再び湖南の芦浦観音寺
滋賀県草津市の浜街道沿いにある芦浦観音寺のことである。昨年訪問した時には境内には入れなかったが、地元の女性から「来年5月の連休にいらっしゃい、公開されますよ。」と言われたことを覚えていたので、連休前にご住職宛にお伺いしてみたところ、「ボランティアの方々の協力を得て5月4日と5日に公開します。」とのお返事を頂いた。そこで2007年5月5日に再訪した。
信長の叡山焼討ちの際に多数の仏像や仏画が運び込まれて、近江の正倉院と呼ばれるほどの文化財が残る芦浦観音寺の公開とあって、普段は静寂な寺域にかなりの拝観客が訪れていた。通常は閉鎖されている表門が開いてご住職や地元の方々が受付をされており、境内では揃いの黄色のジャンパーを着た草津市教育委員会のボランティアの方々が手分けして説明や案内をされていた。
芦浦観音寺の由来や、およその歴史についてはこのウェブログの「湖南の草津界隈」編で触れた。境内から発掘された瓦片から、7世紀後半の白鳳時代に既に寺院が存在していたが、いったん観音寺廃寺になった後、室町時代の1408年に歓雅(かんが)が中興し、初代住持になったという。
<表門>
冒頭写真に掲げた表門は、以前触れた伊賀上野の入交家住宅と同様、武家屋敷に多い長屋門形式である。草津市教育委員会が平成10年に発行している「新草津の歴史」第3号には、この長屋門は江戸時代前期の作と推定されている。寺院と武家様式の表門の組合せはしっくり来ないが理由がある。
5代目の輿頊(こうぎょく)以来室町幕府から湖上管船奉行を掌り、8代目賢珍、9代目詮舜(せんしゅん)は秀吉の知遇を得て、一城主の地位に置かれた。このため境内を土手石垣で囲み、濠もめぐらして城郭のような寺院になった。表門の傍の石垣や濠はその面影を今に残している。従って表門が武家様式になっていても不思議はない。
<中門と土塀>
表門から境内へ入ると正面に中門があり土塀が左右に続いている。拝観者は中門ではなく土塀の開いたところから庭に入っていくようになっている。もともとは土塀で囲まれた寺院であったのを、戦国の世に入ってからさらにその回りを石垣で囲い、濠をめぐらしたのかと想像した。
<本堂>
本堂でボランティアの方が歴史など説明していると聞いて、まず本堂に向った。屋根が三段になった面白い形の本堂である。特に最前面の玄関屋根は蒲鉾のように丸みを帯びた形をしており、道後温泉の坊ちゃん風呂を彷彿させる。祭壇のある大広間で、ボランティアの方が「芦浦観音寺を取り巻く歴史の概略」というテーマで説明されていた。
それによると、8代目賢珍は1571年の信長の叡山焼討ちの後、山門再興を請願し、9代目詮舜の時に自らの財力で堂や僧坊を再建し、復興を軌道にのせた。10代目朝賢までは家康にも重用されたが、13代目朝舜のときになって徳川幕府の中央集権化の方針により代官や船奉行職を罷免された。以後、観音寺住持は江戸の東叡山寛永寺明王院を兼住し、明治維新を迎えたとのことである。
観音寺住持が江戸時代になって兼任したという東叡山寛永寺明王院を確かめたくなって、2008年夏に上野の森を探訪したところ、意外なドラマがあった。これについては後のウェブログ「上野と滋賀と天海大僧正」で触れた。
<書院>
本堂から飛び石伝いに行ける書院は、重要文化財に指定されている。古びた木製の筆書きされた案内板があり、国寶書院(一名御茶屋御殿)とある。室町時代足利義秋が京都室町に建立し、その後豊臣秀吉が伏見城に移し、さらに徳川家康が近江野洲郡永原に移築して、東海道上り下り時の宿舎にあて、永原御殿と呼ばれたらしい。
5代将軍綱吉の時に上洛のルートが変わって永原御殿が不要になったので、1685(貞享2)年に、当時御殿奉行を務めていたこの観音寺に建物が寄附されたとのことである。明治30年4月に国寶建築物に指定を受けたとあるので、もとは国宝であったらしい。1559(永禄2)年の祈祷札が見つかっているので室町時代の産物と裏付けられているそうである。
