湖北散見
<湖北の始点>
滋賀県で湖北というと当然琵琶湖の北の方を指すわけであるが、いざどの辺りから湖北が始まるのかと聞かれるとあまり自信がない。そこでウェブサイトで「湖北」を検索して見ると、中国湖北省荊州とか、河口湖や千葉県我孫子の湖北台というのが少しあったが、殆どは滋賀県の湖北の情報であった。つまり湖北とは日本では琵琶湖の北部を意味すると思って良いようである。
その中からエリアマップを探し出し湖北エリアを確認すると、琵琶湖の東北~北部一帯が湖北になっている。つまり東海道線の米原から、長浜、虎姫、高月、木の本、余呉、近江塩津、永原といった北陸線沿いの地域が湖北エリアを形成する。伊吹山、国友鉄砲、姉川、小谷城址、賤ケ岳、余呉湖等は湖北のキーワードである。マキノに至ると湖北ではなく、湖西エリアに入る。
<街道をゆくに書かれた湖北>
司馬遼太郎の「街道をゆく第24巻 近江散歩」には、このエリアの紀行がかなり入っている。近江と美濃の県境にある「寝物語」という地名の場所を探しに行き、関が原の美濃側に旧跡石碑を見つけたくだりとか、江戸期には伊吹山中の街道沿いに艾(もぐさ)屋が軒を連ねていたとかの、今では知る人も少ない話が出ている。
織田・徳川連合軍と、浅井・朝倉連合軍が戦った姉川合戦にまつわる話や、国友村の国友鍛冶が鉄砲を作り出した経緯の話もあり、湖北の良い歴史ガイドブックであるとともに、随所に現代日本の土建資本による自然破壊に対する、司馬氏の怒りが発せられている警告書でもある。
琵琶湖の環境破壊についての司馬氏の記述は琵琶湖周航編で触れたが、湖北においても、セメント工場が伊吹山の左の肩をかぶりとり、見苦しい姿に変えてしまったことを指摘されている。実際、東海道新幹線から見る伊吹山は特に冬など美しい姿を見せてくれるが、長浜付近の湖岸から見る伊吹山は左肩に異様な段差がついていて何だろうと思ってしまう。
<長浜>
湖北の起点の米原から、琵琶湖東岸の湖周道路を少し北上すると長浜に入る。湖周道路の湖側に秀吉ゆかりの豊公園が現れ、緑の合間から長浜城が顔を出す。南北朝時代に佐々木道誉の家臣今浜氏が今浜城を創築したといわれ、1573年に浅井氏が滅亡した後、木下藤吉郎が羽柴秀吉となって、当時は今浜と呼ばれたこの地に本格的に城を築いたのが始まりである。1575年に城が完成し地名も長浜に変わり、1582年まで長浜城は秀吉の居城であった。
1584~1589年には、来年の大河ドラマ「功名が辻」の主人公である山内一豊が、その後1606年には徳川家康の異母弟内藤氏が城主になったが、豊臣氏滅亡とともに内藤氏は摂津高槻城に移封されて長浜城は廃城となり、1615年に取り壊されて、石垣や門、櫓などの材料が彦根城の建設に用いられた。現在の長浜城は、1983年に長浜市民の熱意と寄付金で再建されたもので、内部は長浜城歴史博物館になっている。
長浜城歴史博物館では、安土桃山時代や江戸時代に活躍した湖北出身の海北友松と小堀遠州の展示や、国友鉄砲鍛冶の展示が目を引く。現在の長浜は、古い建築物を生かした黒壁スクエア等で町おこしをやり、全国的にも知られて女性観光客にも人気がある。
<湖北野鳥センター>
長浜から湖周道路をさらに北上すると湖北町に入り、湖北野鳥センターが右手に現れる。2階の展望室に望遠鏡が備え付けてあって、湖周道路越しに湖面の樹木に生息している水鳥が観察できる。この湖北野鳥センターは1988年に開設され、1993年には琵琶湖がラムサール条約に登録されたのを機に、1997年に環境省により琵琶湖水鳥・湿地センターが併設されたとある。
環境省琵琶湖水鳥・湿地センター 野鳥センター展望室から琵琶湖を望む
<奥琵琶湖と湖北のシンボル竹生島>
湖周道路をさらに北上すると、琵琶湖周航編で触れた尾上を通り過ぎたあたりで湖岸から少し内陸へ入り、高月町の余呉川沿いを走る。木之本へ入ると国道8号線に合流して西に向かい、賤ケ岳トンネルを抜けて奥琵琶湖と呼ばれる琵琶湖の北端地域に入る。その中心に湖北のシンボル竹生島がある。
奥琵琶湖は複雑に入りこんだ地形になっており、山と湖の織りなす変化に富んだ景色が楽しめる。奥琵琶湖パークウェイからは、眼下に琵琶湖の絶景が広がる。また、今年2005年2月に北陸の敦賀から列車に乗って外を眺めていたら、近江塩津を少し過ぎたあたりで車窓から琵琶湖が遠望できた。近江塩津から塩津港方面にかけて開けているので、まさに琵琶湖の最北端を列車から見たわけである。
奥琵琶湖(飯浦-塩津) 奥琵琶湖パークウェイから
特急サンダーバードの車窓から琵琶湖を望む(近江塩津)
奥琵琶湖パークウェイを降りて大浦に入ると、ここから海津の岬を湖岸伝いにマキノまで周遊できる。山すそが急に湖面に落ち込んでいて、「暁霧、海津大崎の岩礁」として琵琶湖八景の一つに数えられる景勝地である。竹生島が近くに見え、まさに絶景である。
