余呉湖界隈
南岸の国民宿舎余呉湖荘付近から望む余呉湖(2006.12.31)
琵琶湖の北に余呉湖と呼ばれる周囲6.4kmほどの小さな湖がある。奥琵琶湖パークウェイを走っていると両側に湖が見えるので、琵琶湖と余呉湖が繋がっているように錯覚するが、余呉湖は流入する川も流出する川もない。神秘の湖として古くから鏡湖(きょうこ)とも呼ばれていたらしい。
琵琶湖より49m水位が高い余呉湖にも昭和30年頃からお決まりの開発の手がのび、余呉川洪水調節のダム湖として導水路がひかれ、農業水利事業で余呉湖の水が利用されるようになると、水位変動が起こったり琵琶湖からの揚水が行われるようになったとのことである。ただ生活に結びついた開発であろうから琵琶湖の乱開発とは訳が違うのであろう。
余呉湖のある滋賀県伊香郡余呉町は滋賀県の最北端に位置し、北は福井県に、東は岐阜県に接している県境の町である。古墳時代から開かれた地域であり、新羅からの渡来人も住みついた歴史のある地域である。また余呉湖の神秘性が日本最古の天女の羽衣伝説や、菅原道真誕生伝説を生んだところである。
そんな知識はあったので、何となくロマンを感じる余呉湖にはこれまでも2,3度訪れたことがあったが、2006年12月31日の大晦日にも訪れた。北陸自動車道の木之本インターチェンジを降りて国道8号線との交差点を直進すると、国道365号線に入り余呉湖へ5kmほどである。
<黒田神社>
国道365号線を余呉湖方面へ進むと、余呉町に入るまでに木之本町黒田という集落を通る。ここが「酒は飲め飲め飲むならば…」で有名な黒田節で歌われる黒田武士の発祥の地である。信長、秀吉、家康の時代に活躍し、その子、長政が筑前の大名になった黒田官兵衛(如水)のゆかりの地ということになる。
国道に沿って神社があり、式内黒田神社という石碑が見えたので、ここが黒田家ゆかりの神社かと思い車を停めて中を拝観した。大晦日とあって地元の方が初詣のための飾りつけをされていたので伺ってみると、確かに黒田家の祖神を祀る神社であった。官兵衛ゆかりのものですよと示された丸い石碑には、敬神と彫ってあった。
式内黒田神社入口 黒田神社本殿
黒田神社由緒 黒田官兵衛ゆかりの碑 敬神とある
黒田神社由緒には、欽明天皇時代の540年に創始され、和銅年間の710年頃に黒田大連(くろだのおおむらじ)がこの地で繁栄して黒田郷となり、延喜式が制定されるや国弊小社に列せられた名社であると記載されている。その後1221年の承久の乱や1583年の賤ケ岳の戦火で焼失し、再建がならず隣郷の大澤神社に合祀されていたが、1876(明治9)年になって元のこの地に再建されたとある。
主祭神は大己貴命(おおなむちのかみ)で、配祀神が黒田大連とあるから、当初は大黒様を祀っていた神社を、黒田郷になったときに一族の祖、黒田大連も祀るようになったのであろう。由緒にはさらに、近江源氏の佐々木氏の後裔である源宗清がこの地を領し、姓を地名からとって黒田氏と称したとある。つまり黒田武士の元祖は源宗清ということになる。
木之本町商工会のホームページによると、黒田の集落に遊園地を造成したとき、「黒田判官源宗満(源宗清のこと)」と書いた石が出てきて、黒田家の発祥地であることが確認されたこと、宗清から6代まではこの地にいたが、軍令に背いたことで一族は黒田村を出て備前国邑久郡福岡に移住したこと、ここで地盤を築いた黒田氏は筑前の大名になったときにその地を福岡と呼び変えたので、現在の福岡市になったことなどが記載してある。
西鉄のホームページにも、1601年に初代筑前藩主となった黒田長政が城を築き、町の名を備前福岡の名を取って福岡と名づけたとある。ただ、秀吉や家康に恐れられた父の黒田官兵衛(如水)は宗清以来9代目にあたるそうであるが、姫路出身となっているので、備前福岡の黒田家との関係はよく知らない。司馬遼太郎の播磨灘物語に詳しいと思うが残念ながら読んでいない。
なお、この近くに黒田観音寺というお寺もあり、最澄(伝教大師)作の観音様と黒田家先祖の墓があるらしいが、今回は行かなかった。
<意波閇(おはへ)神社>
黒田を過ぎて余呉町坂口に入ると、国道365号線の右手に大きな神社があった。降りて社標を見ると、式内意波閇神社とあり読めない。拝殿にはカバーがしてあって地元の人々が初詣の準備をしていたので、遠くから拝観するのみにした。
帰ってからネットで調べてみると意波閇(おはへ)神社といい、仁徳天皇が祭神である。越前への北国街道の要所に建っており、往来の安全の神様であるらしい。同じく意波閇神社が雨森芳洲庵のある高月町にもあるが、こちらは意波閇(おわい)と読むらしい。さして遠くない地域に同名の神社があるのは何か意味があるのだろうが、これ以上は詮索していない。
