湖南の瀬田川界隈
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瀬田川越しに湖南アルプス笹間ケ岳を望む(大津市南郷)
2007年7月から京都府京田辺市に通うことになった。滋賀県大津市の我家からは西南方向に位置するので、西行きのJRびわこ線と南行きの近鉄京都線を乗り継いで1時間40分の通勤である。車で行く場合は湖南の瀬田川沿いに大石、宇治田原を経由すれば、三角形の斜辺を通るのと渋滞知らずの田舎道なので1時間で着ける。
瀬田川は、119本の一級河川が流入するマザーレイク(mother lake)琵琶湖から出て行く唯1本の川である。滋賀県内では瀬田川、京都府内では宇治川と呼ばれ、京都府と大阪府の府境で桂川および木津川と合流して淀川になり大阪湾へ注ぐ。河川法上は琵琶湖を出た時点で淀川と呼ぶらしい。
瀬田川沿いに宇治田原へ抜けるこの界隈には、瀬田川峡谷や宇治川ラインの絶景、古の奈良の都と近江を結ぶ歴史街道、それに百人一首でなじみのある歌人や弘法大師ゆかりの地、赤穂義士大石内蔵助一族の菩提寺などがある。通勤のためにわき目もふらず通過するだけではもったいない地域であり、晩秋の休日にこの界隈を巡ってみた。
瀬田川は、JRびわこ線鉄橋の250mほど上流から始まるのであるが、南郷洗堰までの約5kmは一見琵琶湖が連続しているように見える。このウェブログの「大津市に残る壬申の乱伝承の地」で触れた瀬田の唐橋はこの区間にある。川らしくなるのは南郷の洗堰を過ぎてからである。今回は南郷洗堰を起点として瀬田川沿いを下っていくことにする。
<南郷洗堰>
南郷洗堰から琵琶湖方面を望む 南郷洗堰のゲート(ここから川らしくなる)
南郷洗堰は102年前の1905(明治38)年に築造され、人力による琵琶湖の水位調節が可能になって淀川水系の水害防止に貢献し、1961(昭和36)年には電動遠隔操作の可能な新洗堰が完成した。洗堰の東岸に工事事務所や旧洗堰の遺構があり、西岸には南郷公園がある。1950年代、京都の小学校時代に南郷公園に遠足に来たことを思い出す。
ゲートは現在鋼材製のものが10門あるが、昭和36年までは木製ゲートが32門あって人力で開閉したという。1972(昭和47)年度からの琵琶湖総合開発事業による都市用水供給の実施で水位低下が起きるようになり、正確な放流が困難になったので、1992(平成4)年には微小流量調整のできるバイパス水路もできた。
南郷洗堰を後にして瀬田川の右岸沿いを南下すると、冒頭写真に掲げたように対岸の関津方面に、湖南アルプスの一角を占める笹間ケ岳(433m)の優美な姿が望める。瀬田川はこのあたりからやや右へカーブして川幅も狭くなり、それまでの穏やかな水面から、カヌー競技が行われる瀬田川峡谷に入っていく。
<立木観音>
峡谷ゾーンに入って暫く道なりに走ると、立木観音の参道入口に達する。道沿いに細長いがかなりの台数が収容できる駐車場もあって、滋賀県で最も賑わいを見せる厄除け観音である。正月は初詣客で交通渋滞となり近寄りがたい。毎月17日に縁日があり、滋賀県はもとより京都からも多数の厄年を迎えた善男善女が月参りをするという。
人気の秘密は、815(弘仁6)年に42歳の厄年だった弘法大師がこの対岸に立ち寄った際、立木山に光を放つ霊木があるのを見つけ渡河しようとしたところ、白鹿が現れて大師を背に乗せて霊木まで導き、観世音菩薩に化して消えたので、弘法大師が霊木に観世音菩薩を刻んで人々の危難を救うことを祈念したという縁起から、厄除けの観音として親しまれているということらしい。
ただし立木観音が安置されている本堂へ行くのはちょっとした登山である。約700段の結構急な石段を登って行くので、日頃の不摂生がたたって途中で引き返すことにもなりかねないが、参道には旅姿の弘法大師の銅像やお地蔵さんがあったり、(あと)三丁や二丁と彫った道標もあったりして、年配者も休み休み行けるようになっている。
立木観世音本堂 白鹿に乗った空海(弘法大師)
急な階段が続く参道入口 弘法大師の旅姿
随所に信者の作になると思われる和歌や俳句を刻んだ石碑が建ち、初孫の手を引いて一段一段登ったという歌もある。石段を登る人と降りる人がお互いに挨拶を交わし、何となく信仰心が感じられて爽やかな気持ちになる。立木観世音縁起には、弘法大師はこの後紀州高野山を開いたので、當山を元高野山と云ふ、ともある。