<海津大崎>
海津岬の先端であり、いわずと知れた桜の名所である。桜シーズンは大変混雑するので、シーズン中は行ったことがない。1936年に大崎トンネルが開通したのを記念して個人が植え始めたのが始まりで、今では70年経過し4kmに渡って600本のソメイヨシノの並木になっている。ソメイヨシノの寿命は通常70年程度なので、維持をどうするかが地元の人たちの課題らしい。
今年は4月24日に訪れたが全く散ってはいず、名残のソメイヨシノと枝垂桜が迎えてくれた。この1週間前までは開花の最盛期で、道路は一方通行に規制されていたとのこと。もちろんこの日は訪れる人も少なく、通行規制もなかった。
海津大崎はマキノ町に所在するので行政的には湖西エリアに入る。荒々しい感じのする奥琵琶湖の景色に比べ、海津大崎からのマキノ浜やその背後のマキノ連峰の眺望は確かに穏やかな感じがして、湖北から湖西の景色に変わったと言われればそうかも知れないと思う。
海津大崎には桜シーズン以外には何度も行っているが、特に未だ山や路傍に残雪のある早春が素晴らしい。2004年3月に訪れた同じ場所を、今年2005年4月にも訪れて景色の変化を楽しんだ。
2004年3月 海津大崎からマキノ方面を望む 2005年4月
2004年3月 海津大崎(琵琶湖国定公園) 2005年4月
<海津の古港>
海津岬周遊の終点(始点でもある)は菅原道真を祭る海津天神社だが、未だ立ち寄ったことがない。この辺りは、もとは海津村という古い湖港である。1955年(昭和30年)、旧4ヶ村(海津村・剣熊村・西庄村・百瀬村)の合併によってマキノ町になった。
司馬遼太郎の「街道をゆく 第4巻 北国街道とその脇街道」には、海津の古港について詳しく述べられている。一部を引用すると、「琵琶湖はその北端において三つの湾をもっている。それぞれの湾に湖港があり、塩津、大浦、海津がそれである。どの港も古代から江戸末期まで栄え、今は全く機能を失い、海津などはもう漁港という姿でさえなくなっているようである。」とある。
北前船の時代には、敦賀から琵琶湖の北岸までは物資が陸送された。この陸送路に二つあり、敦賀から塩津港に至る塩津街道と、敦賀から海津港に至る西近江路があった。このため、塩津、海津の湖港は賑わったが、明治以後、海上交通の変革によって日本海航路がすたれるとともに、現在のような貧寒な湖岸の村になってしまったわけである。
従って海津岬を過ぎると旧海津港があったマキノの町に入る。湖周道路はここからは琵琶湖の西岸を通り、今津や堅田に向かう。街道筋には今でも古い町並みが残っていて、漁業や水産関係の店が目立ち、昔の漁港の面影を残している。横合いから今にも天秤を担いだ近江高島商人が出てきそうな雰囲気が残っている。
<マキノ>
マキノ町という全国でも珍しいこのカタカナの町名は、合併時に住民からの一般公募により、当時関西屈指のスキー場として知名度の高かった「マキノスキー場」に由来して決定されたとのことである。この当時全国唯一のカタカナ町名は、斬新かつ大胆、ユニークと賞賛されたらしい。その後北海道にニセコ町が誕生し、両町はカタカナの町名を縁に姉妹都市提携を結んでいるとのことである。
旧海津港から湖周道路をさらに南下していくと、マキノプリンスホテルがある。株主への裏切りや税金を払わないことで有名な西武グループのホテルなので癪に障るが、ここの松林からの琵琶湖の景色は素晴らしく、松の木の間から竹生島が覗けるなどちょっとしたものである。
マキノ町はこの2005年1月1日に、今津町、朽木村、安曇川町、高島町、新旭町と一緒に5町1村が合併し、高島市となった。マキノの地名の起源となったスキー場のあるマキノ高原一帯においても町おこしが活発らしく、栗拾いやぶどう狩りができるマキノピックランドという観光農園ができ、その中を通る道路は、見事なメタセコイアの並木道となっている。
<市町村合併について>
滋賀県でも平成の大合併により、野洲市、米原市、高島市、湖南市、甲賀市、東近江市が誕生した。これからも財政面から合併の流れは絶ち難く、今は実現していない湖北の町村合併も例外ではないであろう。小さな町村が合併するときにはいつも名前が問題になる。
滋賀県には歴史上、名前を良く知られた町村が多い。新しい市になるときにはくれぐれも歴史的価値を考慮して名前をつけてほしいものである。日本なのに南アルプス市だの、セントレア空港があるからセントレア市だなどの無教養、単細胞ともいえる発想をされると住民にとっては悲劇である。
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