<余呉湖周遊>
国道365号線をさらに進み下余呉で左折すると余呉湖に達する。ここは余呉湖の北東端になり、余呉湖はごろも市と称して余呉湖の特産品や農産品を販売している余呉湖観光館や余呉町自然休養村管理センターなどの施設とワカサギ釣場などがあって、余呉湖散策の起点になっている。余呉湖に向って右方面に余呉の村落が眺められる。
ここから余呉湖の東側を湖岸沿いに南下していくと余呉湖周遊ができる。このあたりは豪雪地帯なので雪の季節は車は入れないが、この日は2,3日前に降った雪が路傍にあるだけなので通行でき、南岸の国民宿舎余呉湖荘までは行き交う車もなく、さすが大晦日であることを実感した。ここで撮ったのが冒頭の写真である。
この付近は杉木立が美しく、木立の間から雪で薄化粧したかなり高い山が見える。北の方向であるから福井県との県境の山であろう。帰って地図で見ると、この方向に1200m級の上谷山や三周ケ岳があるからそれかも知れないが自信はない。
<賤ケ岳合戦>
余呉湖の南側は賤ケ岳7本槍で有名な賤ケ岳(しずがたけ)である。1583(天正11)年に柴田勝家と羽柴秀吉が信長の跡目争いで戦った合戦であるが、実際の戦いは賤ケ岳の山で行われたのではなく、この余呉湖畔や余呉の地一帯で行われた。
歴史的には秀吉側の7本槍が宣伝されて有名であるが、柴田勝家側にも青木新兵衛という槍の名手がいて、血糊のついた槍を余呉湖の水で洗った場所が、槍洗いの池として史跡になっている。昔の室鳩巣の文や文部省国定教科書では、青木新兵衛の戦功は高く称えられていたらしい。
またこの近くには、松尾芭蕉の門人の斎部路通が余呉湖を詠んだ句碑が建っている。向井去来や先師(芭蕉)が、この句細みあり、と褒めたと説明板にある。
鳥共も寝入てゐるか余呉の海
<菊石姫伝説>
さらに進むと、伝説の湖にふさわしい「菊石姫と蛇の目玉石」と呼ばれる大岩が現れる。玉垣で囲われた大岩の上にお飾りがしてあり、付近は薄暗くなんとも荘厳な雰囲気である。傍に余呉町観光協会による岩に埋め込んだ案内板があった。
案内板によれば、仁明天皇の頃、領主桐畑太夫の娘の菊石姫が干ばつ時に余呉湖に身を投げ、蛇身となって雨をふらせ、母に疫病の薬にと蛇の目玉を抜き取って湖中から投げたところ、石に目玉が落ちて跡が残ったので、以来この石を「蛇の目玉石」という、とある。仁明天皇は在位833-850であるから平安時代初期の伝説である。
<新羅崎神社跡>
蛇の目玉石と道路を挟んで山側に、新羅崎(しらぎざき)の森壕という案内板がある。昼なお暗き場所で樹木が湖中に浮き出るほど生い茂っていたので、賤ケ岳合戦では伏兵の絶好の隠れ場所であったと書いてある。矢印に従って山道を少し登ると、新羅崎神社舊跡と彫られた石碑があった。
朴鐘鳴編の「滋賀の中の朝鮮」にはこの神社のことが記されており、新羅からの渡来人である天日槍(あめのひぼこ)関連の神社で、明治末期の神社統合のおりに廃止され、近隣の北野神社に合祀されたとある。祭神の新羅大明神にちなんで、明治までは白木神社と書きこの一帯の森は白木の森と呼ばれたとのこと。とにかく今は1柱の石碑が残るのみである。
<天女伝説>
西岸を北上して川並の集落を抜けると、余呉湖北岸に出る。ビジターセンターを過ぎて少し行くとマルバヤナギの大木がある。これが余呉湖天女羽衣伝説として知られる天女の衣掛け柳である。ただし大晦日のこの日は落葉して幹と枝だけなので、大木には見えない。2006年9月17日に訪れたときの写真を示すと、まさに大木である。
天女の衣掛柳の案内板の反対側に、北野神社舊跡と彫られた石碑が建っている。すなわちこの柳の傍に、かっては菅原道真ゆかりの北野神社があったが、明治初年の台風で倒壊し川並地区に移転しているとのことである。なお、この柳の向かいの田園の中に天女の銅像が建っている。
案内板には、伊香刀美という男が舞い降りた天女の衣を隠し、帰れなくなった天女を妻とし、その子孫が伊香郡開拓の祖となったという伝説と、菊石姫伝説にも出てきた桐畑太夫の妻となった天女が一男を産んだが衣を見つけて天に帰り、残された幼児の泣き声を法華経のように聞いた菅山寺の僧が養育し、菅原是清が養子として引き取り京都で成人して菅原道真になったという伝説が紹介されている。
天女衣掛柳と北野神社舊跡碑 天女の銅像(後方にJR北陸本線)
日本の天女伝説は、北は北海道から南は沖縄まで50余箇所にあるという。余呉湖、三保の松原、丹後の奈具が日本3大天女伝説となっていて、余呉以外の地域の天女伝説では羽衣をかけるのは松がほとんどであり、柳が登場するのは余呉だけらしい。マルバヤナギ(アカメヤナギ)は中国系の楊柳科に属し、しだれ柳とは別品種である。
