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2006.06.17

湖南の草津界隈

Shinakaido(クリックで拡大)
            草津市 印岐志呂(いきしろ)神社の社前の案内板

我家は滋賀県大津市に所在するが、買物も通勤も隣接する草津圏を利用する。滋賀県の草津は東海道53次の草津宿で知られ、江戸時代に大名や公家が利用した草津本陣が現存しており、浅野内匠頭、吉良上野介、シーボルト等の名前の記された大福帳が残されているらしい。「草津よいとこ一度はおいで」の群馬県の草津温泉と、知名度では5分5分といったところか。ウェブで「草津」をキーワードとして検索してもほぼ半々である。

琵琶湖の南に位置するこのあたりは、滋賀県の湖南エリアになる。行政的には草津市、栗東市、守山市、野洲市の4市で構成される。全国的には小子化や人口減少が問題になっているが、この湖南エリアは2005年の調査で人口増加率が前年比1%を超え、全国でもトップクラスの元気地域である。この地域のお陰で滋賀県は全国でも数少ない人口増加県となっている。

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この地域に住み着いてもう20年近くになるが、通勤と買物で決まったルートを通るのみで、江戸時代の宿場町であった以外に草津がどんな所だったのかは全く知らないに等しい。我が隣町、いやその圏内に住んでいるのにこれではいかん、とやや反省して、足元の草津界隈を調べてみることにした。

<古代の草津界隈>
草津界隈はもとは栗太郡と呼ばれた。平安時代に定められた延喜式という律令の細則には、神社神名帳に栗太郡八座として、大津市の大石、瀬田、草津市、栗東市の八社が記載されているので、古代栗太郡は、瀬田川より東の琵琶湖南部の地域を指し、現在の大津市の一部、草津市、栗東市が入っていたようである。この八社の中に以前触れた栗東市の高野神社がある。

  • 湖東の渡来人:餘自信ゆかりの高野神社
  • 草津市史を紐解くと、古代、草津の東南部には小槻(おづき、おつき)氏という有力氏族がいたらしい。中心部から西部にかけては治田(はるた)氏が居住したとされる。また、草津には上笠、下笠、南笠、笠山と笠のつく地名が多いが、笠(りゅう)氏という有力氏族もいたらしい。北部には芦浦という地名があるが、新撰姓氏録に出ている葦占(あしうら)氏が居住していたのではないかとされている。

    これら古代の豪族の名前を冠した社寺が、我家からさして遠くないところにあることが分かったので、手始めに探訪することとした。

    <小槻神社>
    我家から草津中心街へ買物に行く途中、青地町(あおじちょう)を通る。ここに小槻神社という案内板が出ていることは住んだときから知っていたが、一度も参ったことがなかった。そこで今までの不明を詫び、古代の豪族に敬意を表すために、2006年5月21日に参内した。

    Otsukijinjya
       式内 小槻神社の石碑と鳥居           小槻神社本殿
    Haiden
               拝殿          明治14年大造営の時発見された古墳の石垣 
            
    立派な神社である。延喜式神名帳記載の栗太郡八座の1社であり、鳥居の傍の石碑にも式内小槻神社と彫り込んである。拝殿へ昇る階段の右側に、明治14年の大造営の時に、1000年以上前と思われる古墳が発見され、ここに遷して石垣として使用しているとの説明板がある。

    少し風化して読みにくいが小槻神社由緒を記した石碑によると、小槻神社は垂仁天皇の皇子、於知別命(おちわけのみこと)から出た小月山公(おづきのやまぎみ)の氏人が祖神を祀ったとあり、860年に小槻大明神の宣旨を賜り、959年にこの地の志津池(しづいけ)の傍に遷座した。何度も焼失し、現在の本殿は明治14(1881)年の大造営の時のものらしい。

    またこの由緒には、下戸山小槻社の記載がある。ここから北東方面の栗東市下戸山にも、やはり栗太郡八座の1社である小槻大社が現存しているので、小槻氏はこの草津青地地区から栗東にかけての広範な地域の首長であったと思われる。草津市史は、この近辺の4世紀末から6世紀にかけて営まれた首長古墳群の分布からも、そのことが推定されるとしている。

    1364年には青地城主が神輿を造営し、例祭時には城中に迎えて礼を尽くし、寄進修造を重ねたともある。ということは、この地青地町には青地城という城があって、小槻神社と密接な関係があったということになる。そこで青地城のことを少し調べてみた。

