湖西のみち-志賀・高島の湖岸を辿る-
湖西の近江木戸付近から琵琶湖と三上山を望む
比良三上雪さしわたせ鷺の橋 松尾芭蕉
司馬遼太郎の「街道をゆく」は、琵琶湖の西岸を走る「湖西(こせい)のみち」から始まる。滋賀県の行政区分では、湖西エリアは現在の高島市を指すが、「湖西のみち」というと西近江路である。すなわち、浜大津から坂本、堅田、北小松、今津、海津を経て、福井県に至る街道で、現在の国道161号線や、1931(昭和6)年に全線開通し、1969(昭和44)年に廃線になった江若(こうじゃく)鉄道のコースである。1974(昭和49)年からはJR湖西線が走っている。
この街道は奈良時代以降、当時の首都圏であった畿内と北国を結ぶ道として「北陸道」と呼ばれ、東海道、東山道、山陽道、山陰道、南海道、西海道と並んで、律令時代の七道になっていた。その後時代を経て、江戸時代には「北国海道」と呼ばれたらしい。この頃に建った石造道標や当時の古文書に北国海道の字が当てられているとのことである。琵琶湖の東岸から湖北を通って福井県に至る「北国街道」とは区別されている。
上の滋賀県行政エリア図の、大津・志賀エリアは2006年3月に志賀町が大津市に編入され、大津エリアになった。三井寺(園城寺)、近江大津京遺構、近江神宮、渡来人の古墳群、日吉大社、西教寺などの史跡がある旧大津エリアの湖西のみち沿いは、以前このウェブログの「志賀の都探訪」で触れた。
さらにその北、中世の琵琶湖最大の都市、堅田もやはりこのウェブログの「“湖族の郷”堅田散策」で垣間見た。
今回は、堅田から湖西のみちをさらに北上して、旧志賀エリアを辿ることとした。志賀エリアは、登山やスキーで知られる蓬莱山、打見山、武奈ケ岳がそびえる比良山地と、和邇(わに)、青柳、松の浦、近江舞子、北小松、少し高島市に入るが、白髭、萩の浜などの水泳場のある琵琶湖畔に挟まれた、まさに日本のニースともいうべき風光明媚の地でもある。京都在の中・高・大学生時代は、浜大津から江若鉄道に乗って良く来たので懐かしい。近江八景の「比良の暮雪」の地でもある。
<唐臼山古墳と妹子神社>
堅田から、右手に琵琶湖大橋をみながら国道161号線を北上すると小野の町に入る。JR湖西線の小野駅がありその山側が琵琶湖ローズタウンという大住宅地になっている。ローズタウンの中に唐臼山古墳という小高い丘陵があり、中学校の歴史で習った日本最初の遣隋使、小野妹子(おののいもこ)の墓とされている。
住宅地から直ぐの唐臼山古墳の麓に小野妹子神社の石碑と鳥居があり、参道を登って行くと、鳥居と、祠のような小さい神殿からなる小野妹子神社がある。唐臼山古墳のこの一帯は小野妹子公園となっており、地元の人は妹子山と呼んでいるようである。
小野妹子公園案内板 小野妹子神社参道入口
簡素な造りの小野妹子神社神殿と、唐臼山妹子神社と彫られた石碑
小野妹子が隋に遣わされたことは、当時の中央政界にとってもビッグニュースであったらしく、日本書紀の推古記に4箇所も記載がある。すなわち、推古15(607)年に大禮(だいらい)小野臣妹子を大唐(もろこし)に派遣、同16(608)年に小野臣妹子、大唐より帰還、同年、唐の客の帰国に同行、同17(609)年に大唐より帰還、と2往復している。
1回目の帰国の項では、隋帝から預かった国書を百済で掠めとられた、と妹子が言ったので、流刑にあたると大騒ぎになったが、天皇が赦したと書かれている。妹子が聖徳太子から預かった国書には「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す、つつがなきや」とあって、隋の煬帝(ようだい)が烈火のごとく怒ったことが、随書に記されていると歴史で習ったので、妹子はその返事を見せたくなかったということらしい。
