中江藤樹と雨森芳洲
その名を現代にも残す2人の儒学者が、琵琶湖をはさんだ湖西の安曇川(あどがわ)町と湖北の高月町で生れている。一人は近江聖人と呼ばれた中江藤樹(なかえとうじゅ)であり、他の一人は朝鮮外交に活躍した雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)である。生誕地である高島市安曇川町と伊香郡高月町雨森地区に、それぞれ中江藤樹記念館と雨森芳洲庵がある。
中江藤樹は1608年に生まれ数え41歳でその生涯を閉じているから、1688年生れの雨森芳洲とは接点はないが、2人は太平の世に入った江戸時代初期と中期に琵琶湖畔に生を受けた文人として活躍し、現在も中国や韓国の人々から尊敬を受けている日本人なので、一度その史跡を訪ねたいと思っていた。
<儒学>
現代に生きる我々はあまり意識していない儒学であるが、紀元前5世紀頃の中国の孔子の教えに始まり、日本には4、5世紀に孔子の言行録「論語」が伝来して、その後の日本の政治文化に大きな影響を及ぼし、江戸時代では朱子学が官学となったことは、今の高校では履修しないことで一躍有名になった「歴史」の授業で習ったことである。
長幼の序、上下の秩序、大義名分、道徳修身、女大学、徳治主義などの朱子学の概念は、封建制度の維持に都合の良いものとされ、西欧的合理主義を移入した現代の日本人が捨て去ったものであるが、逆に金権主義や利益至上主義が跋扈したり、親殺し、子殺しが頻発するなど、昔の日本人の倫理感はどこへ行ったの、ということで儒学回帰になりかねない現状でもある。
同じく儒礼の国であったお隣の韓国では、長幼の序は未だ生きているようであり、韓国の若者の優先座席のマナーに感心したことは、ちょうど3年前に訪韓したときに感じたことである。
それはさておき、2006年10月6日に安曇川町の中江藤樹記念館を、2006年9月17日に高月町の雨森芳洲庵を訪れてみた。
<中江藤樹記念館>
前編で触れた「湖西のみち」を高島市に入り、近藤重蔵終焉の地のモニュメントを過ぎて暫く行くと、安曇川町に至る。安曇川図書館や安曇川文化芸術会館のある一帯に中江藤樹記念館があり、隣が藤樹神社、少し離れたところに藤樹書院と藤樹先生墓所がある。
近くの道の駅には「藤樹の里あどがわ」と銘打ってあり、安曇川町の人々の中江藤樹に寄せる思いが伝わってくる。中江藤樹記念館は中江藤樹生誕380年を記念して、滋賀県の「小さな世界都市づくりモデル事業」の補助金を受けて、1986(昭和61)年に着工され1988(昭和63)年に開館されたとある。
中江藤樹は1608(慶長3)年に近江国高島郡小川村に生まれ、9歳で米子藩の家臣であった祖父の養子となって米子に移住した。翌年藩主の転封により伊予国大洲へ移住し、15歳で祖父の後を次いで大洲藩士となったが、喘息の持病や母への孝養の思いから、27歳で脱藩して故郷の小川村に帰り母と暮らしたという。
大洲藩士時代に既に儒学者として頭角をあらわしていた藤樹は、辞職は許されなかったものの脱藩のお咎めもなく、小川村に戻って母に孝養を尽くすとともに、大洲からやってきた武士や近郷の庶民に居宅で自らの儒学を教え、近世私塾の祖とされているとある。
この時代は、徳川家康、秀忠、家光の三代将軍に仕えた朱子学者の林羅山が、政権を支えるイデオロギーを推進して幕府の手厚い保護を受けていた。中江藤樹は林羅山一派の朱子学者を俗儒とよんで批判し、自らは実践を重んじる陽明学を信奉したので、日本陽明学の祖ともいわれる。
<王陽明と陽明園>
中江藤樹記念館に隣接して陽明園という中国式庭園がある。昭和61(1986)年から始まった、王陽明の生地である中国逝江省余姚(よよう)市と中江藤樹の生地である滋賀県安曇川町との友好交流のシンボルとして、平成4(1992)年に竣工したとのことである。
王陽明の存命期間は中国明代の1472-1528年とあるから、日本では応仁の乱から戦国時代に入ったあたりであろうか。中江藤樹も当初は朱子学に傾倒していたが、37歳のときに陽明全書を入手してそれまでの学問上の疑問が解けたという。高校の歴史で、陽明学の基本は確か「知行合一」と習った記憶がある。
<藤樹神社>
中江藤樹記念館を挟んで、陽明園の反対側に藤樹神社が隣接している。というより、近江聖人と称された中江藤樹を祀るため、当時の堀田義次郎滋賀県知事が中心となって日本、中国、朝鮮から募った寄付金で大正11(1922)年に建立した藤樹神社の境内に、中江藤樹記念館が建っているというほうが正確である。
