函館五稜郭拝見
2年ぶりに北海道へ行く機会が出来た。今回は札幌と函館である。前回は小樽運河や、偶然小樽潮(うしお)祭の日にあたって道南の松前文化の名残りを覗くことが出来たが、今回はその道南の函館をも訪問することになった。函館の街を見るのは初めてである。
函館行の主目的は、はこだて未来大学訪問であったが、途中に五稜郭があるので、函館に来た証に五稜郭を垣間見ることとした。折りしも2007年10月26日と27日なので、北海道は晩秋の紅葉が美しいかもしれないとひそかに期待し、札幌から函館への移動も列車の旅として、3時間の車窓を楽しむことにした。
<札幌・北大構内>
今回も最初は札幌である。札幌は2年前と同様北大訪問であったが、新千歳空港から札幌へのJR沿線は、晩秋の10月26日とあって見事な紅黄葉であった。空気が澄んでいるせいか、燃えるような紅黄葉という表現がよく合う。札幌到着後に訪れた北大構内も素晴らしい紅黄葉であった。
北大キャンパスは市民に開放されているから、カメラをもった一般の市民も多く訪れていて、晩秋の紅葉を楽しんでいる姿が見られる。明治時代に開学した大学は全国に数々あり、最初はどこも自然が豊かであったのだろうが、現在も広大で自然豊かな環境を維持しているという点では北大の右に出るところはない、と改めて感じる。
北大構内の銀杏並木 (2007年10月26日) 北大構内の紅葉
紅黄葉と常緑の妙 まるで桜の花!
<函館本線>
10月27日の早朝7時00分札幌発のスーパー北斗2号に乗り函館へ向った。函館着が10時11分であるから320kmを3時間ちょっとかけて走る。五稜郭へ寄るつもりで最初五稜郭駅まで切符を買っていたら、駅と五稜郭はかなり離れていてバスもないから函館駅まで行かないと駄目と言われ、乗越料金を払おうとしたら不要であった。
札幌から、苫小牧、白老、登別、室蘭と駅名を辿るにつれ、苫小牧の日本甜菜糖工場、支笏湖や洞爺湖、白老のアイヌの家や登別温泉を訪れた46年前の北海道旅行の記憶が戻ってくる。この日は残念ながらずっと曇天で、内浦湾もどんよりとした風景で期待したほどきれいではなかったので、もっぱら北海道らしい原野の景色を楽しんだ。
森駅を過ぎて駒ケ岳の山麓にかかると、駒ヶ岳の秀麗な姿と大沼の見事な眺望が現れる。大沼公園付近はやはりきれいな紅黄葉に彩られ、途中下車したかったが仕事が待っているので諦める。ほどなく函館に到着したが、46年前の青函連絡船の発着の際、乗継のために走ったところはどのあたりか全く思い出せなかった。
スーパー北斗2号の車窓から(2007年10月27日札幌-室蘭)
頭だけ見せる駒ケ岳 小島が点在する大沼
<五稜郭タワー>
函館の五稜郭といえば、明治維新に伴う旧幕府勢力と新政府軍による戊辰戦争の最後の戦いとなった箱館戦争(明治までは箱だったとのこと)の舞台であって、徳川慶喜の恭順と勝海舟の江戸城無血開城に不満をもった旧幕臣榎本武揚や大鳥圭介、さらには新撰組の土方歳三たちが占拠し、最後は敗れ去った地であることくらいは知っている。
しかし見るのは今回が初めてであったので、まずは全貌を掴むためと840円の入場料を支払って、五稜郭タワーの展望室に上った。冒頭の写真はこのタワーから見た五稜郭の全景である。反対側からは函館山と函館湾が望める。2階には明治12年に五島列島出身の五島英吉が始めた五島軒という函館の老舗レストランの出店があり、名物のカレーライスで昼食と相成った。
五稜郭タワーは1964年に創業し2006年4月に新タワーが開業したとある。あまり時間がなかったので隈なく見るわけにはいかなかったが、幕末のペリー来航から明治維新、箱館戦争に至る激動の時代の五稜郭の歴史が展示してあるので、ゆっくり見るとかなり幕末通になれそうである。
