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2005.08.09

新幹線の車窓から

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          米原市河南付近を走る新幹線から(”かわなみ”の植込み)

<新幹線車窓からの撮影>
新幹線での出張が多い。窓際の席が取れれば車窓から外を眺めることが多いので、京都から東京までの沿線風景を殆ど覚えてしまった。戦国時代には、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、石田三成、北条早雲などの戦国武将が大暴れした瀬田、安土、彦根、関が原、柏原、大垣、清洲、名古屋、岡崎、静岡、小田原などの地域が所在するので、彼らがこのあたりを徘徊していたのかと思いながら沿線風景を眺めていると興味が尽きない。

そこで車窓から沿線風景を撮影することを思い立ったが、出張時に毎回カメラ持参というのも冴えない。しかし最近は携帯電話にカメラがついていて、その性能もデジカメとさして変わらないということに気がつき、これでパチパチやることにした。ところが在来線の車窓からならともかく、新幹線の車窓から気に入った風景を撮影するのはなかなか難しいことが分かった。

つまり時速270kmで疾走するのぞみの車窓からは一瞬で景色が通過するので、ゆっくり構図など決めておられない。目で景色を追い、ここだと思ったときにエイヤで携帯電話のシャッターボタンを押すしかない。従って鉄橋の柱や電線などの邪魔物が気がつかない間に入ってしまい、削除の連続という結果もあり得る。逆に冒頭の写真のように、知らない間に「かわなみ」の植込みを撮っていたという偶然もある。

<瀬田川・湖東平野>
京都を出ると直ぐに滋賀県に入る。壬申の乱、源平の戦、応仁の乱、明智光秀の乱等の舞台になった瀬田川を越え、織田信長が天下人への道を歩んだ湖東平野に入る。滋賀県に住んでいるので身びいきということもあるが、車窓からみる湖東平野の田園地帯は大変美しいと思う。

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         瀬田川を渡る               湖東平野から比叡山を望む
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           湖東平野                 湖東平野の民家

瀬田川や湖東平野を舞台にした歴史や伝承については、このウェブログで色々触れた。

  • 近江富士  小山評定  大津市に残る壬申の乱伝承の地   湖南の瀬田川界隈
  • 湖東の額田王ゆかりの地   湖東の渡来人  湖東の渡来人:鬼室集斯のこと

    <彦根城>
    湖東平野の美しい田園を眺めていると、愛知川(えちがわ)や豊郷(とよさと)を過ぎてから、左手遠くの小さな山の上にかすかに城影が望める。国宝彦根城である。小さくしか見えないので、通常は気がつかずに見過ごしてしまう。このあたりに彦根城があるという知識がないと、あ、彦根城が見える、とはならない。

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             かすかに見える彦根城

    彦根城については、このウェブログの彦根城界隈で触れた。

  • 彦根城界隈

    <伊吹山>
    米原で湖東に別れを告げ暫く過ぎると、伊吹山が左手に見えてくる。伊吹山は滋賀県と岐阜県境に位置し、標高1,377メートルで滋賀県の最高峰である。奈良時代にはすでに山伏の修験の霊場として知られており、鎌倉時代以降、近江守護佐々木一族の京極氏が当地一帯に勢力を拡張した。とくに南北朝時代に婆沙羅大名と異名をとった佐々木道誉は、足利尊氏の室町幕府創立に貢献し、香道の祖ともいわれる文化人であった。その活躍ぶりを何かの歴史書で読んだのだがその本の名を忘れてしまった。

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                        新幹線から望む伊吹山

    <関ヶ原・養老>伊吹山を過ぎると、1600年に天下分け目の戦いのあった関ヶ原を抜け岐阜県に入る。関ヶ原から垂井にかけての両側の山並みが美しい。東京に向かう場合は、左手に伊吹山地が、右手に養老山地が姿を見せる。日本の名水百選にも入る養老の滝の水は、実はお酒だったという伝説もあり、「養老の滝」という全国居酒屋チェーン店の名前でも有名である。

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       関ヶ原-垂井付近からの伊吹山地        垂井-大垣付近からの養老山地

    <揖斐川・長良川>
    大垣を過ぎると名古屋までに揖斐・長良・木曽の木曽三川を渡る。大垣に5年ほど住んだことがあり、揖斐川と長良川には良く行ったので懐かしい。木曽三川は岐阜県海津郡千本松原公園あたりで極めて接近し、揖斐川と長良川はここで合流する。古来このあたりは深刻な洪水に見舞われる地域であり、1753年に江戸幕府はここに堤防を作ることを薩摩藩に命じた。

