« 湖南の瀬田川界隈 | Main | 大津市膳所出身のピアニスト-久野 久- »

2008.01.27

続・新幹線の車窓から

Nagaragawayuhi_2(クリックで拡大)
          夕暮れの長良川と養老の山並(新幹線A席車窓から)

以前のウェブログ「新幹線の車窓から」で、京都-東京間の新幹線車窓風景に触れた。その後も相変わらず京都-東京間の出張が多く、気が向くと車窓風景を撮っているうちに、前回はあまり触れなかったA席からの風景や、天気の良い日の富士の写真もたまったので、続編と洒落込んだ。

  • 新幹線の車窓から
  • <A席新幹線の車窓>
    新幹線のA席は、本来なら名古屋-東京間は海側の景色を望める位置であるがあまり人気がない。3人掛けの一番奥で通路へ出にくいということと、新幹線が少し内陸を走るので海があまり見えないためであろう。また季節によっては、直射日光が入る側ということも有るかもしれない。

    新幹線の窓側の席を予約すると、JRはまずE席から埋めていき、次いでA席を埋めていくそうである。つまり、どちらかというと伊吹山や富士山が見える山側のE席が人気のようである。しかし山側のE席からしか見えないと思っている伊吹山や富士山も海側のA席から見えるポイントがある。

    また浜名湖の弁天島の鳥居や小田原城はA席からしか見えない。しかもごく短時間しか見えないので、疾走する新幹線から撮影するにはシャッターチャンスを合わせるのが難しく、気に入った写真がなかなか得られない。最近はJR東海エクスプレスカードのグリーンサービスで、2人掛けのA席も利用し易くなったので、これらの難物を撮るのも一興である。

    <大ムカデ伝説の三上山(近江富士)>
    京都を出てA席の車窓から最初に出くわす大物は、滋賀県野洲市の三上山である。俵藤太秀郷が三上山を七巻半巻いた大ムカデを退治したという伝説の山である。三上山のことや俵藤太秀郷のことは、このウェブログの「近江富士」、「小山評定」、「大津市に残る壬申の乱伝承の地」、「湖南の瀬田川界隈」などで触れた。

  • 近江富士  小山評定  大津市に残る壬申の乱伝承の地   湖南の瀬田川界隈

    Mikamiyama_3(クリックで拡大)
         大ムカデ伝説の三上山(新幹線A席)

    三上山のある湖東平野は、667年に天智天皇が開いた近江大津京(志賀の都)と関係が深く、額田王と大海人皇子が恋の歌を詠んだという蒲生野や、近江大津京で活躍した鬼室集斯や餘自信たち百済人ゆかりの百済寺、石塔寺、鬼室神社等の社寺がある。このウェブログ「湖東の額田王ゆかりの地」、「湖東の渡来人」、「湖東の渡来人:鬼室集斯のこと」でも触れた。

  • 湖東の額田王ゆかりの地   湖東の渡来人  湖東の渡来人:鬼室集斯のこと
  • <A席から伊吹山を見る!>
    湖東平野の終点は滋賀県米原である。のぞみだと米原駅をあっという間に過ぎて、やがて左手に伊吹山が現れてくるものと思うのであるが、実は米原駅通過時点では、静岡駅手前の右富士と同じように、伊吹山は右手に見えるのである。米原に停車するひかりだと、A席から右手に伊吹山をじっくり見ることが出来る。

    Ibukiyama_2(クリックで拡大)
      雪に覆われた伊吹山(米原駅A席から)

    伊吹山には京都の小6の時に登った。1953(昭和28)年の夏であったから、もちろん新幹線はなく、東海道本線も電化されてなく、東山、逢坂山の2トンネルを煙にむせて抜け、近江長岡で降りたのであろう。仮眠後、夜を徹して登り、頂上から見た眼前の景色は今でもありありと思い出す。誰かが「雲の雲海や!」と言ったので大笑いとなり、その発言者はその後大分いじめられた?ような記憶がある。

