京都にも空襲があった!
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2005(平成17)年8月に建立された空爆被災記録碑(京都市西陣)
<京都空襲の事実>
広島が63回目の「原爆の日」を迎える2008年8月6日の日本経済新聞朝刊の文化欄には、京都育ちの当方にとってはショッキングな記事が出ていた。「京都にも空襲があった-無空襲神話に心痛む-」という表題が目に飛び込んだので、何?京都は空襲を受けなかった街ではなかったの?と一瞬視力老化による見間違いかと思った。
執筆者は京都西陣にお住まいの瓦店の会長さんである。京都は「空襲を免除された街」という社会通念が、神話のように根を下ろしており、旅先で京都から来たというと、「良い街ですね。日本の伝統文化の中心で由緒ある寺院や神社が多く、お蔭で戦災にもあわなかったのですね」と判で押したように言われるという。
かくいう私も、1946(昭和21)年に東京から京都に移り、2年後に京都西陣に程近い紫野御所田町に所在する小学校に入学したのだが、学校でも家でも、太平洋戦争で東京や大阪は空襲を受けたけれども、京都は歴史的な文化財が多いからアメリカ人の中にそれを破壊することを惜しんだ人がいたので、空襲を受けなかったのだ、と教えられ、そのまま今まで信じ込んでいた。
ところが、記事によると実際には1945(昭和20)年に3回米軍の爆撃があり、1月16日には東山区の馬町に空襲があり、死者41人、負傷者48人の被害が出た。6月26日には高級織物産地の西陣が標的となって空襲があり、自宅付近に7発の爆弾が投下され、5発が爆発し死者50人、負傷者66人といわれる被害が出た。会長さんの自宅も全壊した。今の自宅の庭には、戦争の記憶を風化させないように爆弾の金属破片を残してあるとのことである。
<空爆被災の記録碑>
会長さんは、10万人が死んだ東京を始め、大阪、名古屋の空襲に比べれば、京都の被害は軽微だったかもしれないが、被災された方々の無念に報いたいとずっと思っておられ、その思いが京都市を動かして当時から60年経過した2005年6月26日に被災者供養の法事が実施され、8月15日には西陣の辰巳児童公園に冒頭写真の空爆被災記録碑が建立され、京都市長も除幕式に参加したという。
この日経記事を読んで、そのような事実を知らなかった京都育ちとしては、これはやはり見ておかねばならないと思い、記事が出た11日後の2008年8月17日に辰巳公園を訪ねてみた。堀川通から下長者町通を西へ進み、智恵光院通との交差点に至るとその右手にあった。公園を潰してマンションを建設するらしく、空爆被災記録碑の一角のみを残して工事用シートが張り巡らしてある。
記録碑には爆弾の落ちた場所を示す赤丸があるが、このあたり一帯に7つある。その昔、1467年頃、このあたり一帯は、応仁の乱で西軍の山名宗全が本陣を置いたことから西陣と呼ばれるようになったが、その後豊臣秀吉によって復興され、聚楽第がおかれた地でもある。
因みに西陣という地名は特定された地域を示すのではなく、東の堀川通から西の七本松通、北の鞍馬口通から南の中立売通あたりまでの範囲の総称である。以前このウェブログの「1000年の織物 200歳の夢」で山口伊太郎さんの西陣織による源氏物語絵巻や山口安次郎さんの能装束に触れたが、錦と呼ばれる高級織物産業が集中した地域である。 また、日本で初めて映画館ができた場所でもあるらしい。
<隠された京都空襲>
しかし京都に空襲があったことは、人心の動揺と戦意低下を恐れた当局がひた隠しにし、新聞も事実は伝えたものの被害は軽微と報道して、むしろ戦意をあおり続けたという。馬町の空襲で被害を受け自宅に残る弾痕を見て育ったお嬢さんが、戦後になって怪我をした母の体験を中学校で話したところ、先生でさえ「京都に空襲があったとは!」と、驚いたらしい。
1974(昭和49)年になって京都府立総合資料館から、「かくされていた空襲 京都空襲の体験と記録」という被災体験者の声を集めた本が出たらしいが、滋賀県に移った私は知る機会はなかった。むしろ広島への原爆投下は別として、京都の文化財を戦火から守ったアメリカはまだましな国であり、占領相手がソ連でなくて良かったと、小学校当時に思い込んだ認識をその後も額面通り信じていたわけである。
