杉浦重剛誕生の地-大津市膳所-
大津市膳所出身の教育者杉浦重剛
<教育論議> 安倍内閣の教育再生論議が百家争鳴である。アメリカに押し付けられた戦後の民主化教育は、国籍不明の誇りなき日本人を作ってきたのでないのかとの意見もある。とすると、太平洋戦争開戦の時期に生まれ、戦後直ぐに初等教育を受けた我々の世代はさしずめその一期生になるが、家庭には明治、大正生まれの硬骨漢の親がいたので、貧乏でも誇りは高く持たねばならぬという、昔からの日本人の意識は持たざるを得なかった。
しかし今や教育への危機意識は国民一般にも根強い。国際化という名のアメリカ化に踊らされてきた日本人は、武士道精神に基づいた世界に誇るべき情緒と形の文明を永らく忘れて、社会を荒廃させてきた、と、感受性と伝統を大事にする初等教育論を説く、お茶の水女子大学藤原正彦教授の著書「国家の品格」に共感を覚えた人が多かったようでベストセラーになった。
明治維新の後にも、教育に関して今の時代と良く似た時代があった。つまり維新政府は不平等条約改正に向け極端な欧化主義に走り、廃仏毀釈を始めとして日本文化を省みない政策をとった。これに反発して、西洋科学主義を肯定しつつも、日本の文化を大事にして世界に通用する日本人を育成しようと燃えた教育者が、近江国膳所(ぜぜ)藩(現在の滋賀県大津市膳所)に生まれた杉浦重剛(しげたけ)である。
しかし杉浦重剛は、近江聖人といわれた中江藤樹ほどには滋賀県民に熟知されているとは言えず、各言う私自身も高校の歴史で名前を知っていたくらいで、膳所の近くの園山(そのやま)に長く住みながら、遺蹟の存在やその業績のことはまるで知らなかった。
このウェブログの「中江藤樹と雨森芳洲」の編で、杉浦重剛が藤樹神社の社標の揮毫を行ったことや、昭和天皇の皇太子時代にご進講役を努めたことに触れたのを機に、重剛のことを少し調べてみたところ、現在も重剛ゆかりの杉浦家旧宅や遺蹟が大津市膳所に保存されていると知ったので、その足跡を追うべく旧宅や遺蹟を訪れてみた。
因みに、ここ大津市膳所の町では、明治、大正時代を代表するピアニストであった久野 久(くの ひさ)も誕生している。東京小石川の伝通院には、奇しくも大津市膳所出身のお2人のお墓がある。
杉浦重剛の墓所(東京小石川伝通院)
<杉浦家旧宅> 京阪電車の石坂線に乗り、瓦ヶ浜という駅で降りると大津市杉浦町である。元は南浦という地名であったらしいが、大津市は昭和39(1964)年に南浦、北浦と上別保、下別保他近くの3町の一部も併せて、杉浦重剛ゆかりの杉浦町とした。白壁の土塀に囲まれた旧宅は、瓦ヶ浜の駅から歩いて5分くらいの閑静な住宅地にある。
杉浦重剛先生誕生地碑 塾に用いたこともある旧宅
門前に杉浦重剛先生誕生地の石碑が建っている。この旧宅は大正13(1924)年に重剛が歿した後の大正15(1926)年、膳所町が杉浦家から譲り受けて町有となった。昭和8(1933)年の大津市と膳所町の合併時に大津市有となり、昭和16(1941)年に屋敷の整備が行われ、膳所藩士邸形式の門や塀が設けられた。
昭和43(1968)年のびわ湖博覧会の時に、冒頭写真の杉浦重剛銅像が建ち、昭和56(1981)年には、びわ湖国体の記念事業として旧宅の大改修や土塀の改修が行われ、昭和61(1986)年にも、門や戸障子の改築がされたとのことである。
杉浦家旧宅は大津市が管理していて無料で見学できるが、実務は地元の自治会に委ねているらしく、向いのお宅に一声かけて見学するようになっている。向いのお宅は大変だなと思ったが、来客が氏名を記入するノートを見るとそれほど訪問客が押しかけている様子はなく、先客の来訪は1ヶ月近く前であった。
旧宅部屋に掲げてある杉浦重剛の墨蹟、額、掛け軸、詩歌や写真
