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2006.01.15

湖東の渡来人:鬼室集斯のこと

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          鬼室神社の案内板(滋賀県日野町小野)

<鬼室神社>
滋賀県湖東地区と渡来人のかかわりを見ていくと、鬼室集斯(きしつしゅうし)という人物に出会う。前編の湖東の渡来人で触れたように、蒲生郡日野町小野(この)には、近江大津京の初代学識頭(ふみのつかさのかみ:当時の文部大臣)を努めた百済人鬼室集斯を祀る鬼室神社がある。

地域的には石塔寺や百済寺とさして遠くなく、名神高速道路の八日市インターチェンジから車で15分ほどで行けるので、2006年1月9日に訪れてみた。今冬は例年になく雪が良く降り、この日も名神八日市を降りると一面の銀世界であった。雪の残る村道を走っていくと、鬼室神社を示す日本語とハングル文字の両方で書かれた標識があった。この小野の一帯は鬼室の里とも呼ばれているようである。

標識の指す方向に鬼室神社への参道がある(といっても田んぼのあぜ道であるが)。入口には、冒頭の写真のような日本語とハングル文字が併記された案内板と、鬼室神社と彫られた石碑が立っている。鬼室神社はこの参道を少し入った林の中にある。この日は参道も周囲の田畑も雪で覆われていたが、いかにものどかな田園風景である。

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     村道にある鬼室神社標識           参道の石碑と鬼室神社がある林

参道入口の案内板には、近江朝廷の高官であった鬼室集斯のお墓があること、江戸時代までは不動堂と呼ばれ小野の宮座により護持されてきたこと、集斯の父、鬼室福信が祀られている韓国扶余郡恩山面と姉妹都市として交流していることが記されている。

雪を踏んで参道を進むと、右手の林の中に鳥居と拝殿が見えてくる。境内に入るとそれほど大きくない鳥居と石灯籠と拝殿がまっすぐに配置されていて、質素で厳粛な雰囲気である。鬼室集斯が学識頭を務めたことに由来するのか、学業の神として護持されてきたらしい。いまさら拝んでも学業の神のご利益はないか、と思いつつ、お賽銭を投げ拝礼した。

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        鬼室神社の境内                拝殿
           
<鬼室集斯のお墓>
拝殿の裏側には、樹齢何百年とも思える杉の大木があり、そのそばに神殿を形どった石祠がある。鬼室集斯のお墓である。杉の大木と石祠は石柱の柵で囲われており、石祠の側には門もついている。境内にある案内板には、門の扉と石祠の扉が開いたときの、中の墓碑の写真が示してある。

司馬遼太郎の「街道をゆく 第2巻 韓のくに紀行」の最終章に、ここ鬼室神社と鬼室集斯の墓を訪れた記載がある。それによると、江戸時代中期に江戸の儒者がここを訪れ、神殿を形どった石祠は儒礼による墳墓であると断定したらしい。儒教を信奉した朝鮮半島からの渡来人の墳墓だとすると納得がゆく。

また石祠の中の墓碑は八角形の形をしており、こけし人形のように首がくびれているとあるが、案内板の写真からもうかがい知れる。やはり江戸時代にここを訪れた儒医が、風化した石に水をそそいで苔をはらい、苦労して刻文をさぐり、ついに、正面に鬼室集斯墓、左に朱鳥3年戊子11月8日歿、右に庶孫美成造、と彫られていることを読み下したとのことである。

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      杉の大木と鬼室集斯の墓            墓碑が入っている石祠
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     境内の案内板に示された墓碑

墓碑の碑文から、このお墓は鬼室集斯の子孫の美成氏が立てたことが分かるが、関西学院大学の朴鐘鳴氏によると、八角形の石碑の歴史からして、この墓碑の建立は11世紀以降と推定されるとのことである。神社の最も古い棟札が1429年のものなので、このときには神社も建立されていたらしい。明治40(1907)年頃の記録には、実際に美成姓の家がこの周辺にあり、神社を守っていたという。

今でも11月8日には村の人々によって神社の祭礼が行われており、近年は韓国から訪れる人も多くなったので、そのために道案内標識や案内板にもハングルの表示がしてあるとのことである。ということは、663年に百済が滅亡して以後、1340年を超える長い間、日本の近江湖東の地で亡国の王民の霊が慰められてきたわけであり、いささか感慨を覚えた。

<鬼室集斯のこと>
鬼室集斯の墓碑に彫られた朱鳥(あかみとり)3年は、日本史辞典を紐解くと西暦688年にあたる。7世紀前半の朝鮮半島は、北に高句麗、東に新羅、西に百済があって3国が鼎立していたが、660年頃に新羅が唐と連合して百済を滅ぼし、その後668年には高句麗をも滅ぼして統一新羅が成立する。

百済国王であった義慈王(ぎじおう)が唐に連れ去られた後も、百済を再興しようとしてゲリラ戦を続けていたのが、冒頭の説明板にも出ている鬼室集斯の父、鬼室福信(きしつふくしん)である。当時義慈王の王子、豊璋(ほうしょう)が日本にいたので、鬼室福信は豊璋の帰還と援軍を日本に乞うた。これに応じたのが中大兄皇子(天智天皇)である。

豊璋は帰国して国王となり百済再興を目指したが、鬼室福信の声望をねたんで彼を殺すなどの内紛もあり、663年の白村江の海戦で百済-日本連合軍は、新羅-唐連合軍に壊滅させられた。豊璋は北方へ逃げ百済は完全に滅亡した。日本軍の生き残りは百済の亡民を保護して日本に戻り、その後も百済から日本への亡命者が絶えなかった。

王族に連なる鬼室集斯の一行もこのような亡命者であったが、一行には法制、学術、兵法、医薬などに優れた人材がいたと思われ、天智天皇の近江朝廷は鬼室集斯に位階を与えて優遇した。日本書紀天智紀8(669)年には、佐平(百済の官位)余自信、佐平鬼室集斯等男女七百余人を近江国蒲生郡に遷す、という意味の記載があるので、鬼室集斯はこのときに蒲生郡に定着したらしい。

前述した司馬遼太郎の「街道をゆく」には、天智天皇のときにはじめて大学寮が設けられ、鬼室集斯がいきなり文部大臣兼大学総長ともいうべき「学識頭」に補せられているのである、とある。この頃の日本はまだ十分統一された国家ではなく、律令を基本とする文治主義へ移行するための官僚養成が急がれていた時期であったので、学校制度創設を、百済からの亡命知識人に頼ったのであろう。

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                   雪の蒲生野から鈴鹿連山を望む

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