    宝暦の治水工事と呼ばれるこの工事は、薩摩藩の力を殺ぐための徳川幕府の計略であったが、薩摩藩家老平田靭負(ゆきえ)が一身に責任を負い1755年に工事を完成させた。この間薩摩藩士86名が切腹や病気、怪我で死に、平田靭負自身も報告の翌日自決した。

    そんな歴史を全く知らなかった大垣在の1980年に、揖斐川を下って伊勢湾に向かう途中で、この千本松原公園で薩摩義士の慰霊碑を見、そのような歴史があったことを初めて知った。海津郡の人たちは今も平田靭負と薩摩藩士たちに感謝する慰霊祭を毎年開いているとのことである。2006年8月にこの地を再訪し、「木曽三川-宝暦治水の地再訪-」で触れた。

  • 木曽三川-宝暦治水の地再訪-

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                    揖斐川鉄橋を渡る新幹線車窓から
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                      長良川鉄橋を渡る新幹線車窓から

    <清洲城>
    木曽三川を渡り終えて尾張に入り、稲沢を過ぎると左手に突然黒っぽい三層五階建ての天守閣が現れる。清洲城である。しかし織田信長が秀吉に命じて短期間に普請させ、本能寺の変後、織田信雄が天守閣を築いたもとの清洲城は、東海道在来線と新幹線の建設で破壊され、今見える清洲城は観光用の天守閣である。

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       疾走する新幹線から観光用清洲城

    <名古屋城>
    「尾張名古屋は城でもつ」といわれるが、残念ながら名古屋城は新幹線からは見えない。と、思っていたら駅の手前で見えるというサイト記事があったので、その後、名古屋駅手前になると眼を凝らして名古屋城を探すことにしたら、林立するビルの間から確かに緑色の屋根の天守が遠望できることが分かった。

    しかしこれをカメラで撮影するのは至難の業である。連続撮影のできる高級デジカメなら可能であろうが、暇潰しのために高価なカメラを購入するわけにもいかない。そこで見える地点に近づいたら、エイヤで何枚か撮影して僥倖を期待したところ、2009年10月28日の一枚に見事名古屋城の天守が写っていた。

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    上記の名古屋城の写真は屋根のみなので、何とか城郭も入った姿を撮りたいとその後も新幹線に乗るたびにトライして見るのだがなかなか難しい。しかし2013年3月17日の上り新幹線で、とうとう幸運の女神が微笑んでくれた。普通のコンパクトデジカメであるから、撮った直後はうまく行ったかどうかは分らない。パソコンで拡大して初めて成功したことが分った。

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    2013年3月17日新幹線車窓からの名古屋城

    <名古屋市街>
    名古屋駅に近づくと高いツインタワーが現れる。数年前に名古屋に出来た初めての高層ビルであり、51階のパノラマハウスからの展望は素晴らしい。車窓ならぬパノラマ窓からの元気都市名古屋の風景を添える。現在開催されている愛知万博の会場方面を望んでいる。

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     新幹線車窓からのJRセントラルタワーとタワーからの名古屋市街展望

    <浜名湖>
    名古屋を出て、トンネルの多い三河地方を過ぎ暫く走ると、視界が開けて浜名湖が現れる。浜名湖の景観を楽しんでいると、まもなく、昔からヤマハ、カワイ、ホンダなどの楽器やオートバイに代表される元気都市浜松を通過する。浜松には今も浜松フォトニクスやホンダ電子など技術の優秀な中小企業が多い。

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                         新幹線車窓からの浜名湖

    余談であるが、京都から東京に新幹線で向かう場合、富士山は左手に見えるものと思っていたら、静岡の手前あたりでは、右手に見えるのである。うそか本当かを問われるテレビのクイズにも出たらしい。右富士はE席からは見えないので、A席からの展望に触れた「続・新幹線の車窓から」で触れた。