小野妹子はこの志賀の地の出身で、大津や坂本の渡来人との交流で中国事情にも通じていたとされるが、何故聖徳太子に抜擢されて遣隋使に選ばれたのかとか、その後の人生とかは良く分からないらしい。小野妹子をネットで検索すると、お墓もここだけでなく、聖徳太子の墓や推古天皇稜のある大阪府南河内郡太子町にもあるという、いわば伝説の人である。
<小野道風神社>
蛙が繰り返し柳に跳びつく姿を見て、自分も奮起して大書道家になったという小野道風(おののどうふう、とうふう、みちかぜ)のことである。ローズタウンを出て北国海道の旧道へ入って暫く進むと、左手に小野道風神社の案内標識がある。狭い急勾配の坂を上りきると、右手に道風神社の鳥居があり急な参道がある。
鳥居の横に重要文化財建造物、小野道風神社本殿と題字のある、平成2年3月志賀町教育委員会製の、ひび割れした案内板がある。全国的には流れ造りの多い中で、切妻造りのこの本殿は珍しいこと、棟札から現存の本殿は歴応4(1341)年の建造であることなど、建築様式について説明がある。本殿には道風社の額が掲げてある。
小野道風(894~966年)は平安時代中期に活躍した書道家で、蛙で発奮したということは、多分学校の習字の時間で習ったのだと思うが、それ以上の知識はなかった。日本史辞典によると、藤原佐理、藤原行成と並んで三蹟と称され、要するに中国風を脱して日本風の字体を完成させたということらしい。生存当時から名声が高く、没後も書道の神と祀られている。
愛知県春日井市が生誕の地とのことで、春日井市のホームページによると、小野道風の偉業をたたえた道風記念館が生誕地の松河戸町に開設され、道風並びに平安時代を中心とした書に関する研究施設として、また、近・現代の書家の作品を展示する施設として、全国でも数少ない書道専門美術館になっているとのことである。
<小野神社と小野篁神社>
北国海道の旧道をさらに進むと、和邇(わに)の町に入る手前で、小野一族を祀る小野神社の森が左手に見える。小野氏は、奈良春日の古代豪族、和邇(わに)氏から派生した氏族であるとされるが、ここ湖西の志賀エリアでは小野と和邇という地名が仲良く並んでいる。
和邇という地名は和邇氏と関係するのであろうが、和邇には素盞嗚尊(すさのおのみこと)を祀る天皇神社という神社はあるが、和邇氏を祀ったものはないようである。和邇氏は春日氏とも呼ばれたらしいが、小野神社の説明板には、敏達天皇-春日皇子-小野妹子と繋がった系図が示されているので、この春日皇子が和邇氏だったのかもしれない。
小野神社の説明板には、推古天皇の時代に小野妹子が先祖を祀って創建したと伝わり、平安時代に小野篁(おののたかむら)のときに一族が集まって氏神を祀ったことは、「続日本記」に詳しく載っているとある。また小野神社は延喜式神明帳に記載された式内社であり、現在の社殿は江戸時代に再建されたものともある。
小野神社の祭神は、天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)と、米餅搗大使主命(たがねつきのおおおみのみこと)で、米餅搗大使主命は、日本で最初に餅を搗いた元祖とある。現在ではお菓子の神様だそうで、11月2日には全国の餅・菓子製造業者による祭が行われているそうである。小野氏と餅搗きがどう関係するのだろうか。
小野神社の右手前に、小野篁(おののたかむら)を祀る小野篁神社がある。小野道風神社と同様、重要文化財建造物で、切妻造りの本殿であると案内板に出ている。現在の本殿はやはり室町時代前期(南北朝時代)に建てられたとある。小野氏の系図では、篁は妹子の5代後の子孫になっている。
小野篁神社本殿(左奥が小野神社) 百人一首に出ている参議篁の歌
