伊賀市上野に残る武家屋敷-入交家住宅-
入交(いりまじり)と読む。以前は難読苗字にランクされていたらしいが、ホンダの副社長からセガの社長になられた入交昭一郎氏が、華麗な転進と報道されたりしたので今はさして難読とはいえない。入交昭一郎氏も高知出身であるが、ネットで見ると今も入交グループというゼネコンが高知県にある。入交氏はもとは土佐藩の長宗我部氏の家臣であるので、そのご子孫が高知県に根を張っているのであろう。
1600年の関ヶ原の戦いでは長宗我部氏が西軍についたため東軍に破れ、家臣の入交氏も無禄になったが、伊予宇和島8万石から伊予今治20万石に加増移封された東軍の藤堂高虎が積極的に土佐衆を召抱え、当時の入交家3兄弟が藤堂高虎に属した。藤堂高虎はその後、徳川家康に重用され伊勢・伊賀32万石を与えられたので、入交3兄弟もこの時伊賀上野にやってきて居住したとされる。
数代を経て宝永年間(1704~1708)に入交勘平が一家を興し、寛政年間(1789~1800)に拝領した武家屋敷が、現在の伊賀市上野相生町に残っている。平成13(2001)年から建物調査、古文書調査、発掘調査を経て保存修理工事が実施されて、平成18(2006)年8月から三重県指定有形文化財(建造物)武家屋敷「入交家住宅」としてオープンした。
ここで生まれ育った現ご当主が会社の同僚であった。ご一家はこの屋敷を文化財として残すことにされ、伊賀市が平成13年に公有化したものである。昨年の11月にご当主にお会いした際、やっとオープンに漕ぎつけたと肩の荷を降ろしたお話をされていたので、色々ご苦心があったらしい。拝見の機会を探っていたところ、2007年2月11日に訪れることが出来た。
<信楽の里から伊賀の里へ>
入交家住宅のある三重県伊賀市上野(通称:伊賀上野)は、滋賀県大津市の我家からはほぼ南になるので、車だと甲賀市信楽町を経て南下すれば1時間くらいで行ける。今年は暖冬異変で雪が降らないので、未だに役に立っていないスタッドレスタイヤを履いたまま伊賀の里へ向った。
甲賀から伊賀へというと忍者が思い浮かぶが、信楽は平成の大合併で甲賀市に編入された町で、忍者の本拠地ではない。この道は焼物街道であり、信楽焼の陶房の看板が立つ信楽の里から県境を越えると、伊賀焼の陶房の看板が目につく。このあたりの景色が素晴らしく、丘陵の間に点在する民家集落が周囲の風景に溶け込み、まさに美しい日本の田園という表現があてはまる。
<伊賀上野は松尾芭蕉誕生の地>
地図では、信楽から伊賀上野へ行くには、国道422号線で北から入る道と阿山町を経て東から入る道があり、後者には伊賀上野の街中に入ったところに芭蕉誕生の地とある。そうか、伊賀上野は芭蕉の故郷か、と気がつき、東から入るコースをとって芭蕉誕生の地を覗いてみた。
伊賀市役所や近鉄伊賀線上野市駅がある街の中心地に向う道に面して、土塀で囲まれた松尾芭蕉の生家があり、門前に史跡芭蕉翁誕生の地と彫られた石碑と傍に句碑が建っている。門からは生家が垣間見えるが、拝観は別の入口からとあった。近鉄上野市駅前の広場にも芭蕉の銅像が建っている。
門前の句碑には、「古里や臍のをに泣としのくれ」とあり、帰郷した時に兄から自分の臍の緒を見せられ亡き父母を偲んだものと説明がある。芭蕉は近江が気に入り、弟子の千那がいた堅田の本福寺を根城にして何度も訪れ、最後は遺言で大津膳所の義仲寺に葬られたことは、このウェブログの“湖族の郷”堅田散策でも触れた。
<入交家住宅>
伊賀市役所の駐車場に車を停め、門衛の男性に入交家住宅を訪ねたい旨を告げると、地図を渡され道順も丁寧に教えて頂いた。市役所から周辺を見ながらぶらぶら歩いて10分くらいであろうか、京都中京の町家街と良く似た雰囲気の、歴史を感じさせる通りに面して、冒頭の写真に掲げた入交家住宅がある。
