« 大津市膳所出身のピアニスト-久野 久- | Main | オカメインコの回想 »

2008.05.03

尾道(おのみち)と林 芙美子

Onomichisuido1(クリックで拡大)
        千光寺山展望台から尾道水道を望む(広島県尾道市)

<放浪記の上演が1,900回を超える!>
日本経済新聞の2007年12月の「私の履歴書」は森 光子さんであった。我々の年代よりずっと先輩の大女優であるが、41歳の時に菊田一夫から始めて主役を指名され演ずることになった「放浪記」が、この2008年2月にはなんと上演1,900回を超えるそうである、とあったのには驚いた。放浪記の面白さと森 光子さんのキャラクターの相乗効果とでもいえようか。

「放浪記」は、1903(明治36)年に生まれ、大正、昭和の激動期を駆け抜け、1951(昭和26)年に48歳で急逝した作家の林 芙美子が、不遇時代、職業を転々としながらの極貧生活の中で綴った日記をベースに、昭和5年に刊行した自伝である。苦しい中にも明るさと向上心を失わない芙美子の姿勢に多くの読者が共感を覚え、当時のベストセラーとなって芙美子は大作家の仲間入りをした。

林 芙美子はこの苦闘時代の経験をもとに、社会の下積みで生活する人々を題材に、自伝も含めて数々の短編も出している。我家にも親父の遺品の中に、昭和10年に改造社から発刊された「牡蠣(かき)」という箱入りの立派な短編集が残っている。弊親父宛の林 芙美子という署名が入っているので、子供の時からこの独特の筆跡を眺め親近感をもっていた。

Kaki
  署名入りの「牡蠣」(昭和10年)

そして、「放浪記」をはじめ放浪時代の生活をもとに書かれた数々の短編を読むと、山陽地方の瀬戸内海に面した小都市である尾道(おのみち)という町が、芙美子の心の中に古里のような位置を占めていることが感じられる。中でも「風琴と魚の町」は、全編尾道を舞台とした短編の名作といわれる。

そんなことから機会あれば林 芙美子ゆかりの尾道を一度訪れたいと思っていたが、2008年3月に東広島へ行く機会があり、これ幸いと帰途尾道に立ち寄ってみた。

<尾道は寺の町>
尾道は、背後の千光寺山、西国寺山、浄土寺山の尾道三山と、瀬戸内海の尾道水道との間に挟まれた海沿いに東西に広がる街で、向島、因島、生口島、大三島、伯方島、大島を結んで四国の今治に通じる「瀬戸内しまなみ海道(西瀬戸自動車道)」の起点でもある。

古くからの歴史のある町で、飛鳥時代の616年に浄土寺が、奈良時代の730年に西国寺が、平安時代の806年に艮(うしとら)神社や千光寺が創建されたと伝えられている。尾道の名前も11世紀の文書に既に表れており、平安末期の1169年には荘園米の積出港として開港し、室町時代の対明貿易船や江戸時代の北前船の寄港地として繁栄を遂げた。

尾道市街を散歩すると寺社仏閣の多いことに驚くが、これらは各時代の交易を通じて尾道が生んだ豪商により寄進造営されたものが殆どという。京都育ちの私には、まるで京都の寺町が瀬戸内海のこの狭い帯状の地域に引っ越してきたような感を受ける。足利尊氏始め歴代の室町将軍も浄土寺、天寧寺、西国寺への寄進や参詣を行っている。

Irakakoji
    お寺の甍が目立つ尾道市街         尾道観光は狭い小路を巡る

<千光寺山麓>
地図で見ると、林 芙美子の記念室があるというおのみち文学の館へ行くには、ロープウェイで千光寺山頂へ行き、文学のこみちを下りると良いと思い、まずは長江口にあるロープウェイの山麓駅に行った。駅のすぐ傍に艮神社と彫った石碑のある古い神社があった。

最初は良神社と読んでしまったが、後で艮(うしとら=丑寅)神社であると知った。頭上にロープウェイが走りその行く手に朱塗りの千光寺と鐘楼が見える。左手には三重塔が見え寺の町尾道らしい眺めである。帰ってからウェブ検索すると、艮神社は神体山としての千光寺山(大宝山)の遥拝所として、千光寺と共に806年に創建されたと伝えられているらしい。

