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2008.03.26

大津市膳所出身のピアニスト-久野 久-

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    小石川伝通院に眠る久野 久

京都からJRびわこ線で東に向かい、東山、逢坂山の二つのトンネルを抜けると、大津、次が膳所(ぜぜ)である。車窓から琵琶湖が見える美しい地域であり、沿線には滋賀県庁や膳所藩の藩校「遵義堂」の流れを汲む膳所高校などがあり、滋賀県の行政や文教の中心地である。

ここ膳所の地からは、明治から大正にかけて日本を代表するピアニストとして活躍した久野 久(くの ひさ)と、このウェブログ「杉浦重剛誕生の地-大津市膳所-」で触れた教育家、杉浦重剛(すぎうらしげたけ)が輩出している。

  • 杉浦重剛誕生の地-大津市膳所-

    大津市膳所生まれの2人のお墓が、奇しくも同じ東京小石川の伝通院の墓地にある。冒頭写真のように、久野 久の墓碑には同時期の美術学校生だった彫刻家朝倉文夫によるハープをかたどった石碑が刻まれている。

    <久野 久のこと>
    久野 久(くの ひさ)のことは、中村紘子さんの名エッセイ「ピアニストという蛮族がいる」でその存在を知った。中村紘子さんのエッセイが出たのは1992年(平成4年)であるから、かれこれ15年ほど前に大津市内の本屋で見つけて買って読み、久野 久という、大津の膳所で生まれ最後はウィーンで自殺した日本のピアニストの先駆者に強い印象をもっていた。

    中村紘子さんのエッセイから、久野 久に実際にピアノを習ったことのある作家宮本百合子が、女性解放の文学の最高傑作といわれる「道標」に彼女を描いているということも知った。

    宮本百合子が戦時の獄中時代に罹った熱射病の後遺症を抱えながら、1947-1950(昭和22-25)年に完成させた「道標」の、第二部に久野 久は川辺みさ子という名前で登場し、宮本百合子自身は伸子という名前で登場している。「道標」完結3ヵ月後の1951(昭和26)年1月に宮本百合子はこの世を去った。

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       中村紘子              宮本百合子
    ピアニストという蛮族がいる     道標 第二部

    大津市に住んでいるということもあって、ずっと久野 久のことには関心があったので、15年ぶりに「ピアニストという蛮族がいる」と「道標」を読み返し、大津市出身のピアニストの生涯やゆかりの地を追ってみることとした。

    <誕生の地-膳所の町->
    中村エッセイには、久野 久は1886(明治19)年に滋賀県大津市馬場町に、近江商人の血をひいた裕福な質屋の3人兄妹の末娘として生まれたとある。JR膳所(ぜぜ)駅があり、今は大津市であるが当時は膳所町であった。近くには松尾芭蕉が自分が死んだらここに葬るようにと遺言した義仲寺(ぎちゅうじ)がある。琵琶湖が直ぐ近くにあり、久の時代には埋立もされてなかったろうから、湖畔の町であった。

    江戸時代までは膳所藩のお膝元で近くに琵琶湖に浮かぶ名城で有名な膳所城もあったし、大津の石場港と草津の矢橋港の間は東海道を上り下りする旅人を運ぶ船が行き来して、賑わった所である。久の生まれた馬場には旧東海道が通っており、義仲寺もその街道沿いに今も残っている。

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         松尾芭蕉の眠る義仲寺          馬場1丁目の旧東海道

    久は幼少の頃、近所の平野神社の石段から転落して怪我をしたがその処置が悪く、生涯足が不自由となる不幸を背負ったという。馬場から平野神社までは、旧東海道を平野商店街を抜けて京阪電車の石坂線の踏切を渡り、街道から少し入ればものの10分くらいしかかからない。

    平野神社の由緒は古く、平野大明神とは仁徳天皇のことであると由緒略記に記してあり、天智天皇が近江大津京を開いた667(天智7)年に藤原鎌足が創建したとある。参道の入口にある鳥居の下に急な石段があるので、幼い久はここで転んだのかもしれないなどと想像した。

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     久が転んだかも知れない参道の石段          平野神社本殿

    <邦楽の師範から洋楽へ転向>
    さらに不幸なことに、久が未だ小さい間に両親ともに亡くなり、兄とともに京都の叔父に引き取られたという。叔父は障害を負った久の自活のため、琴、三味線、長唄など邦楽を身につけさせようとした。ここで久は才能を発揮し、13歳の頃には師範の免状を許されるほど上達する。人一倍集中力や熱意のある性格だったらしい。(注:しかし後日談に述べるように、幼いときに両親とも亡くなったというのは間違いで、父君は明治44年まで存命されていた。)

