湖東の近江八幡-八幡堀界隈とヴォーリズ-
学生時代には何かあるとだみ声を張り上げて三高寮歌を歌っていた年代なので、卒業後43年目になる今年、2008年10月13-14日に、京都吉田山で♪紅萌ゆる丘の花♪を歌い、琵琶湖畔の休暇村「近江八幡(おうみはちまん)」で♪我は湖の子♪を歌おうという旗印の下に、関東、関西在住者に加えオーストラリアパースの在住者も駆けつけて43年目のクラス会となった。
私は都合で吉田山には参加できなかったので、JR近江八幡駅で合流することとしたが、早く着いて時間があったので、史跡が集まっている八幡堀(はちまんぼり)界隈を散策してみた。
<水郷の里だった近江八幡>
京都からJRびわこ線で行くと、近江八幡は安土の一つ手前の駅である。この近江八幡から安土にかけての一帯は古来、西の湖、大中の湖、小中の湖、津田内湖、水茎内湖などの琵琶湖の内湖が入り組んだ水郷地帯であった。
織田信長はそのような地形から天下布武のための安土城を築いたわけである。しかし以前のウェブログ「安土散策」でも触れたように、太平洋戦争後の昭和20年代に食料増産の掛け声と共に、これらの内湖の殆どが干拓され陸地になってしまった・・・。
信長没後、豊臣秀吉の天下になった1585(天正13)年に、甥の豊臣秀次がここ八幡山に城を築き、麓に城下町を開き、西の湖を経て琵琶湖に至る八幡堀を開削した。このため商工業が発展し、「てんびんの里」五個荘とともに、近江商人の発祥の地にもなった。
近江八幡の人々は秀次を開町の祖としてずっと慕っており、秀次のまちづくりにかけた情熱を、今日も八幡堀や町並みの保存運動に受け継いでいるという。しかし秀次は秀吉の後継者として一旦指名されたものの、秀吉に実子秀頼ができたため、心変わりした秀吉から謀反の罪で切腹させられるという悲運に見舞われてしまった。
<八幡堀の埋立阻止、復活へ>
と、八幡堀を創設した功労者は晩年の豊臣秀吉の妄執の犠牲となってしまったが、八幡堀はその後江戸、明治、大正および昭和20年代までは、水運や生活の場として近江八幡の町に大きな貢献を果たした。平成の今では観光資源として生き残っている。しかし八幡堀が冒頭写真に掲げたような美しい景観を取り戻すには、大変なドラマがあったことを忘れてはならない。
近江八幡観光物産協会のホームページによると、日本が高度成長期に入った昭和30年代から八幡堀の汚染が始り、昭和40年代にはゴミ捨て場と化してヘドロが堆積し、地元自治会からは衛生的観点から駐車場や公園等への改修要望が出され、埋め立ての予算が国によって計上されたという。
1972(昭和47)年になって、このような状況に危機感をもった近江八幡青年会議所のメンバーが立ち上がって保存運動を起こしたが、当初は行政や市民の賛同が得られず全く孤立状態であったらしい。しかしメンバーが率先垂範して清掃作業を続けるうちに協力者が増え、1975(昭和50)年に滋賀県は改修工事を中止し、国に予算を返上したという。
1960~70年代のいわゆる土建万能時代には、琵琶湖自体も環境破壊や汚染の危機に瀕して県民に危機感が高まり、武村知事を選んで1979(昭和54)年に「びわこ条例」を成立させ、その後の琵琶湖の環境保全の礎を築いた時期であったことは以前のウェブログ「琵琶湖周航」で触れた。八幡堀の復活もこの琵琶湖を守る活動と軌を一にしていたのだろう。
<日牟禮八幡宮>
八幡堀にかかる白雲橋を渡ると、近江八幡の守り神ともいうべき日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)が鎮座している。相当に古い神社で、131年に武内宿禰(たけのうちのすくね)が大嶋大神を祀り、275年の応神天皇の時に日群之八幡宮となり、691年の藤原不比等参拝時に比牟禮社となったとある。
1590年に秀次が八幡城下町を開いて以降は、比牟禮社は八幡出身の近江商人の守護神として信仰を集め、ベトナムまで進出したが鎖国になって帰国出来なかった西村太郎右衛門の奉納した絵馬もあるらしい。1966(昭和41)年になって日牟禮八幡宮と改称したという。
日牟禮八幡宮の2つの火祭りが有名である。275年に応神天皇を道案内した松明に起源をもつ本来の例祭である八幡まつりと、安土で織田信長が女装して自らも踊ったという左義長(さぎちょう)まつりである。左義長まつりは、秀次が八幡の城下町を開いたときに安土から移住した人々が、八幡まつりに対抗して左義長と呼ばれる松明を奉納して以来、日牟禮八幡宮の例祭になった。