<鹿跳橋>
立木観音から再び瀬田川に沿って走ると直ぐにT字路があり、右岸を直進すれば宇治方面へ向う3号線となり、左折して橋を渡ると大石から信楽方面へ向う422号線となる。この橋が、立木観世音縁起で弘法大師を乗せた鹿が渡ったという伝説の場所にかけられた鹿跳(ししとび)橋である。
鹿跳橋の下流は広い河川敷になっていて、瀬田川で行われるカヌー競技の終点になっている。今年の6月ごろ琵琶湖の水位が上昇して南郷洗堰からの放流量が多かったときには、川幅一杯に轟音とともに水が流れ壮観な光景であった。
<大石の古社:佐久奈度神社>
鹿跳橋を渡って大石の里に入ると直ぐに信楽方面へ行く422号線と、宇治田原方面へ行く783号線に分かれる。783号線の方を進んで大石の中地区に入ると、近江大津京時代に創建され、延喜式明神大社にも列せられた佐久奈度(さくなど)神社という古社がある。
佐久奈度神社は、近江大津京時代の669(天智8)年に天智天皇の勅願により中臣朝臣金連(なかとみのあそんかねのむらじ)が、お祓いの神様4柱(瀬織津姫命、速秋津姫命、気吹戸主命、速佐須良姫命)を祀ったことに始まるという。つまりこの神社は天下の祓所であり、平安時代は天皇の厄災を祓う七瀬の祓所のひとつに数えられていたらしい。
中臣朝臣金連は、このウェブログの「湖南の草津界隈」で触れたように、大津京で右大臣を務め、お隣の草津市にある三大神社も創建した人物である。天智天皇の祭祀を担当していたと思われるが、壬申の乱では大友皇子側について敗れ斬られた。
古来伊勢神宮に参拝する前にはここ佐久奈度神社で禊をするのが慣わしとなり、大石の語源も忌伊勢(おいせ)が訛ったものという。元の境内は瀬田川の川原にあり1300年の歴史を持つ杜や禊ぎ場があったが、下流の天ヶ瀬ダム建設に伴い、1964(昭和39)年に現在地に移転したとある。1300年の歴史が昭和のダム建設で消滅したと知り複雑な気持ちを抱いたことである。
現在の佐久奈度神社の本殿は江戸時代に造り替えられたものであるが、本社から500mほど離れた783号線沿いにある佐久奈度神社御旅所社殿には、鎌倉時代の本社の古材を用いた部材が残っており、大津市指定文化財になっている。佐久奈度神社のお祭の時には神輿が納められるという。
<大石家の菩提寺:浄土寺>
1702(元禄15)年12月の吉良屋敷への討ち入りで有名な、赤穂藩家老大石内蔵助良雄の先祖の地はここ大石である。422号線を100mほど信楽方面へ行くと左の山裾に大石家の菩提寺である浄土寺がある。毎年討ち入りに近い日曜日には子供たちが討ち入り装束で行列し、大石家先祖追善法要が浄土寺で行われるという。
立木観音には弘法大師の銅像があったが、ここ浄土寺には宗祖法然上人の銅像がある。門前の案内板には、大石家の先祖は藤原鎌足から発し、藤原秀郷の流れを汲む大石庄の豪族で、室町中期の応仁の乱で一族が討死して断絶したが、遠縁の小山氏を迎えて中興の祖とし、良雄の曽祖父の代から赤穂藩家老となったとある。
藤原秀郷は、俵藤太とか田原藤太とも呼ばれ、前述の「大津市に残る壬申の乱伝承の地」で触れたように瀬田川に住む竜王から頼まれて三上山の大ムカデを退治した伝説の主で、瀬田の唐橋東岸には藤太ゆかりの勢多橋竜宮神社や雲住寺もある。しかし藤原秀郷は下野(栃木県)一帯を支配していた豪族であり近江との接点が定かでないことは、このウェブログ「近江富士」編で触れた。。
一方、「小山評定」編で触れたように、藤原秀郷の末裔、四郎政光が平安末期に下野で小山氏を名乗ったので、大石氏中興の祖の小山氏は藤原秀郷の子孫の小山氏を下野から迎えたものと思われる。その意味では大石氏は藤原秀郷に繋っているのだろう。浄土寺の案内板には、藤原秀郷は山城国田原郷(宇治田原)と大石庄を領有していたように堂々と書いてある。
<外畑の里>
大石を探訪した後、再び鹿跳橋を渡って県道3号線に戻り、瀬田川沿いを下流に進むと外畑という集落を通る。現在は3号線を宇治まで行く間、唯一の人家の見られる地域であるが、天ヶ瀬ダムが出来るまでは宇治川ラインの起点として観光船の乗り場があったらしい。
