山陽新幹線の車窓から
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岡山旭川を越える2羽の鳥影(山陽新幹線の車窓から)
<山陽新幹線はトンネル新幹線> このところ山陽新幹線に乗る機会が増えた。東海道新幹線に比べるとトンネルが多く、車窓から景色を楽しめる区間は少ない。東海道新幹線のトンネル数66に対し、山陽新幹線のトンネル数は142もあるという。確かに京都から博多に向うと、西明石から相生までの播州平野が開けているくらいで、後は殆どトンネル新幹線と言っても過言ではない。
しょっちゅう利用している東海道新幹線の沿線風景については、以前のウェブログ「新幹線の車窓から」と、続編で触れた。
それに比べ山陽新幹線は利用した回数が少なく、しかもトンネルが多いので沿線風景を覚えるところまではいかないが、山(中国山脈)側の車窓からは、姫路城や福山城が間近に望め、長いトンネルを抜けた途端に現れる中国山脈から流れてくる河川は、見慣れた東海道新幹線の河川と違って新鮮味があり美しく感じる。また広島県や山口県の民家には独特の建築文化が見られる。
<播州平野> のぞみで京都から博多へ向う時は新大阪が山陽新幹線の始点であるが、新神戸を挟んだ六甲トンネルを抜けて播州平野に入ったところで、ようやく山陽地方に来たという感じがする。西明石から姫路の間は唯一トンネルのない区間なので播州平野の風物が楽しめる。
加古川の町並越しに、遠く三重塔が見えるのに気がついた。どこの寺院かは知識がないので、帰ってからウェブ検索したところ、東播磨地区の建築というウェブサイトに、加古川市北在家の鶴林寺というお寺に、1821(文政4)年建立の三重塔があると出ていた。地図で見ると確かに山陽新幹線の近くに北在家の地名と鶴林寺があった。
加古川鶴林寺の三重塔 加古川鉄橋を渡る
三重塔を過ぎてから大きな川を渡る。加古川市と高砂市の境界の加古川である。デカンショ、デカンショで半年暮らし、あとの半年は寝て暮らす、の歌詞で有名なデカンショ節に出てくる丹波篠山(ささやま)に源流がある。
<姫路城> 播州平野の目玉は何といっても姫路城である。1993(平成5)年には世界遺産に登録された。山陽新幹線からはやや距離があってビルの谷間に隠れてしまうのと、のぞみの場合は停車しないから良く見ていないと見落としてしまう。せっかくの世界遺産なので、姫路市内のビルの高さ制限をして車窓から見やすくすれば良いのにと思う。
現在の姫路城は、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦の後池田輝政が姫路城主となり、9年間かけて大改築を行ったものが骨格となっている。さらに1617(元和3)年には本多忠政が城主となり、三の丸、西の丸を増築した。明治の廃藩置県時の売却騒動や、米軍の空襲など、数々の危機を奇跡的にクリアして、白鷺城とも呼ばれる美しい姿を今に伝えている。
山陽新幹線の車窓から望む姫路城
姫路市では姫路城の築城時期を、赤松貞範がそれまでの砦を城に改築した1346(正平1)年としている。1441(嘉吉1)年の嘉吉の乱(赤松満祐が室町6代将軍足利義教を殺害した事件)で一旦山名氏に奪われたが、応仁の乱の争いで山名氏が弱体化して、1467(応仁1)年に赤松氏が奪還した。
その後16世紀前半に播州に台頭した赤松氏支族の小寺氏が、重臣に取り立てた黒田重隆の子の兵庫助職隆(もとたか)と、孫の官兵衛孝高(よしたか)に姫路城を預からせた。孝高は播州という辺地にあって、唯一人織田信長が天下を取ると予測して接近し、羽柴秀吉の軍師となった。1580(天正8)年に始まった秀吉の中国攻略に際しては姫路城を秀吉に献上し、秀吉は3層の天守閣を築いたという。
黒田氏は近江国黒田(現在の滋賀県木ノ本町黒田)から備前福岡を経て姫路へ流れてきたとされる。黒田氏の歴史や官兵衛孝高(後の黒田如水)の活躍ぶりは、司馬遼太郎が「播磨灘物語」で取り上げている。官兵衛孝高の子、長政の時になって九州福岡藩の大名になり、黒田武士の元祖となったことは以前のウェブログ「余呉湖界隈」で触れた。
