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2007.03.24

伊能忠敬の墓所-浅草源空寺-

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           浅草源空寺の史跡墓地

偶然、伊能忠敬(いのうただたか)ゆかりの地を再び訪れることになった。というのは、これまで東京に泊まるときは東京駅に近い日本橋のホテルを常宿にしていたが、このホテルの耐震偽装が発覚し宿泊できなくなってしまったので、代わりにネットで検索した上野近くのホテルに泊まったところ、浅草源空寺が近くにあることに気がついたからである。

浅草の源空寺には、このウェブログの「伊能忠敬と間宮林蔵」編で触れたように、伊能忠敬が師の高橋至時(たかはしよしとき)の墓の傍に葬るように遺言した、その墓がある。

  • 伊能忠敬と間宮林蔵
  • 2002年に、リタイア組の鑑として尊敬していた伊能忠敬の大業に触れるため、千葉県佐原市の伊能忠敬記念館を訪れたが、今回はその墓に詣でる良い機会となり早速源空寺を訪れた。

    <源空寺>
    源空寺は、法然が開祖の浄土宗の寺で開山は円誉霊門である。徳川家康が円誉に帰依し、1604(慶長9)年に寺地と法然上人源空にちなんだ源空寺の号を円誉に与えて湯島の地に建立された。しかし1657(明暦3)年の大火で現在の浅草(台東区東上野)に移転した。

    東京メトロ銀座線の稲荷町から歩いて7,8分のところにある。付近一帯には寺が多く、仏具や法衣などの店も多いので、まるで寺町とでもいった地域である。境内には美しい本堂と、3代将軍家光が寄進した銅鐘が吊られている鐘楼があり、簡素で落ち着いた雰囲気の寺である。

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             源空寺本堂             家光寄進の銅鐘がある鐘楼

    <史跡墓地>
    伊能忠敬のお墓は境内の中ではなく、通りを挟んだ向い側の源空寺墓地の中にある。冒頭写真のように、門柱の片方には「源空寺墓地」とあり、もう一方には「史跡墓地」の標札がある。塀で囲まれた源空寺墓地はそんなに広くはない。墓標が右、中央、左の3ブロックに並んでいて、木立のある中央のブロックが史跡墓地になっている。

    このブロックには、高橋至時と伊能忠敬の師弟の墓の他に、高橋至時の嫡子高橋景保や侠客幡随院長兵衛、文人画家谷文晁の墓もある。伊能忠敬と高橋至時のお墓の前には、台東区教育委員会が建てた案内板が立っている。

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       木立のある中央列が史跡墓地         伊能忠敬と高橋至時の墓

    <日本地図の父母>
    伊能忠敬は1795(寛政7)年、50歳の時に、19歳年下の高橋至時の弟子となった。この時代、ロシアが大黒屋光太夫らの漂流民を伴って根室に来航し通商を求めたり、イギリス人が室蘭沖に来航して日本海沿岸を測量したり、近藤重蔵が択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てたりした時期で、幕府が蝦夷地に注目するようになった時期である。

    当時の幕府は寛政の改暦を企画していたが、それまでのお抱え学者には実力がなく、大阪で西洋暦学を研究していた民間の麻田剛立(あさだごうりゅう)に当たらせようとした。剛立自身は高齢のため断ったが、最も信頼していた弟子の高橋至時と間重富(はざましげとみ)を推薦し、高橋至時は幕府の天文方に任ぜられた。

    伊能忠敬はこのときに高橋至時の門人となって西洋暦学を学んだ。江戸深川の自宅に幕府の天文台に比べても見劣りしない観測機器を揃え、天文台にこもって昼は太陽、夜は恒星を観測し、天体の観測や測量技術にかけては至時の門下第一の実力を備えたという。

    その頃の暦学上の大問題は、緯度1度の距離が何里か、ということであった。高橋至時は上記の蝦夷地情勢も勘案して、蝦夷地の測量を行って幕府が必要とする精密な地図を作るとともに、緯度1度の長さを実測することを企てた。その実務担当者としては、熱意、実力、経済力のある伊能忠敬をおいて他にいないと考えたらしい。

    このことが伊能忠敬のその後の人生を決定し、大日本沿海輿地全図の作成に結びつくとともに、忠敬の実測値と至時の最新オランダ暦書の翻訳が一致して、緯度1度が28里2分にあたるという結果にも結びついた。佐原の伊能忠敬記念館にはこのことを示す本が展示してあったように思う。高橋至時の墓前の案内板には、2人は後世「日本地図の父母」といわれているとある。

    このように年齢を超えた2人の師弟としての交流があったが、至時が1804(文化1)年、41歳で早逝した。忠敬にとっては青天の霹靂であったに違いないが、若い(と思っていたかどうかは分からないが)師への生涯の尊敬の念が、1818(文政1)年、74歳で没したときに師の至時の墓の傍に葬るように、という遺言になったのであろう。

