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2008.09.28

上野と滋賀と天海大僧正

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天海大僧正の廟所、慈眼堂(滋賀大津坂本)

<東京上野の滋賀ゆかりの地>
以前このウェブログで、東京の上野は、天海大僧正が不忍池を琵琶湖にみたてて、弁財天のある竹生島になぞらえて弁天島(中之島)を築き、竹生島の宝厳寺の弁財天を勧請して弁天堂を作ったことから、滋賀ゆかりの地であることに触れた。

  • 上野の森の三重、京都、滋賀

    上野にはもう1箇所、滋賀ゆかりの地があった。滋賀県草津市に今もある芦浦観音寺の歴代住持は、13代目朝舜のときに徳川幕府の中央集権化の方針により琵琶湖の代官や船奉行職を罷免されて、江戸の東叡山寛永寺明王院の住持を兼住することになり、そのまま明治維新を迎えたとのことで、このウェブログの「再び湖南の芦浦観音寺」で触れた。

  • 再び湖南の芦浦観音寺

    そこで滋賀県在住者としては、滋賀ゆかりの明王院を一度訪ねて見たいと思っていたが、現在の上野の地図には明王院という寺院は見当たらない。谷中霊園の近くに明王院があるが真言宗の寺院であり、天台宗の寛永寺とは関係なさそうである。だいたい寛永寺自体が明治維新当時の上野戦争で焼失しているので、江戸時代に存在した寺院があるのかどうかも定かでない。

    と、半ば諦めていたが、2008年9月6日に上野公園を散策する機会があったので、東叡山寛永寺明王院のことを少し探って見ることとした。といっても手がかりがある訳でなく、まずは東叡山寛永寺開山の慈眼大師(天海)と、天海が崇敬していた慈恵大師(良源)の両大師を祀る、両大師堂を訪れてみた。

    <両大師堂>
    慈恵大師良源(912-985)は第18代の天台座主で、元三大師とも呼ばれた人である。天海は良源を尊崇し、寛永寺本坊内に慈恵堂を設けていたが、天海が入寂後に建立された開山堂に慈恵大師も合祀され、両大師と呼ぶようになったとのことである。

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          東叡山寛永寺開山堂       慈恵大師と慈眼大師を祀る両大師堂

    境内にあった両大師略縁起や両大師由来を見ても明王院の手がかりは得られなかったが、庭を掃除されていた年配の男性がおられたので、滋賀から明王院を訪ねてきた旨申しあげたところ、自分は知らないが寛永寺霊園に管理事務所があるからそこで聞くと良い、とのアドバイスを貰った。

    男性は問わず語りに、自分は京都醍醐の真言宗の寺で修行した僧侶であるが、天海大僧正をとても尊敬しており、86歳になった今も北千住から毎日この両大師堂と、近くのお墓(後で調べたら天海僧正毛髪塔が公園の中にある)を掃除しに来ていると、仰っていた。天海という人は他宗の僧をも惹きつけるオーラがあるらしい。

    <寛永寺霊園界隈>
    両大師堂から寛永寺霊園に行くには東京国立博物館の裏手をぐるっと回っていくが、この道の雰囲気がとても良い。博物館と道を挟んだ反対側には寛永寺の子院が並んでいて、上野公園の賑わいとは打って変わって静寂な落ち着いた雰囲気である。

    下の写真はその中の一つで、一見和風の豪邸かと思うような雰囲気の建物であるが、門柱には天台宗、寒松院とあった。ウィキペディアの寛永寺を検索すると、寛永寺の子院は19院が現存し、15院がこの国立博物館東側にまとまって所在していると出ており、寒松院もその一つである。しかし明王院という名前はない。

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        天台宗、寒松院の表札がある      一見高級料亭のような雰囲気

    <天璋院篤姫の墓所>
    東京国立博物館の北側に出ると寛永寺霊園ゾーンである。徳川歴代将軍の15人のうち6人がここに眠っているという。もともと徳川家の菩提寺は芝の増上寺であったが、3代将軍家光が天海に大いに帰依し、4代家綱、5代綱吉の廟はここにある。6代家宣以降の墓所は増上寺と寛永寺で交替で造営されることになったらしい。

    今年のNHK大河ドラマ主役の宮崎あおいさんの好演で、一躍人気者になった天璋院篤姫の墓所もここにある。5代将軍綱吉公霊廟内の14代将軍家定公の墓所の隣にあり、宝塔の脇には篤姫の好物であった枇杷の木が植えられているらしい。綱吉公霊廟の入口に重文の勅額門があり、門前に今年篤姫墓所の案内板が建てられた。非公開なので中には入れない。天璋院篤姫についてはこの後のウェブログ「天璋院篤姫雑感」で触れた。

