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2006.03.25

湖東の額田王ゆかりの地

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          蒲生野遊猟レリーフ(滋賀県東近江市 万葉の森・船岡山公園)

<近江と額田王>
額田王(ぬかたのおおきみ)は生歿年不詳であるが、万葉の代表的歌人で才色兼備の女性とされ、7世紀後半に近江に関係の深い歌を多く残している。彼女をめぐる中大兄皇子(天智)と大海人皇子(天武)の兄弟の恋のさや当てが、672年の壬申の乱を惹き起こしたと、まことしやかに言われている。万葉集には額田王とあるが、額田姫王(日本書紀)、額田女王とも書かれる。大津市に残る壬申の乱伝承の地については後のウェブログで触れた。

  • 大津市に残る壬申の乱伝承の地

    その恋のさや当てがあったとされる主舞台が、近江の蒲生野であり、近江大津京であった。万葉集の20番目に、「天皇の蒲生野に遊猟したまへる時額田の王の作れる歌」というのがあり、21番目に、「皇太子の答へませる御歌」というのがある。この二つの歌が今や滋賀県の観光資源になっている。                     
       20 あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖振る     額田王
       21 むらさきのにほえる妹を憎くあらば人妻ゆゑに吾戀ひめやも             皇太子(大海人皇子)

    日本書紀にも天智7(668)年に「天皇蒲生野に狩したまひき」とあるので、蒲生野での遊猟はあったらしい。当時の蒲生野が現在のどこかについては定かではないが、蒲生野、蒲生野口、小蒲生野などの地名が残る滋賀県湖東の地に、近年、万葉ロマンの里とか万葉の森とかの額田王ゆかりのスポットができ、二つの歌の歌碑があちこちに立っている。

    つまりこの二つの歌は額田王と大海人皇子の恋の歌であり、蒲生野という牧歌的な雰囲気とあいまって、現代人にとってもロマンをかきたてるという訳である。標野は御料地のことで、野守は番人のことなので、御料地の番人である天智天皇の妻になった額田王と、昔の恋人大海人皇子が未だ未練をもっている歌とすると、万葉の悲恋物語となり観光客を呼べるということであろう。

    また額田王の父は近江の豪族で額田王も近江出身という説もあり、そのゆかりの神社も湖東の竜王町にある。鬼室集斯や餘自信らの渡来人と同時代に生きた額田王の、滋賀での足跡や像を一度追って見たいと思って、2006年3月5日と11日に湖東の万葉ゆかりの地を訪れてみた。

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       蒲生野近辺(蒲生野考現倶楽部HPより)

    <万葉の森・船岡山公園>
    日本で最も高い運賃で有名な近江鉄道八日市線の市辺(いちのべ)駅から歩いていける。車だと名神八日市インターチェンジから421号線を通って八日市に入り、市辺駅を通り過ぎると、直ぐに船岡山の麓の阿賀神社にいたる。市町村合併で現在は東近江市に所在する。

    阿賀神社の参道を進むと船岡山麓の阿賀神社本殿に達するが、その左方に広大な広場があり、冒頭写真のレリーフのある万葉の森・船岡山公園がある。公園内にはこの遊猟レリーフと、万葉集に詠まれた植物を歌碑とあわせて紹介した万葉植物園がある。蒲生野は万葉時代に既に紫草園があったとされ、紫草が栽培された畑もあった。

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          万葉の森・船岡山公園           歌碑があり紫草が栽培されている畑
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          中大兄皇子と大海人皇子か          立っているほうが額田王?