小野篁は平安時代に遣唐副使、蔵人頭、参議を務めた政治家で、歌人としても活躍し、百人一首でもお馴染みである。上の写真にあるように参議篁の百人一首の歌碑が境内にある。この歌が十八番の人も多いのではないだろうか。
「参議篁 わたの原 八十島(やそしま)かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人(あま)のつり舟」
<小野小町>
同じく百人一首の「花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせし間に」の作者の小野小町(おののこまち)は、先ほどの小野氏の系図では小野篁の孫になっている。小野小町は絶世の美女として歴史に名高く、お米や秋田新幹線にまで彼女の名前がついている。東北から九州までの28都府県に及ぶ日本各地が、小野小町と何らかのゆかりがあるとする史跡を持っているが、真偽のほどは不明らしい。
滋賀県では、彦根市に小野小町塚があり出生地としているらしいが、学生時代に東北出身の友人が教えてくれた秋田音頭に、「秋田名物八森ハタハタ、男鹿(おが)で男鹿ブリコ、・・・・・・、小野小町の生れたところ、美人がウーヨウヨ」というのがあった。生誕の地は山形県、千葉県、宮崎県にもあるし、熊本県には小町の産湯もあり、やはり伝説の人である。
<相撲行司の祖、志賀清林の墓所>
小野、和邇から北上し、JR蓬莱駅を過ぎて木戸地区に入り暫く行くと、相撲行司の祖と伝えられる志賀清林(しがのせいりん)の顕彰碑が左手にある。この碑の存在を知ったのは、「広報おおつ」の湖都スポットというコラム記事からで、今年、町内の役員を務めることになったので「広報おおつ」にも目が行くようになったお陰である。
近江木戸と呼ばれるこの付近は、比良山麓を湖西のみちが走り、眼下に琵琶湖が良く見える景勝の地である。冒頭の写真は、志賀清林の碑のある墓地から、少し山を登ったところの芭蕉の句碑がある広場から、琵琶湖と対岸の近江富士(三上山)を眺めたものである。ここの芭蕉の句は、「比良三上雪さしわたせ鷺の橋」という琵琶湖両岸を結ぶ雄大な句である。
板垣退助碑文の顕彰碑は、志賀清林の墓石とともに、玉垣をめぐらせた墓所に並んでいる。墓所の入口には、建設人 木村庄之助、木村瀬平、式守伊之助と行司の名が彫られた、志賀清林埋骨地の石碑が建っている。見上げると蓬莱山や打見山が迫ってくる、国道の傍とは思えない閑静な墓地の一角にある。
打見山が望める湖西の墓地の一角にある志賀清林の墓所
板垣退助碑文の顕彰碑 志賀清林墓石 行司が建設人の埋骨地碑
「広報おおつ」によれば、志賀清林は奈良時代の人物で、相撲節会が始まった頃の最強力士で有名であった。吉田司家の由緒書に、聖武天皇の720年代の宮中相撲節会の時に志賀清林をよんで行司を務めさせ、その後清林は相撲の儀式を詳しく定めたと書かれているらしい。また相撲48手の基礎も創案したとのことである。
相撲関連NPO法人のウェブによると、埋骨地碑の建設人でもある行司木村瀬平が志賀清林の墓を探していたが、明治25(1892)年にこの地で墓石が発見されたことが、当時の日出新聞(京都新聞の前身)で報じられたらしい。また大正7(1918)年には、相撲好きの板垣退助を総裁に志賀清林会が結成され、志賀清林の顕彰碑が墓石の横に建てられた。
昨年、大相撲春場所の始まる前の2005年3月7日に、横綱・朝青龍ら高砂部屋の力士14人がここ志賀の地を訪れ、志賀清林の墓参りをしたらしい。住民の見守る中、朝青龍は「大昔の偉い力士の墓に参ることができ、春場所への励みになった」とコメントしたが、この場所、朝青龍が優勝したかどうかは思い出せない。
<雄松崎の白汀>