    <お酒が湧き出た養老山地>
    伊吹山を境に岐阜県に入り、関ヶ原を過ぎるとA席の車窓には養老山地の秀麗な姿が現れる。養老山地は濃尾平野の西端であり、1980(昭和55)年頃の大垣市在住の時には、養老の滝や養老公園の岐阜県こどもの国に一家で遊びに行ったので懐かしい。山並の姿が独特でA席新幹線からのお薦めの眺望である。

    Yorosanchi
      朝の日差しに映える養老山地 (2007年3月19日) 夕暮れの養老山地

    養老の水が実はお酒だったという伝説は前編でも触れたが、古今著聞集には、孝行息子が瓢箪に汲んだ水を飲んで老父が若返ったという噂を聞いた、奈良の都の元正(げんしょう)天皇がこの地に行幸し、膚は滑らかになり、痛む所も治ったことから、717年に年号を養老と改めたという話が出ているらしい。養老公園の土産物屋は瓢箪で鈴なりであったことを思い出す。

    <治水の歴史に残る木曽三川>
    大垣を過ぎると名古屋までに、揖斐、長良、木曽の木曽三川の鉄橋を渡る。A席からはどこからも養老の山並が一緒に見え、下の写真に示したように揖斐川では近くに、木曽川でははるか遠くに養老山地が見える。冒頭写真も早春の雪解水で増水した長良川から養老山地を望んだ光景である。

    Ibikiso
          揖斐川と養老山地  (新幹線A席から)  木曽川と養老山地

    前編でも触れたように揖斐川と長良川は、現在は下流の三重県長島町あたりで合流して伊勢湾に注ぐ。1753(宝暦3)年頃、その手前の岐阜県海津町で揖斐、長良、木曽の氾濫を防ぐための壮絶な堤防作りが、江戸幕府の命により縁もゆかりもない薩摩藩士の手で行われた。その堤防は現在千本松原と呼ばれ、木曽三川公園となっている。

    宝暦治水と呼ばれるこの事業を作家の杉村苑子氏が取り上げてデビュー作「孤愁の岸」として刊行し、第48回直木賞を受賞した。大垣在住の頃と、この本を読んでからの2度、薩摩藩家老平田靭負(ゆきえ)を祀る治水神社や薩摩藩士の慰霊碑を訪問し、このウェブログ「木曽三川-宝暦治水の地再訪」で触れた。

  • 木曽三川-宝暦治水の地再訪-
  • <秀吉・家康ゆかりの三河地方>
    新幹線は名古屋を出て三河地方に入り、三河安城を通過すると直ぐ矢作川を渡る。岡崎市内でこの川にかかる矢作橋が、日吉丸(豊臣秀吉の幼名)と蜂須賀小六正勝の出会いの橋という伝説があり銅像もあるが、実際には、矢作橋が架けられた1601年には秀吉は幼少どころか既に亡くなっているため、この話は作り話であるらしい、とウィキペディアに出ている。

    Yahagimikawa
         秀吉と小六ゆかりの矢作川          三河湾と浮かぶ島影

    三河は徳川家康の出身地でもある。家康は1542(天文7)年に三河岡崎城主の嫡子として生まれ、隣国の織田、今川氏の人質として苦労したが、1560(永禄3)年に織田信長が今川義元を桶狭間で破った時に、晴れて岡崎城主になり三河の主になった。徳川300年の世を築く端緒となった地として家康には縁が深い地である。

    新幹線はさらに南下し蒲郡あたりでかなり三河湾に接近して走るので、海側のA席から良く見ていると三河湾と三河湾に浮かぶ島影を見ることができる。しかし海面と線路の高低差があまりないので、あ、海が見える!というような感激には乏しい。

    <浜名湖に浮かぶ弁天島の鳥居>
    三河地方を過ぎると豊橋を経て浜名湖である。前編でもE席からの美しい眺望に触れたが、A席車窓からの浜名湖は、眼下に東海道在来線の上下線鉄橋を見、その向こうに国道1号線浜名バイパス浜名大橋の美しいアーチを望むという、東海道新幹線の中でも屈指の眺望ポイントである。浜名大橋の先は遠州灘である。

