“湖族の郷”堅田散策
上代の滋賀郡4郷のうち、真野(まの)郷と呼ばれた地域のことである。現在の、雄琴(おごと)、堅田(かただ)、真野、小野、和邇(わに)といった琵琶湖大橋西岸の一帯である。特に堅田と小野には歴史遺跡が多く、堅田の浮御堂(うきみどう)や、小野妹子や小野道風を輩出した小野一族の神社などは良く知られている。
中でも堅田は、織田信長や豊臣秀吉が重用した堅田水軍の根拠地であって、中世から江戸時代にかけては、水路権を握った堅田衆と呼ばれた人々によって、琵琶湖最大の自治都市を築いていた。と、この程度の知識は持ち合わせていたが、堅田に「湖族の郷(こぞくのさと)」資料館があると聞いて、もう少し堅田のことを知ろうと、2005年10月16日に訪ねてみた。
<湖族の郷資料館>
平成9年にオープンし、堅田の浮御堂から直ぐのところにある。普通の民家を利用したこじんまりした資料館である。100円の入場料を箱に納めて中へ入ると、他に見学者がいなかったためか、年配の男性の方が展示品や掲示資料を詳しく説明してくださった。あとで名刺を頂いたところ、ここの館長さんであった。
館長さんのお話によると、「湖族の郷」の名前の由来は、吉川英治氏の大作「新平家物語」から来ているとのこと。しかし湖族というと海賊のようなイメージもあるので、地元では、湖族より堅田衆の方が良いのではないかとの意見もあるらしい。新平家物語と堅田の繋がりは認識がなかったので、帰宅してから新平家物語を紐解くと、確かに「堅田の湖賊」という章があった。
ちょうど今年、NHK大河ドラマで「義経」をやっているが、番組にも出てくる義経の叔父、新宮十郎行家は、新平家物語では、熊野水軍の有力者であり、姪が堅田の湖賊に嫁いでいるとの設定がされている。行家を探して京都に来た義経が、堅田で行家と面会するくだりがこの章にある。つまり熊野と堅田には、海と湖の違いはあっても水路権を握り、運輸や通行人から保険料として私税を取ることを業としていた同業者の交流があったわけである。
<堅田にゆかりの人々>
湖族の郷資料館の中を拝見すると、吉川英治を始め堅田を取り上げた作家たちや、堅田出身の著名人、堅田を支配した中世武将など堅田ゆかりの人々がパネルに掲示してある。
これらのパネルから、三島由紀夫は「絹と明察」で堅田港を、城山三郎は「一歩の距離」で浮御堂を、岡本一平は「琵琶湖めぐり」で光徳寺を取り上げたこと、また水上勉「一休」、五木寛之「蓮如」、川口松太郎「一休さんの門」、井上靖「比良の石楠花」は、堅田を題材としたことがわかる。
堅田出身の著名人として、「淡海節(たんかいぶし)」で有名な喜劇役者、志賀廼家淡海と、琵琶湖哀歌の作詞者、奥野椰子夫のパネルと資料が展示してあった。淡海節の名前は知っていたが、琵琶湖のことであったと始めて納得した。琵琶湖哀歌は、1941(昭和16)年に旧制四高(現金沢大学)のボート部員が高島沖で遭難したときに作られた。1917(大正6)年に作られた琵琶湖周航の歌と似た感じがするので、間違える人も多い。
歴史上の人物としては、織田信長から琵琶湖の湖上支配を行う船奉行を任された堅田の土豪、猪飼甚介のパネルが展示してあったが、当方に知識がない。天正時代当時の湖賊の親玉であったのだろうか。
<堅田の始まり>
展示されているパネルをたどっていくと、そもそも堅田は縄文時代から生活の営みが始まり、667年の近江京遷都に先立って衣川(きぬがわ)に大寺院が築かれたが、壬申の乱で消滅し、現在は衣川廃寺跡として史跡公園になっている。今回は行かなかった。
<伊豆の三島とのつながり>