    しかし東京帝大に入学した兄は、当時の因循姑息な邦楽の世界で久が自活できるとは思わなかったらしく、才能のある妹に伝統や因習のない洋楽を学ばせようとして、1901(明治34)年に15歳で東京音楽学校に入学させた。今なら15歳で洋楽に転向するなど発想も湧かないと思うが、日本の洋楽の黎明期でありそういう時代であったとしか言いようがない。

    久の才能と熱意と血の滲む努力が、現代なら不可能としか思えないピアニストへの転向を可能にし、1906(明治39)年に同校を優等の成績で卒業して翌年から助手を務め、1910(明治43)年には助教授になる。ピアノを始めて僅か9年、23歳で日本の官立音楽学校のエースとなって弟子入り志願者が押しかけるようになった。兄の予感がズバリ的中したわけである。

    <成功と暗転>
    1899(明治32)年生まれの宮本百合子が久にピアノを習ったのはこの頃である。「道標」の伸子の追憶から、百合子が10歳の時から5年ほど久にピアノを習ったことが分かる。そして百合子が16になる前の冬に、久が指をひょうそうで痛め4ヶ月稽古が休みになったが、百合子はこの間に小説を書くことに目覚めピアノから離れたという。

    順風満帆になったかに見えた久であったが、1914(大正3)年に交通事故に遭って頭を手術するという不運が見舞った。しかし何とか復帰して3年後、30歳で東京音楽学校の教授に昇進する。1918(大正7)年には「ベートーベンの午后」と題してベートーベンの作品だけによるピアノリサイタルを同校の奏楽堂で開き、ベートーベンの大家としての不動の名声を得たという。

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      奏楽堂(昭和62年上野公園に移築)     久がリサイタルを開いたホール

    日本女性としても当時の官立学校の教授という高い地位についた久であったが、「道標」の伸子、すなわち宮本百合子は、交通事故以来、久が少し誇大妄想に陥ったことを心ひそかに恐れていたらしい。久は日本のピアニストである自分の芸術で世界の音楽界を揺さぶって見せると語り、1923(大正12)年に渡欧する決断をする。

    百合子は、久の天才主義と相容れない自分のこころもちとの葛藤の中で、久の旅立ちの訣別演奏会をはらはらした思いで聴いたという。渡欧後半年たつかたたない頃、久に対するコンセルバトワールの教授の評価が芳しくなかったとか、運指法の誤りが指摘されたとかの話が、噂として百合子のもとに届く。

    それから程ない1925(大正14)年の春、ウィーンの下宿の窓から久が身を投げ自殺したというニュースを「道標」の伸子、すなわち百合子は新聞で見て、吸い込んだ息がはきどころのないように胸をつまらせ、誰に向ってもがんこに口をつぐみつづけたという。久の投身は実際はヘルツホフホテルの屋上からだったらしい。享年38歳であった。

    <黎明期の日本人音楽家の苦悩>
    考えても見給え。明治から大正の西欧文化摂取の時代にあって、その文化の真髄ともいうべき西洋音楽を日本人がマスターするということは、今の時代では到底想像もできない大事業であったに違いない。中村エッセイには、日本最初のピアニストとして幸田露伴の妹、延(のぶ)が登場しているが、女流探検家と表現されている。

    幸田 延は久より16歳年長で、久が未だ3つだった1889(明治22)年に音楽界からの官費留学生第1号として渡米、さらに渡欧して西洋音楽を学び、5年後に帰国して東京音楽学校の首席教授になった。その門下から、滝廉太郎、三浦環、そして久野 久たちが誕生する。

    しかし幸田 延自身はお国のために音楽を学ぶとともに、自立した女性としての生き方も身につけたのであるが、当時の男尊女卑の日本の社会がそれを許容できるはずがなく、周囲やマスコミと文化摩擦を起こしたことは想像に難くない。結局、延は誹謗中傷の中で1909(明治42)年に音楽学校を去る。その後を継いだのが久野 久であった。

    しかし久は延のように留学したわけではなく、中村エッセイの表現によれば純国産ピアニスト第1号であったので、自分の音楽の実力の位置づけは延よりもさらに把握が難しかったに違いない。聴衆のレベルにしてもヨーロッパの聴衆とは天と地の開きがあったろうから、渡欧後の久にかかる重圧は計り知れなかっただろうと思うのである。

    <久野 久に捧ぐリサイタルを開いた後進ピアニスト>
    と、概観すれば西洋文明摂取時代の悲劇の戦士のような像が浮かぶ久野 久の生涯であるが、彼女の一途な純粋さや、強さと弱さに魅かれた東京藝術大学出身の後進ピアニストがおられ、1998(平成10)年3月に久野 久さんに捧げるリサイタルを開かれたことをオフィシャルウェブサイトから知った。