旧宅の玄関を開けて入ると、6畳一間くらいの部屋があり、杉浦重剛ゆかりの品々が所狭しと飾ってある。仏壇もあったので滋賀県出身の偉人に敬意を表し、お参りした。冒頭に掲げた写真が壁に貼ってあり、「御進講当時の肖像」とあるから、若き昭和天皇への講義の時の肖像写真であろう。
<茶臼山の石碑と公園> 大津市膳所の街には、昭和10(1935)年に東海道線車窓から見えるようにと、膳所秋葉台の茶臼山に「杉浦重剛先生誕生地」と大書した石碑も建てられた。現在も杉浦重剛先生碑公園として秋葉台への上り口に残っている。もちろん今は間に国道1号線が走り、周りには住宅やマンションが建っているのでJR車窓からは見えない。
茶臼山「杉浦重剛先生誕生地」の石碑 公園内で見た変形樹木
因みに茶臼山は、以前このウェブログの「志賀の都探訪」で触れた秋葉神社のある茶臼山古墳のことである。国道1号線の秋葉台交差点から、古墳へ上る道へは曲らずに、秋葉台の方へまっすぐ進むと右手に杉浦重剛先生碑公園がある。
<教育家杉浦重剛> と、出身地膳所では高く顕彰されている教育家杉浦重剛であるが、一般の滋賀県民にはそれほど熟知されていない理由は、安政2(1855)年に生まれ、16歳までは膳所の藩学校遵義堂(今の県立膳所高校)や京都で学んだものの、明治3(1970)年に膳所藩の貢進生として東京開成学校(今の東大)に派遣されて以降は、彼の教育家としての活躍は主として東京が舞台になったからと思われる。
明治9(1876)年には文部省留学生としてイギリスへ派遣され化学を修業したが、病気のため4年後に帰国した。しかし療養もそこそこ文部省から職を命じられ、明治15(1882)年に東京大学予備門長となった。明治18(1885)年には同志達と東京英語学校を設立したが、この学校こそが教育者杉浦重剛が生涯最も力を注いだところである。
この時期明治16(1883)年には、自宅に称好塾という私塾も開いて青少年の教育にあたった。従って杉浦重剛の門下生としては、東京英語学校の学生と称好塾の塾生がいたわけである。
明治10年代は外来の個人主義や国家主義が台頭し、西洋崇拝が頂点に達した時期であった。杉浦重剛は欧化主義の極端な進展で日本古来の風教道徳が頽廃することを憂い、日本人として日本の文化を大事にするという意味での日本主義を唱えた。フェノロサが日本美術の真価を認め、その破滅を救ったのもこの時期であり、相通じるものがある。
東京英語学校は神田に設立されたが明治25(1892)年の神田大火で焼失し、同年半蔵門外に尋常中学校として再建され、明治32(1899)年には日本中学校と改称された。日本中学は大正5(1916)年に新宿淀橋に移転して大正期を過ごすが、大正13(1924)年に杉浦重剛が死去し、直接の指導はここで終わった。
<日本学園> しかし日本中学は創立者杉浦重剛の教育精神を理念として経営を進め、昭和11(1936)年には淀橋から世田谷区松原に移転した。現在もこの地で日本学園という名称になって、杉浦精神を脈々として受け継いでいる。新宿へ行く機会があったので、京王線明大前まで足をのばし日本学園の傍まで行ってみた。
通りに面した生垣に創立1885(明治18年)日本学園中学校・高等学校と書かれた看板が目に付く。門柱には歴史を感じさせる青銅色の標識が掲げてあり、それぞれ日本学園中学校、日本学園高等学校と彫られている。入った直ぐのところに杉浦重剛の洋装姿の銅像が建っていたが、夕暮れ時であったので写真では良くみえない。
創立1885(明治18年)の看板 日本学園(入った所に杉浦重剛銅像)
日本学園のホームページを見ると、神田錦町の東京英語学校時代、半蔵門、淀橋、松原の日本中学校時代、日本学園時代の人物群像が出ているが、実に多くの偉大な人物を輩出しているのに驚かされる。杉浦重剛の感化を直接受けたのは、東京英語学校や半蔵門時代の日本中学校の卒業生ということであろうが、この時代は特に文化勲章受章者が多い。日本の文化を大事にすべしという重剛の情熱が見えるようである。