9世紀末に比叡山の阿闍梨が諸国行脚し、伊豆三嶋の風景が堅田に似ていることから、伊豆三嶋神社の和多志の神(渡し)を勧請して、堅田の地に堅田大宮伊豆神社を建立したとされる。三島には、1991(平成3)年4月から翌年3月までの1年間単身赴任したので、三嶋大社には何度も行ったことがあり、何となく縁を感じた。
説明板には、892年に三嶋明神の分霊を勧請し、さらに947年に山城加茂大神を勧請して、伊豆大権現と神田大明神との二体の神様が祀られているとある。この時期には比叡山延暦寺の勢力が強大化していたから、堅田も延暦寺の寺領に組み入れられ、山門の支配地域となっていた。
<浮御堂>
995年から999年にかけて、比叡山横川の僧、源信(往生要集の著者で、恵心僧都として有名)が、湖上安全と衆生済度を願って、一千体の阿弥陀仏を刻んで琵琶湖の湖中に一宇を建立した。これが現在の堅田のシンボル浮御堂である。現在の浮御堂は1937(昭和12)年の再建であるが、一千体の阿弥陀仏を安置して「千体仏」と称している。平安時代の作で重文になっている観音坐像が観音堂にある。
浮御堂(左遠くに琵琶湖大橋) 観音堂と松の巨木
浮御堂内部 千体阿弥陀仏
現在の浮御堂桟橋は写真のように堅牢なコンクリート製になっているが、このウェブログの琵琶湖周航編で触れたように、1966(昭和41)年頃は朽ちかけた木の桟橋であった。工事記録の看板があったので見ると、やはり1981(昭和55)年に改築されており、そのときにコンクリート桟橋になったようである。
1966年当時は勝手に桟橋に出入りができ、ここから出発してヨットによる琵琶湖周航をしたわけであるが、今は山門も整備されて入場しないと桟橋へはいけない。入口には浮御堂と並んで満月寺という標識も作られている。パンフレットには臨済宗大徳寺派海門山満月寺とあり、禅寺である。
源信は比叡山の僧であるから、当初は当然天台宗の堂宇だったと思われるが、堅田の地はたびたび戦場となったので浮御堂も荒廃した時期があり、徳川時代に大徳寺の住持によって復興された時に禅寺になったと思われる。境内の湖岸に近いところに松尾芭蕉の句碑が立っている。
山門(楼門) 鎖(じょう)あけて月さし入れよ浮御堂
<京都下鴨神社とのつながり>
館長さんのお話から、堅田の地は京都下鴨神社との繋がりが特に深いことが分かった。949年に山城国加茂社(下鴨神社)を分祀し、堅田に神田神社が創建された。前述の伊豆神社も、947年に加茂社から神田大明神を勧請していることと関係するのだろうが、当方に知識がない。さらに1090年、神田神社に加茂社(下鴨神社)の御厨(みくりや)が設置された。
以来、堅田は加茂社(下鴨神社)に御膳料として湖魚類を献上する役割を担う見返りに、漁業権や通行権などの湖上特権を獲得し、江戸時代にいたるまで琵琶湖最大の都市として発展した。新平家物語の「堅田の湖賊」は、このような背景があって生まれ育ったわけである。
現在でも、京都の葵祭りの前日、5月14日の早朝から、堅田の神田神社と伊豆神社から京都の下鴨神社へ湖魚を献上する「献撰供御人行列」が行われるとのことである。館長さんからその行列のアルバム集も見せていただいた。京都育ちなので下鴨神社にも良く遊びにいき、葵祭りも見ていたが、堅田の神社とそのような繋がりが続いていることは露知らなかった。
<本福寺 蓮如と芭蕉ゆかりの真宗寺院>
湖族の郷資料館で頂いた史跡ガイドと地図を見ると、この資料館付近の狭い地域にも、蓮如、松尾芭蕉、一休さんにゆかりの寺院がある。さすがに堅田は歴史のある町だと感心して、その辺を散策することにした。
