小樽運河
2005年8月に北海道大学訪問のため、44年ぶりに北海道の地を踏んだ。昭和36(1961)年の大学1年の夏休み以来である。
44年前は、京都を朝出発して青森行の鈍行に乗り、翌朝秋田県の大館から花輪線に入って十和田南まで行き、バスで十和田湖と奥入瀬を経由して青森へ出、今は廃止された青函連絡船で函館へ渡り、また汽車で札幌へという長旅であったが、今や大阪伊丹空港から一飛びで新千歳空港に着く。もちろん当時も千歳空港はあったと思うが、学生旅行に空路が選択肢に入る時代ではなかった。
今回は北大訪問前日に札幌に入ったので、都はるみの歌や友人のご尊父の絵の題材にもなっていて、以前から一度行きたいと思っていた小樽まで足を延ばしてみた。お目当てはもちろん小樽運河である。札幌から小樽までは15分毎に快速電車が走っており、時間も30分しかかからない。
<小樽運河>
駅からまっすぐ北へ歩いていくと博物館前の交差点があり、渡ると直ぐ小樽運河である。対岸の河沿いに、由緒のありそうな小樽倉庫No.2、大同倉庫、渋澤倉庫、清水鋼機、・・港運会社、などと書かれた古い倉庫が立ち並んでいる。運河にかかる浅草橋の上が絶好の撮影スポットになっていて、入れ替わり立ち代り「はい、チーズ!」をしていた。
この日は小樽潮(うしお)祭りということで、河沿いの散策道には行商の屋台が出ており賑わっていた。中に自分の描いたと思しき絵を売っている人も何人かいたので、少し品の良さそうな絵描きおじさんに敬意を表して冒頭に掲げた絵を買った。
小樽運河は大正12(1923)年に完成し、海上に停泊した船舶からの艀(はしけ)による荷揚げに用いられたが、昭和になってからは港内の埠頭の完成や札幌の興隆により衰退していった。
このため小樽市は運河を埋立てて道路整備する方針を昭和40年代に打ち出したが、全国的に保存運動が高まって16年間の論争の末、運河の南側半分が埋め立てられて、昭和61(1986)年になってようやく小樽臨港線道路が開通した。従って現在の臨港道路の中央分離帯付近が、かっての運河の岸であったらしい。
そういえば博物館前の交差点の西南角にある小樽博物館は旧小樽倉庫である。明治23~27(1890~4)年に建てられた北海道の第1号営業倉庫と説明板にある。従ってここは運河の南岸沿いであったのだろう。説明板の記載に、日本語と英語に加えロシア語があるのが、いかにも小樽へ来たという実感を与える。
博物館の屋根の立派なシャチホコが目を引く。小樽運河ウェブページクラシックによると、小樽倉庫の創立者は加賀の北前船主で、最初は近江商人に雇われたが独立して新興勢力となり、その威を示すために八つのシャチホコを目印につけたとのことである。
<小樽潮(うしお)祭>
全く予備知識なしに小樽へ来たが、たまたまこの日は小樽潮(うしお)祭の日であった。小樽市民のお祭として毎年7月末ごろに開催されているらしい。帰ってから小樽市役所のホームぺージを見たが、どういういわれの祭なのかは分からなかった。駅前から運河までの大通りは大変賑わっており、ちょうどお御輿パレードの時間であったので、御輿が何台も出て大層な盛り上がりであった。
パレードの中でお御輿とは別に、松前神楽小樽保存会と看板をつけた車の後から、烏帽子と空色の袴(はかま)をつけた若武者たちが整然と行進している行列が目を引いた。彼らは時々立ち止まって3人一組になり、互いに竹刀をあわせて剣舞を披露していた。おそらく神楽の中の神事であろう。
小樽市役所のホームページによると、松前神楽は北海道指定無形文化財で、江戸時代始めに道南の松前で行われていた神楽や田楽の伝統芸能の集大成が伝承され、小樽には明治26(1893)年に伝えられ、保存会が結成されているとある。その中に烏帽子と空色袴をつけた若者が竹刀を合わせている写真もあるので、小樽の若者たちが松前神楽という伝統芸能を引き継いでいるのであろう。
松前神楽小樽保存会の先導車 烏帽子に空色袴の若武者たち
若武者たちによる剣舞
それにしても若者たちが着けている袴の、この鮮やかな空色は江戸時代の松前藩からの伝統であろうか。良い色である。若者たちが大変凛々しく見え、すがすがしい感じがする。どこかの神社の巫女さんがこのようなスカイブルーの衣を着けていたような記憶もあるので、神事に関係する色なのかも知れない。
松前と聞くと、司馬遼太郎の名作「菜の花の沖」第3巻松前の章に詳しく述べてあるように、松前藩が近江商人と大きく関わって場所請負制による商品経済体制を確立し、農耕採集民族であったアイヌを弾圧したという印象があった。このことに関しては以前「てんびんの里」で触れた。一方では、松前藩は現代に繋がるこのような文化も残していったわけである。
<小樽の街>
小樽-札幌間の鉄道開設は明治13(1880)年のことで、東京-新橋間、大津-京都-大阪間に次いで、全国で3番目とのことである。三井財閥がその頃から小樽に進出したため、小樽は早くから経済都市として発展し、明治の末から大正時代にかけて多数の銀行が設置され、北のウォール街と呼ばれたらしい。
このため小樽には歴史建造物が多い。駅前の大通りにも旧第四十七銀行の建物があり、やはり日、英、露の3カ国語の説明板がある。現在は北海道紙商事の看板が出ていた。北前船の時代以降、ニシン漁と交易の中心となって発展した小樽であったが、札幌の興隆でその地位を譲り、栄枯盛衰を見た街といえようか。
しかし小樽の街は、駅から小樽運河へ行く大通りや小樽運河一帯は街灯がクラシックなデザインのガス灯になっていて非常に雰囲気が良く、景観保護や歴史建造物保存に熱心な街であることがよく分かる。しかもこの一帯だけなのかも知れないが、電柱が皆無で街や通りが明るく広々としており、落ち着きのある良い街である。
北前船や近江商人を通じて滋賀県との関わりもある街であり、滋賀在住の身にとっては何となく親しみのもてる街であった。因みに京都や滋賀からは日本海フェリーを利用すると小樽港に直行できるとのことであり、次回は小樽を起点とした北海道ドライブを計画しようかなどと考えている。
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