<世界遺産姫路城に落書き> 2009年3月5日の共同通信ウェブニュースによると、世界文化遺産の国宝・姫路城(兵庫県姫路市)「西の丸」の建物で、人名や相合い傘などを刻んだ落書きが100個以上見つかっていたことが4日、分かった、と出ている。今年1月、天守閣でも柱に人名を彫った落書きが判明。姫路市は文化庁とも協議しながら、専門家に調査を依頼するなどして修繕方法を検討するとしている、とあるから平成の人心何をかいわんや、である。
<播州平野から岡山へ> 姫路を抜け相生に入ると相生、赤穂、帆坂などの長いトンネルが増えてくる。それでも新大阪-岡山間は、全長158kmに占めるトンネル区間は58km(37%)だそうで、岡山-博多間の全長393kmに占めるトンネル区間222km(56%)に比べると少ない。
この区間はトンネルの合間に、中国山脈から流れてくる河川が美しい姿を現すので、居眠りするともったいない。相生トンネルを抜けると直ぐに千種川が現れて兵庫県から岡山県に入り、焼物や刀剣の名産地、備前長船あたりでは大ケ池という秀麗な池の上を通過する。
千種川(兵庫県龍野市) 大ケ池を通過(岡山県備前市)
大ケ池を過ぎると直ぐに大きな川を渡る。上流に水門が見える大変美しい川で、名前を知らなかったが、帰ってから地図で確認すると岡山三川の一つ吉井川であった。中国山脈の三国山に源を発し、津山や和気を通って児島湾に注ぐ。
岡山三川の他の二つは旭川と高梁川である。旭川は岡山駅到着直前に渡るので、新幹線も速度を落とし撮り易い。冒頭に掲げた写真が旭川であるが、知らない間に鳥が二羽、旭川を越えているところを撮っていた。高梁川は岡山市の西の総社市や倉敷市を流れるが、山陽新幹線では浅原トンネルと酒津トンネルに挟まれ、一瞬のうちに通過する。
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岡山三川の一つ吉井川(岡山県備前市長船)
吉井川については、司馬遼太郎の「街道をゆく第7巻 砂鉄のみち」に鉄との繋がりが述べてある。備前長船や福岡は刀鍛冶の集落であるが、鋼(はがね)の元になる玉鋼を必要とする。玉鋼は砂鉄を溶かして作るので、そういう製鉄業者(たたらもの)が吉井川の上流に居て、玉鋼を鍛冶に供給していたが、時代とともに鍛冶は下流の長船、福岡に落ち着いたというような話が出ている。
<岡山城> 岡山のシンボル、岡山城は山陽新幹線山側の車窓からは見えない。冒頭写真の旭川は山側の車窓から撮影したものであるが、海側の車窓から旭川の下流を注意して見ていると岡山城が遠望できる。
山陽新幹線車窓から岡山城を遠望(旭川)
岡山城の起源は、南北朝時代の正平年間(1346年 ~1369年)に、名和氏の一族が石山台(岡山)に城を築いたのが始まりと、「備前軍記」に書かれているらしい。その後1570年(元亀1)年に宇喜多直家がこの地を支配した。その子秀家が豊臣57万石の大名となって、1590年 - 1597(天正18 - 慶長2)年の8年間にわたって近世城郭としての体裁を整えたという。
関ヶ原の戦で宇喜多秀家は破れて八丈島へ流刑となり、小早川秀秋の居城となったが秀秋も急死して断絶し、1603(慶長8)年、備前28万石は姫路城主池田輝政の次男忠継に与えられ、その後は池田家の支配で明治維新を迎えた。岡山城もまた米軍の空襲で天守が焼失したが1966(昭和41)年に再建された。
<福山城> 岡山を出ると新倉敷を通過して、金光、第二鴨方、今立、笠岡、金浦、明知などのトンネルを抜けて広島県に入り、間もなく福山である。福山駅のすぐ傍には福山城がそびえ、駅のホームからも良く見える。福山停車ののぞみもあるので、一度、時間待ちの間に天守閣の下まで見に行ったこともある。