湖族の郷資料館から数分歩くと、本願寺旧跡とも呼ばれる本福寺にいたる。14世紀の南北朝時代に創建され、3代目住持法住の時代、1467年に大谷本願寺を追われた蓮如が身を寄せ、再起の本拠地とした寺で、法住のもとに商工農漁業者が結集し真宗再興を果たしたという。
11代目住持明式は芭蕉の高弟で、「千那」という俳号を与えられたので、この寺は千那寺とも呼ばれたという。12代目住持角上も優れた俳人であったらしい。境内に句碑があり芭蕉の姿を彫ったものもある。
芭蕉は近江の地が気に入り何度も訪れており、今でも滋賀県には芭蕉ゆかりの史跡や句碑が多い。生前からの遺言で最後は大津膳所の義仲寺に葬られた。松尾芭蕉を大津の地に最初に案内したのが、千那であった。
<祥瑞寺(しょうずいじ) 一休さんゆかりの禅寺>
本福寺の隣の、やはり真宗寺院の光徳寺を通り過ぎて少し行くと、「一休和尚修養之地」の石碑の立った祥瑞寺にいたる。15世紀初めに大徳寺派の高僧華叟宗曇(けそうそうどん)が開いた臨済宗の寺院である。後に大徳寺47代目の住持となる一休宗純が、22歳から44歳まで修行し、「一休」の道号を与えられたところである。
一休の生涯や思想については、司馬遼太郎「街道をゆく 第34巻 大徳寺散歩」に詳しい。江戸初期に書かれた「一休咄」で庶民の人気者になり、現代でもなおアニメになったりして世界中の子供に親しまれている。一休が開祖の大徳寺真珠庵塔主の山田宗敏氏から、「世界でいちばん有名な日本人は一休さんかも知れませんよ」と言われて司馬氏ももっともと思ったらしい。
大徳寺散歩の巻に、祥瑞寺に関しては、一時期厭世におちいって、琵琶湖で自殺未遂を起こした一休が、堅田の禅興庵(祥瑞寺の前身)の華叟宗曇を慕って門をたたいたが容易には許されず、漁舟に寝泊りして入門を乞い続け、ようやく許された。25歳のときに師から示された公案に答えて師が認め、「一休」という道号を与えた、というような記載がある。
一休は、全く型破りの「風狂の人」として知られ、女犯、放蕩など禅僧としては禁じられていることも意に介さなかったらしい。森侍者(しんじしゃ)という恋人が生涯身辺にいたし、詩文集「狂雲集」では、室町時代の西洞院あたりの娼家のことが、彼の放蕩のおかげでよく分かるそうである。
司馬氏の大徳寺散歩の中の一文を紹介する。「一休は80歳を越えたとき、「遺誡」を書いて弟子たちに示した。要するに、「おれのまねをするな」ということであった。バーにもゆくな、娼家にもゆくな、もしそんなことをするやつは「仏法の盗賊」であり、「わが門の怨敵」でもあるぞ、というのである。」その後に司馬氏なりの解釈があるが紹介はやめる。
<一休、蓮如、芭蕉の町>
一休と蓮如は、ほぼ同時代(室町時代)に生きたので、片や禅宗、片や浄土真宗で教義は別れていても、既成宗教や権力者との戦いにおいては共通の感覚があったと思われ、「禅浄一如」を認識した両者の交流もあったようである。堅田時代は目と鼻の間に居たわけであるが、この時代に二人の交流があったのかどうかは知識がない。
また、祥瑞寺にも芭蕉の句碑があり、高弟の千那のいる本福寺を基点にして、芭蕉が堅田の地を訪ね歩いたことが良く分かる。堅田のこのあたりは、一休、蓮如、芭蕉の面影が、今も色濃く残されているところであった。
<後日談:日本初の女性絵本作家は堅田の湖族出身?>
2013年2月10日の日本経済新聞「美の美」欄に、江戸時代元禄期に活躍した居初つなという日本初の女性絵本作家の話が出ていた。居初氏は堅田の湖族の親玉(殿原衆)なので、居初つなは堅田の出身ではないかと思って調べ、この後のウェブログ「日本初の女性絵本作家(居初つな)は堅田の湖族?」にアップした。
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