1階のロビーには、箱館戦争のとき使用された大砲が展示してあり、その傍に函館出身の女流彫刻家制作の新撰組土方歳三のブロンズ像が建っている。京都育ちとしては異国の地で朋友にあったような気がしてしげしげと眺めた。2004年のNHK大河ドラマ新撰組で山本耕史が土方歳三を好演して以来、若い女性にも一番人気となり、ここ函館でも別格扱いである。
土方歳三は、近藤勇が1868年4月に新政府軍により斬首された後、会津戦争を経て、10月に榎本武揚率いる旧幕府艦隊に仙台で合流し、箱館へ入って五稜郭で蝦夷共和国を樹立したものの、1869(明治2)年5月に新政府軍との戦いで銃撃され、35歳の生涯を閉じた。共和国総裁となった榎本武揚が率いてきた旧幕府軍艦開陽丸の模型も展示してあった。
箱館戦争で使用された大砲と土方歳三 江差で座礁、沈没した開陽丸
<五稜郭跡公園>
五稜郭タワーを出た後、五稜郭跡公園を散策した。特別史跡五稜郭跡と書かれた文化庁、函館市連名の案内板があり、傍らが記念写真を撮るスポットになっている。濠沿いに歩いて橋を渡ると五稜郭跡への入口となる。冒頭写真のように星型にお濠で囲まれているので周囲をぐるっと回れそうだが、今回は時間がなく見合わせた。
案内板には、五稜郭は、1854(安政1)年に結ばれた日米和親条約により開港した箱館の防備のため1857(安政4)年に着工され、1864(元治1)年に完成したとある。幕府が北方の備えとして明治維新の11年前から7年かけて築城したものであり、1867(慶応3)年10月の大政奉還後に新政府に移管された。
五稜郭跡の石碑と案内板 五稜郭跡内部へ渡る橋
五稜郭跡の周囲を囲む濠 藤棚をくぐって中へ
案内板には、城の形が五稜形をしているのは守備の際に死角をなくすためであり、武田斐三郎(あやさぶろう)の指導の下に西洋式の築城法をとり入れて作られたともある。武田斐三郎は緒方洪庵や佐久間象三門下の蘭学者で、洋式軍学者として製鉄、造船、大砲、築城などに明るく、ヨーロッパの城郭都市をモデルとする要塞を考案して箱館五稜郭を建造したらしい。
五稜郭という名称は江戸時代末期に日本で築造された星型の城郭の総称をいうらしく、長野県佐久市の龍岡城も五稜郭として知られている。箱館には五稜郭の近くに四稜郭もあった。2001年にテロリストに攻撃された米国の国防総省の建物もペンタゴンと呼ばれ、五角形になっているから、多角形は防御体制の上で何か共通原則があるのかもしれない。
橋を渡って五稜郭跡に入ると、冒頭写真にも見えるように中央に工事中の建造物があるが、その近くに武田斐三郎先生顕彰碑が建っている。五稜郭築城設計及び監督で箱館奉行支配諸術調所教授役という肩書きがつき、築城100年記念にあたって、1964(昭和39)年に函館市が建てたものとある。教授役ということから優れた教育者でもあったようである。
工事中の建物には、箱館奉行所復元工事の看板がかかっている。箱館奉行所は当初は函館山山麓にあったが亀田の五稜郭に移転し、当時は亀田役所土塁という名が箱館五稜郭の正式名称だったらしい。函館市は2006年7月から箱館奉行所庁舎の復元工事に着手し、2010(平成22)年度の完成を目指しているとのことである。
平成の今になって箱館奉行所の復元工事を行うことの意味は何なのだろうと旅行者としてふと思ったが、小樽と同様、北海道の中心地が札幌に移ってしまった現状を少しでも取り戻したいということかもしれない。大阪から函館に行こうとすると手近な伊丹便はなく、関空-函館便が一日2便あるだけで、日帰りしようとすると帰りを羽田経由にして新幹線を利用しないと不可能なのである。
