琵琶湖周航
滋賀県は琵琶湖の存在が大きい。県を挙げて環境保全や水質向上に取り組んでいる。滋賀県の在籍企業は、排水問題を起こすことを最も恐れるという環境県である。しかし司馬遼太郎氏の「街道をゆく 第24巻 近江散歩」には、1960年代~70年代の、いわゆる土建万能時代における琵琶湖の環境破壊計画が詳細に指摘されている。
1965年(昭和40年)に、建設省は琵琶湖のど真ん中に湖中ダムを作る案を発表した。さすがに地元の反対で、3年後に撤回されたが、土建で琵琶湖をいじる計画は地元の滋賀県が引継ぎ、1972年には野崎知事が、浜大津に人工島を作ると発表した。この間、沿岸では地元の土建資本による土地転がしが暗流し、1974年に表面化した。
その後の滋賀県知事選挙では、「琵琶湖を守る」を公約に挙げた武村正義ムーミンパパが、大方の予想を覆して田中角栄土建国家の申し子、野崎欣一郎現職知事を破り、劇的な当選を果たした。私も使命感に燃えて武村氏に一票を投じた。当時土地転がしの舞台となった地域に、今や我が家は居住している。
この頃の滋賀県民は、琵琶湖の環境破壊に初めて危機感をもち、住民運動のレベルでリン系合成洗剤の追放をやった。武村知事も、日本石鹸洗剤工業会による激しい阻止キャンペーンを退けて、通称「びわこ条例」を1979年(昭和54年)に成立させた。土建国政に盲従する流れを断ち切り、その後の琵琶湖環境保全の基礎を築いた点で、武村知事の貢献は大きかったと思う。
しかしムーミンパパは、その後の自民党への鞍替えで当時の支援者を失望させた。本人は大蔵大臣にもなって本懐を遂げたかに見えるが、滋賀県知事時代の輝きと比べ、ご本人はどちらが良かったと思われているのだろうか。
と、近年だけでも色々危機があった滋賀県の象徴、琵琶湖であるが、人工島やダムの建設を免れて特に良かったことは、良く知られている「琵琶湖周航の歌」にある通りの、昔ながらの周航が妨げられずに済んだ点である。
<琵琶湖周航の歌>
「♪われは湖の子」で始まる「琵琶湖周航の歌」のことである。地元の滋賀県はもとより、京都の学校や会社では、飲み会の最後に必ずこの歌を歌ってお開き、というところが多い。近年は、加藤登紀子さんのお陰で全国的に有名になった。琵琶湖には行ったことがなくても、歌は知っている人は多い。
作詞者は良く知られていて、旧制第三高等学校(現京大)のボート部にいた小口太郎である。1917年(大正6年)の三高ボート部の琵琶湖周航中に、今津の宿で披露され、当時の流行歌の節にのせると良く合って合唱したのが始まりとされる。その後、歌詞が補完され、三高の寮歌になり学生の愛唱歌になった。
小口太郎は1897年(明治30年)生、長野県岡谷市出身で、三高から東大へ進み、「有線および無線多重電信電話法」の特許を取るなど多才であったらしいが、26歳の若さで早逝した。この辺の事情は今津町役場のホームページに詳しい。
加藤登紀子がこの歌を歌ってヒットしたのが1971年(昭和46年)であったが、この頃は作曲者のほうは不詳であったらしい。世の中熱心な探究者がいるもので、1979年(昭和54年)に、この歌のメロディの原作は、吉田千秋の「ひつじ草」ということが分かった。
吉田千秋は1895年(明治28年)生、新潟県新津市出身で、東京農業大に学び、1915年(大正4年)に雑誌「音楽界」に「ひつじ草」を発表したが、24歳でやはり早逝した。従ってこのメロディが流行っていたと思われる1917年(大正6年)に、小口太郎の詞がぴったり嵌って、名曲「琵琶湖周航の歌」が誕生したということらしい。
<38年前の琵琶湖周航計画>
琵琶湖周航の歌にずっと憧れていたという訳ではないが、会社入社2年目の1966年(昭和41年)のお盆休みに、友人と2人で二人乗りのスナイブ級ヨットで琵琶湖周航をやろうということになった。友人は東京育ちであったので、せっかく滋賀に来たからには琵琶湖で何かをやろうよ、と言ったことが切っ掛けだったような気がする。