藤樹神社の案内板には、主な宝物に香惇皇后(昭和天皇の皇后)が書かれた「吾が敬慕する人物中江藤樹」という作文があると出ている。また境内には、説明板つきの大きなダマの木(モクレン科オガタマノキ)が保存されており、古くはこの場所に叡山の山門三千坊の一つであった万勝寺があり、織田信長の焼討ちにあったが、このダマの木はその時代のものが生き残ったと推定されているとの記載がある。
藤樹神社案内板 樹齢400年超のダマの木
藤樹神社鳥居と参道 藤樹神社本殿
藤樹神社の第一鳥居の扁額文字は当時の海軍元帥東郷平八郎の筆になるとされ、また社標の文字は滋賀県大津膳所(ぜぜ)出身の教育者で倫理学者の杉浦重剛の揮毫とされる。杉浦重剛は昭和天皇の皇太子裕仁時代にご進講役を務めたから、その皇后となられた香惇皇后も杉浦重剛から近江聖人中江藤樹の話をきかれたのかも知れない。
<藤樹書院跡、墓所>
藤樹神社から10分ほど歩くと藤樹書院跡がある。小川村へ帰還した中江藤樹は、当初居宅を開放して門弟や村人達に自分の到達した儒学(良知心学というらしい)を教えていたが、1648(慶安元)年に茅葺入母屋造りの書院が完成した。私塾のさきがけとされる。藤樹という名前は、居宅に藤の木が生えていたことから門人達が藤樹先生と呼んだことに由来するらしい。
中江藤樹は藤樹書院ができたこの年に41歳という若さで没したので、藤樹書院で教えた期間はそんなに長くなかったと思われる。藤樹の門人達がこの書院を守り、藤門とよばれる学風を築く。熊沢蕃山、泉仲愛兄弟、淵岡山、中川貞良と謙叔兄弟らが高弟とされている。
藤樹書院跡(1880(明治13)年に焼失、2年後に再建されたとある)
1882(明治15)年に再建されたもの 中江藤樹記念館にある藤樹書院の模型
近くには藤樹墓所もあり、藤樹、母、3男常省(じょうせい)の3柱の墓碑が建っている。中江藤樹と雨森芳洲は同時代に生きていないので接点はないが、藤樹の3男常省が儒者で、対馬藩の藩主、宗義真(そうよしざね)の招きで対馬藩に仕え学校奉行を務めたので、雨森芳洲と同時期に対馬にいたらしい。
常省は藤樹の没した年に生れており、藤樹の後継者として村人達が慕ったと思われ、常省を偲ぶお祭も行われている。中江藤樹記念館編集の「中江藤樹入門」という小冊子には、藤樹が没した後も藤樹の感化が村人に及んで小川村は非常に良い風俗になり、平成の今も毎年講書始め、立志祭、常省祭、儒式祭典による藤樹命日の行事などが行われているとある。
確かにこの付近一帯は町が清潔な感じがし町民の意識が高いように感じた。たまたまここを訪れた直後、NHKのテレビ番組「家族に乾杯」で高島が取り上げられ、鶴瓶と西川きよしが高島の人々の優しさに感激していたが、近江聖人中江藤樹の感化が現代にも及んでいるのかもしれない。
中江藤樹は二宮金次郎とともに昔の修身の教科書の代表選手であったが、戦後の教育界は彼らを捨て去ってしまったので、なぜ近江聖人と呼ばれたのかは我々の年代も良く知らないのが実情である。しかしこの地域の子供達は今でも郷土の偉人として中江藤樹のことを学び、遺徳に感化されるであろうから、西川きよしの涙は藤樹の遺産がもたらしたものかもしれぬ。
<雨森芳洲>
雨森芳洲は1668(寛文8)年に高月町雨森に生れた。医者の子として漢方医学を父から学んだが、やがて儒学の道に進み、17歳で江戸に出て木下順庵の門下生となった。この時代に新井白石とともに頭角を現した。22歳で推挙されて対馬藩に仕え、鎖国下でも国交のあった朝鮮との外交にあたり、「誠信外交」を貫いたことで有名である。
雨森芳洲は生涯で2度朝鮮通信使の接待役を努め、朝鮮側使節の申維翰(しんゆはん)をしてその著「海遊録」の中で、雨森は傑出した人物とか、抜群の人であると言わせている。1990(平成2)年に来日した韓国の廬泰愚(ノテウ)大統領が、宮中の晩餐会で270年前の雨森芳洲の「誠信外交」を賞賛し、2002(平成14)年に訪韓した小泉首相も雨森芳洲の「誠信の交わり」を昼食会で紹介したという。
中江藤樹が若くして没したのに対し雨森芳洲は数え88歳まで長生きした。しかも80歳を過ぎてから和歌つくりに挑戦し2万首に及ぶ歌を詠んだとのことである。雨森芳洲は近江国生まれではあるが、朝鮮、対馬、江戸を活躍の場とし、朝鮮語と中国語にも通じた当時としては稀有の国際人であった。1755(宝暦5)年に没し、お墓も対馬にある。
<雨森芳洲庵>