    蒲生野遊猟のレリーフの原画は、八日市市中央公民館の緞帳図柄を日本画家の大野俊明氏(成安女子短期大学助教授)が監修し、描かれたものであるとの平成3年10月八日市市作成の説明板があった。

    <船岡山>
    公園の背後が小高い山になっていて、ここが船岡山である。阿賀神社の横から登山道があり、登って行くと大きな岩に埋め込まれた万葉歌碑に至る。傍に萬葉歌碑由緒がこれも岩に埋め込まれているが、風化してほとんど字が読めない。それでも解読していくと、昭和42年5月5日に蒲生野顕彰会が建立したとある。

    この歌碑は、きちっと歴史考証を経てこの船岡山に建立されたらしく、八日市市指定文化財となって八日市市教育委員会が昭和46年から管理していると案内板にある。大岩に埋め込まれた歌碑は、意訳されたものではなく万葉集の原文で彫られている。その意味では平成になってから観光用に立てられた歌碑とは一線を画していて、元祖万葉歌碑ともいうべきものである。

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    天皇遊猟蒲生野時額田王作歌   茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流
     皇太子答御歌           紫草能 爾保敝類妹乎 爾苦久有者 人嬬故爾 吾戀目八方

    原文では「逝」と「行」が使い分けられているが、同意語の繰り返しを避けたものとされ、意訳歌では両方に「行き」が使用されている。歴史作家の梅澤恵美子氏はその著「額田王の謎」の中で、言葉に精通した額田王がそんな単純な技法を使うはずはなく、使い分けることによって武良前野(むらさきの)と標野(しめの)に意味を持たせているのだと指摘されている。

    つまり「逝」を用いた武良前野(むらさきの)は戻れない場所(大海人皇子)を指し、「行」を用いた標野(しめの)は天智天皇を指すので、天智のもとに行かねばならない自分は、大海人のもとに戻りたいと願っても戻れない、という嘆きを歌っていると述べられている。

    <妹背(いもせ)の里>
    船岡山の南西方面に、蒲生野をはさんで標高306mの雪野山がある。山頂に前方後円墳をもつ古代史跡であるが、その山麓に妹背(いもせ)の里がある。行政的には東近江市の隣の竜王町に所在するので、名神竜王インターチェンジで降りるほうが近い。妹背の里には、額田王と大海人皇子の銅像と歌碑がある。

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                 大海人皇子と額田王の銅像(滋賀県竜王町 妹背の里)

    妹背の里は竜王町が最近整備した多目的広場らしく、蒲生野の一角ということから東近江市の万葉の森に対抗して、こちらは万葉ロマンの里と銘打って万葉ファンの誘致を図っているようである。銅像の制作にどれだけ歴史考証を入れたのかは不明であるが、妹背の里への入口の橋の欄干にも万葉スタイルの銅像が立っている。

    竜王町のホームページでは額田王、源義経、藤原定家、和泉式部ゆかりの竜王町へどうぞとあり、歴史回廊をクリックすると万葉浪漫紀行というのが現れ、雪野山、妹背の里、竜王寺、鏡山、鏡の里、鏡の宿、鏡神社など付近一帯の万葉ゆかりの地が紹介されている。

    <鏡の里>
    雪野山の西方に、同じくらい(386m)の標高をもつ鏡山がある。竜王町の名前の由来は、これら二つの山に竜族の支配者「竜王」がすみ、民を守ったとの伝承にもとづくらしい。東の竜王山が雪野山であり、西の竜王山が鏡山である。鏡山の北側の山麓は鏡の里と呼ばれ、ここにも額田王ゆかりの地がある。

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            鏡山(西の竜王山)

    日本書紀の天武2(673)年に、天武天皇の后妃と皇子女についてずらずら書いてある中に、「天皇、はじめ鏡の王の女額田の姫王を娶(め)して、十市(とおち)の皇女を生みたまひき」とあるので、額田王は鏡の王と呼ばれる人物の娘とされている。

    竜王町と竜王町観光協会が作った鏡の里パンフレットの、真照寺の案内文に、「社伝をみると鏡王は鏡神社の神官で、その娘、鏡王女や額田王は、神官家で育てられました。万葉の有名な歌人、額田王は、この地の出身といえます。父の鏡王は、後の壬申の乱で戦死し、この真照寺に葬られています。」とある。鏡神社と真照寺は国道8号線(中山道)沿いにあり、目と鼻の先である。

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             鏡神社本殿                    真照寺

    鏡王女は額田王の姉で、先に中大兄皇子の妃となったが、額田王が天智の妃になった時期に、中臣鎌足(なかとみのかまたり:後の藤原鎌足)の正室になった。645年の大化の改新以降、鎌足は中大兄皇子の右腕であり、二人の関係をより強化するためであるとされているが、藤原氏の家格を上げるための鎌足の策略ともいわれる。