それはともかく、この奉行所跡の周囲は見事な松の大木に囲まれている。さらにそれを取り囲むように土塁跡があり、この季節は木々の紅黄葉が素晴らしい。写真にあるような箱館奉行所庁舎が完成すると、往年の雰囲気が戻ってくることは間違いないような気がする。
箱館奉行所跡を囲む松の大木 土塁から見る紅葉(2007年10月27日)
<電気学会の初代会長を務めた榎本武揚>
函館五稜郭に縁のある人物の中で、土方歳三は京都で活動したことで何となく親しみを覚えるが、個人的には榎本武揚(たけあき)に関心を持っている。何しろ官軍を相手に江戸城無血開城を成し遂げた英雄ともいうべき勝海舟に楯突いて、幕府軍艦を率いて脱走し、五稜郭で敗れたものの、彼を見込んだ敵将黒田清隆に助命され、後に明治最良の官僚と異名をとった快男子だからである。
五稜郭タワーで開陽丸の模型を見ているうち、開陽丸内での榎本武揚と勝海舟のやりとりを何かで読んだことを思い出し、帰宅してから司馬遼太郎氏の「街道をゆく 第15巻 北海道の諸道」をひっくり返して見たところ、確かに品川沖での開陽丸内での直談判の様子のくだりがあった。
そのくだりを要約すると、榎本武揚は勝海舟を先生と呼んで尊敬していたから、勝は艦隊を新政府に渡すべきと大いに説いたが、開陽丸が外洋に向っているので驚き、榎本の半分だけ渡すという交渉に応じ、逆に西郷隆盛に榎本の言い分を認めるよう説得し了解を得たという。勝も西郷も大物と言えば大物であるが、榎本の人柄がそうさせたのかも知れない。
榎本武揚は牢獄を出所後、待っていたように新政府から北海道開拓使を任命され、その後初代逓信大臣、3代文部大臣、7代外務大臣、4代と11代農商務大臣など要職を歴任した。足尾鉱山の鉱毒事件でそれまでの政府の責任回避に抗議し、職を賭して調査委員会設置と足尾鉱山操業停止命令を行って後、辞任したとのことである。
父親が幕府天文方で、このウェブログの「伊能忠敬の墓所-浅草源空寺-」でも触れた高橋景保の部下であったので、その影響から武揚も技術官僚への道を歩んだらしい。農業の重要性を痛感して1891(明治24)年に現在の東京農業大学の前身を創設して学長となり、1888(明治21)年から死去する1908(明治41)年まで20年間電気学会の初代会長を務めたそうである。
東京農業大学は、「われは湖(うみ)の子」で始まる琵琶湖周航の歌の作曲者、吉田千秋が学んだ大学である。吉田千秋が琵琶湖周航の歌の作曲者であることが判明するにはドラマがあったが、このウェブログの「琵琶湖周航」で触れた。吉田千秋が琵琶湖周航の歌の原曲「ひつじ草」を発表したのは1915(大正4)年であるから、既に榎本武揚は他界していた。
<歴史の街・函館>
昔愛読した司馬遼太郎氏の名作「菜の花の沖」第三巻には「箱館」という章があり、高田屋嘉兵衛が、既に近江商人が地盤を築いていた道南の松前から、箱館に目をつけ進出していくくだりがある。函館空港へ向うタクシーの運転手さんから頂いた函館のパンフレットには、箱館高田屋嘉兵衛資料館や高田屋嘉兵衛像の所在が記載されている。
現在勤務している京田辺市の事務所の向かいが同志社女子大キャンパスになっていて、新島襄記念講堂のゴチック様建築が一際目立つが、五島軒で貰った歴史散歩のパンフレットには、新島襄海外脱出渡航碑と新島襄像の所在も記載されている。
今回は駆け足で五稜郭のみの訪問であったが、次回は函館港や函館山方面も探訪したいと思っている。
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