道に面している横長の建物が長屋門で、江戸時代の武家屋敷の特徴という。長屋門から板塀で隔てて独立した表屋(おもてや)と呼ばれる家屋がある。元は客人用の離れ家であったものを、商家建築にして町人に貸していたと推定されると説明がある。
長屋門をくぐって中に入ると右側に受付があり、200円の入館料を払って渡されたパンフレットには、長屋門は嘉永4(1851)年に建て替えられた姿を基本とし、表屋は安政5(1858)年頃の姿に復元したとある。嘉永4年はアメリカ船がジョン万次郎を伴って琉球に来航した年で、安政5年はポーハタン号で日米修好通商条約が結ばれた年である。
長屋門の左側は展示室になっており、各建物の説明パネルと、代々引き継がれてきた古文書や古図面及び、調査で発掘された出土品などが展示してある。中央のガラス張りのブースに入交勘平が着用した具足が2揃い飾ってあり、往時の武士の雰囲気を偲ばせる。
長屋門から飛び石を伝って主屋に至ると、上役を迎える式台玄関と家人が常時出入りする内玄関がある。これを見て、私が育った京都の実家にも正玄関と内玄関があったことを思い出した。正玄関は親父とお客だけが使用し、母子や御用聞きは内玄関を使用していたから、我が実家は玄関だけは武家方式を踏襲していたらしい。今の我家は主人であろうが犬であろうが玄関は一つである。
入交勘平佩用の具足 上役を迎える式台玄関
竈のある土間から主屋内部を覗く 丸い明かり取りのある座敷
違い棚と障子のコントラストが美しい 日差しの明るい縁側
主屋の周囲を回っていくと土蔵があり、さらに進むと広いお花畑と庭に至る。オープンして未だ日が浅いのでお花畑も庭も整備中であったが、ここから見る茅葺屋根の主屋と腰板張りの土蔵は見事に調和していて、まさに江戸時代の太平の雰囲気の残る屋敷風景である。
入交勘平は寛政年間にこの屋敷を拝領したというから、およそ210年ほど前のことである。主屋は現状の姿に整った文政期を基本として復元整備したとあるので、およそ180年ほど前の武家屋敷の姿を見ていることになる。文政期は伊能忠敬が大日本沿海輿地図を提出したり、シーボルト事件が起こったりして、鎖国方針の矛盾が現れてきた時期ではあるが、未だ太平の世であった。
長屋門と表屋復元の基本になった嘉永から安政にかけての時期は、うろ覚えであるが「太平の眠りをさます蒸気船(上喜撰)たった四杯で夜も寝られず」と詠われたごとく、江戸ではペリーが来航して日米和親条約が結ばれたり、ハリスが来て日米修好条約が結ばれたりして、世情騒然となった時代であるが、ここ伊賀上野の地はどうだったのであろうか。
<鰻屋 榮玉亭>
入交家住宅を辞して通りを歩き出したところ、4,5軒隣にこれも由緒ありげな古い構えの鰻屋があったので、ちょうど昼時でもあり入ってみた。品書や値段を書いた看板が出ていない料亭風の店なので、格式が高く値段も高い店かもしれないと思いつつ、まあ良いかと案内を乞うと、案の定それこそ式台玄関から2階の奥座敷に通されてしまった。
鰻丼セット1890円のお品書に安堵して注文した後、通された部屋をよく見回すと床の間のある立派な座敷である。ガラス戸越しに見える庭も手入れが行き届いており、籐の応接セットもあって大変風情のある鰻屋であった。鰻丼を運んできた女性の言では、明治時代の開業で築後100年以上経っていますとのこと。
勘定の時におばあさんと呼ばれていた年配の女性が出てきたので、入交家ご当主の同僚だと挨拶したら、生まれたときから知っていますよ、と懐かしそうにされていた。帰ってからご当主にご注進したら、榮玉亭は上野では美味しい鰻屋で通っているとのこと。三重県では四日市近くの川越町が鰻の名産地であるからそこから来ているのかもしれない。