    Hamanako
          A席車窓からの浜名湖             弁天島の鳥居

    A席車窓から良く見ていると、新幹線と並行して走る在来線の向こうの湖水中に、チラッと紅い鳥居が建っているのが見える。一瞬で建物の蔭に隠れるので見落とすことも多いが、浜松市舞阪にある弁天島の鳥居である。この弁天島は、浜名湖を船が通りやすいように海底を掘った時に出た砂を盛って作った人工島である、とウィキペディアには出ている。

    鳥居は弁天島内にある弁天神社に由来するともある。弁天様は海難避けや豊漁を祈願する漁師たちの守り神として、日本各地の小島に祀られて来たので、ここも人工の島が出来た時に水の神である弁天様を祀ったのであろう。ただこの鳥居は観光のシンボルとして観光協会が立てたハリボテであると書いたウェブもあるが、真偽のほどは知らない。

    <つま恋の掛川・容易に越せそうな大井川>
    浜名湖からは東西に長い静岡県の旅となる。静岡県の通過では茶畑の美しさが一入であることは前編でも触れたが、A席車窓から茶畑を見ていると掛川付近の茶畑の中に、「つま恋」と書かれた看板が立っているのに気づく。ご存知吉田拓郎やかぐや姫のポプコンで一躍有名になったヤマハリゾートの看板で、ヘッドホーンをあしらったヤマハのトレードマークもついている。

    つま恋という地名は、平安時代に橘為仲が掛川市の小夜の中山で詠んだとされる「たびねする 小夜の中山さよ中に 鹿ぞ鳴くなる 妻や恋しき」の歌から名付けられたという。群馬県にも嬬(つま)恋村があるが、こちらはつま恋である。掛川駅を通過して牧の原トンネルをくぐると大井川鉄橋にさしかかる。

    Tsumakoiooi
        つま恋の看板のある茶畑            水量が少ない大井川

    掛川と静岡間に位置する大井川は、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と歌にも詠まれ、川越人足に頼らないと越せない川であったのに、新幹線から見ると水量は少なく、そのような面影のない川に見えるので不思議に思ったことは前編でも触れた。写真のようにA席から下流を見ても水量はしれている。

    ウィキペディアにはこの間の事情が詳述されている。1961年までのダム建設で大井川の流水がことごとく取水され、下流の大井川は全く流水が途絶し、景勝地にも全く水が流れなくなった。往時は平均水深76cmあったといわれる大井川の面影は全く無くなって賽の河原となり、流域住民による大井川の「水返せ運動」が始まったとある。

    その後45年間に渡る住民と電力会社の交渉により放流量が徐々に増加され、大井川の無水区間は解消し流水は復活した。しかし無水区間が回復しただけであって、歌に詠まれたような水量の多い大井川に戻ったわけではない。かつての大井川復活にはまだ道半ばであるという。歌との違和感の裏にはこのような事情があったわけである。

    <A席から富士山を見る!>
    大井川を過ぎて日本坂トンネルを抜けると、新幹線は若干北向きに進路をとる。静岡手前の安倍川までのごく短い間に注意して見ていると、A席車窓から富士山が見えるのである。関西から東京に向う場合は右手になるから右富士と呼んで、これが見えたらビジネスがうまく行くとゲンを担ぐ人もいるようである。

    Migifuji1_2
              A席車窓からの右富士

    写真は2007年11月14日に撮った右富士である。春夏の時期は富士山は殆ど見えないから居眠りをしていても良いが、秋から冬にかけての晴れた日に関西から新幹線A席で東京に向う時には、日本坂トンネルを抜けたら顔を窓にくっつけて右富士を探すことをお薦めする。

    <徳川家康が命名した安倍川もち>
    安倍川を渡ると静岡に入り、右手に日本平の丘陵が見えてくる。東照大権現という神様になった徳川家康を祀る全国の東照宮の元祖である久能山東照宮や、弥生時代の遺跡である登呂遺跡が付近にあり、京都の中学校時代、修学旅行で訪れた記憶がある。ところで、安倍川といえば我家は安倍川もちのファンなので、東京駅の売店や車内販売で良く買って帰る。