  • 天璋院篤姫雑感

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        5代将軍綱吉公霊廟勅額門     天璋院篤姫墓所(非公開)の案内板

    <明王院は廃絶、上野中学校に!>
    徳川将軍の墓所ゾーンからさして遠くないところに、寛永寺霊園の管理事務所と思しきプレハブ建屋があったので明王院のことを伺いに入ってみた。壮年の僧侶の方が応対して下さり、少しお待ち下さいと仰って、何と事務所のパソコンから地図を打ち出して下さったのである。

    1枚は現在の上野公園の地図です、1枚はインターネットで見られる明治40年刊行の上野公園の地図です、最後の1枚は正確な時期は分かりませんがかなり古い地図で、明王院が入っています、と仰って、3枚の地図を下さった。最後の地図と現在の地図を見比べると、明王院の場所には上野中学校が建っていますね、とも教えて下さった。

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              明王院が記載されている東叡山寛永寺の古地図

    縁もゆかりもない私の我儘な質問に対し誠実に応対頂いた壮年僧は、おそらく明治初期の廃仏毀釈で明王院は取り潰されたのかも知れません、とも仰っていた。確かに明治40年刊行の上野公園之図には既に明王院は消えていて、全体を見てもどこにも移転された様子もない。

    帰ってからもう少し調べてみたところ、東京国立博物館の初代館長を務めた町田久成は、晩年の明治23年に滋賀の園城寺末光浄院の住職になったが、明治29年に病のため上京し、寛永寺の子院である明王院(現在は廃絶)で療養した、と記載した資料があった。ということは明王院は明治30年頃には存在していたと思われ、明治初期の廃仏毀釈で廃絶されたのではないようである。

    明治40年刊行の地図では、明王院のあった付近には官舎や園丁部屋が記載されている。隣に以前触れた大津出身の久野 久が通った東京音楽学校や帝国図書館がある。東京音楽学校は明治23年の設立、帝国図書館の上野移転は明治18年であるから、この頃は明王院は存在していたと思われるので、その後の官舎や園丁部屋設置拡充で廃絶されたのかもしれない。

  • 大津市膳所出身のピアニスト-久野 久-

    <寛永寺根本中堂>
    ということで芦浦観音寺ゆかりの明王院は今はもうないことが判明したのだが、せっかく来たので明王院の跡地に建っていると思しき台東区立上野中学校と、その直ぐ近くにある現在の寛永寺本堂を拝見した。

    もともとの寛永寺本堂(根本中堂)は、現在の上野公園の噴水池あたりにあったが上野戦争で焼失したので、1876(明治9)年から12年間かけて、天海が住職をしていた埼玉県川越の喜多院の本地堂を移築して寛永寺本堂にしたと、案内板に出ている。両大師堂でお会いした男性は、解体して船で運んだのですよ、と仰っていた。

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       明王院の跡地に建つ上野中学校      川越から移築した寛永寺本堂

    <慈眼大師天海と滋賀>
    と、こうして上野の不忍池や寛永寺の由来を知ってみると、その開山である天海大僧正が、滋賀と上野を結ぶ大きな存在として見えてくる。両大師堂でお会いした天海大僧正に傾倒されている真言宗の僧侶の方ではないが、滋賀県在住者としては慈眼大師天海の滋賀での足跡を少し追って見たくなった。

    天海は徳川家康、家忠、家光の3代に渡って仕えた政僧で、徳川幕府300年の基礎を築いた黒幕である。件の真言宗の僧侶の方は、大奥という巧妙なシステムも天海大僧正のアイデアなんですよと仰っていた。埼玉川越の喜多院再興や、日光東照宮、日光輪王寺、上野寛永寺の建立を行い、墓所も日光にあるが、滋賀にもゆかりある人である。

    天海の前半生については良く知られていないが、ウィキペディアやこれまで読んだ歴史小説によると、1536(天文5)年頃の生まれで隋風(ずいふう)と号して天台宗を学び、近江では叡山延暦寺や三井寺で修行したらしい。織田信長の叡山焼討ちに遭って甲斐の武田信玄に招かれ、その後埼玉川越の無量寿寺北院(後の喜多院)に移って天海と号し、1599(慶長4)年に住職となった。

    晩年の徳川家康から厚い信頼を得た天海は、1607(慶長12)年から比叡山探題として叡山の南光坊に住み、織田信長の焼討ち後の延暦寺復興に尽力した。延暦寺以外にも近江の寺院には、織田信長の焼討ちで荒廃したが天海大僧正やその弟子が復興したと由緒に書いてあるところが多い。このウェブログの「湖東の渡来人」で触れた琵琶湖東岸にある石塔寺や百済寺もそうである。