Ushitora
     艮(うしとら)神社拝殿            頭上をロープウェイが通過

艮(うしとら)神社から少し歩くと曹洞宗の寺院、天寧寺に至る。艮神社から見えた三重塔はこの天寧寺の三重塔である。三重塔は千光寺山の中腹にあるが、本堂と羅漢堂は山麓にあり創建当時は広大な大寺院であったことを偲ばせる。羅漢堂には江戸中期から明治にかけて信徒から寄進されたという五百羅漢が並んでいる。

案内板には、1367(貞治6)年に尾道の人万代道円の発願により、足利2代将軍義詮が工費を寄進して当初は臨済宗の寺院として開山し、3代将軍義満が宿泊し、15代将軍義昭の帰依を受けたとある。三重塔はもとは五重塔で1388(嘉慶2)年の造立であるが、永年の風雪で上層部が損じたので1692(元禄5)年に三重塔になったともある。

Tenneijirakan
         天寧寺本堂                羅漢堂の五百羅漢

地図で見ると尾道市街の東西にわたって細長い地域に25ものお寺があり、古寺巡りコースというのもあるが、今回は林 芙美子が主題であるから山麓散策は適当に切り上げ、ロープウェイに乗って山頂を目指した。

<ロープウェイで千光寺山頂へ>
山頂の展望台からは冒頭写真に掲げたように、眼下に尾道市街と尾道水道が広がり素晴らしい眺めである。対岸が向島で、一際目立つ山は高見山とある。外国人力士の草分けであり、そのもみ上げの濃さや誠実な人柄で人気が高かったハワイ生れのジェシー高見山はこの山の名前をとったのであろうか、などと思った。

尾道水道の左手には大きな橋が見える。1999(平成11)年完成の本四架橋瀬戸内しまなみ海道の新尾道大橋であり、四国の今治へ繋がる自動車専用道である。その向こう側に1968(昭和43)年に架けられた向島への生活橋である尾道大橋も並行しているが写真では良く見えない。

Onomichiohashi
       本四架橋、新尾道大橋を望む

<文学のこみちを経て千光寺へ>
展望台で絶景を楽しんだ後、ロープウェイで登ってくる時に左右にまたがって見えた千光寺までは、文学のこみちをつたって下りると、尾道出身の文学者や尾道に暮らしたり訪れたりした、尾道ゆかりの文人墨客の句や詩文が彫りこんだ天然岩があって、見ていくと面白い。

徳富蘇峰、正岡子規、十辺舎一九、金田一京助、志賀直哉、林 芙美子、緒方洪庵、巌谷小波、山口誓子、柳原白蓮、河東碧梧桐、松尾芭蕉、中村憲吉、吉井 勇、頼 山陽など、当方にも馴染みのある文人の一文が山道に沿って岩に彫られている。巌谷小波は、「大屋根は みな寺にして 風薫る」という俳句を詠んでおり、共感を覚える句である。

Bungakuhi
    志賀直哉-暗夜行路から-         林 芙美子-放浪記から-

ここ千光寺山麓に住んだ志賀直哉の岩には、完結までに17年かかった暗夜行路の一節、「六時になると上の千光寺で刻の鐘をつく。ごーんとなると直ぐゴーンと反響が一つ。又一つ。又一つ。それが遠くから帰ってくる。其頃から昼間は向島の山と山との間に一寸頭を見せている百貫島の燈台が光り出す。それがピカリと光って又消える。造船所の銅を溶かしたような火が水に映り出す。」が彫りこんである。

林 芙美子の岩には、放浪記の一節、「海が見えた。海が見える。五年振りに見る尾道の海はなつかしい。汽車が尾道の海へさしかかると、煤けた小さい町の屋根が提灯のように拡がって来る。赤い千光寺の塔が見える。山は爽やかな若葉だ。緑色の海向うにドックの赤い船が、帆柱を空に突きさしている。私は涙があふれていた。」が彫りこんである。

文学のこみちを下りきると、千光寺の境内に入る。

<千光寺>
上記の志賀直哉の暗夜行路の碑にも、林 芙美子の放浪記の碑にも出てくる千光寺は、こんな絶壁にどうやって建てたのだろうかと不思議に思える美しい寺で、まさに尾道のシンボルといえる。ロープウェイで上っていくと千光寺の真ん中を通過するので、左方に赤堂とも呼ばれる本堂が望め、右方に唐づくりの鐘楼が望める。