    <鏡神社>
    鏡の里のパンフレットから、額田王とその父が竜王町の鏡神社と関係があると始めて知ったが、額田王の出自には諸説があって不詳らしい。鏡神社という名前の神社は各地にあり、ウェブで検索すると、奈良、唐津、東大阪、伊勢など各地の鏡神社が出てくるが、8世紀から9世紀創建なので、竜王町の鏡神社が最も古いようである。

    ここ滋賀竜王町の鏡神社は、垂仁天皇の御代に日本へ渡来した新羅の王子、天日槍(あめのひほこ)の従者がこの地に陶芸や金工を業として住みつき、祖神として天日槍を祀ったことに始まる。従って当時の貴重品の鏡をこの地で生産していたことは十分考えられ、この地の豪族が鏡王と呼ばれていてもおかしくはない。因みに明治から昭和にかけて銅鐸が多数出土した野洲町は直ぐ隣である。

    鏡の里は、1174年に源義経が奥州へ向かうときに、この地で元服したことでも有名である。昨年のNHK大河ドラマでも元服シーンがあったが、近くに元服池があり、盥(たらい)の底板が鏡神社に保管されている。参道には義経が参拝したときに烏帽子をかけたという烏帽子掛松がある。

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         義経が烏帽子を掛けた松        烏帽子掛け松の説明板

    <井上靖の描く額田女王>
    天平の甍、氷壁、敦煌など数々の名作を残した井上靖が、額田女王も取り上げている。この著書では、額田女王の郷里は大和とし、幼くして郷里の家を出て、宮中の祭事に関係ある額田郷の額田氏に引き取られて、神の言葉を聞くと言う特殊な能力をもつ女性として育ったとする。

    山本健吉氏の解説によれば、近代の万葉学者や歌人が、二人の兄弟皇子の間にあって愛情で苦悩する悲劇のヒロインとして額田女王を捉えたのに対し、民俗学者の折口信夫らは、額田女王を采女や巫女のような神事に携わる女性として新しい考察を加えた。井上靖氏はこの方向に沿って額田女王の像を組み立てている。

    すなわち、額田女王は大海人皇子に拉致され関係をもち、結果、十市皇女をもうけても母の立場をとらず、神の声を聞く独立した自分に誇りをもち、神と人間の仲介者としての自分の立場を守った。中大兄皇子と関係をもっても自分の心は与えない。与えまいと決心している。それが神の声を聞く者の当然のあり方なのだという、強い女性の像である。

    この本を読めば分かることだが、井上靖の描く額田女王は、大海人皇子よりもむしろ中大兄皇子に本当は惹かれている。万葉学者たちの、大海人皇子をニ枚目に中大兄皇子を敵役に仕立てる通説とは逆を行っている。出自も近江ではなく大和になっているので、井上本は残念ながら滋賀県の観光戦略とは合わないが、山本健吉氏の解説には、父の鏡王は近江の豪族という説もあると紹介されている。

    そして井上本は、天武3(674)年に京都山科の天智天皇の御陵の造築が成った時の、「山科の御陵(みはか)より退散(まか)りし時、額田王の作れる歌」を引用し、額田王の天智天皇への思慕を暗示して終わりを迎える。

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    井上靖「額田女王」   梅澤恵美子「額田王の謎」

    <日本書紀が抹殺した額田王!>
    前述の梅澤恵美子氏は、逝と行の使い分けから、額田王の本心は大海人皇子にあったとする歴史作家である。氏は、天智と天武の両兄弟天皇と関わって、歴史を左右するような重要な影響を及ぼした額田王のことを、日本書紀がまるで無視していることに不審をいだき、「額田王の謎」(PHP文庫)という著書を出されている。

    つまり万葉集の歌からみて、明らかに天智天皇の后妃に座っていた額田王であるのに、正史「日本書紀」には、額田王に関しては、先に記した天武記の「天皇、はじめ鏡の王の女額田の姫王を娶(め)して、十市の皇女を生みたまひき」との1行しかなく、天智記には一切記載がない。おかしいじゃないの?という疑問である。