  • 湖東の渡来人

    <天海大僧正ゆかりの大津市坂本>
    1615(元和1)年には、京都北白川にあった法勝寺を後陽成天皇から下賜されて比叡山麓の坂本に移築し、1655(明暦1)年に後水尾天皇から滋賀院の号を賜った。その間、1623(元和9)年には徳川3代将軍家光の命で日吉東照宮をこの坂本の地に造営している。

    天海は1643(寛永20)年に108歳で歿したとされるが、家光の命で1644(寛永21)年に滋賀院の境内に廟所が建てられ、死後5年経って朝廷から慈眼大師号を追贈されたことから、慈眼堂と呼ばれるようになった。慈眼大師天海を祀る慈眼堂は日光輪王寺と川越喜多院にもある。

    坂本の町はこのウェブログの「志賀の都探訪」で触れたように、日吉大社や西教寺、さらには司馬遼太郎が鶴喜そばと間違って入った日吉そばがあり、日吉大社参道(日吉馬場)入口の大鳥居の傍に天台宗の開祖、伝教大師最澄が生まれた生源寺がある。

  • 志賀の都探訪

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      日吉大社参道の大鳥居と日吉馬場      伝教大師最澄誕生の生源寺

    この坂本の町が天海ゆかりの地であることは、大津市に住みながらこれまであまり詳しく知らなかったので、2008年9月14日に滋賀院(滋賀院門跡)と慈眼堂を、9月28日に日吉東照宮を訪ねてみた。

    <滋賀院門跡>
    天海が開基の滋賀院は滋賀院門跡と呼ばれ、江戸初期以降の歴代天台座主の皇族が居住した格式の高い寺院である。地元では滋賀院御殿と呼び参道には御殿馬場と名前がついている。御殿馬場を上っていくと滋賀院門跡と表札のかかった勅旨門が現れる。穴太積みの見事な石垣の上に白壁が続きいかにも御殿の雰囲気である。

    現在の建物は、残念ながら天海の移築したものではない。1878(明治11)年に火災で全焼したので、比叡山上の延暦寺の建物を移築再建し1880(明治13)年に復旧したものである。

    通用門から中へ入ると、滋賀院の庫裏があり400円の入場料で中が見学出来る。狩野派絵師の襖絵や小堀遠州の作といわれる池泉鑑賞式庭園、後陽成・後水尾・明治各天皇、徳川歴代将軍、近世の歴代天台座主の位牌が祀られた内仏殿など、一見の価値がある。写真撮影も自由で格式の高い割には親近感のもてる寺院である。

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           滋賀院門跡勅旨門           穴太積みの石垣が見事
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           豪華絢爛の内仏殿            天海大僧正着用の鎧兜

    ここは天台座主の居所であるから、天海に関する遺品や資料の展示はあまりないが、写真に示したように天海大僧正着用の鎧兜が飾ってある。関ヶ原の戦いや大阪夏の陣、冬の陣では家康の参謀を務めたといわれるので、僧侶であっても鎧兜を着用していたのであろう。

    <慈眼堂>
    滋賀院門跡の境内にある天台総務庁の横を過ぎて山手に上ると、冒頭写真に掲げた慈眼大師天海を祀る慈眼堂に至る。意外に簡素な造りであるが、江戸時代初期の禅宗様を基本としたお堂で、堂内には重文の慈眼大師坐像が祀られているとのことであるが、中には入れない。

    南側の山門から覗くと、石畳の両側に配置された石灯籠と、一面に敷き詰められた杉苔の緑と、木々の緑がマッチして落ち着いた雰囲気である。石灯籠は16基あって江戸時代初期に堂建立と同時に整備されたとのことである。

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             慈眼堂山門                山門から慈眼堂を覗く

    <天台座主の墓所と阿弥陀如来坐像>
    慈眼堂の左方山手には、江戸期以降の歴代天台座主のお墓が並んでおり、その中に桓武・後陽成・後水尾各天皇、徳川家康、紫式部、和泉式部、新田義貞や慈眼大師の供養塔が建っている。

    穴太積みの石垣の上の道沿いには阿弥陀如来の坐像が並んでいる。案内板には、桃山時代に近江国観音寺城主六角承禎が、母の菩提のために母の郷里近江鵜川の地に、弥陀の本願に基き弥陀の石仏四十八体を奉安し、そのうち十三体を江戸の初期に天海大僧正が当地に移したものである、と記載してある。

