みどりの香り
畑中顯和著 「みどりの香り」
丸善(2005.11.30発行)
繊維技術士仲間からe-Shop「技術士の店」を立ち上げたとアナウンスされたので、早速覗いてみたところ、店長日記のところに、武居三吉-畑中顯和と研究者が続いている「緑の香り」薬剤に凝っていて、自分の水虫にも塗り、繊維製品にも適用して販売しているとの記事があった。
武居三吉先生(故人)と畑中顯和先生は、京都大学農学研究科で師弟のご関係にあり、お二人の足かけ70年以上にわたる壮大な香りの研究の成果が「緑の香り」に結実していることは、後輩にあたる弊方としては良く存じているので、その成果を我が技術士仲間が繊維製品に活用していることは些か喜びであった。
畑中先生には随分昔ではあるが一度お目にかかったことがあり、「みどりの香り-青葉アルコールの秘密」(中公新書)という著書も頂いていたので、早速、「緑の香り」を応用した繊維製品のことをお知らせしたところ、今冬開催されるシンポジウムの案内とともに、冒頭の写真に掲げた近著「みどりの香り-植物の偉大なる知恵」をお送り頂いた。
絶版となった1988年刊行の中公新書版も改めて読み直し、その後の17年間の研究進展が豊富に盛り込まれた近著を拝読して、研究するということはこういうことだったのか、という一種の凄さを感じ、大変感銘を受けた。今、生体分子の構造や機能を解明するという、生命科学のさきがけ研究を進めている若手研究者をサポートしているので、この本に記されている畑中先生の歩まれた道が、彼らがこれから進む道とダブって見え一々共鳴した。
最近、アロマセラピーとかアロマコロジーという言葉も一般的になり、香りの効果を謳った製品が巷にあふれているが、中には眉唾技術やいい加減な製品もあるように思える。サイエンスに根ざした畑中先生の著書から本物のみどりの香りに触れてみたい。
<青葉アルデヒドの発見>
新緑の香りや樹木の香りに感じられる青臭い香りがどのようなものか知りたい、という至極当然の疑問は、化学の国ドイツで19世紀末に始まったらしい。ゲッチンゲン大学の植物学者が、青臭い物質を対象とする、植物細胞中のアルデヒド様の性質を持つ物質に関してという研究論文を、1881(明治14)年に出したとのことである。
この植物学者から色々相談を受けていた化学者クルチウスは、ハイデルベルグ大学に移ってから助手のフランケンとともに、この物質の構造決定の実験に入った。ハイデルベルグの町を流れるネッカー川の道沿いに茂る潅木類を集めては抽出を繰り返し、ついに1912(大正1)年に青臭い香りの基となる物質を発見し、「青葉アルデヒド」と名づけた。
余談になるが、1989(平成1)年に繊維機械学会主催の産業用繊維見本市訪問ツアーに参加したときに、ハイデルベルグの町も訪れた。ネッカー川の流れる大変美しい町である。ハイデルベルグ大学は、我が出身研究室ゆかりの大学であることは承知していたので、UNIVERSITATの金文字のついた玄関前で記念撮影をした。
<青葉アルコールの発見>
上記のように20世紀初頭に青臭い香りの成分がドイツで発見されたが、みどりの香りは洋の東西を問わず研究者の探究心を捉えた。日本では、昭和の初めに理化学研究所から京都帝大農学部へ着任され、ハイデルベルグ大学へ留学もされた武居三吉先生が、京都の茶処宇治の産業発展の意義もあって、緑茶の香りの本格的な研究を取り上げられた。
そして宇治茶の生葉3トンから、僅かな量の青臭い香りの本体であるアルコールを発見され、クルチウスの「青葉アルデヒド」にならって「青葉アルコール」と名づけられた。1933(昭和8)年のことで、ドイツでの青葉アルデヒドの発見から20年余り経っているが、今度はアルデヒドではなく、アルコールが発見されたわけである。