    <青地城>
    近江の城郭というホームページに、青地城は鎌倉時代から室町時代にかけてこの地を治めた青地氏12代の居城跡で、青地氏の祖先はこの地の豪族の小槻氏から出ているとある。つまり青地氏は小槻氏の後裔であるらしく、小槻氏の祖神を祀る小槻神社を護る立場であったわけである。

    築城は鎌倉時代初期とされ、現在青地町にある志津小学校の裏山に青地城址や城主の墓があると知って、2006年6月2日に訪れてみた。一帯は城山と呼ばれているらしくその一角に小槻神社もある。

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        青地城址「青地城山碑」             青地城歴代城主の墓

    築城者は青地河内守忠綱とある。青地氏は名門であったらしく、近江守護の佐々木定綱の孫、基綱を養子に迎え、忠綱はその子であった。青地忠綱は青地城主となって、近江佐々木源氏七騎の一人となったが、1573年の六角氏滅亡に伴って、青地城も廃城となったらしい。現在は青地城の跡地に小槻神社、志津小学校、志津幼稚園が建っている。

    <治田神社>
    草津市史は、古代、治田連(はるたのむらじ)という有力氏族が、治田神社付近に居住していたのではないかとする。地図で見ると、治田神社は我家からJR南草津駅への通勤路を、さらに琵琶湖岸へ向って延びる街道の左方の南笠町にあるので、さして遠くない。青地城址に続いて探訪してみた。

    そんなに大きい神社ではないが、2基の真新しい鳥居が迎えてくれた。傍に、遠い昔に治田神社神域の全体の入口として建立され、第一鳥居として崇められたが、老朽化したので神社遺産として縮小して永久保存すると記された石碑とともに古い鳥居が安置してある。地元に密着した神社であるらしい。ただどこにも由緒や由来が記された案内板がないので、治田氏との繋がりは分からなかった。

    Harutajinjya
         治田神社の新しい鳥居               治田神社本殿
    Toriihaiden
      縮小保存された古来の第一鳥居              拝殿

    草津市史によると、律令時代の栗太郡治田郷は、矢橋、南笠、大路、青地、山寺一帯を含んでいたとみられるとあるので、治田氏は草津の西部一帯に勢力を張っていたらしい。治田神社の近くに南笠古墳があり、5世紀後半から末のこの地域の首長墳とされ、治田連(はるたのむらじ)との関係が考えられるが、笠のつく地名を根拠地とした笠(りゅう)氏との関係も無視できないとのことである。

    笠のつく地名は、南笠の北方向に上笠や下笠がある。笠(りゅう)氏が笠のつく土地に勢力を持っていたとすると、草津の北西部で琵琶湖沿岸にかかる地域になる。この地域には、浜街道と呼ばれる琵琶湖の南岸沿いを走る昔からの街道が通っていて、この街道沿いには古社寺が多いので、古代の豪族の勢力範囲であったと聞いても納得が行く。

    この浜街道は草津から守山へと通じているが、その境界の手前に芦浦という町がある。日本書紀の安閑天皇2(535)年に、近江の葦浦(あしうら)に屯倉(みやけ)を設置したという記事があり、隣接する守山市三宅町とともにこのあたりがその地とされているらしい。古代、新撰姓氏録に記された葦占(あしうら)氏が居住していたのではないかとされる所以である。

    <芦浦観音寺>
    ここに芦浦観音寺という天台宗の寺院がある。寺伝によれば聖徳太子の発願により渡来人の秦河勝が建立したとされ、最澄の延暦寺開設とともに天台宗の寺院となった。織田信長の叡山焼討ちの時には、多数の寺宝が持ち込まれ、近江の正倉院とも呼ばれているらしい。

    Ashiurakannonji
      木立に囲まれた芦浦観音寺参道          城郭のような入口

    浜街道を守山方面へ向い、芦浦の交差点を右折すると、鬱蒼とした木立の中、左手に芦浦観音寺がある。草津市教育委員会の立てた案内板には、室町前期の1408年に寺が中興され、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のもとで天下統一事業に関与し、室町・桃山・江戸時代の111年間を通じて「船奉行」として湖上管理にあたり、権勢を誇ったとある。

    木立に囲まれた参道を進むと、寺域が石垣と堀に囲まれた一見城郭を思わせるような入口に達する。門に拝観は団体のみで事前予約が必要という張り紙がしてあるので、中には入れなかったが、堀をめぐらせた広い境内には重要文化財の阿弥陀堂や書院、それに宝物庫などがあるらしい。通りかかった土地の女性が毎年5月の連休に公開されますよ、来年いらっしゃいと教えてくれた。

