ラスター彩遊記
<陶器との関わり>
焼物製作や鑑賞の趣味はあまりない。ないというよりは焼物を良く知らないというべきか。夜店に並んでいる焼物と著名な焼物の差を実感する能力が殆どなく、価格を見てなるほど良いな、と思えるくらいで、甚だ鑑識能力に欠ける。
住んでいる近くには、有名な焼物産地の信楽があり、毎年陶磁器祭や展示会が開かれていて、たまに見に行くが実用品の購入しか能が無い。親父の系統に博多の有田焼窯元がいるそうだが、今や無縁である。
そんな焼物音痴が、人間国宝の加藤卓男氏とラスター彩陶器には大変関心を持っていた。これはラスター彩を見て惚れこんだからではなく、日本経済新聞で加藤卓男氏の私の履歴書を読んで、その人間像に感動したからである。
加藤卓男氏の私の履歴書は、2002年4月の日本経済新聞に掲載された。美濃の幸兵衛窯が生家で、当然陶芸家の道を歩む人であり、その道を極められるのは何の不思議もない。そういう履歴書なのだろうと予想していた。
しかし初回に「ラスター彩」という言葉が出てきて、ペルシャ陶器の至宝であったが、技術的には世界的に途絶えてしまっていたのを、加藤氏がその手で復元を決意し、その後半生を賭けたものであると知り、その後の履歴書連載に夢中になってしまった。
<ラスター彩>
加藤氏のラスター彩復元に際し、多大の影響を及ぼされた東大の考古学者深井晋司教授によれば、「ラスター」とは陶器の表面に金属的な光沢を与える顔料のことをいう。「ラスター陶器」とは白釉をかけた上に、またコバルトを含んだ藍釉を地に、銀、銅などの特殊な金属を含む泥状の顔料で器面に文様を描き、低火度で焼き上げた陶器のことをいう。
今やイラク問題で世界が揺れているが、9世紀頃のメソポタミアにはアッバース朝が君臨して、東西交易を一手に支配し、都バクダッドには世界の富が蓄積された。そのため人々は贅沢を極め、金属器を盛んに使用したため、金、銀、銅などの貨幣原料が不足し、ついに金属器の製造禁止令が下されるに至った。
そこでこれに代わるものとして金属器を思わせる陶器を創ることを陶工達が試み、金工術の技法を陶器の上に再現して、遂に前期ラスター彩陶器が発明された。1982年時点では、バクダッド北のサマラ遺跡(9世紀にアッバース朝の首都があったところ)で、当時のラスター彩陶片を発見できたという。ところが21世紀に入った途端に、文化音痴の輩によって、この地が目茶目茶にされるという残念なことになってしまった。
歴史的には、ラスター彩の中心地は11世紀にはエジプトに移り、さらに12~13世紀にはペルシャに移った。中期ラスター彩の誕生である。しかし13世紀のモンゴル軍の侵入によって、ラスター彩陶器の技法は活気を失い、14世紀初頭には終焉を迎えたらしい。
モンゴル帝国が滅んだ後の16世紀には、イラン高原にサザヴィー朝が興り、後期ペルシャ陶器と呼ばれる陶器群が繁栄し、数々の名品を生んだ。ラスター彩も細々ながらその技法を17、18世紀頃まで伝えたが、その後は完全に姿を消してしまった。
このような歴史をたどって世界的に技法の途絶えてしまったペルシャ陶器の至宝ラスター彩に、20世紀も後半に入った1961年になって、日本の陶芸家加藤卓男氏が魅入られ、その再現を志された。そのとき氏は43歳であった。上に掲げた履歴書にもあるように、その後20年かけて漸く焼けるようになり、ペルシャラスター彩再現から、日本的感性の加わった加藤ラスター彩が誕生したわけである。
<幸兵衛窯>
岐阜県多治見市市之倉に、加藤卓男氏の生家でもある幸兵衛窯がある。加藤氏は、本来6代目幸兵衛であるが継がれず、7代目幸兵衛をご子息が継いでおられる。2004年4月17日に岐阜在住の友人がアレンジしてくれ、学生時代の同級生と共に市之倉の幸兵衛窯を訪れることができた。