福山城は、1619(元和5)年に西国への備えとして徳川家康の従兄弟であった水野勝成が築城を開始し、1622(元和8)年に竣工した。京都伏見城の遺構を移築した白壁三層の伏見櫓は現存し重文になっているが、天守閣と御湯殿は1945(昭和20)年の福山大空襲により焼失した。1966(昭和41)年に市制50周年事業として天守閣と御湯殿、月見櫓が再建された。
福山城(山陽新幹線から) 別名:久松城、葦陽城(いようじょう)
福山城天守の再建に際しては、古写真や資料が多く残っていたものの、史実よりも現代的な美観が優先されたり、建築基準法に従ったため、戦後復興された天守の中では最も不正確な再建になったとウィキペディアに出ている。以前のウェブログ「房総のお城」で触れたお城の分類を見ると、福山城は「復元天守」ではなく「外観復興天守」に分類されている。
<東広島の赤瓦屋根> 福山を出るとすぐ福山トンネルに入って、第一、第二松永、馬場、尾道の各トンネルを経て新尾道を通過、また長い備後トンネルを経て三原を通過、さらに頼兼、吉行山、第二高山、本郷、新庄、竹原の各トンネルを経て東広島に入る。今春、尾道で林 芙美子ゆかりの地を訪ねたことは、以前のウェブログで触れた。
吉行山と第二高山のトンネル間で沼田川を渡る。ちょうどJR在来線の山陽本線が右岸を走っているのが見えるが、広島空港が第二高山トンネルの北にあり、在来線は沼田川に沿って空港を迂回して走っている。地図で見るとこのあたり、沼田川を挟んで小早川氏が築城した高山城と新高山城の城跡があるらしい。
沼田川、右岸にJR山陽本線 赤屋根の民家
東広島のあたりは少し平野が続くので、安芸トンネルに入るまでの区間は車窓から景色が楽しめるのであるが、赤瓦に覆われた美しい屋根の民家が集落をなしている上、殆どの屋根に立派なシャチホコがついているのに吃驚する。東海道新幹線や、ここより東の山陽新幹線の車窓から見る建築文化とは、明らかに違うことが実感される。
東広島付近の赤瓦の民家 屋根には立派なシャチホコが!
<広島> 東広島を過ぎ安芸トンネルと府中トンネルを抜けると広島である。広島市のホームページによると、1589(天正17)年に毛利輝元が太田川河口のデルタ地帯に築城を始めてこの地を「広島」と命名し、1591(天正19)年に広島城が完成して城下町になった。
1600(慶長5)年の関ケ原の戦に敗れた毛利輝元は防長2か国に削封され、福島正則が芸備50万石の領主となって城下町の拡張や整備を行ったが、幕府から広島城の無断修築を咎められて転封、改易され、1619(元和5)年からは浅野氏が藩主となり明治維新を迎えている。
山陽新幹線車窓から広島城を望む
広島城も山陽新幹線の山側の車窓からは見えない。広島駅を発車してから海側の車窓から望める。姫路城と同じように林立するビルの谷間から見えるので、よく見ていないと見逃してしまう。
広島市は今や人口117万人の大都会であるから大阪や東京の車窓風景と変らないが、市内を太田川が流れている。1945(昭和20)年8月6日、米軍による原爆投下で無数の被爆者が熱線に焼かれ、水を求めてこの太田川で亡くなったことを思うと、車窓からも祈る気持ちになる。
旧太田川(かっての本流) 太田川放水路(現在の本流)
前々編の「京都にも空襲があった!」で触れたように、私の友人に会社をリタイアした後、故郷の広島へ戻って外国人に英語で被爆体験や被災事実を伝えるボランティア活動をしている方がおられるが、つい先日、2008年10月29日の朝日新聞広島版「平和を考える 聞きたかったこと 被爆から63年」というコラム記事に、自分の活動が取り上げられたとお知らせ頂いた。
旧制広島2中のご出身であるが、原爆投下の時、自分たち2年生が助かり1年生が全滅したという、長らく話すことがタブーであった明暗を分けた事実を、今は後世に伝える活動をされている。真珠湾とお互い様じゃないかという米国人もいるらしいが、英語で言い返すのが難しいので、反論の英文資料も作成して渡されているとのことである。
7月にこの友人の話を聞いて感動したオーストラリアの教員から、「校庭に折鶴を飾り、8月6日8時15分に戦争で死んだ全ての人々のために祈った」というメールが友人に届き、嬉しかったと記事で紹介されている。