大津市歴史博物館ホームページには、1925(大正14)年に石山外畑と宇治川電気大峰堰堤を結ぶ宇治川ラインという観光コースができて遊覧船が営業を開始したとあり、外畑では当時は乗船待ちの観光客が列を作っていたという。1964(昭和39)年に天ヶ瀬ダムが完成した後も、宇治川ラインは「新宇治川観光ライン」として営業していたが、ほどなく廃止されたともある。
<南大津大橋>
外畑を過ぎるとやがて瀬田川にかかる大きな橋梁が見えてくる。京滋バイパスの南郷インターに通じる南大津大橋である。この橋は2002(平成14)年に開通した。橋を渡って曽束第1トンネルと第2トンネルをくぐると、ゴルフファンにはお馴染みの大石淀町の大津カントリーと大石曽束(そつか)町の京阪カントリーに行ける。
<曽束大橋>
南大津大橋が出来るまでは、もっと先の、西行する瀬田川が南へ向かい、瀬田川が県境となって右岸が京都府宇治市、左岸が滋賀県大津市となる地点にかかる曽束(そつか)大橋までは橋はなかった。3号線はここからは橋を渡って瀬田川の左岸沿いに走ることになる。
大津市歴史博物館ホームページによれば、曽束大橋は、1964(昭和39)年の天ヶ瀬ダムの完成により、石山外畑町や大石中・東・淀・曽束の各町の一部が水位上昇により水没するため、ダムの補償工事として主要地方道大津南郷宇治線(3号線)に架橋敷設されたものという。
天ヶ瀬ダムが出来る前は、大石の曽束と対岸の外畑や宇治市ニ尾の間は、渡し船が古くからの交通手段として利用されていたらしい。曽束大橋に至る手前に、ぜんまい茶屋と書かれた老朽化した看板がある廃屋が今も残っているが、宇治川ライン全盛期にはこのあたりが活況を呈していたことを物語るお茶屋跡であろう。
<喜撰山大橋>
曽束大橋を渡ってクネクネとカーブする道を、交通量の少ないのを幸い、自動車レース気分を味わいながら進んでいくと、喜撰山(きせんやま)大橋に達する。一般車は入れないが、対岸の山が喜撰山といい揚水発電所があるとのことで、対岸に取水口が見える。地図で見ると宇治市池尾という地区に発電所と喜撰山ダムがある。
このあたりは右岸は宇治市、左岸は宇治田原町で両岸とも京都府の領域であり、もう宇治川である。宇治川が宇治市と宇治田原町との境界になっている。宇治川ラインが健在であった頃は石山外畑から遊覧船に乗ると、このあたりでは深山幽谷の絶景を楽しめたことであろうと想像する。
喜撰山大橋の「喜撰」という字を見て、百人一首に出てくる喜撰法師という歌人を思い出した。「わが庵(いほ)は都のたつみしかぞすむ 世をうじ山と人はいふなり」という歌である。「世をうじ山」とは、「世を憂う」と「宇治山」をかけてあるとか。坊主めくりという遊びもあってこの人に当たるとドサッと札が来ることになる。
喜撰法師をウェブで検索すると、生没年不詳、伝不詳、僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、小野小町、大伴黒主と並んで、六歌仙の一人とある。宇治山に住んだ僧ということであるが、喜撰山や宇治川の喜撰山大橋にその名を残しているわけである。
さらに、この記事を読んだ友人から、中国から伝わった茶が最初に植栽された地が宇治で、宇治山に住んだ喜撰法師から名をとって宇治茶の高級品に「喜撰」という名前がつき、幕末のペリー来航の時に上喜撰と蒸気船をもじって、たった四杯で夜も寝られず、とうたわれた狂歌に繋がるのだと教えてもらった。この狂歌は「伊賀市上野に残る武家屋敷-入交家住宅-」でも触れた。
<おゝみね橋>
喜撰山大橋を後にして暫く走ると、宇治川は大きく孤を描いて半円状にカーブする。この3号線は曲がりくねっているので運転に神経を使うのと、瀬田川は直ぐ崖下を走るのであまり景色を見ながらのドライブとは行かないが、この半円状のカーブ地点は川面や周囲を見ながら走れる。
このカーブを過ぎるとやがて宇治川に架かる美しい吊橋が見えてくる。左の山が宇治田原町域の大峰山ということからおゝみね橋と名付けられている。もちろん車は通れないが、自転車で通って行く人がいた。対岸に何があり、どこに通じているのかは地図を見ても分からない。