    伊能忠敬は1745(延享2)年、高橋至時は1764(明和1)年の生れであるから、2人が生まれた時は源空寺は既に浅草の現在の地に移転していたことになる。墓碑には、高橋至時は東岡(とうこう)、伊能忠敬は東河(とうが)と2人が用いた号が刻んである。

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     東岡高橋君之墓(高橋至時)       東河伊能先生之墓(伊能忠敬)

    <シーボルト事件>
    前述の「伊能忠敬と間宮林蔵」編でも触れたように、高橋至時の長男、景保(かげやす)が1804(文化1)年に父の跡を継いで幕府の天文方になり、伊能忠敬の実測をもとに忠敬の歿後3年の1821(文政4)年に、「大日本沿海輿地全図」を完成させた。伊能忠敬の世紀の大業も高橋景保の支援があって初めて世に出たわけである。

    しかし高橋景保は開明思想に富んでいた人であったらしく、シーボルトから「世界周航記」を贈られた代わりに、大日本沿海與地全図の縮図を贈ったことが発覚し、所謂シーボルト事件が起きて投獄され1829(文政12)年に獄死した。発覚の端緒に伊能忠敬の弟子であった間宮林蔵が絡んでいたことも前編で触れた。

    ここ源空寺墓地の史跡墓地ブロックに入った直ぐのところ、父至時と忠敬の墓の手前に高橋景保の白い墓が建っている。玉岡(ぎょくこう)という号が刻んである。ちょうど掃除をされていた墓守の方から、背後の石碑がシーボルトに関係しているようですよ、と教えて頂いた。

    案内板がないのでその時は良くは分からなかったが、景保の墓に面した側に「為天下先」という題字があり、裏面にドイツ語らしき原文とその下に翻訳文らしき日本文が彫ってある。石碑は割れてひびが入っているが、日本文の最後にシーボルトという字が見えた。

    日本文は、「余が此海路の詳細なる形圖と 多少水路學的観察とを報ずるを得たるは 吾等に同行せる日本人の好意と 下關の余の友人の援助 殊に余の忘れ得ざる援護者たる幕府天文方 高橋作左衛門に感謝せざるを得ず  シーボルト  小澤敏夫譯」とあり、シーボルトから高橋景保への感謝文である。

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          玉岡高橋景保墓         頌徳碑(シーボルト著「日本」の一文有り)

    帰ってからネットで検索してみたところ、「全国地図測量史跡」全文紹介というサイトが見つかり、その中にこの石碑のことが述べてあった。この石碑は昭和10年に景保の墓に併設された頌徳碑(しょうとくひ)で、題字の「為天下先」は徳富蘇峰の筆であり、原文はシーボルトの著書「日本」の一節ということであった。

    つまり高橋景保は国禁を犯した罪人であったので、当時は彼の業績は評価されることもなかったが、開国した日本という立場から見れば彼は先見の明のある人物であったわけで、シーボルトの著書によって日本が外国から見下されず、開国がスムースに進んだことへの貢献は大きかったといえる。

    徳富蘇峰を始めとする有志たちが高橋景保を歴史的に再評価し、功績を賞する頌徳碑を建てたのはそういう意味合いがあったのであろう。「為天下先」という蘇峰の撰文にその意味が込められているように感じた。

    <数学オタク>
    何の本で読んだのかは忘れてしまったが、鎖国していた江戸時代にはおよそ科学的な知識や思考法は入って来なかったと思うのは大間違いで、江戸時代にも今で言う数学オタクがゴロゴロ居たそうである。伊能忠敬や高橋至時などはさしずめその筆頭数学オタクであったらしい。

    しかも江戸時代の数学のレベルは、当時の世界レベルで見ても相当進んだものであった。お茶の水女子大学の藤原正彦先生も数学者であるが、その著「国家の品格」の中で江戸時代の数学者、関孝和に触れておられ、関孝和という数学者は、元禄の少し前に行列式を世界で初めて発見した、と書かれている。

    行列式はドイツの大天才ライプニッツが発見したと世界中の人が思い込んでいるが、その十年も前に関孝和が鎖国の中、独力で発見し使用したのだそうである。このような高いレベルにあった江戸時代の数学オタク達が、国の文化レベルをあげ、シーボルトやペリー、ハリスなどの開国前後の日本を見た欧米人に、日本は違うと思わせたのであろう。

    江戸時代は封建社会であり、鎖国体制で進取の機運に乏しかったように思い勝ちであるが実際はそうではなく、このような民間の基礎学力の高さや活力が人材を生み、その後の開国時に欧米列強に一目おかせ、植民地化を防いだともいえる。江戸時代の数学オタクたちに敬意を表して本編を終わる。

    <追記>
    江戸期の科学については、この後のウェブログ「江戸のたそがれ-天保期のスーパー才女-」の中で少し触れた。

  • 江戸のたそがれ-天保期のスーパー才女-

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