野生動植物種に指定されている。佐須奈を目指して国道382号線をさらに北上していると、ツシマヤマネコの里という標識が目に入った。
上県町佐護(かみあがたちょうさご)というところであり、佐護小中学校の標識も手前にある。ここから佐護湊地区の棹崎公園まで行けば、1997(平成9)年に開設された対馬野生生物保護センターでツシマヤマネコが見られるらしいが、正月休みであり諦めざるを得ない。翌日厳原の物産店で、孫娘の土産にツシマヤマネコの縫いぐるみを買ったのみであった。
<佐須奈湾-釜山への出港地->
厳原を出てあちこち寄り道をしているうちに3時間を越えてしまった頃、上県町佐須奈という標識が現れた。ちょうど湾へ降りる道があったので、湾岸まで降りて行ったが、地図で見たら佐須奈の町の手前の大地というところであった。しかし帰途の時間も考え、ここで佐須奈湾の雰囲気を味わうこととした。
江戸時代は鎖国体制下にあり、長崎が唯一の開港場であったことは学校の歴史で習い、世界にも知られている。ところが佐須奈もそうであったことは知られておらず、日本史の教科書も黙殺している、と「街道をゆく」の最終章、佐須奈で司馬遼太郎が指摘している。朝鮮通信使も1682(天和2)年の第7回以降は佐須奈に入港している。
江戸時代、釜山には対馬藩の在外公館である倭館がおかれており、渡海が禁止されていた鎖国下にあっても、対馬藩の有資格者のみは倭館へ行くための海外渡航が、ここ佐須奈から許されていたのであった。雨森芳洲も1703(元禄16)年と1705(宝永2)年に倭館に滞在して朝鮮語を学んだのを始め、度々渡海しているので、佐須奈も芳洲ゆかりの地といえよう。
「街道をゆく」では、司馬遼太郎が佐須奈の町の食堂でトンカツを食べ、店主の老婦人と話をしその老婦人から、自分が年少の頃はろくな道がなくて厳原へ行くのは泊りがけだったが、釜山までは日帰りで映画を見に行ったり、病院に行ったりしたよ、と聞くくだりでこの巻が終わっている。
<歴史と国境の島>
ということで、我が対馬の道探訪も、美しい佐須奈の入江を見ながら終わったが、さすがに対馬は歴史を感じる島であった。考古学の重鎮である同志社大学の森浩一先生が、魏志倭人伝や邪馬台国について日頃多くの発言をしている人でも、対馬へ行ったことがない人がいると、「古代史の窓」という著書に書かれていたことがふと思い出された。
対馬は、3世紀の魏志倭人伝に、山険しく、深林多く、道路は禽鹿(きんろく)の径(こみち)の如し、と書かれているように山が多く、米がとれなかった。壱岐・対馬といっても、壱岐は平地が多く米が良くとれて農業が発達したが、対馬は漁業に頼らざるを得ない。地元の人に聞くと、以前は鯛や真珠の養殖が盛んだったが近年は衰退しているという。もちろん工業が発達するわけはないので頼るべき産業がない。
玄界灘から対馬(2008年12月30日) 玄界灘から壱岐(2009年1月2日)
近年の公共投資抑制は対馬のような頼るべき産業がない島を直撃しているようである。そこで3万5千人の人口の島に、年間6万人の韓国からの観光客や釣り人を受け入れてかろうじて息をついて来たが、文化摩擦も発生している。それはともかく韓国経済のウォン安のため昨年11月から韓国観光客が激減しているので、対馬では今、不況感が非常に強い。
普段は本州の真ん中にいて国境の感覚に乏しいので、対馬に来てみて日本人として考えるべき問題が色々あることを実感した。大晦日に厳原の町を歩いていたら、対馬のためにお役にたちます、というパワフル男の看板があった。麻生太郎首相には看板の通り、対馬市民にとって是非心強い政治をやって頂くよう願って、この編を終わる。
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