「滋賀の中の朝鮮」によると、天女の羽衣伝説は朝鮮の名勝地にたくさんあり、とくに「金剛山の八仙女」伝説は有名で余呉湖の伝説と良く似ているそうである。朝鮮から海を渡って日本に入り、北陸の敦賀から飛鳥や奈良の都を目指すなら、当時の余呉は、琵琶湖の東岸を経由するか西岸を経由するかの街道の分岐点で、宿場もあったろうから、朝鮮の伝説が定着してもおかしくはない。
<鉛練比古(えれひこ)神社>
やはり「滋賀の中の朝鮮」によると、近江伊香郡志には「天日槍(あめのひぼこ)新羅より来り、中之郷に止り、坂口郷の山を切り、余呉湖の水を排して湖面を四分の一とし、田畑を開拓し余呉之庄と名づけし、という伝説あり」と出ているらしい。余呉町中之郷には、古くは天日槍を主神とした鉛練比古(えれひこ)神社がある。
天日槍本人が余呉を開拓したとは思えないが、「鉛練」という名前から、新羅の王子である天日槍に従って日本へ渡ってきた高度な金属加工技術をもった渡来人集団がこの地に移住して、地域開発にあたったことが容易に想像される。草津穴村の安羅神社や竜王町の鏡神社と同様、彼らは天日槍をここに祀り祖神としたのであろう。
余呉湖からさして遠くなさそうなので、ビジターセンターで道を聞いて訪ねてみた。下余呉から中之郷へ行く道に入ると、途中で北国街道の道標が目に入ったので、この道が北国街道の旧道と思われた。現在は国道365号線が北国街道となっている。旧道を暫く走ると中之郷に入り、趣のある民家とケヤキであろうか鉛練比古神社境内の巨木が迎えてくれた。
ここ鉛練比古神社でも大晦日とあって地元の皆さんが正月を迎える準備をされており、本殿へ昇る階段にはアルミの枠が設置してあった。おそらく正月参拝用の特別参道でも出来るのであろうか。拝殿には意波閇神社と同様、準備のためか未だカバーがされていた。鳥居や本殿はさすがに古い感じがし歴史を感じたが、建造時期については由緒書などがなく分からなかった。
「見慣れん人やけどどこから来たのか?」と準備をしていた人に問われたので、「大津から余呉湖の写真を撮りに来たけど、天日槍ゆかりの神社がここにあると知って来た。」と答えたら、「先ほども東京から来た人がいた。」とのこと。大晦日に余呉まで訪ねてくる物好きが他にもいたらしい。「初詣は地元民だけなのでもっと賑わいたい。大津で宣伝して下さい。」と言われたので、ここも過疎の波が押し寄せているようである。
本殿の右手にもう一つ社があり、その壁面に「奥社 山王廿十一社 西本宮 大己貴之神(おおなむちのかみ) 東本宮 大山咋之神(おおやまくいのかみ) 氏子御慰霊殿 御魂合祀」と書かれた額があった。現在の祭神が大己貴之神と大山咋之神の2柱であることがわかる。
広報よごに郷土史家の白崎金三氏が余呉の歴史散歩というシリーズを書かれているが、渡来人遺跡の項には、「中之郷の鉛練比古神社は今では大山咋命を主神としていますが、古くは天日槍が主神でありました。近くには古墳日槍塚や日槍屋敷といわれている所があります。また余呉湖畔には新羅崎神社があり、余呉は渡来人の通過した所でした。」とあり、この地が天日槍ゆかりの地であったことを述べられている。
<渡来人の足跡が残る余呉湖界隈>
郷土史家の白崎氏によると、余呉は歴史の埋もれていた地であったが、1980(昭和55)年の北陸自動車道開通に伴う工事で、余呉の古墳群から各種の鉄製武器が出土し、ヤマト朝廷の北陸進出当時の政治情勢がうかがえる手がかりができたと述べられている。弥生末期から古墳時代にかけての大集落跡も見つかっているとのことである。
天女伝説などでロマン漂う雰囲気を感じていた余呉湖界隈であったが、今回垣間見てそれだけではなく、古くから弥生人などが住みついていたこの地に、古の志賀の都や湖東平野と同様、古代朝鮮半島、特に新羅からの渡来人が大きな足跡を残している地であることが良く分かった。天女伝説もおそらく彼らがもたらしたもので、渡り鳥の白鳥がやってくる日本列島の各地に広まって行ったのだろう。
古代の近江伊香郡は北陸と畿内首都圏を結ぶ要衝の地であり、朝鮮半島からの渡来人との交流の要の地であったと思われる。前編で触れた雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)は、江戸時代に朝鮮との外交に活躍し現代においても韓国の人々から尊敬されている儒学者であるが、同じ伊香郡で、余呉の地とさして離れていない高月町に生まれているのも何かの縁かと思えるくらいである。
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