    ウィキペディアには、江戸時代初期に安倍川の近くで徳川家康が茶店に立ち寄ったところ、そこの店主がきな粉を安倍川上流で取れる砂金に見立てて、つきたての餅にまぶして「金な粉餅」と称して献上したところ、喜んだ家康はこれを安倍川にちなんで安倍川もちと名付けたという伝承がある、と出ている。

    Abekawanihondaira
        安倍川もちの由来の安倍川       新幹線A席からの日本平丘陵地帯

    <沼津海岸の松林、伊豆半島を遠望>
    新幹線は静岡を過ぎると駿河湾沿いに走るのであるが、興津、由比、蒲原の各トンネルをくぐるので海沿いとは全く気がつかない。トンネル地帯を抜けると富士川の鉄橋である。E席ならここから見る富士山が東海道新幹線随一の絶景スポットとなるが、A席からは見えない。

    富士川を渡って新富士駅を過ぎ沼津市に入ったあたりから、A席からは沼津海岸の松林が遠望できる。ウェブで見ると千本浜公園といい、2kmに渡って松林が続き、ここも千本松原と呼ばれているらしい。駿河湾越しに伊豆半島の島影も望め、ここもA席車窓からのお薦めスポットである。

    Numazumatsubayashi_4(クリックで拡大)
             沼津海岸の松林と伊豆半島を望む

    松原は、かつて戦国時代に北条氏との戦いで武田勝頼が切り払ったが、千本山乗運寺の開祖、増誉上人が植えなおし、それが今に至っているとのことである。明治35年には、この地で、千本浜合戦の時の死者の骨が出たという。若山牧水の歌碑や井上靖文学碑等が建てられていて、文学好きにはお奨めとある。

    <A席から海を望む>
    海側を走るA席新幹線ではあるが、なかなか車窓から間近に海を見ることがない。新富士近辺の吉原か田子の浦あたりであろうか駿河湾が少し見えるポイントがあるが、このあたりはJR在来線で海岸の直ぐ傍を通った経験があるので、それから比べると物足りない。

    海だ!と実感できるのは、三島を過ぎ長い新丹那トンネルを抜けた、熱海に入る手前からである。このあたりは新幹線は高地を走っているので在来線越しに相模湾がきれいに見える。また、熱海-小田原間のトンネルの切れ目からも相模湾がきれいに望めるので、この区間は居眠らない方が良い。

    Surugawanatami
        新富士付近からの駿河湾  A席車窓から  熱海駅手前の相模湾  
    Atamiodawara
            熱海-小田原間のトンネルの切れ目から相模湾を望む

    <まぼろしの小田原城>
    東海道新幹線から天守閣が見えるお城は、彦根城、名古屋駅手前の織田信長ゆかりの清洲城、掛川駅傍の山内一豊ゆかりの掛川城と、小田原駅傍の北条早雲ゆかりの小田原城の四つくらいである。清洲城は観光用のもので元の位置とも異なり歴史的な価値はない。最近になって名古屋城も見えることがわかり、前述のウェブログ「新幹線の車窓から」にアップした。

    掛川城は前編でも触れたが、建物は廃城時のものではないものの、材質を含め復元した「復元天守」といわれるもので価値は高い。小田原城は建物は廃城時のものではないが、元の位置に外観 のみ復元した「外観復興天守」である。お城の分類については以前のウェブログ「房総のお城」で触れた。

  • 房総のお城

    小田原城は、元々平安末期には相模国豪族の土肥氏の一族の居館であったが、1416年大森氏が奪い、さらに1495年頃に伊豆国の支配者伊勢盛時(北条早雲)が奪って小田原北条氏の基盤とした。1590(天正18)年、5代目の北条氏政、氏直の時に、豊臣秀吉の小田原征伐により無血開城し、以後は徳川家康の勢力下となった。

    この小田原征伐の時の篭城時に、北条側が和議と抗戦継続をめぐって議論を続けたが、一向に結論が出なかった故事が小田原評定という言葉になって、結論の出ない会議の代名詞になっている。対照的な評定が徳川家康が開いた小山評定であった。

  • 小山評定

    小田原城は、A席車窓からしか見えないが、駅ホームの屋根等が邪魔をして良く見えない。しかし何とかして撮影したいものと思ってトライするが、肉眼でも瞬間しか見えないので、デジカメではシャターのタイミングを合わすのが難しく、未だに気に入った写真は撮れていない。