昔の宇治川ラインは外畑から宇治川電気大峰堰堤までとなっているから、この大峰には堰堤がありダム代りをしていたのかも知れないと思っていたら、「現在の天ヶ瀬ダムの下にある志津川発電所横から上流の大峰発電所のダム(今の大峰橋辺り)までおとぎ電車が走っていた。」と記載してあるウェブサイト(http://park7.wakwak.com/~tatta-poppo/sizen/20030705amagase/)があった。
つまりこのあたりはダムになっていて、宇治川ラインを下ってきた遊覧船の客が降りて、おとぎ電車で宇治へ向うターミナルであったのかもしれない。その名残かどうかは分からなかったが、大峰橋を過ぎて直ぐのところに、え、こんな所にお店が?というような場所に「かんばやし」という蕎麦屋さんが1軒だけポツンとあり、現在も営業されている。外畑を過ぎて始めて見る人家である。
ちょうど昼時で営業時間(11時~16時)内であったので入ってお蕎麦を注文し、女性店主に何時頃出来たのか聞いてみたところ、30年前に開店したが本業は骨董屋とのことであった。道理で店の中に古物が多数置いてある。30年前というと、1964(昭和39)年の天ヶ瀬ダム完成よりかなり後に開店されたので、宇治川ライン時代の名残ではない。
1988(昭和63)年に京滋バイパス瀬田~宇治間が開通するまでは、京阪カントリーや大津カントリーのゴルフ客の車がこの道を良く通り、往きは朝食、帰りは表彰式で良く利用してくれたが、京滋バイパス開通後はこの道の交通量が激減しお客も少なくなったらしい。
とにかく居る間はお客が私一人であったので、女性店主から宇治田原のことを色々教えて貰った。立木山の霊木に観世音菩薩を彫刻した弘法大師はこの地にも足跡を残しており、この大峰山の中腹の高尾(こうの)に弘法大師ゆかりの井戸があるとのこと。その先の猿丸神社も良いところですよ、とのアドバイスを貰った。
<宵待橋>
店主のアドバイスに従って弘法の井戸を探訪することとし、お蕎麦屋さんを辞した。直ぐに宇治田原方面と宇治天ヶ瀬方面への分岐点である宵待橋に至る。宵待橋は宇治田原からの田原川に架かる橋で、ここで宇治川に合流する。橋の袂に厄除開運高尾弘法大師参詣道という石碑があった。ここから山道を登ると弘法の井戸に行けるのであろう。
高尾弘法大師参詣道 宵待橋(宇治田原方面と宇治方面への分岐点)
<弘法の井戸>
こちらは車なので女性店主の教えの通り宵待橋を左折して宇治田原町の郷之口というところへ向い、そこから山道に入った。かなり登ったところで、屈みこんで何かしている人がいたので弘法の井戸はどこですかと聞いたら、ここですよ、と言われた。その人は弘法の井戸から出る水を汲んでいたわけである。
高尾区が掲示した案内板には、土地の老婆に水を所望した僧が、老婆が宇治川まで水を汲みにいったと知り感謝した後、錫杖で円を描きここを掘れば水が出ると言い残して去ったので、村人が掘ったところ水が湧き出した。その僧が弘法大師であったという伝説が紹介されている。
弘法大師にまつわる伝説は全国に5000以上あるとされ、とりわけ弘法大師が錫杖で指した所を掘ったら水が出たという井戸伝説は全国各地にあるらしい。日本文理大学、河野研究室によると水関係だけで1600以上あるという。ここ宇治田原の高尾(こうの)の伝説もその一つであろう。
<猿丸神社>
蕎麦処「かんばやし」の女性店主から教えて貰った猿丸神社には後日訪れた。宇治田原町禅定寺という地区にあり、前述の大石佐久奈度神社から783号線を通って京都府に入った直ぐの所である。南大津大橋を渡って京阪カントリークラブと大津カントリークラブの二つのゴルフ場の間を抜けて来ても良い。
祭神は猿丸大夫である。百人一首の「奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の 声聞く時ぞ秋はかなしき」の詠み人とされ、平安時代の三十六歌仙の一人である。喜撰法師や猿丸大夫が住んだというこの瀬田川や宇治川界隈は古の歌人ゆかりの地ということになる。広い駐車場の片隅に猿丸太夫のこの歌の歌碑が建っており、傍に植えてある紅葉がちょうど色づいていた。
