昆蟲放談
国蝶オオムラサキ(弊友人が羽化させ撮影したもの)
<昆虫少年>
昆虫少年であった。家の前を、京福電鉄叡山線(途中から分岐して鞍馬線にもなる)が通っていたので、休みになると鞍馬方面へ蝶採集に出かけた。日本3大昆虫棲息地であった貴船は、終点鞍馬の一つ手前である(他の2つは東京高尾と大阪箕面)。この沿線には、宝ヶ池(当時の駅名は山端)、岩倉、二の瀬、市原など昆虫採集にはうってつけの自然があった。
ギフ蝶、オオムラサキ、ゼフィルス(ミドリシジミなどの総称)がお気に入りで、卵を採集して蝶になるまで飼育することにも熱心だったので、蝶の幼虫の食草にはいささか知識がある。その後50年ほど経過したが、現在の我家の庭には、その頃採集したカンアオイ(ギフ蝶の食草)の末裔が今でも繁茂している。
春の女神 ギフ蝶(たかしHPより) ギフ蝶の食草 カンアオイ
昆虫にまつわる話題を2題談じるとする。
<昆蟲放談>
昆虫少年になった原因は、1冊の本「昆蟲放談」である。著者の小山内龍氏は著名な漫画家で、弊親父と仕事上で知り合いであったらしく、弊誕生の昭和16年に発刊された初版本を頂いていた。我家の本棚にあったこの本を見つけてむさぼり読んだ結果、いつのまにか蝶を追っかけていたという次第である。
漫画家小山内氏は最初から昆虫好きであったわけではない。製菓会社からの依頼の仕事で、キャラメルの内箱に昆虫漫画を書くことになって、参考書に頼るだけでは物足らなくなり、生きている昆虫を見るために採集を始めたところ、のめり込んでしまったと、この本の中で述懐されている。
独特のユーモア溢れた文章で昆虫採集行や飼育日誌が綴られ、笑いながら何度も何度も愛読したので、初版本は今も残ってはいるものの写真のようにボロボロになってしまった。昭和53年に復刻本が出されたとテレビの図書番組で知ったので、懐かしくなり早速購入した。この復刻版は小山内龍氏のご子息が発行されたものである。
さらにこの本を素晴らしくしていたのは、挿絵であった。本業が漫画家の小山内氏の手にかかると、スズメバチもギフ蝶も、はたまた登場する人間も、皆生き生きとした表情になり、見ているだけで親しみが湧くのである。
ギフ蝶 オオムラサキ幼虫 スズメバチ
昆虫採集 飼育箱 獲物探し
書き出しは昭和12年の春が来たところからで、少し古い年代にはお馴染みの歌が引用されている。小山内氏はこの歌が好きだったのだろうか、春が来るところで必ず使われている。もちろん私も知っていたので、この歌を口ずさんで蝶を追っかけていたことになる。
だれが風を見たでせう
ぼくも あなたもみやしない
けれど木の葉をふるはせて
風は通りぬけてゆく
<小山内龍氏のご子息との出会い>
前々編の小山評定を書いていた時、「小山」をキーワードとしてウェブ検索していた。ふと「小山内美術館」という項目に目がとまった。ひょっとしたら漫画家小山内龍氏の記念美術館かも知れないと思い覗いてみたところ、勘があたり、小山内龍氏のお孫さんが開かれたウェブサイトであった。
そこで館長あてにメールを差し上げたところ、その父君、つまり復刻本を刊行された小山内龍氏のご子息から丁重なお返事を頂いた。私より一つ兄貴の昭和15年(1940年)のお生まれで、昆蟲放談にも「息子・・・は最近眠りながら笑顔をするようになった その日暮らしのお父さんはこの笑顔にはげまされて全身満々たる希望をもって働いている・・・」というくだりがあり、まさにその方である。
両方の父親がとりもつ縁ということで、メールのやりとりが始まり、先日(2004年10月17日)長野県松本市でお会いすることができた。ご本人も昆虫少年を経て今も父君の採集した標本を保管されておられる。昭和前半の標本なので、今はその土地にいない種類もあり大変貴重な標本である。
また、昭和20~21年(1945~46年)に疎開された函館郊外での小山内龍氏の採集日記もお送り頂いた。小山内氏の昆虫にかける愛情や情熱に加え、当時の世相も大変良く分かる第1級品の貴重な日記であった。しかし小山内氏はこの日記の直ぐ後にご逝去されたと伺い、日本の昆虫学の発展にとって損失だったのではないかと思った。
