志賀の都探訪
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園城寺(三井寺)北院「法明院」から琵琶湖と対岸の三上山を望む
<志賀の都>
京都育ちなので子供の時は滋賀県への偏見があった。つまり東山と逢坂山の二つのトンネルを越えた滋賀県に対して、遠いところという感覚があった。平安貴族はそれを都落ちと呼んだわけであるが。滋賀県から行商のオバさんが琵琶湖のシジミやウナギを売りに良く来たが、江州(ごうしゅう:当時滋賀県をこう呼んでいた)から来たと言われて、まるで豪州(オーストラリア)から来たように受け留めていた。
しかし人生かなりの期間を滋賀県で勤め、終の棲家も滋賀県に定めた今となってはこの偏見は全く改まった。こと都という点では滋賀県の方が京都より先輩である。667年に天智天皇が近江大津宮を都として近江京(おうみのみやこ)となったが、672年の天智天皇の死去により壬申の乱が勃発し、近江朝廷側が破れて近江京は廃されたので、5年間の都であった。
従って大津市は、1966(昭和41)年にできた古都保存法における「古都」に早くから候補になっていたが、近江京の遺跡が見つからなかったため見送られてきた。1974(昭和48)年現在の錦織(にしこおり)2丁目付近で遺構が見つかり20年余りの調査を経て、漸く2003(平成15)年に京都、奈良、鎌倉、逗子、天理、橿原、桜井の各市、斑鳩町、明日香村に続いて全国で10番目の「古都」に政令指定された。
錦織2丁目交差点(昔は錦部) 史跡近江大津宮錦織遺跡第8地点
史跡近江大津宮錦織遺跡第2地点 石碑(字が不明瞭で読めない)
琵琶湖周航の歌の1番の歌詞に、「・・・・のぼる狭霧やさざなみの志賀の都よいざさらば」とあるが、大津市三保ケ関が出発点であるから、志賀の都は当然近江京(おうみのみやこ)のことをさしている。滋賀県にはこの他、聖武天皇が造営し、745年の一時期都となった紫香楽宮や、761年に淳仁天皇が平城京の陪都として設けた保良宮も置かれ、いずれも平安遷都以前の都であった。
<渡来人の都>
なぜ当時の首都圏であった大和から、かなり離れた近江の大津に都が造られたかについては、渡来人がこの地に集住していたことと関係が深いらしい。当時の倭国は百済と親交があり、663年の白村江で大敗を喫した後も多数の百済人亡命者を受け入れている。現在の北大津、南滋賀、滋賀里、穴太(あのう)、坂本近辺には古墳群が集中しており、朝鮮半島様式であることから渡来人が被葬者とされる。
滋賀里の百穴古墳遺跡
司馬遼太郎を司馬大人(うし)と呼ぶ朝鮮古代史、朝日関係史専門の朴鐘鳴氏によると、上代の滋賀は古市(ふるち)、錦部(にしこり)、大友、真野(まの)の四つの郷からなり、真野郷を除いては、すべて6世紀頃この地域に居住し始めた渡来人-百済人の集住地であったという。今の石山から坂本あたりまでの地域である。
錦部郷と大友郷にかけて所在したと思われる近江京において、文字を操れた彼ら渡来人は、文書作成などの知的な仕事に携わったのであろう。事実、近江京時代には、庚午年籍(日本最古の戸籍)の作成が行われ、律令体制の基礎が作られている。従って志賀の都は渡来人の都であったとも言える。
天智天皇の長子で、壬申の乱で敗北した大友皇子は、この大友という郷名を名としており、大友一族と深いつながりがあるらしい。天智天皇が大友氏の勢力範囲であったこの地を選んで遷都したこともうなずけるわけである。
そんなことに関心を抱き、渡来人の集住地とされる古の古市、錦部、大友の3郷を少し探訪してみた。真野郷についてはこの後のウェブログ「“湖族の郷”堅田散策」で触れた。
<茶臼山古墳>