猿丸大夫も生没年不詳、伝不詳である。この京滋界隈に隠棲した天智や天武に連なる皇子という説もあるが、法隆寺の本質や日本書紀の書かれた意図を、通説を打ち破る新しい観点から学問的に明確に看破された梅原猛先生は、同じ観点から柿本人麻呂説を唱えられている。
歌碑の由緒の石碑には、鎌倉時代の歌人の鴨長明が、その著「方丈記」で猿丸大夫の墓を訪ぬ、と記していると紹介してある。また猿丸神社社務所で貰った御由緒には、鴨長明は「無名抄」にも、田上の下の曽束というところに猿丸大夫の墓がある、と記していると紹介している。古くから歌道の神として猿丸大神と崇められ、多くの文人墨客がこの地を訪ねたらしい。
猿丸神社はこのように歌道の神様なのであるが、なぜか瘤(こぶ)取りの神様として崇敬されている。社務所で貰った案内書の御神徳のところには、近世に入ってから瘤、出来物類の病気平癒に霊験があるとして信仰されるようになったとある。現在も「猿丸さん」と呼ばれ、毎月13日の月次祭には賑わうらしい。
本殿は少し山道を登ったところにあり、今も奥山という雰囲気の場所に鎮座していて、2体の神猿の像が左右に配置されている。向って右側の猿は軍配のようなものを右手に持ち、左側の猿は右手に杖のようなものを持ち、左手に丸いお結びのようなものをもっているが、由来は不明である。
<田原道>
2006年10月6日に「古代の高規格道路」とか「巨大な田原道発見/滋賀県・関津遺跡」という記事が新聞各紙に載った。大津市の関津(せきのつ)遺跡で、幅18mもある8~9世紀の大規模な道路跡が見つかったと滋賀県教育委員会が発表したニュースであった。
764年に道鏡との権力争いに敗れて近江へ逃げる藤原仲麻呂(恵美押勝)を、追討軍が先回りして瀬田唐橋を落として仲麻呂の行く手を阻んだが、追討軍がその時使用した「田原道」と推定されるという。つまり当時の平城京(奈良県)から宇治田原(京都府)、大石、関津(滋賀県)を経て琵琶湖の東を通る東山道に繋がる田原道があったと推定されていたが、その遺構が始めて発掘されたというわけである。
このウェブログの「大津市桐生の里」でも触れたように、関津近辺の田上の山々(湖南アルプス)の木材が、1300年前の藤原京(奈良県橿原市)の造営に用いられたというが、近江から奈良までその木材を運ぶ道が瀬田川に加え、田原道であったのかもしれない。大石から佐久奈度神社や猿丸神社の横を通って宇治田原へ抜ける783号線は、古の田原道のルートかも知れないと思うと、通勤も楽しくなる。
この街道では宇治田原に入ったところの道沿いに茶畑が見られる。お茶漬け海苔で有名な永谷園の発祥の地がここ宇治田原である。永谷園のホームページには江戸時代中期に、永谷宗七郎という人が山城国宇治田原郷で製茶屋を営んでおり、今の「煎茶」を開発したとある。
<洗車、水浴び…マナーの悪さに悲鳴>
2008年11月14日の京都新聞が、前述の宇治田原の弘法の井戸へ、よそから水を汲みにくる一部の人のマナーの悪さを報道している。平成時代の日本人の精神の堕落!何をかいわんや!である。内容を転載する。
「弘法大師にまつわる伝説で知られる京都府宇治田原町高尾地区の「弘法の井戸」を管理する住民が、よそから水をくみに来る一部の人のマナーの悪さに泣かされている。
井戸は昔、通りがかった弘法大師が、住民に親切にされたお礼に霊験を発揮、清水がわき出したとされる。以来、住民が野菜を冷やしたり、風呂水に使ったりしてきた。現在は地元自治会が管理している。
10年ほど前、新聞などで取り上げられて「おいしい水」と評判を呼び、近隣市町のほか大阪など遠方からも週末に水をくみに来る人が増えた。お礼状と一緒にさい銭を置いていく律義な人がいる一方、ポリタンク10杯分を1度に取水したり、車を洗ったり、その場で水を浴びたりする非常識な人まで現れるようになった。
井戸の周辺は細い山道のため路上駐車による通行トラブルも発生。また、井戸のそばには取水者が連れてきた飼い犬のふんが落ちていることもあるという。
地元ではマナーを守るよう注意する看板を設置しているが効果がなく、住民は困惑気味だ。井戸の周辺の掃除をしている新芳子さん(76)は「誰がくみに来てももちろん構わないが、マナーだけは守ってほしい」と訴えている。」
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