    このあたり、つまり芦浦町を散見すると、立派な民家が目につく。湖上交通の要衛の地であり、古代に屯倉が置かれたということは、米が良くとれ豊かな地域であったに違いないから、その歴史が現代にも繋がっているのであろう。静かでゆったりとした雰囲気の町のように感じた。

    Ashiuraminka
                       芦浦町の立派な民家

    翌年、土地の女性の教えに従って5月5日に再訪し、「再び湖南の芦浦観音寺」で触れた。

  • 再び湖南の芦浦観音寺

    <常盤地区>
    芦浦に行ってみても、古代の葦占氏との繋がりは不明であったが、この付近には、常盤郵便局とか、常盤幼稚園とか、常盤小学校の標識が出ており、芦浦も含まれる湖岸のこの一帯を常盤(ときわ)地区と呼ぶことを知った。

    この常盤地区について調べてみると、「ぶらり近江のみち-白鳳の町常盤-」というウェブサイトが見つかり、日本書紀天智天皇3(664)年に記されている、淡海栗太の郡の人、盤城村主(いわきのすぐり)殷(おほし)というこの地の豪族に因んで栗太郡常盤村となったとあった。日本書紀をひっくり返すと確かにこの名前がある。

    このウェブサイトによると、常盤地区には白鳳文化時代(7世紀後半~8世紀初頭)の寺院跡が7箇所もあり、一辺が150m~200mに及ぶ大伽藍がこの狭い地域に七軒も美しい甍を競ったそうである。上記の芦浦観音寺もその一つで、白鳳期の布目瓦が出土している。あとの6寺院も今は全て廃寺跡である。

    この時代、667年には天智天皇が近江大津京を開いたので、対岸にあたる湖南の地は軍事的に重要であっただろうし、蒲生野にもたびたび演習に出かけており、大津から船で行けるこの地を重要視したことは容易に想像できる。壬申の乱後の天武、持統の時代も都は飛鳥に遷っても、米どころであるこの地の繁栄は続いたのであろう。

    そんな常盤地区に興味を抱き、域内を巡ってみた。

    <志那街道>
    常盤の入口は港のあった志那(しな)である。現在は湖周道路が湖岸を走り昔の面影は全くないが、志那のあたりは平湖という内湖があるので、昔はこのあたりが港だったのではないかと想像される。志那からは対岸の叡山も、近江富士の三上山も良く見える。

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          志那から三上山を望む      志那から対岸の叡山(大津方面)を望む

    この志那港を起点として、常盤地区の片岡、長束(なつか)を経由して、守山の今宿に至る古代からの街道を志那街道という。志那街道沿いの古社や付近の古社をいくつか回ってみた。

    <志那神社>
    名前の通り湖岸に近い志那町にある。創立年代は不詳であるが、祭神の一人が伊吹戸主命(いぶきどぬしのみこと)になっており、伊吹里というところなので、前述の延喜式内社の栗太郡八座のうち不詳とされている意夫岐(いふき)神社ではないかと伝えられているらしい。

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            志那神社鳥居             志那神社の2つの本殿

    この神社には本殿が2つある。さらに右側に小さい社もあって3つにも見える。由緒を記した石碑板には、伊吹戸主命、志那津彦命、志那津姫命の3神が祭神として掲げてあるので、それぞれの神様に対応しているのかもしれない。風の神として湖上の安全と五穀豊穣を守る神徳を有するとある。

    現在の本殿は棟木の記載から、鎌倉時代の永仁6(1298)年に建てられたものであるとのこと。昭和24(1949)年に国の重要文化財に指定されたと案内板に記してある。

    <三大神社>
    やはり志那町にあり、境内の藤の大樹で知られている。由緒には、天智天皇4(665)年に中臣金連(なかとみのかねのむらじ)が、志那津彦、志那津姫の2神を祀ったとある。つまり志那神社と同じ神様が祀ってあって、ここも延喜式内社栗太八座の一つ意布岐(いふき)神社であると由緒に記してある。その後1084年になって大宅主命が合祀され三大権現となったとのことである。

    Ssandaijinjya
            三大神社本殿          三大神社の藤棚と老藤由来記碑
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           草津在住の先輩が2005.5.3に撮影された三大神社の藤

    中臣金連は近江大津京の右大臣をつとめ、672年の壬申の乱では近江朝廷側にいて、敗戦後大海人皇子に斬られた人物であるが、志那の地にこのような神社を創祀したということは、大津京と志那が密接に関わっていたということであろう。

