湖東の渡来人:餘自信ゆかりの高野神社
<餘自信のこと>
日本書紀には、663~671(天智2~10)年にかけて、滋賀県湖東地区に関係の深い渡来人、鬼室集斯(きしつしゅうし)と餘自信(余自信:よじしん)の記載がたびたび見られる。鬼室集斯については前編で触れたように、近江大津京の学識の頭を務めた百済の王族であり、蒲生郡小野に彼を祀る鬼室神社がある。
もう一人の、やはり百済の王族であった餘自信については、日本書紀は、663(天智2)年に滅亡した百済を去って日本に向かったこと、669(天智8)年に鬼室集斯ら男女7百余人とともに近江の国蒲生郡に遷し居かれたこと、671(天智10)年に大錦下の位を授かったことを述べている。つまり餘自信も鬼室集斯と同じく近江大津京の高官であった。
朴鐘鳴編の「滋賀の中の朝鮮」(明石書店刊)によれば、栗東市高野にある高野神社が、この餘自信の後裔の高野造(たかののみやつこ)により創始されたとある。栗東市高野は我が家から近く車で15分ほどで行けるので、足元に渡来人ゆかりの神社があると知って2006年2月12日に小雪のちらつく中、高野神社を訪れてみた。
<高野神社>
名神栗東インターチェンジから国道1号線を東進し、高野交差点の次の林西の交差点を国道8号線野洲大橋方面へ左折すると左手にある。冒頭写真に掲げた入口から参道を進んでいくと楼門が現れる。この楼門は室町時代の1532年に、京都御所の門を朝廷から拝領移築したものと説明板にある。
楼門をくぐると社殿境内に入り、奥に本殿が鎮座している。境内には二の宮、三の宮もあり、鬼室集斯を祀る鬼室神社とは比較にならない大きな神社である。延喜式神名帳に記された位階ある式内社であると、説明板に記してある。また説明板にはないが神武天皇遥拝所という石碑も立っている。
<栗東市高野>
高野神社由緒によると、天智天皇御代以降、高野造(たかののみやつこ)なる人物が、この地一帯を開墾開発し高野郷と名づけられたとある。特に飛鳥時代、708年~714年の和銅年間に、わが国で初めて鋳造された「和銅開珍」の鋳銭師である、高野宿弥道経一族が住んで、祖先を祀ったのが始まりとある。
そういえば野洲に近いこのあたりには、岩畑遺跡もあって武器や鉄製品が出土しているので、銭鋳造の環境は整っていたのだろう。ここ高野神社から間近に見える、近江富士として名高い三上山は以前触れたように鉱山であった可能性が高い。岩畑遺跡にはオンドル施設もあり、渡来人も住んでいたことがわかっているそうである。
<餘自信と高野神社とのつながり>
しかし高野神社由緒には、餘自信のことは全く触れられていない。高野造が餘自信の後裔であることは、平安時代初期の系譜集成書である「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」に、「高野造 百済人佐平餘自信之後也」という記載があることから分かるのだそうである(佐平は百済の官位)。
そのあたりの知識はないが、新撰姓氏録をウェブで検索し、氏族一覧の右京諸蕃のところを見ると、なるほどその記載がある。つまり餘自信は、669年に鬼室集斯とともに近江国蒲生の地に住み着いたが、その後、一族がこの高野の地に進出したということらしい。
鬼室集斯はその子孫により八角柱の墓碑に名を刻まれ蒲生の地に祀られたが、餘自信の名前が刻まれた墓碑はあるのだろうか。高野神社由緒には、本殿、二の宮、三の宮のご神体は、いずれも八角柱状のご神木であると記されている。餘自信のことを神社の人に聞いて見たところ、この神社は餘自信の一族である高野氏が自分の祖先を祀ったということで、餘自信を祀ったのではないとの言であった。
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