古市郷は今の粟津、膳所、石山、南郷一帯とされる。1965(昭和40)年に入社した会社発祥の地であり馴染みの深い地域である。付近には古墳が多いと聞かされていた。名神高速道路や新幹線の建設でかなりの遺跡が潰されてしまったが、膳所秋葉台には今も茶臼山古墳が残っており、秋葉神社とともに一帯が公園となっている。
茶臼山古墳 秋葉神社参道 秋葉神社
滋賀県教育委員会の案内板には4世紀末から5世紀頃の古墳とある。古墳時代前期の近江の首長の墓ともあるので、この地域が志賀の都以前には政の中心地であったらしい。朴鐘鳴氏によれば、6世紀頃から古市には大友但波史族(たんばのふひとぞく)が居住していたという。5世紀頃の近江の首長と渡来人の大友氏がどう関係するかについては知識がない。
<園城寺(三井寺)>
錦部郷は今の浜大津から滋賀里あたりまでの湖畔と叡山にはさまれた一帯とされる。朴鐘鳴氏によれば、錦部村主(すぐり)の一族と園城寺の実質上の創建者である大友村主が居住し、志賀の都の中心地であったという。園城寺(おんじょうじ)は別名を大友村主寺とも呼んだらしい。長等山の中腹にあり、この付近に1971(昭和46)年頃住んだことがあるが、当時は志賀の都には全く関心がなかった。
園城寺には天皇の産湯に使われた霊泉があって、御井の寺と呼ばれ、その後三井寺と呼ばれるようになった。三井寺のホームページには、672年の壬申の乱で敗れた大友皇子の子、大友与多王が創建し、勝利して即位した天武天皇から園城という勅額を賜ったことが始まりとされている。従って大友村主と大友皇子の子は同一人ということになるが、そのあたりの知識はない。
園城寺仁王門
三井寺は三井の晩鐘や西国観音巡礼の札所で、今は大津の代表的名所である。860年代に智証大師円珍が園城寺を天台別院として中興したが、円珍派と慈覚大師円仁派の対立で993年に天台宗が分裂し、円珍派が延暦寺から三井寺へ入り、以後延暦寺を山門、三井寺を寺門と称したことは高校の歴史で習ったことである。
また大津市には、三井寺も含め壬申の乱で敗れた大友皇子ゆかりの地が今も残されているので、後のウェブログで触れた。
<フェノロサの墓>
時代は明治に繰り上がるが、この三井寺、特にその北院法明院をこよなく愛し、仏教に帰依までしたのがアーネスト・フェノロサである。法明院は三井寺の北西の山中にあり、皇子が丘テニスコートやユースホステルの付近から少し登ったところにある。庭園からは冒頭の写真のように、大津市街、琵琶湖、対岸の三上山等の雄大な景色が望める。法明院の直ぐ近くの山中に静寂な墓地があり、その中にフェノロサの墓がある。
フェノロサの墓 フェノロサの法名は諦信と言う
フェノロサは、大森貝塚を発見したモースの紹介で、1878(明治11)年にお雇い外国人教師として来日したが、日本美術の素晴らしさを認識し、岡倉天心、狩野芳崖、橋本雅邦等に物心両面の援助をすると共に、岡倉天心と共に東京美術学校の設立に努め、「日本美術の恩人」として知られる。
明治維新初期は富国強兵策と近代化至上主義はとられたが、廃仏毀釈や城郭文化財の取り壊し等が行われて日本の伝統文化の受難期であった。日本美術も例外ではなく、欧米崇拝の機運の下に、今日ではその建築美が讃えられている興福寺の五重塔が売りに出されたり、北斎、歌麿の名画が省みられなかった時代であった。
フェノロサはそのような時代に日本美術の真価を認め、日本美術史を系統立て、母国米国にも紹介した。当時の日本人は、フェノロサによって自分たちの持つ美術工芸の真価を再認識し、破滅から免れ得たといっても過言ではない。1908(明治41)年にロンドンで56歳で客死したフェノロサの遺骨は、遺言により自分が得度受戒し法号「諦信」を得た三井寺法明院に納骨された。
三井寺北院 法明院
<近江神宮>