    境内の老藤由来記には、藤原鎌足の長男、定恵が天武天皇の勅を拝し、藤原の隆盛を祈念して奈良県倉橋山の藤の苗を移植し、巨大な藤樹となったが、織田信長の焼討ちで焼失したものの株元から蘇生し、現在の藤樹になったとある。藤原鎌足はもとは中臣氏であるからうなずける話であるが、天武天皇は藤原氏を干していたといわれるので勅を拝したというのは疑わしい。

    <印岐志呂神社>
    志那町から志那街道を進み片岡町に入って、浜街道を横切ると左手に印岐志呂(いきしろ)神社の森が現れる。入口に冒頭写真に示すように、草津市教育委員会が、志那街道の説明や草津市内の主な史跡を記載した草津歴史街道の案内板を設置している。

    社歴概要によると、ここも延喜式内社の栗太郡八社の一つであり、天智天皇の勅願により大和の三輪大社より移祭した大己貴之命(おおなむちのかみ)又の名、大国主命(おおくにぬしのかみ)を祀っているとある。大国主命は因幡(いなば)の白兎の伝説で有名な大黒様である。

    建久元(1190)年に源頼朝が神殿を寄進したが建武2(1335)年に炎上し、足利氏が再興したものの、元亀3(1572)年織田信長軍が乱入して古記神宝が散逸し、その後慶長4(1599)年に芦浦観音寺の詮舜が建立した社殿が現在のものらしい。豊臣家の忠臣である長束大輔や六角高頼も社殿を造営し、徳川家康も大阪出陣のとき武運長久を祈願したとある。

    Ikishirojinjya
          式内 印岐志呂神社入口       印岐志呂神社の美しい本殿
    Ikishirohaiden
         拝殿を通して本殿を望む      守山側からの参道の鳥居と縣社の石碑

    美しい本殿である。神社の造りについては知識がないが、案内板には庇前室付、三間社流造をとるとある。小槻神社も立派な神社であったが、この印岐志呂神社は立派というより優美という表現が似合う。

    印岐志呂神社の境内には、古墳時代後期の築造と思われる古墳群が所在するので、近くの芦浦に屯倉が置かれた6世紀にはこの地も繁栄していたと思われ、有力豪族が支配していた可能性が高い。新撰姓氏録に出ている葦占氏もその候補になるのであろうか。

    <安羅神社>
    印岐志呂神社のある片岡の南で同じ常盤地区の穴村に、新羅からの渡来人である天日槍(あめのひぼこ)を祀る安羅(あら、草津市史では、やすら)神社がある。天日槍は竜王町の鏡神社の祭神でもあり、以前「湖東の額田王ゆかりの地」で触れた。

  • 湖東の額田王ゆかりの地

    日本書紀の垂仁天皇3年条に、「天日槍が近江国吾名の邑(あなのむら)に入りて暫し住み、」とあるので、この吾名の邑の所在地をめぐって、草津の穴村であるとか、竜王町の苗村(なむら)であるとか諸説がある。竜王町の苗村神社は天日槍の従者を祭神とし、地域的には鏡神社と近い。

    草津穴村の安羅神社は、祭神を天日槍命(あめのひぼこのみこと)とし、日本医術の祖神で地方開発の大神としている。由緒記には、日韓古代史の権威者三品彰英博士(前大阪市立博物館長)も御祭神を新羅国王子天日槍命なりと考証されている、と記してある。

    Arajinjya
             安羅神社鳥居                  本殿
    Sekihiyuisho
       天日槍暫住之聖蹟              安羅神社由緒記

    境内には天日槍が暫く住んだという日本書紀の記載に因む石碑が立っている。司馬遼太郎は、日本歴史の中で最初に記録される帰化人(今は渡来人)の大集団は、新羅の王子といわれる天日槍のひきいるそれである、と「歴史を紀行する」の中で述べている。

    とすると古代の草津界隈には新羅系渡来人が居住した可能性もある。そういえば芦浦観音寺の建立者とされる秦河勝も新羅人の秦氏である。湖西の近江大津京近辺に百済人が集住して大津京に貢献したように、文化レベルの高かった常盤地区には新羅人の集団が住み着いて、白鳳の町を築くのに貢献したのかもしれない。

    なお草津市にはもう一つ安羅神社がある。草津の中心街に近い野村にあるが、祭神は素盞鳴尊(すさのうのみこと)であり天日槍ではない。隣町の栗東市にも小安羅神社があるので、安羅郷(安良郷)と呼ばれたこのあたりで、3社は何らかの関係があったのかもしれないが不詳らしい。

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          野村 安羅神社鳥居              野村 安羅神社本殿