滋賀県伊香郡高月町にある雨森芳洲庵は、JR北陸本線の高月駅から歩くと25分ほどかかる。車だと北陸自動車道の木之本ICから10分ほどである。もともとこの地は槻(ケヤキ)の巨木があることから高槻(たかつき)とよんだらしいが、平安時代に大江匡房が月見の名所として歌を詠んだため高月に改められたらしい。雨森芳洲庵の入口にも見事なケヤキの大木があり、高月町のケヤキ巨木10選に入っている。
雨森芳洲庵のパンフレットを見ると、正確には高月町東アジア交流ハウス雨森芳洲庵であり、1984(昭和59)年に滋賀県の「小さな世界都市づくりモデル事業」の指定を受け、雨森芳洲の生家跡に開設された。つまり中江藤樹記念館と同じ滋賀県の小さな世界都市づくり事業に指定され、その補助金で建てられたわけである。
朴鐘鳴編の「滋賀の中の朝鮮」によると、雨森地区はそれまで110戸、520人くらいの静かな村であったが、雨森芳洲庵の開設と前後してこの村は変貌したという。「湖北の村からアジアが見える」というキャッチフレーズの下に、村を流れる小川を整備して、手作りの水車やプランターを配置し、韓国から毎年若者を滞在させて草の根交流を続けている。雨森地区に入って、雨森芳洲庵に行く道は良く整備され村の人々の思いが良く分かる。
雨森芳洲庵の中は、朝鮮通信使に関する資料の展示室と、雨森芳洲の坐像が床の間に飾られた和室があり、日本最初の朝鮮語学習書とされる「交隣須知(こうりんすち)」などの芳洲の著書や資料が豊富に展示してある。和室の芳洲の坐像の横の壁には、司馬遼太郎氏の笑顔の写真もあった。館員の人に司馬遼太郎も来たのかと愚問を発したら、「お見えになりましたよ」といわれてお茶を振舞われた。
お茶のお礼も兼ねて館内で販売されていた「雨森芳洲」を1冊買い求めた。著者は平井茂彦という方で、雨森に生まれ芳洲保育園第1回卒園生とあり、高月町役場に勤務された後、雨森区長を経て、現在は高月町東アジア交流ハウス雨森芳洲庵館長とある。大変読みやすく、かつ時代背景や芳洲の思想が体系的にきっちり書かれていて立派な芳洲解説書である。
帰ってこの本を読んでいるとき、お茶を振舞ってくれた館員の方が、門横のケヤキの大木のことも良くご存知だったので、ひょっとしたらあの方が平井さんだったのかも知れないとふと思った。そうであればもっと色々お聞きすればよかったとも思ったが、もう少し知識を得てから再訪しようと思っている。
朝鮮通信使関係資料の展示室 「善隣友好」の額
雨森芳洲坐像のある和室 司馬遼太郎の写真も見える
庵の中には研修室もあり、芳洲や朝鮮通信使についての講座や、ハングル学習、国際交流、人権学習、まちづくりなどの講話が行われているとのことである。和室からは枯山水風の見事な庭が眺められるが、ここで園遊会や交流会が開かれている写真もあった。庭の奥には雨森芳洲を祀る芳洲神社がある。
<「街道をゆく」の雨森芳洲>
司馬遼太郎は「街道をゆく第13巻 壱岐・対馬の道」で、雨森芳洲のことを詳しく述べている。この巻の初版が出たのは1975(昭和50)年であるから、高月町の雨森芳洲庵が出来る9年前に書かれている。「元来は伊勢の人とも言い、京都の人ともいう。」というくだりもあるから、近江ファンの司馬氏もこの時期には雨森芳洲は近江出身ということをあまり認識されていなかったようである。
司馬氏と一緒に対馬に同行した韓国人考古学者が、私(ひそ)かに雨森芳洲のお墓に詣でたと聞いて、芳洲など対馬の郷土史にも出ていないし、今の対馬の人も知らないのではないかと、司馬氏は大変驚かれたようである。帰ってからも芳洲のことが脳裏から離れず、芳洲のことを随分調べられたとみえ、雨森芳洲という章をたてて、彼の生い立ちや彼を取り巻く当時の儒学事情について詳述されている。
「街道をゆく」に描かれた雨森芳洲像は、例えば新井白石との関係において、芳洲庵の館長さんが書かれた郷土の生んだ英雄である雨森芳洲像と少し異なる見方がしてあるように思うが、高月町の雨森芳洲庵を訪れた司馬遼太郎氏が、館長さんとどのような話をされたのか興味深いものがあり、いずれお聞きしたいことでもある。
街道をゆくシリーズのどれもがそうであるように、壱岐・対馬の道の巻の冒頭にも対馬と壱岐の手書きの地図がある。対馬の道は沖縄本島と同じように、島の南北を1本の国道が貫いている。雨森芳洲のお墓のある厳原(いずはら)はちょうど島の南端に近い。雨森芳洲の足跡をたずねて対馬には一度訪れてみたい、という気になっている。
<対馬へ>
2008年12月30日から2009年1月2日に念願かなって対馬を訪問し、この後のウェブログにアップロードした。
The comments to this entry are closed.
Comments