決行はお盆休みの3日間と決め、ヨットを所有する会社の先輩に話をしたところ、是非やりなさい、応援するよ、と自分の経験談を話して頂き、ヨットも貸して頂けることになった。そこで3ヶ月くらい会社の終業後や日曜日に、そのヨットに乗って特訓を受け、いっぱしのヨットマンになった。
腕が上がるにつれ、先生は乗らず2人で練習を積んだ。浜大津の旅館の展望室で、浴衣姿のおじさん達が見ている前で、格好よくターンを見せつけようとしたところ見事に転覆し、服のまま泳ぐというぶざまな経験もしたし、ヨットは転覆しても、30~40秒以内に戻って起こせば、簡単に復元することも学んだ。
ヨットマンにとっては当たり前の話であるが、ヨットは風上に向かっても航行できるのである。やや斜め前から向かい風を受けて、斜めに切りあがり、適当なところで方向転換し、ジグザグに進んでいくことで、風上に進める。もちろん追い風に比べると時間はかかるが、流体力学の法則通り動くことに感動した。
いよいよ決行の日が近づいたが、休みが3日間しかないことが問題だった。周航には最低4日はかかるとのことだったが、新入社員はそう簡単に年休を取れる時代ではなかったので、その先輩が土曜の午後にヨットを堅田まで運んでおくから、そこからスタートすれば良いとの話になった。
<我が琵琶湖周航の記>
こんな準備段階があって、1966年(昭和41年)のお盆休みに入る前日の8月14日(土)、会社が終わってから堅田まで行き、夕方6時頃に浮御堂桟橋からいよいよ出発した。ところが、この夜は全く無風に近く、ヨットはさっぱり進まなかった。10時頃まで走ったところで岸へ寄せ、野営しようとしたら、ここは別荘の私有地だと怒られて追い出され、さらに少し先まで行って野営した。
スタート地点堅田の浮御堂(現在の姿、当時は朽ちかけた木の桟橋だったように思う。)
2日目は、朝から少し風があり、6時頃出発して2時間ほど進んだところで、近江舞子浜に到着した。ここは琵琶湖周航の歌でいう、雄松が里である。夏には琵琶湖で最も賑わいを見せる水泳場である。当時はなかったと思うが、今は雄松崎の白汀碑が建っている。対岸に、沖ノ島が浮かんでおり、帰途はこの側を通ることになっている。
この日は、10時頃から強い風が吹き出し、我々のヨットは追い風に乗って快調に進んだ。遠くに見えていた竹生島がどんどん近づいて来る。途中で監視船に停められ、行き先や連絡先を確認された。後で分かったことであるが、この日は九州に台風が近づいてきたため、その影響で琵琶湖も風が強くなり、ヨットが14隻転覆したという。道理でよく進んだはずである。
そんなこととは露知らず、快調に飛ばして夕刻には竹生島にたどりついた。ここのお寺は旅人を泊めてくれると聞いていたので、山を登って西国第30番札所の宝厳寺という寺に行き、泊めてくださいと言ったら、ギョロ目のお坊さんが出てきて、今日はお盆の行事があるから駄目だ、と断られてしまった。
後で調べて見ると、8月15日は宝厳寺の年間最大行事である蓮華会の当日にあたり、厳粛な儀式が行われる日であったので、ギョロ目に断わられたのも無理はなかった。しかし当時は、そんな重要な日とは思い至らず、「せっかく来たのに、2人くらい泊めてくれても良いのに」、とギョロ目を恨んでしまい、若気の至りで申し訳ないことをした。仕方がないので、風が強いのを幸い、琵琶湖の東岸に向かった。
風のお陰で、あまり苦労せずに人家の見える東岸にたどりついた。位置的におそらく長浜郊外だろうと踏んでいたら、さらにその北の湖北町尾上というところであった。ちょうど停泊した地点が、幸運にも旅館の直ぐ側だったので、これ幸いと泊めて貰った。
その辺の人にどこから来たのかと尋ねられ、ヨットで大津からと答えると、堀江謙一さんみたいやなあ!と、びっくりされた。当時は、1962年(昭和37年)に堀江謙一青年が、ヨット「マーメイド号」で単独太平洋横断航海に成功した少し後で、「太平洋ひとりぼっち」という著書も出ていたから、その人も知っていたらしい。
余談になるが、堀江青年の快挙がニュースになったときは、まだ高校生であったが、大きな反響を呼んだ。「太平洋ひとりぼっち」に詳しく書いてあるが、彼は八方手を尽くしたけれども、当時はヨットでの合法的な出国が認められなかった。止むを得ず、彼は「日本は島国なのに八方塞がりだ!」と言って、正式な許可なしに出国したのである。
