上野の森の三重、京都、滋賀
<上野の森>
東京の上野の森一帯は、このウェブログの「伊賀市上野に残る武家屋敷-入交家住宅-」編で触れたように、もとは忍岡(しのぶのおか)とか忍ヶ丘(しのぶがおか)と呼ばれ、この地名に因んで上野台地と本郷台地の間の池を、15世紀には既に不忍池(しのばずのいけ)と呼んでいたと、Wikipediaに載っている。
つまり不忍池が先にあって、その後1603年に徳川家康が江戸幕府を開いた頃、この地に伊賀国(現在の三重県)上野を本拠地とする大名であった藤堂高虎の屋敷が置かれ、伊賀上野の地形に似ていることから、この一帯を上野と呼ぶようになったとある。とすれば東京の上野は三重ゆかりの地でもある。
また1625年になって江戸幕府は、京都の鬼門を護る西の叡山延暦寺に対応させて、東叡山寛永寺をこの地に建立した。またこの時不忍池を琵琶湖にみたてて、弁財天のある竹生島になぞらえて弁天島(中之島)を築き、弁天堂を作ったという。冒頭写真は不忍池からの弁天堂である。上野は京都、滋賀ゆかりの地ともいえる。
この夏上野に泊まった朝、上野の森を散策して、三重、京都、滋賀など近畿地方にゆかりあると思しき史跡を巡ってみた。
<藤堂高虎と上野東照宮>
東照宮はいわずと知れた徳川家康を神様として祀った神社で、全国に500社くらいあったものが廃仏毀釈後の今日でも、130社くらい現存しているらしい。上野東照宮の起源は、元和2(1616)年の家康の臨終時に天海大僧正と一緒に見舞いに行った藤堂高虎が遺言を受け、自分の領地であった上野の山に寛永4(1627)年に造営したものとされる。
3代将軍の徳川家光は藤堂高虎の造営した社殿に飽き足らず、慶安4(1651)年に大規模に造営替えしたので、それが現在の社殿になっている。家康は、藤堂高虎が外様大名であるにも拘らず、臨終の場にも立合いを許すほど高虎を信頼していたらしいが、3代目の家光にとってはうるさい爺さんでもあったろうから、その影響を一掃したかったのかもしれない。
藤堂高虎という人は、最初は浅井長政に仕え、浅井家滅亡後豊臣秀吉に重用されたが、秀吉没後はさっさと徳川家康に鞍替えしここでも重用されるという世渡りの名人であったらしい。実力主義者で築城技術に長け、文化人でもあったという。1614年の大阪冬の陣の戦後、その功績を家康に認められて伊勢・伊賀(現在の三重県)32万石の領主となった。
しかし幕末の藤堂家は高虎の遺訓かどうかは不明だが、1868年の鳥羽伏見の戦いで真っ先に官軍に寝返って、幕府側から「藩祖の薫陶著しい」と皮肉られたとのことである。鳥羽伏見の戦いでは時勢を見るに卓越した伝統を示した藤堂家であったが、幕府軍総帥の15代将軍徳川慶喜は敗れて江戸へ逃げ帰って恭順した。
これに不満をもった旧幕府軍有志が、彰義隊を結成してこの上野の山に立てこもって官軍に徹底抗戦し壊滅した。勝った官軍の実質上の大将、西郷隆盛の銅像と、壊滅した彰義隊の墓碑が上野の森に並んでいる。
彰義隊は賊軍となったが、生き残った小川隊士の必死の運動で明治7(1874)年に新政府も墓建立を認めたとのことである。西郷隆盛も西南戦争の首謀者ということで悲運の最後となったが、明治天皇始め西郷を慕う人も多く復権して明治22年に正三位を授与され、明治31(1898)年に高村光雲作(愛犬は後藤貞行作)の銅像がこの地に建立された。
<天海大僧正と寛永寺>
徳川家康は周囲の意見も聞き深慮遠謀・熟考するタイプで、織田信長や豊臣秀吉のような自分の頭で考え即決していくタイプとは少し異なっていたとされるが、そのブレーンに南光坊天海や金地院崇伝のような僧侶を用いていた。戦国時代はこのような政僧が活躍した時代で、因みに関ヶ原の戦いで家康に敗れた毛利家も、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)という僧侶を外交官に用いていた。
天海は天台宗の僧で関ヶ原の戦いの頃から徳川家康の参謀を努め、2代将軍徳川秀忠、3代将軍徳川家光にも仕え、家光が将軍となった寛永2(1625)年にこの上野の地に寛永寺本坊を創建したという。寛永寺は増上寺とともに徳川家の菩提寺として隆盛を極め、現在の上野公園のほぼ全域が寛永寺の境内であったらしい。
戊辰戦争時の彰義隊の戦や、太平洋戦争時の米国の空襲で主要な堂宇は焼失したが、天海が寛永8(1631)年に京都の清水寺を模して建立した清水観音堂(元禄7(1694)年に現在地へ移転とある)や、同年に土井利勝により建立され一旦焼失したが寛永16(1639)年に再建された旧寛永寺五重塔などは現在も残っている。
五重塔は上野動物園の中にあるとのことで行かなかったが、東照宮の参道から垣間見ることができた。清水観音堂は、西郷さんの銅像と彰義隊の墓から直ぐのところに優美な姿を見せている。ここから不忍池方面に下りていく坂には、清水坂と記した標柱が建っていた。つまりここは上野の森の京都というわけである。