書院の床の間には豊臣秀吉ゆかりの翡翠床飾りや蒔絵の工芸品の写真が展示されていた。また、書院の一角に仏像、仏画や織田信長判物や豊臣秀吉朱印状などの観音寺文書と呼ばれる書の写真も展示されていた。本物はいずれも博物館などの専門施設に寄託されているということである。盗難や破損などから文化財を護るために色々な苦心があるのだろう。
<阿弥陀堂>
阿弥陀堂は書院とともに重要文化財に指定されている。もともと芦浦観音寺の本寺は京都にあった普勧寺とされており、この阿弥陀堂は、普勧寺の本堂であったものを、天文22(1553)年に普勧寺が芦浦に本拠を移した際に移築されたものと伝えられているらしい。
従ってこの阿弥陀堂は、建立年代こそ不明であるが、室町時代の禅宗の建築様式を伝えているので、禅様式の建築が少ない滋賀県にあっては珍しい建物とされている。確かに禅風建築独特の簡素にして端麗な姿であり、見るものを飽きさせない。元は境内の別のところに建っていたが、明治時代の解体修理の際、防災上の観点から現在位置に移築されたとある。
阿弥陀堂から少し離れたところにも歴史を感じさせる古い建物があったので、ボランティアの方に聞くと、聖天と呼ばれているとのことであったが詳細は分からなかった。これも防災上の観点から境内の別のところから現在地へ移築されたとのことである。
<下物(おろしも)の白鳳寺院 花摘寺跡>
ご住職や受付の地元の方々に拝観のお礼を述べて芦浦観音寺を辞去したが、参道の入口にいた方から、近くの下物(おろしも)地区に、観音寺と同様白鳳時代に建立された花摘寺跡があると伺ったので、それなら寄っていこうと下物地区に向った。
芦浦から湖岸方向へ向い、浜街道を横切ると下物地区になる。下物(おろしも)とは面白い地名だと以前から思っていたが、花摘寺跡を探索したおかげでその由来を知ることとなった。探し求めた花摘寺跡の案内板は、下物の天満宮の入口右手に金網で囲まれて立っていた。
それによると開基は聖徳太子とされ、花摘寺という名称は後の時代の命名で創建時代の名前ではないが、出土する瓦の特徴から7世紀後半の白鳳時代の建立とされる。寺院の廃絶時にできた瓦溜りの遺物から平安時代半ばに廃寺になったらしい。出土した1400年前の礎石が案内板の後ろに転がっていて、ローマのフォロロマーノを思い出した。
天満宮の入口の鳥居の左側に、聖徳太子と書かれた常小(おそらく常盤小学校)6年生の手になる手書きの案内板があり、そこに下物(おろしも)の地名の由来が書いてあった。つまり下物という地名は、1400年前に聖徳太子が物を下ろしたことに由来すると書かれている。
またこの案内板には、下物天満宮には、聖徳太子堂があって屋根に聖徳太子と書かれています、瓦の先にも聖とかかれています、ともあったが、実はこの記載は帰宅してから写真を見直して見つけたので確認できなかった。天満宮は藤原道真を祀っているのであろうから、聖徳太子堂との関係も含めていずれ確認しようと思っている。
常盤小6年生の手になる案内板 下物の天満宮鳥居
<白鳳時代の栄華>
以前のウェブログ「湖南の草津界隈」編でも触れたように、この地区は常盤地区と呼ばれ白鳳時代の廃寺院跡が7ヵ所もある。つまり7世紀後半にはこの地区は栄華を極めていたともいえる。芦浦観音寺も花摘寺もその寺院群を構成していたと思われるが、現在の静かでのどかな田園風景からはそのような栄華を極めた地とは及びもつかない。
そんな歴史の変遷を感じているうちに、前回の訪問時には既に終わっていた近くの志那にある三大神社の藤が満開ではないかと思いつき寄ってみたところ、まさに満開であった。この藤も「湖南の草津界隈」で触れたように由来は白鳳時代に遡るので、満開の藤はこの常盤地区の白鳳時代の栄華を語っているようにも思えた。
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滋賀県草津市志那の三大神社の藤(2007年5月5日撮影)
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