Senkoji
     左に千光寺本堂  (ロープウェイから撮影)  右に千光寺鐘楼
Hondokobotaishi
    本尊は千手千眼観世音菩薩           旅姿の弘法大師像

千光寺は806(大同1)年に空海(弘法大師)が創建したと伝えられるが、中世以前の歴史は良く分かっていないらしい。真言宗系の単立寺院とあり、境内には弘法大師の旅姿像も建っているので、滋賀県在住者としては、このウェブログの「湖南の瀬田川界隈」で触れた立木観音で見る弘法大師像と重なり合い、あ、またお会いしましたね、という感じがする。

  • 湖南の瀬田川界隈

    千光寺を後にすると、いよいよ有名文人の旧居や文学記念室があるおのみち文学の館である。

    <中村憲吉と志賀直哉の旧居>
    千光寺から坂を下って来ると中村憲吉終焉の家という標識がある。中村憲吉は名前を知っている程度であるが、広島県三次出身のアララギ派の歌人で、斉藤茂吉や土屋文明と一緒に活動した人である。病の転地療養のために1933(昭和8)年に尾道に移ったが、翌年この家で46歳で没したとのことである。

    Nakamurakenkichi
           中村憲吉の旧居                天寧寺の三重塔

    中村憲吉の旧居の直ぐ下に天寧寺の三重塔がある。旧居の南面はガラス戸になっているので、療養中の憲吉はここから三重塔越しに尾道の海や島を眺めることが出来たのであろう。

    志賀直哉が1912(大正1)年秋から翌年中頃まで住んだ旧居もこの近くにある。当時、雑誌「白樺」のありかたへの確執や父との不和に悩んでいた時期で、友人が尾道をほめていたとか、京橋の馴染みの下宿の女将が尾道出身という理由で、東京を離れ尾道に移り住んだという。

    「志賀直哉先生の旧居はここです」の表示札が下がった三軒長屋の一番奥が志賀直哉の逗留した部屋である。ここも南面から瀬戸内海の島々や遠く四国の連山が眺められる場所であり、付近の細い坂道も散歩するにはうってつけの環境であったと思われる。この一帯が文学公園となっている。

    Shiganaoya
        志賀直哉旧居の三軒長屋           志賀直哉が逗留した部屋
    Hyotan
         「清兵衛と瓢箪」の瓢箪             尾道時代の志賀直哉

    旧居の玄関には志賀直哉の資料や遺品とともに、瓢箪が飾ってある。ここで志賀直哉は「清兵衛と瓢箪」を執筆したのである。「清兵衛と瓢箪」は私の京都の中学校時代、シジラというあだ名の、担任でもあった国語の先生からこってりと習ったので思い出深い。そうか、「清兵衛と瓢箪」はここで書かれたのか、と、いささか感動して瓢箪を眺めたことであった。

    「志賀直哉と尾道」という展示パネルに、彼の代表作である「暗夜行路」の草稿にもここで多くの時を費やし、「散々に手古摺って神経衰弱のやうになって了った。」と述懐しているとある。暗夜行路は1921(大正10)年から雑誌「改造」に連載され、完結は17年経った1937(昭和12)年であった。

    <文学記念室>
    天寧寺の三重塔へ下りる坂道から標識に従って狭い小路に入って行くと、文学記念室の表札のついた背の高い門柱が迎えてくれる。この小路の雰囲気が閑静で落ち着いていて、とても良い。開花して間もない桜が板塀越しに枝を出している。門を入って階段を上がっていくと、文学記念室の玄関である。

    Bungakukinensitsu
          文学記念室への小路            文学記念室の表札と門

    文学記念室は、尾道出身の文学者(行友李風、高垣 眸、横山美智子、山下陸奥、麻生路郎)の記念室と、弊お目当ての林 芙美子記念室とからなっている。

    受付の男性に、林 芙美子のことを知りたくて滋賀県から来ました、と申し上げたところ、林 芙美子の説明はこの方から聞かれると良いですよと、ちょうど戻って来られた男性を紹介して頂いた。尾道シルバー人材センターのT氏の名札をかけておられたので、林 芙美子の研究をされながら、ここで説明員もされているのだろうと拝察した。