旧寛永寺五重塔 京都清水寺を模した清水観音堂
傍の坂に「清水坂」の標柱が建っている
山岡荘八氏の26巻にわたる長編「徳川家康」には、天海和尚と徳川家康の出会いから家康が天海に傾倒していく経緯や、天海と金地院崇伝との確執などが興味深く綴られていたと記憶するが、随分昔に読んだので忘れてしまった。このウェブログでも触れた石塔寺や百済寺などの織田信長に焼討ちされた近江の寺院は、天海大僧正によって復興されたものが多い。
<不忍池と弁天堂>
清水坂を下りていくと不忍池畔に達し、ここから橋を経て弁天堂へ通じる参道に入る。両側には露店が立ち並び、いかにも江戸の庶民が弁天様へお参りするという雰囲気である。残念ながら弁天堂の向こう岸に大きなビルが建っているので、その雰囲気を壊してしまっているが。
天海は寛永2(1625)年に寛永寺を建立した時、不忍池を琵琶湖に見立てたので、琵琶湖の竹生島に対応する弁財天を祀る島が必要となり、中之島(弁天島)を築かせ弁天堂を作ったという。寛文12(1672)年までは橋がなく舟で渡ったらしい。
ビルに邪魔された弁天堂とその参道 近くで見る弁天堂の優美な姿
琵琶湖の竹生島には、このウェブログの「琵琶湖周航」編で触れたように、724(神亀1)年に行基が開いた宝厳寺(ほうごんじ)という西国30番札所のお寺があり、行基が彫刻した弁財天が本尊となっている。日本3弁財天の一つとして天皇の行幸があったり、伝教大師(最澄)や弘法大師(空海)が修行したので、慈眼大師の天海も江戸にそれに匹敵する弁財天を置きたいと願ったのであろう。
天海は宝厳寺の弁財天を勧請して不忍池の弁天堂に安置したので、不忍池の弁財天はもともと伝教大師の弟子円仁(慈覚大師)が造ったものと云われている。弁天様といえば琵琶をもった優しい姿の、音曲、芸道の神様として有名であるから、不忍池の弁天堂の入口には大きな琵琶の碑がある。
時間がなかったので、奥にある八角形の色鮮やかな弁天堂は外から見るだけであったが、この中に弁天様が安置してあるのかと想像した。古い構えの本堂と色彩豊かな八角形の弁天堂の組み合わせが面白いが、ここも昭和20(1945)年の戦災で焼失し、現在の建物は昭和33(1958)年に再建されたものらしい。
大きな琵琶の碑がある弁天堂入口 色鮮やかな弁天堂(弁財天を安置?)
<八橋検校顕彰碑と豊太閤護持大黒天堂>
弁天島には色々な石碑が多く、見て回ると結構時間がかかりそうだが、京都にゆかりの八橋(やつはし)検校の顕彰碑があった。八橋検校は筝(そう:琴)曲の開祖と呼ばれる作曲家であるが、京都の銘菓、聖護院八ツ橋(しょうごいんやつはし)の名前の由来でもある。
八橋検校は江戸で活躍した後京都に移って歿し、黒谷の金戒光明寺にお墓がある。彼が歿した元禄2(1689)年頃から琴の形に似せた干菓子を「八ツ橋」と名づけて聖護院の森の黒谷参道で発売したのが起源であると、聖護院八ツ橋総本店のホームページに出ている。カリカリの干菓子八ツ橋と軟らかい生八ツ橋があり、我家は生八ツ橋派である。
弁天堂の手前右手に簡素な造りの建物があったので、覗いてみたら豊太閤護持大黒天堂の表札があった。弁天様も大黒様も七福神であるから大黒様が祀ってあるのは珍しくはないが、豊太閤護持というのが気になった。徳川の世になったが家康は秀吉を大事に思っているぞ、と豊臣残党にPRしたのであろうか。
帰宅してから不忍池大黒天堂の由来をウェブで調べてみたが的確に記述されたものがなく、弁財天も大黒天も慈覚大師の作であると書いたウェブもあったが、これ以上の詮索はやめた。
<弁財天>
滋賀県在住者としては、天海が不忍池を琵琶湖とみたて、竹生島の弁財天を勧請して弁天堂を作ったというところが面白く、「仏様の世界」というウェブサイトから弁財天を引用してみた。不忍池弁天堂には有名歌手がよくお参りにくるそうである。
弁財天 べんざいてん
元はインドの古代神話に登場するサラスバティというインダス川の神様です。サラスバティは「水を持つもの」と訳されます。したがって池や川など水のある所にまつられます。
水の流れは、音楽やよどみないおしゃべりに結びつき、芸能の神様としても信仰されています。また弁財天は妙音天、美音天とも呼ばれることがあります。
姿は二臂のものと八臂のものがあります。二臂の場合は琵琶を持つことが多く、八臂の場合は、宝珠・宝棒・宝箭(矢)・宝刀・宝弓などを持っています。持ち物は時代や彫刻家の考えによって多少異なるようです。
二臂・八臂※とは手の数のことです。※仏様の手を数えるときは臂(ひ)といいます。例えば顔が3つで手が6本のときは三面六臂といいます。
<上野と滋賀と天海大僧正>
不忍池を琵琶湖に見立てて上野の地に寛永寺を建立した天海大僧正は、滋賀にもゆかりの人である。天海大僧正を介して上野と滋賀のつながりに触れたウェブログを、2008.9.28にアップした。
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