  • 続・新幹線の車窓から

    <掛川城>
    のぞみだと一瞬のうちに通過する掛川駅であるが、よく見ていると車窓から掛川城を望むことができる。掛川城は、室町時代に駿河の今川氏が遠江進出を狙い、家臣の朝比奈氏に命じて築城させたのがはじまりで、来年のNHK大河ドラマ「功名が辻」の主人公山内一豊が1590~1600の10年間城主となって、天守閣を建立した。現在の掛川城は、平成6年4月に復元されたとのことである。

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        山内一豊ゆかりの掛川城を新幹線から望む

    <大井川・富士川>
    静岡県では天竜川、大井川、富士川の長い鉄橋を渡る。「越すに越されぬ大井川」と歌われた大井川であるが、車窓から見る限りはあまり水量が多そうな川ではない。川越し人足が必要だった江戸時代までは様相が違っていたのかもしれない。富士川は天気の良い冬期は、背後に富士が見え素晴らしい風景になるが、夏場はまず見えない。

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            越すに越されぬ大井川            富士山の見えない富士川

    その後調べてみると、大井川の水量が少ないことについてもやはり理由があり、右富士と同様、「続・新幹線の車窓から」に触れた。

    <茶畑>
    静岡県の通過で目を楽しませてくれるのは、何といっても茶畑の美しさである。新幹線の車窓から見られる茶畑は、静岡の手前の袋井や島田あたりの丘陵地帯と、静岡を通り過ぎてからの新富士から三島にかけての丘陵地帯に多い。

    ただし、茶畑を新幹線から撮影するのはなかなか難しい。車窓から距離が近いので撮影した画像が流れやすいのと、突然茶畑が現れるのでシャッターを押すタイミングを取りにくいのである。それでも試行錯誤で撮った努力作を列挙する。

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                         新幹線車窓からの茶畑
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                         新幹線車窓からの茶畑
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                        新幹線車窓からの茶畑、民家

    <関東への入口>
    江戸時代なら箱根の山を越えると関東という感覚であったろうが、新幹線の場合は三島を過ぎて長いトンネル地帯を抜け、小田原を通過するといよいよ関東という感覚であろうか。だだっ広い関東平野に入ることもあり、変化に富んだ沿線風景を楽しむより、東京近しそろそろ降りる準備を、という気分が出て車窓の旅も終焉を迎える。

    しかし三島、熱海、小田原の間のトンネルの切れ目から覗く風景には、ハッとする美しい光景もある。函南、熱海付近にはそういう風景がある。ただ一瞬のうちにまたトンネルに入るので撮影が難しい。

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             函南の段々畑                      熱海の急坂      

    <谷崎潤一郎の東海道車窓>
    昭和51年~54年頃、家庭と会社勤務の都合で、京都の山科と岐阜県の大垣をJRで毎週往復していた時に、山科から大垣まで駅名をみんな覚えてしまったと、会社同僚の国文科卒の才媛に話したら、谷崎潤一郎が「陰翳礼讃」という随筆の中で同じようなことを書いていますよ、と教えてくれた。

    早速、中公文庫の「陰翳礼讃」という谷崎潤一郎の随筆を買って読んだら、その中に「旅のいろいろ」という章があり、確かに大垣から大津までの風光のことが書いてあった。「旅のいろいろ」そのものは昭和10年の文芸春秋に書かれており、昭和8年に書かれた「陰翳礼讃」や昭和10年に書かれた「厠のいろいろ」など数編の随筆とともに、昭和50年に「陰翳礼讃」として初版が発行されたものである。

    谷崎潤一郎のそのくだりを少し紹介する。

    「私は東京から大阪へ帰るのに、しばしば夜の11時20分に東京駅を発車する37号列車を利用する。・・・・・・・・
    私は大概午前8時頃、名古屋あたりで起きるのであるが、そういうガタガタ列車の2等室などへ新たに乗ってくる客は殆どない。しかも寝台車であるから、横に長い席を完全に一人で占領して足腰を投げ出し、寝足りなければまたもう一度寝直すことも出来る。」

    「それにこのあたり、---大垣、関ヶ原、柏原、醒ヶ井のあたりから米原へ出て、琵琶湖の沿岸を大津に至る風光は、もう幾度か見馴れていながら、いつ見ても見飽きがしないのである。一体、これは私一人の感想かも知れないが、東海道を下って来て、汽車の窓から見たところでは、名古屋までは家の建て方や自然の風物に東京の匂がするけれども、名古屋を越すとそれが全く跡を絶って、はっきり関西の勢力圏内へ這入ったことを感ずる。」