三井寺から北へ向かうと、近江京が所在していた錦部郷の中心地(今の錦織2丁目)を通って近江神宮にいたる。近江神宮そのものの創建は1940(昭和15)年であるが、天智天皇を祭神として、昭和時代に建立された唯一の官幣大社であり、明らかに近江大津宮を意識して建てられた。現在では付近は住宅が立込み、錦部郷時代の原生林を彷彿させるのは、この近江神宮の森くらいのものである。
近江神宮楼門 近江神宮外拝殿
天智天皇は、中大兄皇子時代の660年に飛鳥に漏刻(水時計)台を作ったとされ、大津遷都とともに漏刻も移管したと思われるが未発見とのことである。日本書紀には671年に近江大津宮に新しい漏刻を置いたともあるらしい。ここ近江神宮には日本最初の時報制度を作った天智天皇にちなみ、時計博物館と漏刻のモニュメントがある。
6月10日は「時の記念日」であるが、この謂れは「天智10年4月25日(671年)に、始めて候時を打ち、鐘鼓を動す。始めて漏刻を用ふ。」との日本書紀の記述を太陽暦に換算したもので、1920(大正9)年に天智天皇の偉業を称えて制定されたとのことである。
近江神宮時計博物館 時計博物館中庭にある漏刻モニュメント
<崇福寺跡> 錦部郷の北端とされる滋賀里から京都白川へ向かう志賀坂越えの東海自然歩道に入ると、直ぐに前述の百穴古墳の遺跡に達する。さらに進むと崇福寺跡の案内標識があり、分岐点を左へ入り山道を少し登ると、崇福寺跡にいたる。こんな山の中にと思うような場所であるが、考えてみれば当時はどこもが原生林に囲まれていたのだろうから、おかしくはない。
崇福寺は668年に天智天皇の勅願により建立され、園城寺、南滋賀廃寺、穴太廃寺とともに近江京の守護寺であった。平安末期頃までは金堂、講堂、三重塔などが配置されていたという。現在残る礎石などは国の史跡に指定され、塔心礎から発見された豪華な舎利容器は国宝に指定され、近江神宮に保管されている。
金堂跡に立っている崇福寺奮址碑 崇福寺案内板
<石垣の町>
錦部郷の北は大友郷である。大友郷は今の穴太(あのう)、坂本一帯の地とされる。朴鐘鳴氏によると、6世紀頃には渡来人の、三津首(みつのおびと)氏、志賀漢人(あやと)一族、穴太一族、大友氏が居住したという。三津首氏からは、その後天台宗祖最澄を輩出する。
この一帯では、まず目に付くのが石垣の建造物の多さである。「穴太築き(つき)」とか「穴太積み」と呼ばれ、穴太衆といわれる石組み職人の仕事である。戦国から江戸初期に築かれた日本の主要な城郭の石垣は、全て穴太衆が派遣されて造ったといわれる。
穴太衆の起源も、6世紀~7世紀初頭にこの地で横穴式古墳群を築造した渡来人に行き着くらしい。横穴式古墳の石室が野ヅラ石の乱積みという技法を用いているところに、穴太積みの祖形を見るということである。穴太から坂本にかけての街道沿いや、坂本の町には至る所に石垣がある。
最乗院(穴太-坂本の県道沿い) 石組みの小川
坂本の町で見る石垣
<お蕎麦屋さん>
司馬遼太郎は、「街道をゆく 第16巻 叡山の諸道」で、この地のことに詳しく触れている。この中に「そば」という章がある。司馬遼太郎が、坂本に古いそばやさんがあると思い出し、須田剋太画伯が、鶴喜そばでしょう、といって坂本の大鳥居傍のそばやさんに入ったくだりである。
近くの駐車場に鶴喜そばの看板があるので、鶴喜そばと信じ込んで入った店が、日吉そばであったという笑い話である。実は我が家も全く同じ経験をしたことがある。「街道をゆく」を読む前だったので、同じ経験を司馬遼太郎がしたと分かって全く愉快であった。最近は日吉そばという昔はなかった大きな看板が出ている。
鶴喜そば本店 日吉そば(看板は昔はなかった)
<日吉大社>
天智天皇が近江京を開いた667年には、既にこの坂本の地に山の神を祭る神社があった。大山咋神(おおやまくいのかみ)といい、古事記に出ているらしい。668年には天智天皇が大和三輪山の神、大己貴神(おおなむちのかみ)を勧請し神が二つになった。前者が東本宮に、後者が西本宮に祭られている。