    <林 芙美子記念室>
    文学記念室の中に林 芙美子記念室がある。もとは、1986(昭和61)年に志賀直哉旧居を尾道市が買い取った時に、三軒長屋の一室を林 芙美子書斎としていたが、文学記念室完成とともに、ここに林 芙美子記念室が設置されたとのことである。T氏はここで私一人のために1時間くらいかけて懇切丁寧に説明してくださったのである。

    T氏のお話によると、芙美子自身は誕生地は下関と思っていたが実際は門司らしい。家族3人で行商生活をしながら九州各地や中国地方を転々として、芙美子が13歳の1916(大正5)年に尾道に移り、尋常小学校5年に編入学した後、1922(大正11)年に尾道市立高等女学校を卒業するまで、居所はあちこちしたものの一応尾道に定住した。

    Fumikokinensitsu
           林 芙美子記念室入口          尾道市立高等女学校時代

    この間、小学校では小林正雄先生が、女学校では森 要人先生、次いで後任の今井篤三郎先生が芙美子の文才を見抜き、さまざまな支援をされた。特に今井先生は自分も歌人であり、芙美子の文学の芽を育てるとともに、芙美子の本が出版された時には、変名を使って何冊も直接注文するなどして庇護されたとの逸話があるらしい。

    例え優れた才能をもっていたとしても、経済的にも時間的にも大きな制約がある行商生活でその才能を発揮することは至難の業と思えるが、芙美子の場合は多感な時期に尾道に多少落ち着けたこと、その才能を発揮したいという強い意志をもっていたこと、その才能に目をかけて磨いてくれた生涯の師がいたことが、奇跡を呼んだように思える。

    早熟だった芙美子は因島の岡野軍一と初恋をし、女学校卒業後に、明治大学へ進学した軍一を追って上京するものの、軍一は家族の反対で卒業後芙美子と別れて因島へ帰ってしまう。傷心と逼迫した経済状態から芙美子の東京での職業遍歴が始まり、その模様を日記につけ始めたが、これが「放浪記」の原形になったという。

    Tegamiihin
         今井篤三郎先生への書簡            林 芙美子の遺品

    憎っくきは岡野軍一ということになり、芙美子は失恋の痛手を肥やしにして奮起したという一般論になっているが、実は「放浪記」執筆の発端は、軍一が芙美子に贈ったクヌート・ハムスンの「飢え」にあるという。後年岡野氏は「林 フミコが今日あるはわしのお陰じゃ。」と語ったらしい。

    クヌート・ハムスンは1920(大正9)年に「土の恵み」でノーベル文学賞を受けた作家で、「飢え」は金にも愛にも見放された男が自分の才能だけを信じて書くことを捨てず、貧乏を逆に売り物にした作品であるらしい。芙美子はその「飢え」を聖典のように読んだという。

    芙美子は1926(昭和1)年に画学生の手塚緑敏と結婚し、放浪生活に終止符を打って本格的に作家活動に入り、1930(昭和5)年に放浪記がベストセラーになる。翌年、福山出身の井伏鱒二と地元作家の横山美智子とともに、尾道で文芸講演会を開催して成功報告を行い、心の古里、尾道に錦を飾ったという。

    Shosaisippitsu
         東京の書斎を模した部屋            執筆中の林 芙美子

    T氏のお話では、当初芙美子は母校の尾道高女の講堂での開催を希望したが、尾道高女は良妻賢母を育成する校風なので、アナーキストと付き合いのある芙美子には貸せないと断ったらしい。今井先生が奔走して結局尾道商工会議所で開催したという。当時の世情がよくわかる逸話である。後継校である現在の尾道東高校には林 芙美子文学記念碑が建っているとのことである。

    その後の芙美子は良く知られている通り昭和前半の文壇に重きをなし、同時代に活躍した壷井 栄、平林たい子、吉屋信子、宮本百合子達と女流作家の一時代を築いたのである。この中、芙美子と宮本百合子は同じ年、1951(昭和26)年に残念ながら一足早くこの世を去った。宮本百合子については前篇の大津市膳所出身のピアニスト-久野 久-でも触れた。

  • 大津市膳所出身のピアニスト-久野 久-

    T氏のお話にはご自分がまるでその場にいたような臨場感があるので、芙美子とお会いになったのですかと、思わず愚問を発してしまったが、いやいや勉強しただけです、と仰っていた。しかしその日購入した尾道市立図書館の80年記念誌の資料所蔵者や、尾道出身の文学者に同じTさんというお名前があるので、そのご子息かも知れないと今思っている。

