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2006.09.07

木曽三川-宝暦治水の地再訪-

Kisosansen(クリックで拡大)
       伊勢湾へ向う木曽三川 岐阜県海津市油島千本松原付近

岐阜県大垣市に在住のころ、揖斐川と長良川には良く行った。揖斐川、長良川、木曽川の木曽三川は岐阜県海津市海津町油島あたりで極めて接近し、揖斐川と長良川はやがて合流する。古来このあたりは深刻な洪水に見舞われる地域であり、1753(宝暦3)年に江戸幕府はここに堤防や洗堰を作ることを薩摩藩に命じた。

宝暦の治水と呼ばれるこの大事業は、薩摩藩の力を殺ぐための徳川幕府の計略でもあったが、薩摩藩家老平田靭負(ゆきえ)が一身に責任を負い1755年に工事を完成させた。油島の堤防作りもその主要工事であり、完成した堤防に薩摩藩士たちが故郷から取り寄せた日向松の苗を帰郷前に植え、現在の千本松原になったという。

この間薩摩藩士86名が切腹や病気、怪我で死に、平田靭負自身も報告の翌日自決した。縁もゆかりもない他国のお手伝い普請で多数の薩摩藩士が死んだのである。大垣在の1980年に、揖斐川を下って伊勢湾に向かう途中で、この千本松原公園で薩摩藩士の慰霊碑を見、そのような歴史があったことを初めて知ったことは、以前このウェブログの「新幹線の車窓から」で触れた。

  • 新幹線の車窓から
  • この宝暦治水普請での薩摩藩士の活動を、作家杉本苑子氏が出世作「孤愁の岸」で取り上げておられる。杉本苑子氏は、弊親父が生涯尊敬してやまなかった吉川英治氏の唯一人の門下生であったが、「孤愁の岸」の刊行は残念ながら、師の吉川英治氏の逝去の翌月であった。しかもその3ヶ月後の1963(昭和38)年1月に、この作品は第48回直木賞を受賞した。

    Koshunokishi

    「孤愁の岸」を読んで、26年前に一種異様な雰囲気を感じた千本松原の薩摩藩士の慰霊碑をもう一度訪問したいと思っていたが、2006年8月6日に再訪することが出来た。千本松原公園と記憶していたこの付近は国営木曽三川公園と名前を変え、26年前にはなかった展望タワーが出現していた。冒頭の写真は展望タワーから伊勢湾方面を眺めた木曽三川である。

    <治水神社>
    宝暦治水普請で落命した薩摩藩士たちの顕彰や慰霊の数々の史跡は、岐阜県内はもとより三重、京都、鹿児島にもあるが、その中心となるのが平田靭負(ゆきえ)を祭神とするここ海津町の治水神社である。彼らが苦闘して完成させた揖斐川と長良川間の背割堤防の北端に位置し、ここから南の堤防上に千本松原が続く。

    Chisuijinjya
      元帥伯爵東郷平八郎揮毫の社標        平田靭負を祀る治水神社

    治水神社は、1925(大正14)年に海津地方の有志により平田靭負と落命した薩摩藩士86名の霊を祀る神社として創設が計画されたが、当時の内務省は祭神の合祀は靖国神社以外は認めないとして許可せず、平田靭負1名を祭神とせざるを得なかったとのことである。1928(昭和3)年から社殿造営が着工され、10年かけて1938(昭和13)年に完成した。

    1942(昭和17)年からは、毎年4月25日と10月25日に例祭が行われ、薩摩藩士の故郷鹿児島県からも多数が参拝されるとのことである。この日は8月ではあったが、鹿児島おはら会というハッピを着た団体の皆さんがお参りされていた。後でネットで見ると鹿児島おはら節とかおはら祭が出てくるのでその関係者らしい。

    内務省の横槍で合祀が許可されなかった残りの86名の薩摩藩士の慰霊の場は、一旦は宙に浮いてしまったが、地元の有志が堂一宇を治水神社の敷地内に寄贈し、1953(昭和28)年から宝暦治水観音堂として藩士たちも祀られるようになったとのことである。

    しかし、小泉首相の靖国神社参拝で合祀問題が議論を呼んでいるが、治水神社にも合祀の問題が陰を落としていたと初めて知った。治水神社の場合は、他の86人が合祀されても全くおかしくないと思うが、どういう根拠であったのだろう。古代の神社は合祀は当たり前で、誰を祀るかはそれこそ心の問題であるのに。国家が宗教に関与すると碌な事にならないという見本かもしれない。

    <宝暦治水之碑・近代治水百年記念碑>
    治水神社から堤防上を1kmほど南下すると千本松原の南端に達する。ここに、26年前何となく異様な雰囲気を感じた宝暦治水之碑が建っている。今回は良く晴れていた日だったのと、宝暦治水に関する知識も学んだ後だったので、何とはない石碑に見えた。宝暦治水之碑のさらに南に近代治水百年記念碑も建っている。

    Chisuihi
            宝暦治水之碑              近代治水百年記念碑

    宝暦治水之碑の横に立っている説明板には、1900(明治33)年4月22日に内閣総理大臣山県有朋など政府高官も出席して建碑祭が厳粛かつ盛大に行われたとある。石碑の字は風化してとても読めないが、説明板に寶暦治水碑と題した漢文の文章があり枠で囲ってあるので、これが彫られているらしい。山県有朋纂額、小牧昌業撰文、日下部東作書、井亀泉刻字とある。

