西美濃再見
岐阜県には、1976~1981年の5年間住んだので、滋賀、京都に継いで親近感を覚える。大垣の町や揖斐川沿い、岐阜市内や長良川などは当時の行動範囲であった。この辺りは西美濃地方と呼ばれる。東海道線で言えば、関が原から岐阜の間になろうか。
2004年4月16日に、岐阜大の友人が定年退官を迎えたのを機会に、薄墨桜の観桜を兼ねて岐阜県根尾村に同級生が集まった。根尾は西美濃に所在し、大垣から樽見鉄道で1時間くらいで行ける。薄墨桜の名前は、当時ももちろん知っていたが、見に行く機会がなかったので、今回始めての訪問であった。
元大垣市民としては、大垣の町への折角の再訪の機会であったので、在住当時は周りを徘徊しただけで、中へ入ったことのなかった大垣城を、根尾へ行く前に訪れてみた。
<大垣城>
大垣城は1535年頃築城と伝えられ、豊臣秀吉が天守閣の造営を命じて完成したのが1588年とされる。関ケ原の合戦の後、1635年に戸田氏鉄が城主になって戸田大垣藩が誕生し、明治の版籍奉還まで続いた。大垣城を望む公園には戸田氏鉄公の騎馬銅像が建っている。
大垣城は4層4階建ての白壁で塗りこめられた美しい城として名高く、1936年(昭和11年)に国宝に指定されたが、1945年(昭和20年)に戦災で焼失してしまった。終戦後再建の機運が高まり、1959年(昭和34年)に現在の大垣城が完成した。焼失前の国宝大垣城は確かに大変美しい姿である。人災による文化破壊は残念としか言いようがない。
西美濃には揖斐川、長良川、少し東に木曽川と三大河川が流れており、地下水の豊富な土地である。それだけに歴代大垣城主は治水に苦労している。1650年には大洪水が記録され、岐阜から養老まで一面の海になったらしい。1896年(明治29年)にもそれに匹敵する大洪水があり、その時の水位が天守閣石垣に印されている。
大垣と京都を往復していた1976年か77年にも長良川が氾濫して洪水となり、岐阜羽島の駅が水に漬かった記憶がある。西美濃地方は水害から集落を守るため、堤塘に包まれた独特の輪中組織が発達した。
<根尾の薄墨桜>
JR大垣駅で隣接する樽見鉄道に乗れば、車窓から深山幽谷の絶景を楽しみつつ1時間で樽見駅に着く。薄墨桜のある薄墨公園までは歩いて15分くらいである。
薄墨桜は樹齢1500余年、樹高17.2m、幹周囲9.2mで、伝説上の人物である継体天皇お手植えの桜とされる。通常の桜の寿命はほっておけば70年程度らしいから、日本一、ということは世界一の桜の老木である。岐阜県本巣市役所のホームページには、その歴史や更生保護の様子が記されている。
それによると、薄墨桜は大正初期から衰えを見せ始め、1948年(昭和23年)頃には枯死は免れないと診断されたが、岐阜在住の前田医師らの努力で根接ぎが施され、奇跡的に回復した。1959年の伊勢湾台風でも大きな被害を受けたが、作家の宇野千代女史が当時の平野岐阜県知事に惨状を訴えられ、岐阜県もこれに応えて岐阜大学堀教授の協力を得て回復させ、平成に入っても既に4回の手術を施して、樹勢回復に努めているとのことである。
薄墨桜(左2枚は本巣町HPから、右は訪問時の姿)
我々が訪問した4月16日は既に花は散っており、残念ながら上の3枚の右端の状態であった。しかし散った花びらが溝に痕跡を留めていて、のどかな公園の雰囲気は大変素晴らしく、まあ満開時の雑踏よりはましか、と慰めあった次第である。皮肉にも、知人から4月10日の夜桜の写真が送られてきていて、タッチの差ということであった。
<鵜と鵜匠>
長良川は鵜飼で有名である。薄墨温泉で一夜を過ごした翌日の4月17日に、岐阜大の友人が、教え子である山下さんという鵜匠のお宅で、鵜を間近に見たり、鵜飼のお話を伺うという、又とない機会を作ってくれた。