<近江商人の町>
「てんびんの里」で触れたように、江戸時代から明治時代にかけて活躍した近江商人の中でも、八幡商人は北海道移民への物資供給の商いから始まり松前藩領を基点に活動したグループと、江戸城下形成の時に江戸へ出て大店を開いたグループに分かれる。中には安南(ベトナム)やシャム(タイ)まで進出した八幡商人もいた。
織田信長が活用した楽市楽座と呼ばれる自由商業主義が、ここでは豊臣秀次によって発展し、秀次没後は天領となったため、全国規模の活動がし易かったのかもしれない。近江八幡には近江商人の残した遺産があちこちにあって、重要伝統的建造物群保存地区の指定を受け、八幡堀の保存とともに町並み保存にも大変熱心な町である。
旧市街の新町通に近江八幡市立資料館として、郷土資料館(前述の西村太郎右衛門宅地跡)、歴史民俗資料館(森五郎兵衛控宅)、旧西川家住宅(西川利右衛門宅)、旧伴家住宅(伴庄右衛門宅)が並んでいるが、いずれも近江商人の住宅や宅地跡を活用したものである。
旧伴家住宅の前を通る東西の道が、晩年の秀吉の侵略で国交が断絶していた朝鮮から、江戸時代に国交回復して迎え入れた使節「朝鮮通信使」が通った道で、朝鮮人街道の石碑が建っている。対馬藩に仕えて朝鮮通信使との折衝や朝鮮外交に大活躍した近江出身の雨森芳洲については以前のウェブログで触れた。
新町通と見越しの松 旧西川家住宅(重要文化財)
小学校、役場、図書館にもなった旧伴家 伴家前の東西の通りは朝鮮人街道
日牟禮八幡宮のある白雲橋界隈には、1877(明治10)年に近江商人が子弟教育充実を図るため殆どを寄付金で建てた白雲館(旧八幡東学校、その後役場、信用金庫などに変遷)が保存されている。案内板には、白雲の由来は藤原不比等の和歌、「天降の神の誕生(みあれ)の八幡かも 比牟礼の杜になびく白雲」、からとったのではないかとの説が紹介されている。
白雲館の前の街道を挟んだ斜め向かいに、初代が八幡山城築城の時に工務監督を務め、1566(永禄9)年に創業したという近江商人を先祖にもつ、西川甚五郎邸(非公開)がある。現在もふとんの西川として知られる西川産業の祖である。13代目は池田内閣で国務大臣・北海道開発庁長官を務められ、近江八幡市の名誉市民第2号に選ばれている。
<青い目の近江商人 メレル・ヴォーリズ>
近江八幡市の名誉市民第1号は、ウィリアム・メレル・ヴォーリズというアメリカ人である。近江八幡市は1958(昭和33)年にヴォーリズ氏を名誉市民第1号に推した。西川甚五郎邸から白雲館方向へ向う途中に公園があり、ヴォーリズ像と彼に花束を捧げる女子の像が建っている。後年、日米が開戦した1941(昭和16)年に日本に帰化して一柳米来留(めれる)となった。
近江兄弟社やメンソレータム(現在はメンターム)生みの親として、また、明治学院、東洋英和女学院、東京基督教大学、同志社大学、神戸女学院、関西学院大学、主婦之友社、大丸心斎橋店、山の上ホテル、軽井沢テニスクラブハウス、各地のYMCAなど数々の名建築の設計家としてヴォーリズを知っている人は多いと思う。
近江八幡市は彼の生誕地、米国カンザス州レブンワース市と1997(平成7)年になって兄弟都市提携をしている。私は以前から、ヴォーリズは何故近江八幡という滋賀県の片田舎に来たのだろうと不思議に思っていたので、1997年に発刊された当時の近江兄弟社社長、岩原侑(すすむ)氏著の「青い目の近江商人メレル・ヴォーリズ」を読んだ。
名誉市民第1号ヴォーリズへ花束贈呈 青い目の近江商人(岩原侑著)
岩原氏の著書によると、ヴォーリズはコロラド大学の学生の時、1902(明治35)年にカナダのトロントで開催された学生伝道隊運動の大会で大きな感動を受け、外国伝道、それも僻地への伝道を志したという。2年後に働き出したYMCAの本部によって僻地での伝道応募が受け入れられ、派遣先が日本の片田舎、近江八幡に決まったということらしい。
つまりヴォーリズ自身が近江八幡を選んだという訳ではなかったが、僻地という希望に沿う場所だったということになる。近江八幡在住の方はここは僻地かと苦笑されるかも知れないが、当時はいくつかの都市を除けば日本中が僻地みたいな時代であったろうから、不思議ではない。