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       関ヶ原の民家、寺院(在来線から)          新横浜付近の新興住宅

    この随筆が書かれた時代は、未だ新幹線がなく、東京-大阪間の距離感も今とは全く違っていた時代の感覚であるが、名古屋を境にして東京文化圏と関西文化圏の差が車窓から感じられると言う谷崎潤一郎の感覚は、関西に住んでいるものから見ると、70年後の今でもあまり変わっていないように思われる。

    ただ沿線から見える住宅については均一化が進んでしまったので、東京-新横浜間の住宅密集地域を除けば、家の建て方から名古屋以東、以西の文化の違いを感ずるということはあまりなくなったのではないだろうか。山陽新幹線で山口県に入ると屋根に立派な鬼瓦がついている民家が多いので、建築文化の違いを今でも感じるが、東海道沿線ではそれほどの差はないように思う。山陽新幹線の車窓については、別のウェブログにアップした。

  • 山陽新幹線の車窓から

    <土建時代の遺産>
    見馴れた東海道車窓の風景でも、時々ギョッとする光景にぶち当たることがある。伊吹山のえぐられた山肌については、前編の湖北散見で触れた。これと同じような光景が、関ヶ原を抜け垂井に差し掛かった辺で、山側を遠望すると見られる。おそらく池田あたりの山であろうか、完全に山が崩されている。静岡では行き詰まった第2東名高速の橋桁が何年となく未完成のまま車窓から見える。

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             無惨な池田山              何年も未完成の第2東名道路の橋桁

    <車窓観覧の敵>
    車窓観覧は楽しい。特に新幹線では日本列島のかなりの部分を短時間で見ることができるので、時間利用法としては最高である。2人掛けの窓際のE席がとれると運が良ければ富士山も間近に見られる。ところが窓際のE席が取れたからといって喜んでばかりはいられない。隣に座る客が問題である。

    というのは、タバコ臭が嫌いなので禁煙車のE席を選ぶわけであるが、隣のD席に喫煙客が座ると悲劇である。もちろん禁煙車なので隣で吸うわけではないが、時々そそくさと立ち上がっておそらく喫煙車のデッキへ行って一服し、何食わぬ顔で禁煙車の隣席へ戻ってくるわけである。

    こういう輩が隣席に戻ってきて座ると敏感に臭いを感じ直ぐに分かる。おそらく本人はタバコは吸いたいが座る席は空気のきれいな禁煙車が良いという、なんとも卑怯な神経の持ち主である。いっぺん注意してやろうと思うが、刺されても困るので我慢するしかない。最近は混みそうなときは先手を打って、景色を犠牲にして通路側のC席やD席を取ることが多い。奴らは直ぐに席を立ち易いC席かD席を選択するからである。

    日本呼吸器学会が新幹線を航空機と同様全面禁煙すべしとの勧告を出したが、JR各社はあっさり拒否したとの報道があったので、JR東海に、せめて喫煙する客は禁煙車に出入りしないでください、とアナウンスするよう投書したが全く応答がない。そのうち肺ガンにかかった患者からJRを相手に訴訟が起こるぞと投書の中で脅したが、日本のJRは喫煙客に極めて寛大である。

    と、この記事を書いている最中に、JR東日本が長野新幹線と成田エクスプレスを全面禁煙にすることを決めたと報道された。長野新幹線は観光客が多いだろうから喫煙の要望も多いと思うが、JR東日本の英断である。同記事によると九州新幹線は既に全面禁煙の由である。

    それに比べビジネス客が多く、禁煙もやり易いと思われる東海道新幹線を管轄するJR東海は腰が重い。次世代車両でようやく全車禁煙とするらしいが、ちょっとした喫煙場所も設けると未だ未練たらしい計画をほのめかせている。本人がニコチン中毒になろうが、肺ガンで死のうが自業自得であるが、恐ろしいのは煙に含まれる発ガン性物質のベンツピレンが周囲の客を肺ガンの危険に曝すことである。

    ベンツピレンを兎の耳に塗るとガンが発生するという画期的な発見をしたのは日本の科学者で、ノーベル賞候補にもなったが、何故か潰されてしまったとの話を聞いた。日本側の官民一体となった阻止運動があったのではないかと邪推している。

    <続・新幹線の車窓から>
    2008.1.27に続編をアップした。

  • 続・新幹線の車窓から


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