    現在世界で幅広く活躍されているピアニストの志村 泉さんで、80年前の1918(大正7)年に久野 久が「ベートーベンの午后」を開いたと同じ、今は上野に移築されている旧東京音楽学校奏楽堂で、ベートーベンの悲愴、月光、熱情の三大ソナタの演奏会を2夜に渡って開かれたそうである。

    このリサイタルのオリジナルCDが、ムジカ音楽・教育・文化研究所から市販されていることが分かったので、早速購入して拝聴した。悲愴、月光、熱情の演奏の合間に、久野 久さんへの手紙という志村 泉さんの朗読がある。

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         久野 久に捧ぐ 志村 泉           久野 久さんへの手紙

    「私は貴女のことを文明開化の犠牲者のようには思いたくありません。たとえ時代の状況や進んだ国から見ての音楽のレベルはどうであろうとも、貴女自身は確かにベートーベンと出逢っていた、と思うからです。」という、大変心のこもったメッセージである。奏楽堂で演奏と朗読を実際に聴いた人には特別な感動を与えたことであろう。

    志村泉さんのウェブサイトには、「私は何故か、会ったこともない久野久が好きです。好きだからかもしれないけれど、きっと久野久は、ピアノが弾けてほんとうに良かったと思っていると思う。そうではありませんか?久野久さん。」とある。中村エッセイとは全く違う視点から、久野 久を見つめていたピアニストがいたことがわかり、滋賀県在住者としてはどこかほっとした気持ちになった。

    因みに我家には鍵盤上の獅子王とか、20世紀最大のピアニストと謳われたウィルヘルム・バックハウスの、モノラル録音ではあるが、この三大ピアノソナタのCDがある。バックハウスの誕生年を見ると1884年であり、1886年生れの久野 久と二つしか違わないことに驚く。まさに当時の西洋音楽における日欧の落差が歴然と見えるようである。

    <故郷大津での痕跡の地>
    中村エッセイには、久が京都へ移ってからは大津には久野家の痕跡は途絶えたが、大津月見坂の共同墓地内にある久野家の墓所を守る墓守一家だけが辛うじて久野家と大津との縁をつないでいる、とある。その時からさらに15年経過しているのであるが、2008年3月8日に月見坂の墓地を探訪してみた。(注:後日談に述べるように、久が京都へ移った後、久野家の痕跡は途絶えたというのは間違いで、明治43年の滋賀県資産家一覧に久野氏は記載されているという。)

    JR大津駅から滋賀県庁方面へ行く道に1本の小川があるが、古の時代、京都から東国へ下る人たちが通る道であったので吾妻川(吾嬬川)といい、その右手に月見坂という地区がある。鎌倉時代末期の1308年に即位した花園天皇がここで月見をしたことに由来があるらしい。

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        月見坂入口のお地蔵さん           吾妻川、右手が滋賀県庁

    この月見坂の東側に墓地があるが、現在は月見山墓地という名前になっている。今はJRびわこ線の線路越しにビジネスホテルが建っており、とても月見ができるような雰囲気ではない。運良く墓守の女性が居られたのでお話を聞くことが出来た。以前は月見坂墓地といってましたが、私が月見山に変えたのですよ、と仰る。中村紘子さんのエッセイを読んで、有名な音楽家も時折訪問されることがあるらしい。

    久野 久さんをご存知なのですかとお尋ねしたら、私は存じませんが母が存じていて、久さん、久さんと言ってましたよ、とのお返事であった。この墓守のお家は元は線路の反対側にあったお寺さんであったが、今は墓地のみをお守りしているとのこと。以前は自宅の敷地を通ってお墓に参ってもらったが、私費で参道を作られたらしい。

    久野家のお墓は全て東京に移されたので、今はここではお祀りしていませんと仰っていた。ただこの墓地にはそのような無縁になった墓標が集められて安置されてあり、その中に久野・・(おそらく久野家代々墓)と彫られた明治41年建立の墓標があったので、これが久野家のご先祖を祀っていた墓標であるらしかった。

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          大津市の月見山墓地             明治41年建立とある

    久野 久が京都にいかず、もし大津にいたら馬場にある現在の平野小学校に通っていたと思われるが、この墓守の女性は平野小学校のご出身で、久が石段で転んだ平野神社さんとは同級生でしたよ、とも仰っていた。平野小学校は1876年(明治9年)に設立が遡る名門小学校で、ホームページも充実しているが、久野 久のことは出ていない。

    <近江の女性>
    同じ膳所出身の杉浦重剛の史蹟は地元にあるが、久野 久の史蹟が滋賀県や大津市にないことを少し残念に思いウェブ検索してみた。やはり史蹟はないようであるが、(財)滋賀県文化振興事業団が発行している「湖国と文化」誌の1998(平成10)年春号(83号)に、近江の女性シリーズの一環として「ピアニスト 久野 久」が取り上げられていた。奇しくも志村 泉さんが久野 久に捧ぐリサイタルを開かれた時と同じ頃の発行である。