しかし、お茶の生葉から青葉アルコールの抽出を行うと、青葉アルデヒドも得られるのである。しかも量的には青葉アルコールのほうが多く含まれるので、クルチウス達が何故アルコールを発見出来なかったのだろうという疑問はあるそうだが、今となっては確かめようもない90年以上も前の話だと畑中先生は述べられている。
<みどりの香りの全貌解明>
クルチウスと武居先生の研究から、青葉アルデヒドも青葉アルコールも炭素原子を6個もち、炭素原子同士の結合の1箇所は2重結合であることが分かった。しかし当時はIR(赤外スペクトル)やGC(ガスクロマト)などの分析機器はなく、2重結合をはさむ水素原子の幾何構造(シス体かトランス体か)までは決定できず、1940(昭和15)年頃には世界を巻き込んだ大論争があったらしい。
しかも、緑葉の中でどのような経路をたどって青葉アルデヒドや青葉アルコールが形成されるのかは皆目分からず、クルチウスも武居先生も1921年と1938年のそれぞれの論文の中で、みどりの香りの発現の仕組みを知りたいと、執拗に夢を語っておられるとのことである。
このような背景の中で、戦争で中断されていた緑茶の香りの研究を、1957(昭和32)年から畑中顯和先生が引き継がれた。当時は高槻にあった京都大学化学研究所(通称:化研)で研究を進められ、みどりの香りのエポックメーキングとなる重要な発見をされたが、1968(昭和43)年に山口大学の新設の農芸化学科に迎えられることになった。
通常はここで茶の香りの研究が終わるか、選手交代となる訳であるが、山口県の産業構造改革事業に茶が取り上げられていたという幸運があり、武居先生の了解もあって、みどりの香りの研究の舞台は山口大学の畑中研究室に移った。山口大学は最新鋭のIRとGCを準備して迎えたとのことである。
京大化研時代と、1994(平成6)年に退官されるまでの山口大学時代の通算40年に及ぶ畑中先生の研究で、みどりの香りの全貌が明らかになった。
<みどりの香りは複合の香り>
クルチウスと武居先生によって発見された青葉アルデヒドと青葉アルコールはみどりの香りの主成分であるが、この二つだけで構成されているのではない。畑中先生は茶の生葉から、青葉アルコールと青葉アルデヒドの異性体である、兄弟、姉妹、甥姪にあたるみどりの香りの成分を、次々と明らかにされた。
これら8つの化合物はそれぞれが揮発性なので香りを発するが、1つ1つの香りはまったく異なり、各々が独特の香りをもつ。1980年頃、全ての化合物を発見した段階で、これら複合の香りを「みどりの香り」と呼ぶようになったとのことである。
<みどりの香りの発現の仕組み>
では、みどりの香りは緑葉の中でどういう仕組みで発現するのであろうか。炭素が6つの化合物なので、当初は、植物の構成分子として広く存在する炭素数6のグルコース等との関連を予測し、緑葉の炭酸同化作用の中間体として形成されるのではないかと推定されていたらしい。
しかし畑中先生の研究で、実際は緑葉で光合成を行う葉緑体膜を構成する脂質が、酵素の作用で分解して炭素数18のリノレン酸やリノール酸となり、別の酵素の働きで過酸化物となる。さらに、別の酵素の働きで二つの化合物に開裂し、炭素数6のみどりの香り成分と炭素数12の治傷ホルモン誘発成分ができるという、まさに想定外の仕組みであることが分かった。
そして、この仕組みは、新緑の季節、夏、冬のような気温変化、葉が傷ついたとき、外敵の侵入、などの色々な環境変化に対応して、酵素の活性が変化することによって、これら香り成分の発現濃度や組成のバランスを変えることも明らかになった。場所を移動しない植物が生き延びるために見事な仕組みを形成しているわけである。
畑中先生は、これら青葉アルコールや青葉アルデヒドの効率の良い合成法にも挑戦し、幾何異性体も含めて全ての香りの成分の合成にも成功された。殆どの工程が初めての実験で、危険な物質を取り扱うので、その間の苦労は大変なものであったらしい。現在ではこの方法を基に、青葉アルコールが日本ゼオン、信越化学で、青葉アルデヒドがチッソで工業生産され、世界一の生産量であるらしい。ここにも日本の隠れた世界No.1があった。