この時期の文化勲章受章者として、横山大観、鏑木清方、佐々木信綱、永井荷風、長谷川如是閑、鈴木虎雄、岩波茂雄らが挙がっている。さらに菱田春草、上田敏、高山樗牛、森田草平らの画家や作家、朝永三十郎、小川琢治らの学者(このお二人はノーベル賞受賞者の朝永振一郎と湯川秀樹のご尊父でもある)等の錚々たる文化人の名前がある。
政界人では吉田茂が半蔵門時代にいた。吉田茂は太平洋戦争の敗戦国日本の首相として、マッカーサーと堂々と渡り合って日本の戦後処理を誤らなかった大宰相である。昭和25(1950)年のサンフランシスコ講和条約調印の直前に吉田茂が日本学園を訪れ、恩師の御霊に自書の額を献上するとともに、母校の学生達に外交立国論を一くさり講義し、もみくちゃにされてご機嫌で引き上げたとのエピソードも紹介されている。
その他変わり種では、オギノ式産児制限法創始者の荻野久作、一校寮歌「嗚呼玉杯」の作詞者矢野勘治、同作曲者の楠正一、「何と申しましょうか」を流行させたプロ野球解説者の小西得郎、丸山ワクチンの丸山千里、アッちゃんの漫画家岡部冬彦の名前もある。
<誤解されてきた杉浦重剛> 上述のごとく門下生から日本の代表的な人物が数多く輩出したことから、終戦までは多くの日本人から優れた国師として尊敬を受けた杉浦重剛であったが、戦後のアメリカの占領政策は杉浦重剛を右翼、国粋主義者の一言で抹殺してしまった。つまり彼の唱えた日本主義が、右翼の国粋主義のバックボーンになったと誤解されたと思われる。
今でもネットで「杉浦重剛」を検索すると、ウィキペディアや、はてなダイアリーでは、国粋主義を主張とか、右翼思想の源流とか出ているので、このような誤解は続いているようである。もちろん、日本の文化を重んじた日本主義の第一人者だったが、西洋科学主義も肯定し、両者の協調を目指していたと正当に記述しているウェブサイトもある。
門下生の錚々たる顔ぶれを見ると、彼の日本主義が右翼や国粋主義者に利用されたことはあっても、彼自身が右翼思想や狭い意味での国粋主義思想を持っていたとする見方は、見当違いであることは一目瞭然であろう。当時の占領軍にとって日本人のサムライ意識を薄めることは使命だったはずであり、その影響を蒙ったと思う。
重剛の出身地の滋賀県教育界でも戦後は教職員の適格審査による追放旋風が吹き荒れ、占領政策に押し流されて誤った杉浦重剛観のまま放置され、大切な図書も散逸してしまったと、昭和38年に地元の膳所小学校の校長になられた石川哲三先生が述懐されている。
石川先生はこの頃から膳所小学校の関係者とともに、郷土の生んだ教育者杉浦重剛を正しく伝えるための活動をされ、昭和50~60年にかけて数々の著書も出された。滋賀県立図書館にはそれらの著書が揃っている。平成15(2003)年には元毎日放送ディレクターの渡辺一雄氏が「明治の教育者杉浦重剛の生涯」を著し、現代日本の精神的荒廃に警鐘を鳴らしている。
これらの著書の言わんとするところは、今、「公共心」、「道徳心」、「規範意識」、「伝統、文化の尊重」、「国を愛する心の大切さ」が重要と、国の教育再生委員会も唱えているが、これらはいずれも杉浦重剛が極端な欧化主義が蔓延していた明治から大正期に説いてきたものばかりである、ということである。
「美しい国」(逆さまに読むと、「憎いし苦痛」になるのでそうはなって欲しくないが・・)を唱える安倍首相や教育再生会議の面々は、杉浦重剛をどう評価しているのだろうか。
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