<山口県でも見られる赤瓦の民家> 広島を出ると、終着駅の博多まで大袈裟ではなくトンネル新幹線の本領発揮である。太田川本流を越えると直ぐに己斐トンネルに入り、本来風光明媚な広島湾沿いも五日市、廿日市、大野の長いトンネルを通過して山口県に入る。岩国、古市のトンネルを抜けると新岩国である。新岩国の手前で錦帯橋のある錦川も渡るが一瞬で通過する。
新岩国を過ぎると、新欽明路、野口、第一、第二那珂、周東、大峠、樋口山などの長いトンネルをくぐり、徳山を通過する。徳山は海側はコンビナートを形成する一大工業地帯であるが、山側は市街地の向こうに中国山脈が望め、工業地帯のイメージとは異なって美しい風景が車窓から見られる。
中国山脈を望む徳山市街 山口県の赤瓦民家の集落
東広島では赤瓦の民家が随所に見られたが、山口県はどうかと思ってトンネルの合間に現れる民家をずっと見ていると、やはり赤瓦の民家の集落が諸所に見られる。広島県から山口県にかけて赤瓦の屋根を使用する建築文化があると思われる。
徳山を通過して、第一桜谷、富田、第三的場、大平山、多々良山、第一、第二右田、第一、第二畦倉、第一、第二赤岸の各トンネルを抜けると新山口である。吉井川のところで触れたように、中国山系は砂鉄を使用する古代たたら製鉄の地なので、多々良山があるということは、この付近もたたら製鉄に関係する地なのかも知れない。
新山口からは、いくつかの小トンネルと峠山トンネルを経て厚狭(あさ)を通過し、飯野山、埴生、中村、山田、勝山、石原などの各トンネルを抜けると新下関である。埴生トンネルと中村トンネルの間で比較的大きな川を渡る。帰ってから地図で見ると木屋(こや)川という川であり、近くの吉田という処に高杉晋作の墓がある。
赤瓦の屋根(新山口付近) 木屋川(下関市)
<小倉を経て終点の博多へ> のぞみなら新下関は通過して、東海道・山陽新幹線を通じて18.7kmと最長のトンネルである新関門トンネルをくぐって小倉に至る。ただし海底を通る部分はわずかに880mだそうである。すなわち高速度で走る新幹線のために新下関と小倉の両方の内陸側から、緩やかに潜る線形のトンネルになっているためらしい。超高速地下鉄みたいなものである。
中国地方では山側であった車窓が、小倉に入ると海側になる。のぞみは小倉に停車するので、小倉港の活気ある様子が車窓からも分かる。この後、小倉から博多の間で、遠くに城らしき建物が映っている写真を撮ったのであるが、どこで撮ったのか思い出せない。小倉城は山陽新幹線の南側で反対側になるから小倉城ではない。
小倉港(山陽新幹線から) 車窓から見えたお城(小倉-博多)
小倉から終着駅の博多まではこれまたトンネルの連続である。小倉を出て直ぐに長い北九州トンネルに入り、石坂、鞍手、室木、四郎丸、稲光、福岡の各トンネルを抜けて、やっと終着駅の博多である。まさに地下鉄と変らない。よくぞ山陽新幹線はこれだけのトンネルを掘ったものだと、博多までの旅を終えて感嘆の念が沸きあがってきた。
<赤瓦とシャチホコ> と、山陽新幹線の車窓を眺めてきたわけであるが、一番印象が強いのは広島県や山口県の赤瓦屋根の民家である。九州に入ると、トンネル間で見かける民家には赤屋根が少ないように感じた。もともと関門海峡で遮られる九州と中国では文化も違うのであろうから不思議ではないが、実態はわからない。
7、8年前に岩国に住んでいた家族と萩の町を訪れた時、どの民家の屋根にもシャチホコが付いていて立派だなあ、と感じたことがある。それ以来、山口県の民家のシャチホコが気になっていたが、今回広島県や山口県の民家の赤瓦の屋根も疑問の対象として浮上したので、赤瓦とシャチホコについて少し調べてみた。
<東広島の赤瓦> 東広島には広島大学のキャンパスがあるので何回か訪問したが、新幹線の東広島駅やJR西条駅からバスやタクシーに乗ると赤瓦の立派な屋根の民家が至るところで見られる。しかもシャチホコ付の立派な屋根瓦である。
