大津市に残る壬申の乱伝承の地
<壬申の乱>
日本歴史における天下分け目の戦いというと、徳川家康と石田三成の関ヶ原の戦いや、源氏と平家の源平合戦が直ぐに思い浮かぶ。しかしもっと古代においても天下分け目の戦いがあった。近江、吉野、飛鳥、伊勢、不破と、近畿・東海地方を舞台として、大友皇子と大海人皇子が戦った壬申(じんしん)の乱である。
大津市史を紐解くと、672年に勃発した壬申の乱は、天智天皇の皇子である大友皇子と、天智天皇の弟である大海人皇子による皇位継承をめぐる戦いとあり、当時の有力豪族達が、近江大津宮(近江朝廷)に御座ある大友皇子を支持する勢力と、不破(岐阜県)に陣取った大海人皇子を支持する勢力に別れて戦った、いわば天下分け目の未曾有の大乱であった。
671年に天智天皇からの、大友皇子への協力要請を断った大海人皇子は、出家して吉野に隠棲した。日本書紀はこの間の事情を、或(あるひと)、「虎に翼を著けて放てり」と曰いき、と記している。大海人皇子は、天智天皇死去後の672年になって、近江朝廷による大海人皇子討伐の動きを察知して吉野を脱出し、伊賀から伊勢を経由して挙兵し、美濃国(岐阜県)不破に本営を置いた。
戦いは大和の飛鳥古京から始まって大海人軍が大和を抑え、次いで近江湖東での戦いも大海人軍が優勢となり、最後は冒頭写真に掲げた瀬田橋で決戦となった。大友軍の智尊という将が瀬田橋で迎え撃ったが破れ、近江朝廷軍は逃走した。日本書紀は大友皇子は山前(やまさき)で自殺したと記している。山前が現在のどこであったかは諸説あるが、確証はないらしい。
乱の直接の原因は、天智天皇が弟の大海人皇子を一旦皇太子の地位につけておきながら、自分の死期が近づくと、わが子の大友皇子を太政大臣の地位につけ、皇位継承方法まで変更して後継者にしようとしたことによるとされる。後年、豊臣秀吉が、実子秀頼が生まれたため、甥であった関白秀次に対してとった仕打ちと似ているが、大海人皇子は事前に察して難を避け、大乱を制して天武天皇となった。
それに加えて、このウェブログの「湖東の額田王ゆかりの地」でも触れたように、時の美貌の才媛で万葉随一の歌人である、額田王をめぐる天智天皇(中大兄皇子)と大海人皇子の確執も一因であったと、まことしやかにいわれている。
<壬申の乱伝承の地に勤務>
昭和40年から私が37年間勤務した会社は大津市園山という地に所在し、工場の中に功臣塚という史跡が保存されていた。一度その慰霊祭に出席を命じられ、1300年以上前の壬申の乱で敗れた大友皇子軍の功臣を祀る塚と聞いて、何やら感動したことを覚えている。
それまでは、1184年に木曽義仲と今井兼平主従がこの地で果てたことを知っていたので、その功臣の今井兼平を祀る塚かなと漠然と思っていたが、さらに遡ること500年の壬申の乱に関係する塚であった。因みに今井兼平のお墓も、この工場近くのJR石山駅裏と京阪粟津駅を結ぶ旧東海道沿いにある。
そんな因縁もあって、居住する大津市に残る壬申の乱の伝承の地を一度巡ってみようと思い立ち、昨年から今年にかけて、大津市史を片手にゆかりの地を訪れてみた。
<瀬田の唐橋>
古くは瀬田橋といい、宇治橋、山崎橋とともに日本三大名橋と呼ばれ、「瀬田橋を制するものは天下を制する」といわれたほど軍事、交通の要衝であった。その名に違わず、672年の壬申の乱、764年の藤原仲麻呂の乱、1184年の木曽義仲と源範頼・義経の戦い、1221年の承久の乱、1582年の本能寺の変等の戦乱の舞台となったと、橋の東詰の案内板に記されている。
本来瀬田橋はもう少し下流にあったが、1575年に織田信長が今の位置に建設した。江戸時代の有名な歌に、「瀬田の唐橋唐金擬宝珠(からかねぎぼし)水に映るは膳所の城」、というのがある。「瀬田の夕照」は近江八景の一つになっている。今の橋は昭和54(1979)年に造営され、旧橋の擬宝珠がつけられて往時を偲ばせている。
欄干に擬宝珠がついた瀬田の唐橋 今や橋の上は交通渋滞の名所!