山下さんのお話によると、鵜飼は1300年前からの歴史があり、長良川の鵜匠は現在6人おられる。皆さん、宮内庁式部職鵜匠というれっきとした宮内庁職員である。山下家の床の間には宮内省主猟局が発行した明治23年の辞令が飾ってあった。ここ長良川は宮中の真夏の接待場所という位置づけだそうである。宮内省が管轄する前は尾張藩の直轄であったとのこと。
鵜飼に使う鵜は、茨城県石浜海岸で捕獲した海鵜他3種類くらいの鵜(サハリン産もいるらしい)を、5年かけて育成するとのことである。首と腹に結わえた縄を鵜匠が操るわけであるが、その日の鵜の体調を考慮して縄加減を行うというまさに芸の細かい職人芸である。
鵜と鵜匠の山下さん
宮内省からの辞令 鵜、鵜匠と記念写真
<ウナギの語源>
鵜が鮎などの魚を飲み込むと、一瞬で魚はショック状態になり身が引き締まって美味しい味になるらしい。その辺の詳細な化学作用についても山下さんは説明されたように思うが、失念してしまった。
ところが鵜にも苦手な魚がいて、それがウナギである。つまり長すぎて一気に飲み込めない。飲み込めずに未だ外にあるウナギの胴体が鵜の長い首に巻きついて、鵜が難儀することから、ウ・ナ・ギとなったとのこと。岐阜大学農学部農芸化学科ご出身の山下学士の言であるので、ついつい信じてしまいたいが、ホンマかいな?と思いつつ、記念写真を皆で撮ってお別れした。
帰ってからウナギの語源について、ウェブ探索を行ってみたところ、確かにそういう説があると複数のホームページに出ているのである。以下に紹介する。
1.momosanのホームページから
「うなぎの語源」
ずいぶん前に、「つる」の語源ってのをやりましたが、今回は「うなぎ」の語源をご紹介しましょう。桂文珍師匠のCDを買って聞いていたら、「後生鰻」(ごしょううなぎ)という話に出てきました。「鵜」(う)という鳥を知っていますか?あまり見たことはないのですが、パソコンで変換してると、やたらとお目にかかる(笑)鳥ですね。momosanは先日、はじめて鵜っていう鳥を見ました。
埼玉県G市の利根川べりに、おいしいうなぎ屋があるというので連れていってもらったときに見ました。カラスよりも一回りも大きな黒い鳥です。首も長いです。こちらをじーっと見てるとこなんか、ちょっと怖かったですよ。うなぎはその昔「ぬる」と呼ばれていたんだそうです。ぬるぬるしてるからでしょうね。その「ぬる」を「鵜」が食べようとして、ぬるぬるしてなかなか飲み込めなくて、難儀したんだそうです(笑)
うがなんぎしたので、「うなぎ」 uh!
2.語源由来辞典から
「うなぎの語源・由来」
うなぎは、古名「むなぎ」が転じた語で、「万葉集」などには「むなぎ」とある。むなぎの語源は諸説あるが、「む」は「身」を意味し、「なぎ」は「長し(長い)」の「なが」からとする説が有力とされる。この説では、「あなご」の「なご」と語根が共通する。胸が黄色いからや、「棟木(むなぎ)」に似ているからとする説もあるが、全くの俗説である。
また、「鵜(う)」が飲み込むのに難儀するからという説にいたっては、「うなんぎ」→「むなぎ」→「うなぎ」と変化するとは考え難いため、「うなぎ」と呼ばれるようになってから作られた俗説であろう。
3.うなぎ百科から
「うなぎの語源」
『古代ムナキ』と言う呼び方から始まって『ムナギ』→『ウナキ』→『ウナギ』と転じた。
また、鵜がうなぎを捕らえて食べようとして、うがなんぎをした→ウナギと言う説 もある。
4.広辞苑には、「むなぎ(鰻)」=うなぎと同じ、とある。鵜が難儀するとは出ていない。
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