「何や、俺は騙されていたんか!」と、いささか反省して、京都、空襲というキーワードでウェブ検索してみたところ、京都空襲に関するウェブサイトは色々あり当方が知らなかっただけの話であったが、調べた結果、京都の文化財保護-無空襲という神話については、もっとひどい騙され方をしていたことが分かった。
以下、60年間私が騙されていた伝説と実情に触れてみたい。
<ウォーナー伝説>
そもそも京都や奈良、鎌倉といった日本の古都の文化財を保護するために空襲が控えられたという伝説に関係するのは、ランドン・ウォーナー(Langdon Warner)というアメリカ人である。東洋美術の研究者で戦前2度来日して岡倉天心に師事し、ボストン、クリーブランド、フィラデルフィアの美術館長を歴任し、ハーバード大学で東洋美術史を講義した博士である。
夫人が第26代合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの姪にあたり、ウォーナー博士は太平洋戦争時に日本の文化財の一覧表、いわゆるウォーナーリスト、を作成し、夫人とともに当時の第32代合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトが率いるアメリカ政府にリストを提出して、日本の古都を爆撃しないように進言した、というのがウォーナー伝説といわれるものである。
1945(昭和20)年11月11日の朝日新聞に、「京都・奈良の無疵の裏、作戦国境を越えて、人類の宝を守る、米軍の蔭に日本美術通」という見出しで、ウォーナー博士とも親交のあった著名な美術評論家の矢代幸雄氏の談話を添えた記事が出たことが、戦後の日本にウォーナー恩人説を広めたということらしい。
<日本挙げてのウォーナー博士顕彰>
ウォーナー博士は1955(昭和30)年に亡くなったが、日本政府は外国人に与えられる最高の栄誉である勲二等瑞宝章を授与してその業績を公認したこともあって、奈良の安倍文殊院や法隆寺ではウォーナー博士報恩供養塔や顕彰碑が建ち、JR鎌倉駅西口にはウォーナー記念碑が建った。他にも国内数箇所にウォーナー博士を称える記念碑や像が建っているという。
京都では霊山歴史館に、幕末の志士と一緒に並んで立っていると書いたサイトや、平櫛田中という人が手がけた胸像があると書いたサイトがあったので、それでは確認しようと2008年8月26日に訪れてみたが、管理人の男性は「全く知りません。ここは坂本竜馬たち幕末の志士の展示ですから、文化財の恩人は関係ありません。」と本当に知らないようであった。サイトに写真はなかったので単なる聞き書きかもしれない。
せっかく足を運んだので、向かいの霊山護国神社に眠る勤皇の志士の墓の中にあるのではないかと探してみたが、坂本竜馬、中岡慎太郎の銅像と、東京裁判の連合国の中で唯一公平な意見を出したことで有名なインド人のパール判事の像があるのみで、ウォーナー博士の像は見つからなかった。今度はウェブサイトに騙されたか、と、すごすご帰宅した。
<ウォーナー伝説の崩壊!>
しかしウォーナー博士本人は、1946(昭和21)年の来日時に、マスコミからルーズベルト大統領に京都の爆撃回避を進言したのかと聞かれても、そのことを否定し続けていたという。しかし彼が否定すればするほど、日本人は彼の否定を、「謙譲の美徳」と受け留めて、ますます彼を英雄視したというから、その頃に子供時代を送った我々世代はまさにそのような空気を感じ、「アメリカてええ国や!」と思い込んだわけである。
伝説の主役であるご本人が終生否定していたのだから、今から思うとそれに疑問をもった日本人、特に政府関係者やマスコミ、が当時いなかったということが信じられないのであるが、その謎を解き明かしたのが、大阪樟蔭女子大学の吉田守男教授である。
吉田教授は京都大学文学研究科ご出身で国史学がご専門であるが、1994(平成6)年になって「ウォーナー伝説批判」という論文を、学会誌「日本史研究」に発表された。これは戦後に公開された米軍の極秘資料などの公文書を一次資料とする膨大な資料をもとに書かれた論文で、それまでの日本人が信じていた通説を覆すものであった。