瀬田の唐橋は壬申の乱の戦場としても有名であるが、このウェブログの「近江富士」編で触れたように、俵藤太秀郷が、瀬田の唐橋に住む竜王に頼まれて、三上山の大ムカデを退治した伝説でも有名である。
瀬田の唐橋の東詰には、俵藤太と、藤太に大ムカデ退治を依頼した竜王を祀る勢多橋龍宮神社があり、その横に、藤太の追善供養のため建立された雲住寺がある。雲住寺伝承では、940年ごろに俵藤太伝説が生まれたと案内板に記してある。
壬申の乱は672年の出来事であるが、日本書紀にも記載され、1988年には下流の川底から壬申の乱にまで遡ると思われる橋脚台が発見されたと案内板に記してあるので、確かに史実としてあったと思われる。しかしその270年後に生まれた俵藤太の大ムカデ退治伝説は、いかにも伝説っぽいが、実在の寺社に結びついているところが面白い。
<敗軍の将を祀る将軍塚>
壬申の乱を制した大海人皇子は、大津宮には用はないとばかり飛鳥浄御原に都を移し、673年に天武天皇として即位した。大津市民としては、大津宮がその時どうなったのかに関心があるが、よく分かっていないらしい。懐風藻序文に、宮殿、民家が焼亡したとあるが、考古学的に確認できていないとのことである。天武天皇が命じて編纂された日本書紀には、当然ながら全く記載がない。
考古学的に大津宮の存在が確認できたのも、このウェブログの「志賀の都探訪」で触れたとおり、1970年代に入ってからのことであるから、今後の地道な考古学的調査が大津宮の終焉の模様も解明していくのであろう。
しかし、当時の人心は乱の敗者や死者を悼んで、大津市内の方々に敗軍の将、大友皇子やその功臣を祀って、1300年以上経た現在に伝えているので、7世紀の大乱の一端を知ることは出来る。我が勤務先の工場内の功臣塚もその一つであるが、大津市史から、工場塀横の美崎町にも、大友軍の将軍智尊を葬ったという将軍塚があると知ったので探訪してみた。
昭和40年頃は美崎町は全くの田園であったが、今は住宅地になり家が立て込んでいる。将軍塚が残っているかどうか懸念したが、現在もこんもりとした林に囲まれた智尊の塚らしい祠が祀られていた。しかもそのあたりは今も青々とした水田が残っており、やはり伝承を守る人がいるのだと分かって何となくほっとした気持になった。
壬申の乱ゆかりの将軍塚(大津市美崎町) 将軍智尊を祀ったと思われる祠
<茶臼山古墳の葬り塚と壬申の乱史跡顕彰碑>
将軍塚のある美崎町から国道1号線に出て膳所方面へ向うと、上記の「志賀の都探訪」や前編の「杉浦重剛誕生の地-大津市膳所」で触れた茶臼山古墳がある。古墳の頂上には、大友皇子とその侍臣および大友皇子の子、大友与太王の葬り塚があり、麓には壬申の乱史跡顕彰碑がある。
大津市史の写真では、この葬り塚は柵で囲われているが、今は柵はなく、灯篭が2基と塚が数本建っているのみである。秋葉神社の背後の広場にあり、簡素で厳粛な雰囲気が漂う。麓の社務所の男性から、我が勤務先の工場長が今も毎年お参りに見えますよ、と伺った。まことに我が勤務先は、壬申の乱に縁のある会社であることが実感された。
大友皇子、侍臣、大友与太王を祀る葬り塚(大津市秋葉台 茶臼山頂上)
麓の秋葉神社社務所の前には、昭和47年に粟津史跡顕彰会が建立した壬申の乱史跡顕彰碑がある。碑の表面には、天文年間(1532-1554)に三條西三光院實枝卿が参拝して詠んだ歌が彫られており、茶臼山陵参拝詠とある。つまり、ここ茶臼山は16世紀には陵として扱われていたようである。
顕彰碑裏面には由緒が記してあり、「法傳寺古記によれば、大友皇子軍瀬田に敗れ、粟津岡南小高山前に崩御、側近ご遺体を大津宮を望む粟津岡上に葬りて殉死す。然るに賊軍の汚名を受け公然と皇子を祀ることが出来ず、皇子の御子與太王が僧となり密かに父を弔い遺言して父の廟側に葬られる。」とある。
さらに碑文の後半には、「正徳年間(1711-1715)藩主本多公修営し御陵準備を了す」とあるので、茶臼山の頂は、公然と祀ることが出来なかった大友皇子やその子、与太王の葬り塚であったが、時代を経るにつれ御陵として扱われてきたのかもしれない。
この顕彰碑では、皇子が亡くなったとされる山前(やまさき)については、粟津岡南小高山前と明記してある。山前は、地名ではなく山の先という一般名ではないかとも言われており、大津市内の、ここ茶臼山とする説や、大友皇子の子、与太王が建立した園城寺のある長等(ながら)山とする説があるらしい。