    碑文の解説文には、この地方が水害で苦しんでいたこと、幕府が薩摩藩に命じ藩の財産30万両を支出して工事を成したこと、工事の概要、水害が減少したこと、後世の三川分流計画の基になったこと、平田靭負他が自刃したこと、死因は記録がないこと、経費増大に死をもって詫びたとの里人の言があること、身命を賭して功徳を民に施したこと、里人はその偉業を150年後の今も讃えていること、などが記されている。

    この宝暦治水之碑の建立にあたっては、明治の世になってから、揖斐川の西岸に位置する三重県多度町の西田喜兵衛という村長さんが、家伝の遺言から宝暦改修における薩摩藩士の功績の偉大さと恩恵の深さを明らかにし、上京を重ねて請願した結果、明治政府を動かしたとのことである。西田家の先祖は、宝暦治水の時に平田靭負の良き相談顧問でもあったという。

    近代治水百年記念碑は、明治改修の時にオランダ人技師ヨハネス・デ・レーケを招いて1887(明治44年)に完成した本格的な三川分流工事の100周年を記念して、1987(昭和62)年に建立された。建設大臣天野光晴の名が刻んである。記念碑の手前に治水の先駆者として、平田靭負とデ・レーケのレリーフ像が設置してある。

    ヨハネス・デ・レーケは明治期の日本の治水や砂防工事に大変貢献した人で、滋賀県大津市の我が家の近くでも、桐生の地にデ・レーケの手になるオランダ堤があるし、湖南アルプスと呼ばれる田上の山々の砂防工事も行っている。これについてはこのウェブログの「大津市桐生の里」で触れた。

  • 大津市桐生の里

    二つの石碑の両側を揖斐川と長良川が流れている。この堤防がなかった時代には両河川はここで合流し、たびたび氾濫していたが、薩摩藩士の作った堤防で仕切られ、さらに明治の三川分流工事で両河川はずっと下流の長島町付近で合流するようになった。ただし長良川河口堰が設置され、別の問題を起こしているが・・・。

    Senbonmatu
     油島千本松堤防西側を流れる揖斐川      1km続く千本松原と長良川

    <「孤愁の岸」が描く薩摩藩の悲劇>
    宝暦治水は薩摩藩にとっては幕府からつきつけられた無理難題であった。幕府にとっては逆に濃尾の肥沃な土地の安定化と、外様の雄藩の勢力弱体化に有効な一石二鳥の名案であった。お手伝い普請という仕組みは、お手伝いの藩に全て金を出させ、地元は労力提供はするが金は出さなくて良い。

    そのため地元が悪乗りして資材調達費や運送費をふっかけて地元の官民で儲け、普請のご利益も得るという本質があった。幕府はもともとお手伝い藩の勢力低下を狙っているから、調整役にはならない。薩摩本国でも、1200kmも離れた遠国の治水工事の費用捻出のために、藩士や農民は増税にあえぎ、塗炭の苦しみを味わうことになる。

    「孤愁の岸」はそのような本質を平田靭負が見抜き、村方や幕府役人と頭脳で戦う様を描いている。平田靭負は、当初村方請負と決められた工事を、今で言う入札(町方請負)に変えさせることで村方や幕府と戦い、遂に認めさせ費用節約を図った。それでも40万両の出費となり、薩摩は幕府に完膚なきまでにうちのめされたとして自決する。

    このような幕府の仕打ちはおそらく薩摩人の骨身に刻まれ、それに対する反発力がその後の薩摩藩の財政や軍事力を建て直す原動力となり、ついに倒幕の立役者となったのであろうが、そのことについては「孤愁の岸」には触れられていない。

    展望タワーへ上るエレベーター横の壁面に、「中日治水タワー建立に寄せて」という趣旨で、ここ水と緑の館の名誉館長である森繁久彌氏の写真と額が掲げてあり、その中に「杉本苑子氏 孤愁の岸 上演を機に ここに賛を贈り治水公園完成のしるしとす」の一節がある。

    Morishigehisaya
    水と緑の館名誉館長 森繁久彌氏の額   杉本苑子「孤愁の岸」に触れた部分

    <忘恩の岐阜県庁>
    再訪した日は良く晴れ渡り、千本松原から見る揖斐川と長良川はゆったりと流れ、全くのどかな風景であった。しかし上述のような歴史を知ってみると、この堤防は薩摩の人々のそれこそ血税で出来たことが実感される。

    岐阜県の海津や三重県の多度の地元の人々が、それ故に慰霊碑や治水神社作りに奔走し、徳川幕府存続時には不可能であった薩摩藩士の顕彰に力を注いだわけである。岐阜県と鹿児島県はこの縁もあって姉妹県の契りをむすんでいるとのことである。

    ところがそのような両県の交流の歴史や地元の人々の想いに、完全に泥を塗った事件が今起こっている。岐阜県庁の裏金問題である。1992~2003年で判明しただけでも約17億円と途方もない金額であり、それ以前も数億円あったに違いないが時効で把握ができないらしい。

    1960年代半ば頃から始まったというから、我が家も1980~1981(昭和55~56)年の2年間は岐阜県民であったので、当時納めた県民税はおそらく裏金に回って飲み食いに使われたのかもしれないが時効である。

    その昔に他国の民から絞り上げた血税が自国の河川改修に使われ、今も岐阜県民がその恩恵を受けているという歴史認識をもっていれば、県民の税金を不正使用する発想など湧くはずはないと思うが、そういう歴史認識は今の岐阜県庁にはないのであろうか。裏金はどこもやっているが、岐阜県だけは薩摩藩のことを思うと加担できない、と発想するのがまともな岐阜県庁であろう。
            

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