”アイノ”という函館昆虫同好会会報も頂いた。拝見すると小山内龍の標本目録やご子息の付言が掲載されている。貴重な小山内標本をどのように保存するかを考える市民会議が開かれたことも出ている。ご子息からは標本の保管は大変な仕事なので、博物館や昆虫館と雖もおいそれとは引き取ってくれないとお聞きした。京都で藤原文化財を守り抜いた冷泉家の苦労に通じるものがあるのだろう。そういう貴重な標本が良い形で継承されていくことを祈るのみである。
しかしインターネットがきっかけで、このような出会いが出来るとは想像だにしていなかっただけに、ネット時代の凄さを体感したわけである。お孫さんがウェブサイトを開設されていたとはいえ、私がウェブサイトを開設していなかったら、あるいは私が小山に関心がなかったら、我が少年時代の星のご子息と親しくお会いすることはなかった。
<キリシマミドリシジミ>
キリシマミドリシジミという美しい蝶がいる。ゼフィルスと総称されるミドリシジミ類の仲間である。今は天然記念物に指定されていると思う。中学生の頃、この蝶の卵を採りに行こうということになり、日本で始めてこの蝶が発見された三重県四日市郊外の湯ノ山に出かけることになった。
「蝶の図鑑ホームページ」から使用許可 http://www.j-nature.jp/butterfly/
一緒に行ったのは大阪の歯医者さんと学生さんで、現地湯ノ山駅集合であった。向こう二人は大阪上六から近鉄で四日市へ。こちらは京都から草津まで行き、草津線に乗り換えて柘植駅へ、また関西線に乗り換えて四日市へと、当時の国鉄を乗り継いでの一人旅であった。親父がなぜ大人が中学生を誘うのだ、悪い奴ではないのかとえらく心配したが、昆虫仲間には大人も子供もないのだと説得して出かけた。
見つけるのに少しコツは要るが、首尾よくアカガシの芽の近くに産みつけられた卵を採集した。春になると孵化して幼虫になるが、アカガシの芽の方も柔らかい新芽となるので、幼虫は新芽の中に潜り込み、その新芽を食べて大きくなる。自然の仕組みには驚かざるを得ない。
キリシマミドリシジミの卵 キリシマミドリシジミの幼虫
「蝶の図鑑ホームページ」から使用許可 http://www.j-nature.jp/butterfly/
<国鉄柘植駅の駅員さん>
帰途も一人で四日市から京都へ向かった。関西線で柘植駅にかなり遅くたどりついたが、当時のローカル線だから次の列車発車まで1時間近くある。親父の心配もわかるので、公衆電話で家へ連絡しようとしたが、電話など全く見当たらなかった。
通りかかった駅員さんに、家に電話したいがどこかにないですか、と聞いたら、ありませんねえ、と言われ事情を聞いてくれた。すると一緒に駅事務所へ連れて行ってくれ、当時の手回しの鉄道電話で京都駅に電話をしてくれたのである。あとは京都駅から連絡しておきますから、とにっこり笑ってまた仕事に行かれた。
世間では評判の悪い国鉄であったが、以来、私はずっと国鉄シンパになった。国鉄魂というのがあって、世界で最も時刻表通り動くのが日本の国鉄であることに誇りを持ち、それを守ることに現場は徹していたように思う。JRになって最近は列車の遅れが常態化しているが、国鉄魂はどこへ行ったのと言いたくなる。
それはさておき、家に帰って京都駅から電話があったかと聞いたら、駅からではなく警察から電話があったとのこと。お宅の息子さんが柘植という駅に居て無事です、と言われたのでホッとしたが、警察といわれてギョッとしたぞと、またお目玉であった。今なら携帯電話があるので話題にもならないが。
柘植駅の国鉄マンの親切の下に持ち帰ったキリシマミドリシジミの卵は、翌3月に孵化し、家のカシの新芽でスクスク育ち羽化にこぎつけたのであった。しかし後にキリシマミドリシジミは天然記念物に指定されていると聞いて、当時からそうであったのかなあ、と今も多少気になっている。
<48年後四日市が勤務場所に!>
その後47~48年経って、第2の会社に勤めることになった。なんとこの会社での最初の勤務場所が四日市だったのである。2001年11月に四日市駅に降り立ったときは、キリシマミドリシジミと柘植駅の駅員さんが、先ず頭に浮かんだことであった。
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