<御霊神社>
将軍塚のある美崎町から国道1号線を石山方面に向い、粟津交差点を右折すると我が勤務先の正門に至るが、その斜め向いの北大路1丁目に御霊(ごりょう)神社がある。神社があることは入社以来知っていたが、傍の大津市役所晴嵐支所にはしばしば行くことがあったものの、神社には用はなく関心もなかった。
ところが今回、このあたりが壬申の乱の戦場であったと知ったので、ふと気になって御霊神社を覗いてみたところ、案の定祭神が大友皇子とあった。つまりこの御霊神社は大友皇子を祀る神社だったのである。しかも祭神大友皇子と書かれた表札には天応元年築社殿とあるから、最初の社殿は壬申の乱後109年経った781年に建てられたことになる。
大津市史には、大友皇子を祀る神社として鳥居川町の御霊神社と、瀬田川を挟んだ対岸の大津市瀬田6丁目の御霊神社が出ているが、この北大路1丁目の御霊神社は出ていない。御霊神社は特定の人の霊を慰める神社であろうから、大友皇子の場合は大津市内のあちこちにあるのだろう。京都には有名な上と下の御霊神社があり恨みを残して死んだ皇族関係者が祀られている。
鳥居川町は北大路1丁目の直ぐ近くなので足をのばして訪れてみたところ、大津市史に出ている鳥居川御霊神社があった。境内の中に大友宮という扁額のかかった鳥居があり、大友皇子を祀る神社であることが明白である。字がかすれた由緒書を目を凝らして見ると、祭神は弘文天皇、大友皇子命、創建は大友與多王の指図により白鳳4年、674年とあるから、壬申の乱終戦の2年後である。
御霊神社(大津市鳥居川) 大友宮の扁額を掲げた鳥居
由緒書(字が霞んで読めない!) 大友皇子を祀る簡素な社殿
鳥居川御霊神社の現地を訪れて気がついたことであるが、大津市史に出ている鳥居川御霊神社の写真は、北大路1丁目の御霊神社のものと間違っているようである。ここの社殿は写真のように大変簡素な造りである。乱の直後に密かに大友皇子を祀った為かもしれない。乱後109年経って建てられたと思われる北大路1丁目の御霊神社の社殿はこれより立派である。もっとも創建時の姿は分からないが。
<弘文天皇稜(長等山前稜)>
弱冠25歳で亡くなった大友皇子が、父、天智天皇の死後、即位したかどうかは史料的には明らかではない。日本書紀は皇子が自殺したと記し、天智天皇の死から天武天皇即位までの間は空位としている。もし大友皇子の即位を認めれば、天武天皇にとっては都合が悪いからであろう。しかし平安時代に入ると、早くも大友皇子の即位説が現れている。
源高明の「西宮記」、「大鏡」、「扶桑略記」などでは大友天皇を既定のこととしているらしい。大友皇子が即位したかどうかをめぐって、古くから議論があったと見える。江戸後期の国学者、伴信友は「長等の山風」という壬申の乱の研究書を著し、大友皇子即位論を普及させたとのことである。そのお蔭かどうかは知識がないが、明治3(1870)年になって大友皇子に弘文天皇という諡号がおくられた。
このため、弘文天皇の陵墓を建立する候補地の選定が始まった。大津市史によれば、大津市内の長等山や膳所茶臼山古墳、石山鳥居川の御霊神社、京都府大山崎町の宝寺門前古墳などが候補地となり、明治10(1877)年に長等山が選定されたとある。
弘文天皇陵は長等山麓の大津市役所の裏側にあり、長等山前(ながらやまさき)稜という。日本書紀に記された大友皇子の死地、山前を、長等山説に基づいて治定されたものであろう。もとよりこの地が山前という地名であったわけではない。この稜が出来たためであろうか、現在は大津市御陵(ごりょう)町になっている。
上述の陵墓の候補地のうち、膳所茶臼山が古くから陵としての扱いを受けていたようにも思われるが、長等山のこの付近はもともと大友皇子の子、大友与太王が建立したとされる園城寺(三井寺)の寺領であったろうから、弘文天皇の陵墓の適地として最終的に決まったのであろう。「長等の山風」の影響もあったのかもしれない。
「志賀の都探訪」でも触れたように、この付近にはフェノロサのお墓もあり、また今年のNHK大河ドラマ「風林火山」で活躍している甲斐武田源氏の始祖、新羅(しんら)三郎源義光のお墓と、源義光がその神前で元服し、新羅三郎と名乗ったいわれとなる園城寺の北院鎮守新羅明神を祀る新羅善神堂(しらぎぜんしんどう)もある。
甲斐武田家の始祖新羅三郎義光の墓 新羅三郎が元服した新羅善神堂