    常盤地区についてはこの後何度か訪れ、「湖南の白鳳寺院と聖徳太子伝説」のウェブログで触れた。

  • 湖南の白鳳寺院と聖徳太子伝説

    <浜街道沿い>
    琵琶湖の南岸においては、古代からの港とされる志那に加え、中世には山田、矢橋(やばせ)も軍事的に重要な港であった。今も浜街道沿いには山田、北山田、南山田、矢橋の地名が残る。江戸時代には山田はさびれた漁港となり、大津への渡しとして矢橋が栄えた。矢橋は近江八景の「矢橋の帰帆」で有名である。

    しかし山田も矢橋も湖周道路や人工の帰帆島ができて昔の面影はない。山田は下笠の南に位置している。5世紀後半のこの地の首長の墓と考えられる古墳が残る神社が、浜街道沿いの南山田にあると知って訪れた。大宮若松神社で、境内の中に渡来人を祀る大市・小市神社もあるという。

    <大宮若松神社>
    鳥居をくぐり参道を進むと、中の鳥居の傍でイースター島のモアイ像を思わせる石像が迎えてくれた。良く見ると猿である。由緒記を読むと、祭神は印岐志呂神社と同じく大巳貴命(おおなむちのかみ)つまり大黒様で、上古、神猿を伴って出雲国より出でましたとある。その神猿の像らしい。

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        大黒様が連れてきた神猿             大宮若松神社本殿

    由緒記にはさらに、延喜年間姓氏録に名を連ねる山田宿弥(やまだのすくね)、大市首(おおいちのおびと)らの豪族によってこの地が開発されたとある。山田の地名はそこから来たらしい。朴鐘鳴氏編の「滋賀の中の朝鮮」では、大市首は任那からの渡来人で大和に本拠をもつ豪族であるが、その一部が草津に来たのだろうとしている。

    本殿の背後に古墳があり、その墳上に大市(おおいち)神社、小市(こいち)神社が祀られていたが、明治42(1909)年に今のように合祀されたと由緒記に記されている。従って背後の古墳は大市首一族の墓と考えられている。近くには南山田古墳郡もあり、6世紀後半の武具や馬具が出土したらしい。

    Ooichikoichi
             大市神社                    小市神社

    <矢橋港跡>
    浜街道探訪の仕上げとして矢橋(やばせ)港跡を探索した。矢橋は山田の南にあり、古来万葉集や今昔物語、源平盛衰記などに出ているらしい。平安時代の和歌では、「もののふの矢橋の舟は早くとも、急がば廻れ勢多の長橋」と詠まれ、「急がば廻れ」の語源ともなり、水運は敬遠されていたらしい。

    矢橋が隆盛を誇ったのは江戸時代になってかららしく、東海道の交通量の増大や草津宿の興隆で、大津石場港への早道として利用された。その賑わいが近江八景の一つ、「矢橋(やばせ)の帰帆」として浮世絵の題材になっている。

    しかし時代の変遷で、鉄道の発達や琵琶湖の水位低下などで廃港となっていたが、昭和57~58(1982-3)年にかけての発掘調査で、江戸時代に使用されていた3本の突堤が現れ、現在は弘化3(1846)年の刻銘のある常夜燈とともに保存され公園になっている。

    また港跡の西側の湖上には下水処理施設として巨大な人工島「矢橋帰帆島」が造られ、その外周に湖周道路も通っているので、江戸時代の港跡は完全に陸地になってしまっている。帰帆島から対岸の叡山や大津方面を望んで、昔を想像するのみである。

    Yabasekihan
         「矢橋の帰帆」の案内板             矢橋港の常夜燈
    Yabasetottei
          発掘された石積突堤          人工島の帰帆島から叡山を望む

    <古社の町>
    宿場町であった以外に殆ど歴史を知らなかった草津の町であったが、少しばかり回ってみてこんなに神社の、それも古社の多い町であったのかと知った。古社が多いということは、古代から人々の活動が活発であったということであり、素朴な祖神崇拝の気持ちが神社という形によって現されたということであろう。

    祖神を祀るために社を建てるということは経済力も必要であるが、この地は弥生時代からの米どころであろうから、米を基盤にして力を蓄えた有力豪族が拮抗し、互いに勢力を競い合ってその力を誇示するための古墳や社を築いたに違いない。

    毎日の通勤で利用する南草津駅から、湖岸や我家の方向を今までは漫然と眺めていたわけであるが、草津界隈を回ったお陰で、小槻氏や治田氏、笠氏や山田氏がその辺を闊歩しているようにも思えるようになった。

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