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      天海が高島鵜川から移した阿弥陀如来        歴代天台座主の墓所

    鵜川四十八体石仏群の謂れについては、以前のウェブログ「湖西のみち-志賀・高島の湖岸を辿る-」で触れた。

  • 湖西のみち-志賀・高島の湖岸を辿る-

    <徳川家康と豊臣秀吉を祀る日吉東照宮>
    慈眼堂の山門を出て南へ向うと日吉東照宮への参道(権現馬場)に突き当たる。右折して山手へ向うと鳥居があり、急な石段を上りきれば日吉東照宮の唐門が姿を現す。右手に社務所があり、土日祝日は拝観料200円を払うと社殿の中も見せてくれる。

    日吉東照宮は、天海が1623(元和9)年に造営した後、寛永年間に改築が行われ1634(寛永11)年に完成し、勅使を迎えて正遷座の儀式が行われた。その秋に日光東照宮の改築が始まり1636(寛永13)年春に正遷座されたことから、日吉東照宮は日光東照宮の原型であったとされている。

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    日光東照宮の原型、日吉東照宮の唐門     色彩豊かで絢爛豪華な拝殿
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          拝殿を飾る絢爛豪華な細工(日光東照宮の細工と良く似ている)

    東照宮であるからもちろん天海は徳川家康を祀ったわけであるが、現在の三柱のご祭神は、徳川家康、日吉大神に加えて、何と豊臣秀吉である。社務所の男性にそのわけを伺ったところ、創建時から江戸期の間は摩多羅神(まだらしん)が家康を護る形で祀ってあったとのこと。輪王寺にあるという摩多羅神の仏画の写真を見せて下さった。

    ところが明治の神仏分離令でそれまでの延暦寺による管轄が解かれて、1876(明治9)年から日吉大社の管轄になった。その時に中国渡来の神はまずかろうということで、日吉大神と豊臣秀吉に置き換わったようですと仰っていた。家康と秀吉を一緒に祀るという発想は当時の日吉大社の宮司さんですかねえと聞くと、そんなところかもしれません、とのこと。面白い発想をした人がいるものである。

    また、ここの社殿は拝殿と本殿を石の間で繋ぐ、いわゆる「権現(ごんげん)造り」の発祥とされている。中に入って拝観したが「石の間」が数段低く設計され、祭典奉仕者が将軍に背を向けて奉仕しても非礼にならないようにと、本殿と拝殿を如何に繋ぐかを当時の天海大僧正が苦心して考え出したという。

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     本殿と拝殿を石の間で繋いだ権現造      拝殿   石の間   本殿


    <天海大僧正は明智光秀?>
    滋賀の芦浦観音寺の住持が住んだという、上野の東叡山寛永寺明王院の追っかけから始まって、天海大僧正を介して再び滋賀に戻って来た。東の日光では天海大僧正は大恩人であるが、西の坂本でもその存在は大きかった。日光には天海が名付けたという明智平があり、坂本は明智光秀が治めた地で、光秀の墓が西教寺にある。

    天海の前半生が明らかでないことから、本能寺で織田信長を討った後、山崎合戦で豊臣秀吉に敗れた明智光秀が比叡山に逃れ、天海となったという説がある。元禄年間(1688-1703)初頭からこの噂が流布し出したらしい。信長焼討ちの寺院の復興、豊臣家に対する容赦ない施策、光秀の家老斉藤利三の娘於福(後の春日の局)の重用などが噂の根拠である。

    昔の日本の民には、優れた才能を持ったが、時の最高権力者に敗れて非業の死を遂げた人たちを惜しんで、伝説上で再起させるという特質があるように思う。源義経のジンギスカン説はその典型であろうし、壬申の乱で敗れた大友皇子は遠く離れた千葉県君津市に逃げ延びたという伝説があり、小櫃(おびつ)の白山神社に祀られ墓もある。菅原道真もそうかも知れない。

    明智光秀は領地では善政をしき領民に慕われていたというから、江戸時代になって大活躍するが謎の多い天海大僧正を、光秀の再来と思った民が多かったということかも知れない。

    現在の日吉東照宮が家康と秀吉を一緒に祀っていると聞いたら、創建者の天海は吃驚するだろうなと、帰り道にふと思ったが、まてよ、天海は光秀かも知れないのだから、世界平和を願って、いっそのこと家康、秀吉に加え、坂本の主である光秀の3人を祭神にしたら良いのに、と思った次第である。

    そんな空想をしながら坂本の権現馬場を下っていくと、途中で琵琶湖が大変美しく見えた。

    Gongenbababiwako
       権現馬場から見える琵琶湖、対岸に近江富士(三上山)

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