<石坐(いわい)神社>
大友皇子の父で大津宮を創った天智天皇は「志賀の都探訪」で触れたように、近江神宮の祭神となって祀られているが、天智天皇と弘文天皇の父子を祀る神社が大津市西の庄にある。石坐(いわい)神社といい、JR膳所(ぜぜ)か、京阪ぜぜ駅から東へ歩いていけば7、8分で達する。
古来より西の庄村の氏神として八大竜王を祀っていたとされる石坐神社は、壬申の乱後天智天皇と大友皇子(弘文天皇)父子、大友皇子の母の伊賀采女宅子、近江に縁が深いとされる開化天皇の皇子、彦坐(日子坐:ひこいます)王を祀ったと伝えられ、これら4体の木像があり重要文化財となっているとのことである。延喜式の滋賀郡式内八社の一つになっている。
石坐(いわい)神社の入口鳥居 文永3(1266)年建立とされる現社殿
入口鳥居の傍には、天智天皇に因んだ時計の石碑も建っている。大友皇子は、天智天皇と伊賀采女宅子の皇子であり、最初は伊賀皇子と呼ばれていたらしい。のちに大友皇子と呼ばれるようになったのは、大津宮で皇子の教育にあたった百済からの亡命学士達と、大津京に勢力を張っていた渡来人系の大友氏が結びついていたからではないかと、大津市史には記載がある。
<現在も大津市に残る大友氏の氏寺:法傳寺>
前述の膳所茶臼山麓の壬申の乱史跡顕彰碑由緒に記された、法傳寺古記を所有する法傳寺が石坐神社の直ぐ近くにある。2、3年前に、NHKの歴史番組(その時歴史が動いた!)が壬申の乱を取り上げた時に、大友氏の末裔であられる法傳寺住持の大友さんが出演されていた。
大津市史にも天智天皇と大友皇子の霊牌を祀っていると出ているので、石坐神社の帰りに法傳寺の前を通ってみた。入口に「天智天皇御尊牌奉安 法傳寺」と彫られた石碑が建っている。中門がお寺の雰囲気を与えてはいるが、入口の石碑がなければ普通のお家とみまがうような雰囲気である。一礼して辞去した。
<近江京(おうみのみやこ)の申し子:大友皇子>
学校で習う歴史は、通常正史とされる文献や学説からの記述が主体となるので、知らず知らずのうちに勝者の歴史を学んでいることになる。壬申の乱に関しても勝った天武天皇が正統であるくらいにしか思っていなかったが、大津市に残る史跡を訪ねてみて、歴史認識はもう少し複眼観察が必要であると感じた次第である。
751年に成立した日本最初の漢詩文集「懐風藻」は、大友皇子の曾孫の淡海三船(おうみのみふね)が編者とされており、近江朝廷に同情的な筆致が多いそうであるが、冒頭に、大友皇子の有能さを当時来朝した唐使が賛嘆し、作った五言絶句を載せているという。
大友皇子は20歳から25歳の死までを大津宮で過ごしたので、667年から672年までの5年間の都であっ近江京の申し子ともいえる。当時の近江京の人々がその死を悼み、また飛鳥浄御原への遷都のショックもあって、逆賊となった大友皇子を密かに手厚く弔ったことは想像に難くない。
1300年以上経った現代においても、知る人ぞ知るでその霊が祀られていることは大津市にとって誇りとすべきことであろう。その中に、私が37年間勤めた会社も入っていることも再認識できて何やら嬉しい気持ちになった。
<後日談:千葉県君津市や長野県塩尻市に残る大友皇子の伝説>
私は滋賀県が本拠の会社を定年でリタイヤした後、第2の会社に勤めることになり千葉県の袖ケ浦の研究所に1年半ほど単身赴任していた。その間、房総半島を良く回ったので、君津市の新日本製鐵の公開施設も見学したことがある。
その時は知らなかったが、この壬申の乱を調べていると、大友皇子が君津に逃げて来たという伝説があり、君津市小櫃地区の白山神社に大友皇子が祭神として祀られていることを知った。君津市の歴史にはその伝説が詳細に紹介されている。
またこのウェブログを読んだ長野県塩尻市の方から、「その昔私の地元、塩尻市の郷福寺にも天智天皇の位牌があったとのことで、法伝寺の位牌との関係を知りたく思っています。もし同じものであるとすると、天智天皇の、或いは弘文天皇(大友皇子)の関係者がこの信州まで落ち延びて来たとも考えられます。」とのコメントを頂いた。
大友皇子は若くして敗軍の将になったが、学問も出来、優秀な人物とされているので、源義経と同様、その信奉者が多く存在し、その死を悼んで生存説を信じた人が多かったことが分かる。
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