    <尾道駅商店街>
    尾道の芙美子ゆかりの地は千光寺山麓だけではない。地図や案内ビラを見ると、尾道駅近くの商店街に芙美子のブロンズ像や、芙美子一家の旧居が残る喫茶「芙美子」があるというので、文学記念室を辞した後、千光寺山麓から尾道駅の商店街までブラブラ歩いてみた。

    尾道駅の広場から少し東へ行った国道2号線沿いの、商店街への入口に、しゃがんだ姿の芙美子のブロンズ像がある。台座にはやはり放浪記の、「海が見えた 海が見える 五年振りに見る 尾道の海は 懐かしい」の一節が刻んである。1984(昭和59)年の建立である。なかなか凛々しい顔なので本人も喜んでいるのではないか、などと思った。

    Bronzkissa

    商店街のアーケードに入ると、すぐ右側に喫茶芙美子というお店があり、林 芙美子旧宅公開中という看板が出ているので入ってみた。京都でいえばウナギの寝床風のお店で、店の小庭の奥に2階建ての一棟があり林 芙美子の部屋と案内標識が出ている。

    コーヒーを頂いた後、マスターに見学してよいかと聞いたら、どうぞとのことで覗かせて貰った。入口に「林 芙美子ゆかりの家」の看板があり、大正6年14歳の時公営渡船付近より当家2階に移住す、とある。80年記念誌の年表には、1917(大正6)年頃の居所は土堂町本通り宮地醤油店2階間借りとあるから、ここのことらしい。芙美子が第二尾道尋常小学校6年生の頃である。

    古い木造の階段で2階に上がって見ると、狭い6畳一間にレトロな机と火鉢が置いてある。一家3人がこの部屋で一つ布団に寝泊まりしたのであろうから、当時は机などは無縁だったろうと思うが、それでもこの当時から小林先生が芙美子の文才を認めて、さまざまな本を貸してくれたので、行商から帰る両親を近くの陸橋で待ちながら読みふけっていたらしい。

    Fumikoheya1

    このお店のママは、林 芙美子といえば森光子さんの放浪記の芙美子のイメージが浸透しているので、芙美子トップというホームページを出して、林 芙美子の新しいイメージを尾道から発信する活動をされているそうである。

    <芙美子は滋賀県大津市に来たか?>
    滋賀県大津市の在住者としては、林 芙美子は滋賀県を訪れたことがあるのだろうかと、ふと思った。我家にある短編集の「牡蠣(かき)」は自伝ではなく、周吉という袋物職人が主人公であるが、一緒になったたまという女性を連れて郷里の四国高松へ帰る途中で、琵琶湖を見たいというたまの言葉で大津で下車する場面がある。

    大津界隈の様子や、泊まった浜大津の宿屋の様子も、当時はその通りと思える雰囲気に描写してあるので、おそらく芙美子は大津で降りて浜大津まで行って泊まったことがあるように思える。浜大津に林 芙美子御泊まりの宿があるなどは聞いたことが無いので、詮索しても無駄であろうとは思うが。

    その一節である。

    「周吉はふと考えついて、黄昏ではあったが大津で下車することにした。千葉の蘇我と云う町に産れて、日常海を見つけているたまにも、湖が海のように広いと云って不思議がっては喜んでいる。大津では駅へ荷物を一時預けにして、バスに乗って浜大津という処まで行って泊まった。

    宿屋の前を、年寄り達の京参りの団体が疲れたようにぞろぞろ歩いている。どこの店でも小石に似た菓子を売っていた。浜大津で泊まった周吉達の宿屋は、天井も柱も紅殻(べんがら)色に黒ずんでいて、縮緬屋だの薬屋だのの泊まる商人宿であった。」

    この短編は昭和初期の作品と思われ、私が時々京都から浜大津に遊びに行った昭和30年代から1965(昭和40)年頃までは、確かにこのような雰囲気が浜大津にあったが、今は全く寂れてしまっている。小石に似た菓子というのは良く分からないが、昔の走井餅かもしれない。

  • |

    « 大津市膳所出身のピアニスト-久野 久- | Main | オカメインコの回想 »

    Comments

    The comments to this entry are closed.