日吉大社 西本宮 日吉大社 東本宮
その後最澄が比叡山延暦寺を建立して天台宗を開くと、天台宗の護法神として仏教とも深い関係になった。この頃から日吉山王とか山王大権現と称され、神仏習合が進んだ平安末期には、延暦寺の僧兵が神輿を担いで朝廷に強訴に及ぶというような叡山の勢力拡大と、仏教徒の堕落が始まった。若き日の平清盛が神輿に矢を射掛けて僧兵の度肝を抜き、その後平家が権力を握ったという映画を見たように思うが、何の映画か忘れてしまった。
日吉大社神輿説明 神輿の展示室
叡山の勢力拡大と仏教徒の堕落はその後も進んだが、これに鉄槌を下したのが織田信長である。織田信長の叡山や日吉山王の焼き討ちによって建物や神輿は灰燼に帰したが、また桃山、江戸初期に再建された。織田信長を仏敵とはいうが神敵とはいわないので、神仏を併せ持った日吉山王の仏教施設部分を焼いたのかと思ったが、全滅だったらしい。
再建された日吉山王は、明治維新に入って今度は廃仏毀釈・神仏分離という維新政府の暴挙に会い、仏教施設が取り除かれ、日吉山王大権現という仏教の臭いのする名前は捨てられ、日吉大社というようになった。日吉大社のパンフレットには山王総本宮日吉大社とある。
<西教寺>
坂本にはもう一つ著名な天台宗の寺がある。聖徳太子の創建と伝えられる天台真盛宗(しんせいしゅう)の総本山で西教寺という。信長の比叡山焼き打ち後、坂本城の城主となった明智光秀の尽力により復興した。1486年に延暦寺から真盛上人が入山して興隆し、不断念仏道場として全国に400余りの末寺を有している。
開祖真盛上人を祭る大師堂 西教寺 本堂
明智光秀とも関わりが深く、境内には明智光秀や細川ガラシャ夫人をはじめ、明智一族の墓がある。また、松尾芭蕉が訪れて残した、「月さびよ 明智が妻の はなしせむ」の句碑もある。
月さびよ明智が妻のはなしせむ 明智日向守光秀とその一族の墓
真盛上人や明智光秀に関しては、西教寺関連のホームページにも出ているので一般的な知識は得ていたが、本堂の横から裏山を見たときには少し驚いた。山の頂まで無数の墓がびっしり立っているのが見えたのである。墓地に足を踏み入れてみると、平成年代建立の新しい墓標もあるが、殆どは大変古い墓標であり、中に説明板の立っている墓標もあった。
つまり西教寺は、信長の焼討ちによる死者や、戦国時代の戦いで倒れた武将たちの霊を弔うため、念仏を欠かさず唱え、墓地にはそれら無数の死者の墓を立てたのではないかと推察した。正確な数は分からないが、裏山の頂に向かってそれこそ何千、何万の墓標があるように見える。その間を登っていくと、名のある武将の墓標もあり、振り返ると墓標の間から琵琶湖の絶景が望めるのである。
本堂から裏山を望む(墓がびっしり!) 頂まで続く無数の墓標
熊本城主家臣長岡監物一族の墓 西教寺総門(坂本城から移築とされる)
<天台宗のメッカ>
古の志賀の都を探訪して、つまるところ志賀の都は渡来人が大きな影響を与えた都であり、渡来人の三津首氏から出た最澄が開いた天台宗のメッカであることが分かった。宗派は分かれてしまったが、園城寺、延暦寺、西教寺は天台宗を今に伝える本山寺であり、加えて、日吉大社も天台宗の護法神であった。
前述した司馬遼太郎の「街道をゆく 第16巻 叡山の諸道」には、最澄を初め天台宗の諸上人のことや、穴太、坂本のことが詳しく出ている。「そば」の章の終わりの文を紹介して本編を終わる。
「日吉そばに紛れ込んだおかげで一つ得をした。この店と作り道(いまの日吉馬場)をへだててのむかいの寺に、最澄の誕生地である旨の標識が出ていた。生源寺という寺がそれで、日吉そばから向いをながめているうちに、三十年前にその前を通った記憶がよみがえった。」
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