1905(明治38)年2月2日に24歳で近江八幡に第一歩を記したヴォーリズは、県立商業学校のバイブルクラスの英語教師として赴任した。生徒たちには大変評判が良く人気が高かったという。その影響で洗礼を受ける生徒が続出したので、当時の日本中にはびこっていた耶蘇教、切支丹への偏見もあって学校側が警戒感を抱き、勤務契約更新を拒否されてしまった。
しかしヴォーリズは使命感に燃えていたのと、この地が好きになっていたらしく、帰国もせず、神戸などの外国人の多い地へ移ることもせず近江八幡に留まり、もともと建築学を修めていたことから建築設計で生計を立て出した。大阪や地元の新聞が解職の非を報道したこともあって、全国から支援が寄せられて建築の仕事が入り、滋賀県を始め日本全国にヴォーリズ建築が生まれることになった。ヴォーリズをクビにした商業学校も彼の建築というから面白い。
一柳記念館(旧ヴォーリズ住宅) 旧八幡郵便局
Voriesと冠してある近江兄弟社学園 日牟禮ビレッジ・クラブハリエ
1920(大正9)年には、ヴォーリズの里帰りがきっかけとなってメンソレータムの輸入販売が始まり、1931(昭和6)年には近江八幡にメンソレータムの製造工場ができ、冬季のあかぎれが普通であった日本人の皮膚疾患改善の動きにフィットして人気商品になった。その後の経営問題で商標権や輸入販売権は他社に移り、近江兄弟社はメンタームとして販売している。
しかしヴォーリズが近江八幡市の第1号名誉市民になった理由は、ヴォーリズ建築を広めたためでも、近江八幡にメンソレータム工場を作ったためでもない。まだ企業のCSRなどの概念のなかった時代に、これら事業で得た収益を、ヴォーリズ精神ともいうべき信仰や理念にもとづいて教育、医療、福祉のような社会奉仕につぎこんで地域貢献を果たしたことが対象になったと思われる。
ヴォーリズのこのような理念や社会奉仕の精神はキリスト教信仰から来るものであろうが、近江商人も、三方よし、陰徳善事、利は余沢など、社会貢献の精神を家訓とした独特の理念をもっていて両者には共通点がある。上述の八幡堀や町並み保存運動にはヴォーリズ精神が謳われたという。「青い眼の近江商人・メレル・ヴォーリズ」という表題はそういう意味合いなのであろう。
<クラブハリエのバウムクーヘン>
余談であるが、たねやグループのホームページを見ると、たねやはクラブハリエという洋菓子バウムクーヘンの店も開いている。たねやは、京都の菓子舗「亀末」で修行した山本久吉氏が1872(明治5)年に近江八幡に創業した「種屋」が起源の老舗である。
CEOの山本徳次氏によると、1903(明治38)年にヴォーリズが偶々たねやの近所に住むこととなり、戦後間もなくこのヴォーリズの勧めで洋菓子の製造販売を始め、今日のクラブハリエになったと仰っている。たねやは、近江商人の「三方よし」の理念を経営理念としている会社である。クラブハリエのバウムクーヘンは、平成の今、全国の女性に好まれる全国区の洋菓子に成長している。
<逍遥の歌に始まり、琵琶湖周航の歌でお開き>
織田信長、豊臣秀次、近江商人、ヴォーリズの影が今も色濃く残る近江八幡の町であったが、ともあれその後JR近江八幡駅で同級生と合流し、国民休暇村「近江八幡」へ向った。向いに沖ノ島が見える風光明媚の地であり温泉もある。
卒業後43年ぶりの再会を果たした面々もいたが、お互いの無事や現在の活躍ぶりを喜ぶとともに、残念ながら既に鬼籍に入った同級生を偲んで、賑やかな宴会となった。翌朝、琵琶湖畔で♪我は湖の子♪を歌う手はずであったが、生憎雨であった。
そこで出発前に一室に集まり、隣室に気兼ねしながら琵琶湖周航の歌を合唱(雑唱?)して無事お開きとなった。琵琶湖周航の歌6番の歌詞には、ここ近江八幡の長命寺が出てくるが、これに刺激されたか、帰途、雨の中も厭わず、かなりの面々が808段あるという急な石段を登って長命寺に参詣し、長命かつピンピンコロリとなるよう祈ったらしい。
数日後、関東から参加して写真撮影してくれた我らが重鎮、大御所氏から記念アルバムが届いたので、その中の逍遥の歌を歌った吉田山と、琵琶湖周航の歌を歌った近江八幡のスナップ写真を借用してこの編を終わる。
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