    そして日本書紀は、その編纂に藤原鎌足の息子の不比等(ふひと)が深く関わっており、持統天皇(天智の娘で天武の皇后、天武の後即位する)と結託して、藤原氏の正当性を述べるための道具に使い、都合の悪い事実は一切無視したという見方をされている。日本書紀に対するこういう見解は、歴史作家の関裕二氏らによっても指摘されている。

    梅澤本では、額田王は、大和の平群(へぐり)郡額田郷の額田部一族に育てられ、三輪山の巫女であったと推定している。万葉集に、「額田王が近江の国に下りしとき作る歌」があり、大和の三輪山との別れを悲しんでいることから、三輪山との結びつきが強いとする。ただし生誕の地については触れられていない。

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    三輪山(奈良県桜井市:三輪山小考2HPから)

    三輪山は神体山であり、大和の豪族、物部(もののべ)氏の祖が祭神であるが、歴代の物部氏は天皇家の祭司を務め、神である天皇を祀る資格をもっていた。しかも天皇の后は物部氏の女子から選ぶことになっていた。額田王は物部出身の女性であったため、王権争奪の渦中におかれたというのが梅澤氏の見方である。

    新興の藤原不比等は、物部氏のもっていた天皇の祭礼権を奪い取るために、権力欲が強く神になりたいという野望をもっていた持統天皇と結びついて天孫降臨の仕組みを考え、持統天皇の孫を文武天皇とするとともに、藤原氏の娘を歴代天皇に嫁がせるシステムの礎を築いた。この画策で王権継承者の天武天皇の皇子たちは全て始末された。

    額田王はこのような時代の中で、壬申の乱後はぷっつりと消息を消す。梅澤氏はこの理由を持統天皇との暗闘であったとする。つまり天智、天武の両天皇に愛された額田王は、天智の娘で、天武の妻であった持統天皇にとっては嫉妬の対象であり、自分が神になるという野望のためには邪魔な物部氏の女性であった。藤原不比等の野望と相俟って、額田王は日本書紀から抹殺されたという訳である。

    <万葉集は反体制側の歴史書?>
    さらに梅澤氏は、万葉集は単なる歌集ではなく、体制側の権力者によって抹殺された人々の真相を、後世に伝えるための歴史書であるとする。日本書紀は勝者の記述する正史であるから、表立って批判はできない。そこで歌という表現法をとって、その歌の配列に意味を持たせることによって、史実の暗部をあぶりだしているとする。

    従って万葉集には王権争奪のため、天智天皇や持統天皇によって非業の死を遂げた有間皇子や弓削皇子と額田王の間でやりとりした歌が載せられている。万葉集の編纂者は、日本書紀の書いている歴史の裏側にはこんな事実があったのですよ、ということを知らせているという訳である。

    梅澤本は次のように締めくくられている。

    「王権争奪のために数多くの暗殺劇を繰り返す時代に生きた額田王は、その身も現実の世に翻弄され、移り変わる世界に身を置かねばならなかった。」

    「そのはかない現実に挑戦するかのように、歌の世界で自分の愛の永続性を望み、またそんな時代に生まれたばかりに自分と同じように政治に翻弄され、刹那な時しか生きられなかった者たちへの想いを込めて歌ったのである。」

    「額田王の一生は、ヤマト王朝と物部一門の歩んだ栄華とその没落・滅亡そのものであり、これこそが、まさに栄枯盛衰の無常の世界を物語るものであったのだ。」

    <牧歌的でなかった万葉の世界>
    万葉集と聞くと我々現代に生きる者は、古代の歌人たちが優雅に、牧歌的に詠んだ歌の日本最古の集大成と思いがちであるが、その代表的な歌人である額田王の像を追っていくにつれ、およそロマンや牧歌的とはかけ離れた世界であったことを思い知らされた。

    今回訪れた蒲生野は、1300年以上経った今もなお牧歌的風景が残っているし、万葉ロマンというにふさわしい雰囲気を保っているが、その裏には現代の政治闘争よりもっとすさまじい闘争の歴史があったことを思わずにはいられない。

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