この研究は1995(平成7)年7月に「京都に原爆を投下せよ・ウォーナー伝説の真実」として、角川書店から出版され、さらに2002(平成14)年8月にこの再刊となる「日本の古都はなぜ空襲を免れたか」という朝日文庫本が出版された。吉田教授がこれらの書で述べた推論は、京都人にとっては次のような恐るべきものであった。
1.京都は人口密集度や地形から見て、原爆投下の理想的目標(広島と京都がAA級になっていた)の都市であったため、来るべき原爆投下の威力や効果を正確に測るため、無傷のままにしておく必要があった。目標指定される前は空襲の例外ではなかったため実際何回かの空襲があった。
2.従って軍事上・戦略上の観点から通常の爆撃を禁止していただけであって、文化財の多い古都を守る意図などアメリカには全くなかった。むしろ日本人にとって特別な意味をもつ京都が被爆すれば抗戦意欲が消失するだろうという読みさえあった。広島、長崎のあと、さらに戦争が長引いていれば、京都に3発目の原爆が投下されていたはずである。
3.ウォーナーリストは古都を護るために作られたものではなく、日本が中国などの諸外国から略奪した文化財の返還が必要になった時に、その損害に見合う等価値の文化財で弁償させるための基礎資料として作られたものである。つまりウォーナーと京都が爆撃を免れたこととは何の関係もない。
4.「ウォーナーが古都を護った」といういわゆるウォーナー伝説は、戦後の占領軍の中枢であったGHQ(連合軍最高司令部)が、日本人の懐柔と親米感情醸成のためウォーナーリストをタネにしてウォーナー恩人説を信じるよう、定説に仕立て上げた作り話である。これはその後の米軍戦史やトルーマンの回顧録にも引用された。
5.原爆投下が広島の次が京都でなく長崎だった理由は、京都に原爆を投下した場合、戦後の国際政治の中で日本人がアメリカ陣営を離れ、ソ連に接近しかねないとの、スチムソン陸軍長官の指摘からの決断とされる。京都が戦禍から免れたのは、アメリカの高度な政治判断によるもので、決して文化財の保護が理由ではなかった。
6.奈良や鎌倉が戦禍を免れたのは、人口の少ない小都市であり単に優先順位が低かったに過ぎない。戦争が長引けば必ず爆撃されたはずである。
<まんまとアメリカの作戦に嵌った日本>
吉田教授の分析や推論は非常に精緻で説得性があるので、これに対する有力な反論はないようである。とすれば我々日本人は見事にアメリカの作戦に嵌ったわけであり、GHQに呼びつけられた政府関係者は日本の優れた文化財をアメリカが価値を認めてくれたと自尊心をくすぐられ、ひたすらウォーナー伝説を有り難く受入れ、マスコミもそれに乗ったということになる。
本人が否定しているのに、「ご謙遜を、貴方は日本の文化財を護ってくれたのですよ。」といってウォーナーを顕彰している日本と、敦煌の壁画をはがしてアメリカに持ち帰った悪人・盗人としてウォーナーを語り伝えている中国との間に大きな落差がある。何故日本人はこのことを知っても、アメリカ人は日本人を騙した!と怒らないのだろう?
私の友人に会社をリタイアした後、故郷の広島へ戻って外国人に英語で被爆体験や被災事実を伝えるボランティア活動をしている方がいる。外国人からの質問に備えていつも討議するのだが最も答えにくい質問が、「何故、日本人はアメリカやアメリカ人を憎まないのか?」という質問だそうである。
確かに「鬼畜米英」を信奉して戦っていたのに、負けた途端に「憧れのハワイ航路」(戦後直ぐ流行った流行歌)にコロリと変ってしまったのである。最近見つかった東條英機の敗戦直前の手記に国民の士気低下をなじるような表現が見られたが、日本の指導哲学と占領時のアメリカの指導哲学の差なのであろうか?
なお、吉田守男教授の著書「日本の古都はなぜ空襲を免れたか」には、霊山歴史館のウォーナー胸像の写真も出ているが、館員もそのいきさつについては全く知らないとあるので、ウォーナー伝説が崩壊した現在では霊山歴史館はそっと展示をやめたのかもしれない。
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