    Odawarajyo
         A席車窓からの小田原城        A席車窓から後方の小田原城

    病膏肓に入って、小田原城を新幹線から撮るという課題をもったわけであるが、たまたま小田原停車のひかりに乗る機会があった。そこで小田原駅到着寸前に見えた小田原城をタイミング良く撮影したので、やった!と思ったが見事に電柱が邪魔をしていた。デジカメはシャッターを押してから少しズレがあるので難しい。ということで未だまぼろしの小田原城である。

    Odawarajyo2
          電柱に邪魔された小田原城

    <念願かない小田原城の撮影に成功!>
    2011年7月13日の東京出張の際、また小田原停車のひかりのA席に乗ったので、小田原駅手前で今度こそはと車窓を眺めて機会を伺っていたところ、今度は電柱に邪魔されずに小田原城を車窓から撮影することができた。アホらしいこととは知りながら、ささやかな達成感にしばし浸ったことであった。

    Odawarajyo3(クリックで拡大)
            A席新幹線車窓からの小田原城

    <ヤン・ヨーステンゆかりの八重洲>
    小田原を出ると古の相模国から武蔵国へと向い、多摩川を渡るといよいよ終点の東京である。アゴヒゲアザラシのタマちゃんが逗留して全国区となった多摩川は、奥多摩の小河内ダムを経由して流れてくる。奥多摩には1944(昭和19)年から2年間疎開していたので、多摩川と聞くと何となく親しみがある。

    Tamagawayaesu
          A席車窓からの多摩川        ヤン・ヨーステンゆかりの八重洲

    A席新幹線の旅は東京八重洲で終わりを告げる。1600(慶長5)年に豊後に漂着したオランダ船リーフデ号に乗っていたオランダ人ヤン・ヨーステンが、航海長であるイギリス人ウィリアム・アダムス (三浦按針)とともに徳川家康に信任され、江戸に屋敷を貰い日本人と結婚して今の八重洲の地に住んだ。彼の屋敷が東京・八重洲の語源になったという。

    <日本晴れの下、富士山を見る!>
    上述の右富士が見られた2007年11月14日の翌日11月15日も、東京は寒いが雲ひとつない快晴であった。富士山がきれいに見えるだろうと山側の席にして帰途についたところ、予想通り頭に雪を抱いた富士山がずっと姿を見せ続けてくれ、まさに日本晴れに富士山であった。

    こんな機会はそう度々訪れてはくれないので、俄かカメラマンは三島から富士川まで車窓に釘付けであった。肝心の富士川鉄橋からのタイミングが少し遅れ、鉄骨が入ってしまったがまあ我慢することにして、この日の富士の写真を列挙する。

    Misimachabatake
          三島市から望む富士             茶畑に隠れた富士
    Toumeiaitaka
           東名高速道路と富士              愛鷹山と富士
    Sinfujifujigawa1
         新富士駅近辺からの富士         在来線富士川鉄橋と富士

    <車窓から歴史が見える>
    車窓からデジカメで写真を撮っている姿を他人がどう思っているか、あまり気にしないことにしているが、まあ、おのぼりさんか物好きに見えるだろうし、しかもその風景の歴史を思い浮かべて楽しんでいるとなると、変わり者に分類されるかもしれない。

    ところが京都駅の構内書店で、「車窓から歴史が見える 東海道新幹線」という文庫本をみつけ、上には上が居るものと敬意を表して早速購入した。楠戸義昭さんという歴史作家の著書で、元毎日新聞の編集委員の方である。なるほど良くご存知のはずで、東京から新大阪までの東海道新幹線の沿線の歴史を、現地探訪も含めて詳しく書かれている。

    Shasorekishi

    <山陽新幹線の車窓>
    この後、2008.11.8に山陽新幹線の車窓からをアップ゚した。

  • 山陽新幹線の車窓から

  • |

    « 湖南の瀬田川界隈 | Main | 大津市膳所出身のピアニスト-久野 久- »

    Comments

    The comments to this entry are closed.