赤瓦屋根の立派な民家 (西条付近) 黒屋根にも立派なシャチホコ
ウィキペディアで東広島市を検索すると、特産物・名物の項に赤瓦が出ている。その説明文には、「江戸時代に瓦職人が石州より移り住み、西条には豊富な粘土(赤土)と、近隣の田万里からは石州瓦の釉薬に用いた来待石(きまちいし)と同様の石が産出するので、いわゆる西条の赤瓦が製造されるようになった。」とある。
石州とは石見国(今の島根県)であるから、つまるところ赤瓦の本家は石見国であって、石見の瓦職人が西条の赤土と釉薬に使える石を使って、この地に赤瓦の屋根を広めたということらしい。西条に赤土があることを知って石見から瓦職人が移り住んできたのか、石見で職にあぶれて西条へ移り住んできて赤土を見つけたのかはわからない。
<石州瓦>
そこで島根県には赤瓦の屋根の家がゴロゴロしているはずと石州瓦で検索してみると、石州瓦工業組合の屋根の学校というウェブサイトが見つかり、赤瓦の美しい街並みを多数紹介している。2007年に世界遺産になった石見銀山のある大田市、江津市、浜田市、益田市、津和野町などは島根県における石州瓦の産地である。
北前船寄港地(屋根の学校から)
このウェブサイトによると、釉薬が一般的に使われるようになった江戸時代中期以降の日本の町並み景観は、大雑把には温暖な太平洋側が銀黒系の町並みで、寒冷な日本海側は赤系の町並みに分けられるそうである。日本海側の赤系は、寒冷地でも割れにくい石州瓦の普及によるものらしい。
石州瓦は江戸時代初期に誕生し、焼成温度が1300℃と高いので強度に優れ、日本海側の豪雪地帯や北海道でシェアが高いとある。同じ島根県の出雲地方で産出する含鉄土石の「来待石(きまちいし)」を釉薬に使用するので、独特の赤い色になるとのことである。石州瓦の普及経路には、北前船の物流による日本海沿岸への普及経路と、前述の石州の瓦職人の移住による普及経路があるという。
岡山県の備中吹屋や東広島の西条地方は後者の典型例らしいが、山陽新幹線から見える広島県や山口県の赤瓦の集落は、山陽地方にあるものの昔は雪が多かったらしく、それで寒さや雪に強い赤瓦が普及したということらしい。ということで、山陽新幹線沿線の赤瓦屋根についての疑問はとりあえず解消した。
しかし1997年には2億枚の生産高だった石州瓦は、住宅着工減や瓦以外の屋根材の影響で、2007年には9500万枚に落ち込んで苦戦しているらしい。東広島で乗ったタクシーの運転手さんは、昔は見栄もあって立派な屋根を競ったが、今は赤瓦の家に住んでるのは爺さん婆さんばっかりですよ、と仰っていた。今や本家の島根県でも保存運動が始まっているらしい。
<シャチホコ> もう一つの疑問であったシャチホコのことである。実際西条の町並み、いや屋根並みに心を奪われ、屋根の両端に鯱、隼、鳩、宝船、波などの立派な装飾瓦が鎮座しているのを見て、誰か教えて!というサイトもあり、私と同様の疑問をもった人も多いようである。
ただシャチホコについては、山口県や広島県だけに限ったわけではなく、岡山、鳥取、熊本の街道や、奥州街道、関東は五日市街道で見たというサイトもあるので、日本の地方では家を守るという信心的意味から、屋根を飾るという慣習が今も残っていると見るのが適当なのであろう。
瓦屋さんのホームページをいくつか見ると、鯱(シャチホコ)は屋根に使われる装飾・役瓦の一種であり、建物が火事の時には水を噴き出して火を消すという意味の守り神であると出ている。そういえば滋賀県の民家には、壁の屋根に近い部分に「水」と書いた家がしばしば見られるが、火事に対する守り神という意味からは同じ狙いなのかもしれない。
<本場の赤瓦屋根を見に行く> 2009年の年末から2010年の新年にかけてのお正月休みに、病膏肓に入って石州赤瓦の本場、島根県石見地方を訪れ、この後のウェブログ「石州赤瓦屋根の町並み」にアップした。
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