湖西のみちは、木戸、志賀と、右に琵琶湖の見える景勝地を通っていくが、比良を過ぎたあたりから内陸に入り込み、近江舞子浜のある雄松崎からは離れて通過する。雄松崎の白汀(はくてい)は琵琶湖八景の一つであり、以前このウェブログの「琵琶湖周航」で触れた。
雄松崎の内陸を南小松に入って暫く進むと、湖西の道はJR湖西線と交差して再び湖岸側へ出て行く。松林の間から琵琶湖が現れるところが北小松で、ここからは湖西の道は湖岸沿いに走り、山が湖岸近くまで落ちてくるので絶景の連続となり、湖西で最も美しいスポットである。
<白鬚神社>
絶景をつかの間楽しんでいると、やがて湖中に赤い鳥居が浮かんでいるのが見えてくる。そこが白鬚神社である。景色を見ながら湖岸沿いに走るのであまり気がつかないが、白鬚神社は大津市志賀町を少し過ぎて、高島市に入ったところにある。
湖上に浮かぶ白鬚神社大鳥居 堅田へ向う国道161号線から望む
白鬚神社の鳥居と本殿 豊臣秀頼造営の現白髭神社本殿
湖中に浮かぶ大鳥居は、安芸の宮島の厳島神社を彷彿させるので、近江の厳島とも呼ばれるらしい。しかしこの神社の由来は古く、社記によると約2000年前の垂仁天皇のときに、倭姫命(やまとひめのみこと)が創建し、天武天皇の674年に比良明神の号を賜った近江最古の神社であるとのこと。厳島神社の創建は推古天皇の593年とされるからそれより古いのかもしれない。
現在の社殿は1603(慶長8)年に豊臣秀頼が造営したとある。関ヶ原合戦で敗れた豊臣家は領地を減らされたものの寺社への寄進を続けており、ここの造営もその一環である。1603年は江戸に幕府が開設された年であり、必死になって豊臣家の財力を減じようとする徳川幕府の策略の感じがしないでもない。
境内には、紫式部の歌碑、芭蕉の句碑、与謝野鉄幹・晶子の歌碑がある。また国道161号線との仕切りの柵のところに、白鬚大明神、湖上安全心願成就、天保4(1833)年8月と彫られた常夜燈が建っている。祭神の猿田彦命が白鬚翁であることから延命長寿の神であるとともに、航海の安全を司る神として崇められたようである。
ところで、昭和初期の滋賀県の風物を昔の絵葉書で紹介している琵琶湖遊覧という面白いウェブサイトがあり、その中に白鬚神社の前面の変遷を示した写真の紹介があった。昔の湖西のみちは、神社の前の湖水ギリギリを通っている。そこへ昭和6年に江若鉄道が通り、現在は国道161号が通っている。JR湖西線は白鬚神社の裏山をトンネルで通過している。
昔の神社前面 昭和6年江若鉄道開通以降 現在(国道161号)
琵琶湖遊覧 http://www.hi-ho.ne.jp/h-matsu/shiga.html から
<鵜川四十八体石仏群>
白鬚神社のあたりは高島市鵜川という地名であるが、白鬚神社から少し北上し旧西近江路に入ったところに、「鵜川四十八躰仏」と名づけられた、滋賀県指定史跡の石仏群がある。説明板によると、1533(天文22)年に近江守護で観音寺城主であった六角承禎が亡き母の追善供養のために造ったとある。
現在ここには三十三体あるが、十三体は大津市坂本の慈眼大師廟に移され、ニ体は昭和62年10月に盗難にあったと案内板に出ている。もとは六体づつ八列に四十八体が露座していたとあるから、戦国、江戸、明治、大正、昭和の長い時代、健在であったのに、昭和の終わりのバブル期になって盗難にあったというのは、なにやら日本の精神的堕落を象徴しているような気がした。
六角承禎は誉れ高き佐々木源氏の嫡流であったので、観音寺城を落とされた後も織田信長に従うことをよしとせず、信長が朝倉攻めに失敗して金ヶ崎から京都へ逃げる途中、杉谷善住坊に狙撃させるなど敵対した人物である。しかし「六角氏式目」という分国法の制定を行ったり、初めて楽市を行うなど、その施政は評価され、母想いの人でもあったらしい。