幸兵衛窯には古陶磁資料館があり、加藤卓男氏の40年にわたるペルシャ陶器の研究資料が展示してある。現地で蒐集されたラスター彩も展示してある。館内の女性に写真撮影しても良いかと尋ねたら、後ろに居られた杖の男性が、どうぞどうぞと言われたので展示品を撮影させて頂いた。後でこの男性こそ加藤卓男氏ということが分かった。
ペルシャ陶器の展示 サザヴィー朝時代のラスター彩
本館には陳列室があり、長年の研究の末、加藤氏が技法の再現に成功して製作された、いくつかの加藤ラスター彩が展示してある。その再現の難しさについては到底我々が理解できるわけではないが、加藤氏の著書を拝読すると、イラン地方の粘土はカルシウム、マグネシウム、ナトリウム、カリウム等の含有量が圧倒的に多いので、焼成温度を低く設定しないと焼けないのに対し、日本や東アジアではこれらの成分が少なく焼成温度が高いことが、一つのポイントらしい。
<加藤卓男氏との記念撮影>
見学を終わって館外へ出ると、藤棚の下で来場者が記念撮影していた。見ると中央にさきほど資料室で撮影を許可された杖の男性が座っておられた。人間国宝加藤卓男氏である。我が同級生一行も加藤氏を囲んで記念写真と相成った。
このような機会は滅多にあるわけではなく、幸兵衛窯見学の企画をしてくれた岐阜の友人と、記念撮影をお願いしてくれた陶芸の分かる友人に感謝をしつつ帰途についた。
帰ってから幸兵衛窯のホームページを見ていると、日本経済新聞の私の履歴書をベースにした、「ラスター彩遊記 砂漠が誘う」という加藤卓男氏の著書が発刊されていることが分かったので、オンライン注文をした。直ぐに著書が送られてきたが、何と加藤卓男氏直筆で、私宛のサインと署名がしてあるではないか。その心遣いにまた感動したことは言うまでもない。
加藤卓男人間国宝を囲んで ラスター彩遊記
<幻の焼物:湖東焼>
その後はまた焼物とは縁のない日常に戻ったが、7年経った2009年になってやはり焼物に精魂を傾けた人間活動を知る機会があり、「藍色のベンチャー:幻の湖東焼」として、2009年10月17日にこのウェブログにアップした。
<後日談:復元した陶芸技法、イランで「里帰り展」>
2013.7.9日経新聞記事 (クリックで拡大)
2013年7月9日の日本経済新聞の文化往来というコラム記事に、復元した陶芸技法、イランで「里帰り展」という左記の記事が掲載された。
加藤卓男氏のご子息、7代目幸兵衛氏が昨年イランを訪問した際に、イラン国立考古博物館の館長が、遠い島国日本でラスター彩が復元されたことを知り、イランで里帰り展覧会が開催されたという内容である。
イランは1979年のイラン・イスラム革命により反米化して、核保有問題でアメリカと対立するなど政治的混乱が続いているが、もともとイランと日本は親しい国であった。イランの文化を日本が復元したというこのような文化交流が行われていることは素晴らしいことではないだろうか。
さらに2013年8月31日のNHKテレビの朝のニュースで、7代目幸兵衛氏がイランを訪問し、イランの陶芸家にラスター彩の手ほどきをされている模様が放映された。100人くらいのイランの陶芸家たちが食い入るように7代目幸兵衛氏の絵付けの筆捌きを見つめていた。
その目つきは本当に真剣そのものであり、このメソポタミア半島の地から生まれた故国の陶芸技術を、自分たちの手で取り戻したいという熱意に溢れているようであった。日本の人間国宝、加藤卓男氏が魅入られ半生をかけて再現されたラスター彩の美が、21世紀の今、また故郷のメソポタミアの地に舞い戻って花が咲くかもしれない。
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