<みどりの香りの役割>
リノレン酸やリノール酸は人間にとって必須脂肪酸であると理科で習ったが、これらは植物しか生産できない。人間は食事することで野菜から直接、あるいは魚介類などから間接に摂取している。これらの脂肪酸から産まれるみどりの香りは、人間のリフレッシュ、快適性、免疫増進に効果があり、また白癬菌や大腸菌等の病原菌に対する殺菌作用があることも分かってきた。
みどりの香りの効能を最大限に活用している動物は昆虫である。蟻は青葉アルデヒドや青葉アルコールを植物から摂取して、その濃度や組成比を変えて、通信、警報、攻撃などのフェロモンとして利用しているとのことである。カイコ蛾の性フェロモンについてはこのウェブログでも以前触れたことがあるが、やはりアルコールであった。
カメ虫はその悪臭で嫌われる昆虫No.1であるが、彼らは植物の茎から汁を吸い、青葉アルデヒドや青葉アルコールを摂取し貯えている。一匹でも潰そうものなら家中が悪臭で溢れるが、その主成分は青葉アルデヒドとのことである。ただしカメ虫の名誉のために付け加えると、全ての種が悪臭を発するのではなく、濃度の関係か芳香組もいるとのことである。
またカイコが桑の葉しか食べない理由も科学的に研究され、青葉アルコールと青葉アルデヒドがその起因であることが分かったが、桑の葉が青葉アルコールと青葉アルデヒドの濃度や組成比を微妙に調整して、特有のみどりの香りを発し、カイコが桑と識別するシグナルとなっているらしい。
畑中先生の著書には最近の研究課題として、みどりの香りと脳機能の研究が挙げられている。弊方も名前だけは知っている脳関係の科学者や、生化学、医学、分子生物学、心理学の専門家が集まった、「みどりの香りのノーブルフォーラム研究会」が立ち上がり、みどりの香りの効能についての学際的な研究が始まっている。
<日本で最初の化学論文は茶の研究であった!>
緑茶の香りの研究から始まったみどりの香りの研究は、香りの成分や、香りの生成経路が明らかにされ、さらに周辺学問の発展も加わって、その機能や人間の脳への影響などの生理的研究にまで進展している。この間、緑茶以外の紅茶やきゅうりの香りについても詳しい研究が進められ、思いがけない科学的ドラマがあったこともこの著書に記されている。
ところで、武居先生が茶の香りの研究を始められるにあたって、茶に関する研究論文を探されたところ、1880(明治13)年2月に発刊された我が国最初の化学論文誌「東京化學會誌」の第1号の最初の論文が茶の研究であったというエピソードが紹介されている。従って茶の研究は1世紀、100年を超える歴史があるという。
そこで、我が勤務先が今年3月に立ち上げたJournal@rchive(ジャーナルアーカイブ)というサイトで、この論文を検索したところズバリ見つかった。理学士高山甚太郎の「日本製茶の分析説」という論文である。タテ書きで漢字カタカナ体であり、今見るとなかなか威厳がある。
(クリックで拡大)
東京化學會誌
Vol.1 (1880) pp.1-18
日本製茶の分析説
<日本茶の製造工程>
また、我が勤務先がサイエンスチャンネルという科学技術の番組を放映しているが、THE MAKINGというシリーズがあって、その中に「日本茶ができるまで」というビデオがある。いかにみどりの香りを壊さずに、香りの高い日本茶を作るかの工夫がされており、その製造工程が良く分かる。
茶の香りや味は入れ方で大きく異なることは良く感じることであり、同じ茶葉を使用しても上手な人がいれると本当に美味しく、リフレッシュするように思える。その裏にはこのようなサイエンスがあることも知ってみると楽しい。
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