<上野天神宮>
榮玉亭を出て、せっかく伊賀上野に来たからには上野城も見て行こうと市役所の方へ戻っていく途中に、上野天神宮があった。いわずと知れた菅原道真を祀る神社である。案内板には菅原神社とあり、往古農耕の神々を祀る神社であったのを、1608(慶長13)年からの藤堂高虎の城下町建設時に城郭鎮守として祀られたとある。楼門には「菅聖廟」と書かれた額が掲げてある。
菅原道真770年忌の1672(寛文12)年には、俳諧で身を立てることを決意した松尾芭蕉が江戸へ出立するにあたり、処女作「貝おほい」を社前に奉納し文運を祈願したともある。芭蕉が生前中に自署し、出版した唯一の書なので意義深いらしい。上野天神宮は現在も文学の祖神あるいは牛馬の守護神として崇められているとのことである。
菅原道真を祀る上野天神(菅原神社) 楼門に掲げられた「菅聖廟」の額
<上野城>
上野城は戦国大名の中でも築城の名手としてうたわれた藤堂高虎が築いた城と思っていたが、藤堂高虎が築いた五層の天守閣は1612(慶長17)年の竣工直前に暴風雨で倒壊し、その後の300年間は天守閣なしの城であった。もとは織田信長の伊賀平定後、大和郡山から移ってきた筒井定次が平楽寺跡に築いた城である。
現在の天守閣は1935(昭和10)年に、川崎克氏が私財を投じて高虎の築いた基台に、桃山建築の粋を集めて再建したとある。従って歴史考証などはなく三層の天守閣なので、高虎の築いた基台の半分程度しか使用されていない。このウェブログの「房総のお城」で触れたように観光用模擬天守である。正式には伊賀文化産業城という。
しかし藤堂高虎の築いた石垣と濠は当時の姿を残す本物であり、上から覗き込むと恐ろしいほどの石垣の高さであることが実感できる。高所恐怖症の人はちょっと近寄れない。長年日本一の石垣の高さといわれてきたが、実際は大阪城の石垣の方が高いそうである。
私財を投じて天守を再建した川崎克氏とはどんな人かと思いネットで検索したところ、三重県出身の衆議院議員であった。当時の東京市長であった尾崎行雄に私淑し、憲政擁護運動や憲政会結成に参加した人である。天守閣への入口付近の石垣の傍に、尾崎行雄書の築城記念碑が建っている。
市役所の裏山一帯が上野公園となっており、上野城の他、伊賀流忍者博物館、芭蕉翁記念館、俳聖殿などがあり、3連休の中日とあって賑わっていた。上野城以外には行かなかったが、上野城から、松尾芭蕉生誕300年を記念して建てられた俳聖殿が遠望された。
尾崎行雄書の築城記念碑 俳聖殿
<上野の地名>
東京に上野という地名があるために、三重県の上野はどうしても伊賀上野と呼ばれる。しかし本来の地名は上野であり、平成16年11月に伊賀市になる前は上野市であった。伊賀上野という名前がついているのは、JR関西本線の駅くらいなものである。
東京上野の地名の由来をウィキペディアで見ると、戦国時代には忍岡(しのぶのおか)と呼ばれていたが、1603年に江戸幕府が開かれた頃、忍岡に藤堂高虎の屋敷がおかれ、当時の忍岡の地形が本拠地の伊賀国上野に似ていることから「上野」になったとする説が、最有力であると出ている。とすれば東京上野の地名の本家は伊賀の上野ということになる。
ただ他にも、小野篁(おののたかむら)が上野国(こうずけのくに、群馬県)での仕事を終えて京都へ帰る途中、この地に館を建てて暫く滞在したので、上野殿と呼ばれたことに起因するという説もあると出ている。小野篁は平安時代の人であるから、この説は現実性に乏しくあまりいただけないと思うが・・・・。
The comments to this entry are closed.
Comments