    執筆者は、女性と滋賀の風土にこだわって小説を書き続けておられるという滋賀在住作家の畑 裕子さんである。ドイツ滞在時代に、久の留学先のウィーンを訪れて感慨にふけったことや、久が聴いたであろうウィーンの辻音楽師の演奏ぶりを交えて一文を寄せておられる。平野神社や月見山墓地の久野家の墓標の写真も添えられている。

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        湖国と文化     徳永拓美氏の挿絵

    この寄稿文には、やはり滋賀県在住で甲賀市にお住まいではないかと拝察する徳永拓美さんが、和服姿の久野 久がピアノを弾いている姿を軽妙なタッチで挿絵にしておられる。久の生涯からは悲壮な雰囲気を想像しがちであるが、この挿絵はむしろ久が演奏を楽しんでいるように見え、とても良い。

    <ピアニスト(という蛮族?)に栄光あれ!>
    音楽の世界はオリンピックではないものの、やはり日本のピアニストや音楽家が西洋音楽の本場、ヨーロッパのコンクールで入賞したというニュースを聞くと、日本人として血が沸き立つ思いがする。自分ではピアノは弾けないから、右手指、左手指、さらには足を自在に動かして名曲を奏でるピアニストは、ずっと尊敬の的であった。

    久野 久の時代とは違い、現代では、音楽に理解のある家庭で赤ん坊の頃から音楽に親しみ、3、4歳頃からピアノを始め、才能を自覚した人たちがピアニストへの道を歩まれるのであろう。桐朋学園や藝大、音大等の音楽関係の教育機関へ進んで専門家としての修行を積まれるのが殆どのケースと思う。

    昔、ご近所だったので存じているのであるが、そのような道を歩まず独学で国際的なピアニストになった方もおられる(大井浩明さん)。ピアニスト(という蛮族?)たちに栄光あれ!と祈る。

    <後日談:久野 久を後世に正確に伝えようとする人がいた!>
    滋賀県大津市に住むようになったので、その大津市の出身であるという理由で久野 久に関心を持ち、その足跡を追ってみたが、世間にはもっと大きな理由から、久野 久を追っていた方がおられた。

    この記事を発信した後の2009年10月25日に、近代日本の音楽史を勉強していると仰る原田 稔氏から、「ピアニストという蛮族がいる」の久野久子伝は誤伝がそのまま載っていて、客観的な久野久子像になっていないので、その誤伝を正したいと考えて、「熱情」の使徒は二度甦る-私本・久野久子伝-という本を個人出版されたことをお知らせ頂いた。(注:久野 久は久野 久子と呼ばれることもあった。)

      原田 稔氏著作Harada
    早速この本を読ませて頂いたところ、久野 久の両親が久の小さい頃に亡くなったというのは間違いで、父君は明治44年まで存命されていたことや、明治43年の滋賀県の資産家一覧にも久野氏が出ているので、久が京都へ移ってから大津に久野家の痕跡が途絶えたというのも間違いで、久は決して一家が離散したような不幸な生い立ちではなかったことが明らかになった。

    原田氏も大津市ご出身であり、同郷の久野 久が中村エッセイに取り上げられたことを最初は喜んだが、あまりにも事実誤認が多いことやそれ以前の誤伝に基いていることに驚かれたという。このエッセイが影響力も大きいことに危惧を抱かれ、近代音楽史の立場から詳細な事実調査をされ、久野 久の像を後世に正確に伝えようとされている。中村エッセイや道標の記述の裏付を丹念にフォローされ、史実を精査されていることに感服した。

    「熱情」の使徒は二度蘇る、という表題は、ベートーベンの熱情ソナタの名手と謳われた久が、東京音楽学校の助教授になって世間に認められていった時期と、交通事故に遭って再起不能かと思われたのに復帰して同校の教授になり、ベートーベンの午后を開いて不動の名声を得たことを指しているように思える。

    志村 泉さんと同様、我が大津市出身の久野 久を、単に不幸な一生を送ったピアニストという視点ではなく、近代音楽史の上での先駆者であり、貢献者であるという視点から、正確に後世に伝えようとするこの本は、久野 久の地道な研究を行っている専門の音楽学者にも注目されているとのことである。

    久野 久と同じ大津市膳所出身の杉浦重剛も、前述のウェブログ「杉浦重剛誕生の地-大津市膳所-」で触れたように、戦後のアメリカの占領政策により重剛の唱えている日本主義が誤解されたので、そのことを残念に思い、昭和50年代に入って、正しい杉浦重剛像を伝えようとされた膳所小学校の関係者がおられたことを思い出した。


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