<近藤重蔵終焉の地>
琵琶湖を右に見ながら国道161号線をもう少し北上すると、高島駅方面への分岐点のところに、「近藤重蔵終焉の地」と書かれたスチール製の斬新なモニュメントが目に入った。降りて良く見ると、高島町の近藤重蔵翁顕彰会が平成2年5月に建立したもので、1829(文政12)年に近藤重蔵が当地で没し、墓が1.2km先の瑞雪院墓地にあると案内してある。
近藤重蔵は江戸幕府の幕臣として、国後島と択捉島を探検した北方探検家として知られ、1798(寛政10)年には、最上徳内に案内されて択捉島に渡り、タンネモイという地に「大日本恵登呂府」と書いた標柱を建てた。択捉島が日本領であることを意思表示した最初であるらしい。
司馬遼太郎の名作「菜の花の沖」第4巻にも「重蔵」という章があり、近藤重蔵が高田屋嘉兵衛に、国後島と択捉島の間の難所に水路を開拓するよう依嘱する場面がある。実際、1800(寛政12)年には高田屋嘉兵衛が開拓した航路によって再び択捉島へ渡り、カムイワッカという丘に、同じく「大日本恵登呂府」と書いた標柱を建て、日本の領土であることを示したという。
1800年という年は、以前このウェブログの「伊能忠敬と間宮林蔵」で触れたように、伊能忠敬が蝦夷地測量をして幕府に認められた年であり、間宮林蔵が函館で伊能忠敬と会い、師弟関係を結んだ年でもある。ロシアの千島列島進出に幕府が非常に警戒を強め、国防という観念が発達した時期であった。
近藤重蔵のその後は、1826(文政9)年に長男富蔵が殺人を犯して八丈島に流されたため、連座して近江大溝藩(ここ高島町)にお預けの身となり、そのままこの地で没したという不遇な晩年を過ごした。ただ長男富蔵は明治13年に赦免され、明治20年83才で没するまで在島60年の間に八丈実記69巻を著したのをはじめとして、八丈島に尽くしたその功績はまことに大と、現在も八丈島では感謝されているらしい。まさに人生いろいろである。
比良山地と琵琶湖畔に挟まれた、琵琶湖でも屈指の景勝地が連続する志賀・高島の湖西のみちは、このあたりまでである。ここからは、高島市の内陸を進んで安曇川や近江今津に向うので、今回の湖西のみち紀行は、ここでいったん終えることとする。
<風車街道>
ただ現在は、萩の浜や近江白浜などの水泳場と、新旭(しんあさひ)の風車村を経て近江今津に至る、湖岸沿いの風車街道が1993(平成8)年に開通しているので、琵琶湖の景色を見ながら近江今津へ向うことが出来る。
<江若鉄道回顧展>
今回の紀行の中でたびたび触れた江若鉄道は廃線から37年になるが、今年、たまたま「ありし日の江若鉄道」として、7月28日から9月3日まで大津市歴史博物館で回顧展が開催された。案内ポスターを見て、2006年8月13日に訪れた。江若鉄道を懐かしむ年配の人が多数見に来ており、弊方同様自分の青春と重ね合わせた人も多いようであった。
回顧展のリーフレットには、白髭神社大鳥居の傍を走る江若鉄道の雄姿が写真で示されている。廃線直前の昭和44年に白髭駅にて撮影されたものとある。大鳥居が右側にあるので、湖西を南下する浜大津行である。昔も今も白髭神社の湖中大鳥居が、湖西の撮影スポットになっているようである。
JR湖西線はスピードアップのため、トンネルを多用しているので、湖西のみち沿いに走っている割には、ゆっくり景色を楽しめないのが残念である。江若鉄道は浜大津-今津51kmを1時間半で結んでいたのに対し、JR湖西線西大津-今津が約40分であり、約2倍のスピードアップである。時間や仕事の効率を選ぶか、景色を見て感動する人間性を選ぶかという選択は、いつの時代も難しい。
The comments to this entry are closed.
Comments