従って、堀江青年の快挙が是か非かで論争になった。私も含め殆どが、日本の鎖国体質に批判的で、彼の行為を是としたが、法律家志望の1年先輩が、やはりこれは順法精神にもとるとの理由で非とした。詳しくは知らないが、実際には堀江青年は罰せられることなく、逆に法律が改められたのではないか。
堀江謙一氏は我々より3歳年上であるが、ホームページを見ると、2002年にも西宮からサンフランシスコへ太平洋を横断されて、40年前の旅の再現をし、サンフランシスコ市民に感謝の意を伝えに行かれたとのことである。
ところで、泊った旅館は、確か紅葉屋とか紅葉館とか紅葉がつくと記憶していたので、38年経ったつい先日、尾上を訪れて見たが、紅鮎館とか尾上荘はあるものの、紅葉という名前の旅館はなかった。しかも、尾上は当時は全くの漁村であり、周囲は田園地帯であったのが、湖周道路が出来たため、全く変わってしまった。ヨットでたどり着いたとおぼしき付近は、コンクリートの防壁になっていて、記憶が蘇ることはなかった。
3日目は、九州地方の台風の影響で朝から風雨が強く、出航を見合わせていたが、昼前になり雨が止んだので、出発した。最初向かい風だったのが、途中から追い風に変わり、どんどん南下した。
途中、彦根の沖にある「沖の白石」と名づけられた、岩だけが湖面に突き出た直ぐ側を通り、長命寺の前面に横たわる沖ノ島を横に見て、とうとう琵琶湖東岸の有名な水泳場である、マイアミ浜にまで達した。バンガローを借りようとしたが、満員でまたまた野営をする羽目になった。
4日目は休暇の最終日であり、何としてでも浜大津にたどり着かねばならないという、プレッシャーの下に、マイアミを早朝に出航した。風は強い向かい風であった。従ってジグザグ走法で、まず琵琶湖大橋に向かった。
往路では、堅田から少しして琵琶湖大橋の橋桁の間をくぐり抜けたが、スムースに通過したので、あまり気にならなかった。ところが帰路は橋桁をくぐるのに往生した。橋の下で風が渦を巻き、ヨットが安定せず、下手をすると橋桁にぶつかりそうになるのである。ヒヤヒヤしながら何度か行きつ戻りつして、無事通過したときはホッとしたことを覚えている。
琵琶湖大橋を通過して南湖に入れば、もう我々の練習した領域であり、自分の庭みたいな安心感がある。向かい風でジグザグ航行ではあったが、無事浜大津にたどりつき、先輩宅へ帰還の報告に伺った。さすがに我らが先輩も、教え子二人が無事に帰ってきたということで、ホッとされていた。携帯電話やメールの無い時代だったので、台風接近という時期でもあり、大変心配をかけたに違いない。
琵琶湖大橋の橋桁(現在、当時は1本) 我が琵琶湖周航コース(赤線)
先輩宅を辞して浜大津の町へ出たら、どちらからともなく、「おい、分厚いビフテキを食べようや」、ということになり、早速レストランに駆け込んで、我らが琵琶湖周航の旅は完了した。航跡をたどると、距離のある広い北湖を、ずいぶん速く進んだことが分かる。追い風のお陰であるが、今思えば、台風接近など気にもとめておらず、安全意識の発達した現代の感覚では、無謀のそしりを受けかねない38年前の周航の旅であった。
琵琶湖は、比叡降ろしや、比良八荒といわれるように、風が非常に複雑なので、琵琶湖でヨットを操れると一人前と、当時は言われていた。一人前になったはずの我々であったが、琵琶湖周航という身に余る大事業をやって、満腹してしまったためか、それ以後はヨットに関心が薄れ、専ら陸の上で遊ぶようになった。
<琵琶湖周航の歌資料館>
今津町役場のホームページを覗いていたところ、琵琶湖周航の歌資料館が1998年(平成10年)に開設されたと出ていたので、2004年3月10日に訪れた。JR湖西線近江今津駅から歩いても3、4分のところにあり、こじんまりした資料館である。写真撮影も許可して頂いた。
今津町観光協会が管理しており、入場料は無料である。入ると左手に江崎玲於奈博士の手になる、琵琶湖周航の歌の書が飾ってある。江崎博士も三高出身であるから、この歌を愛されていたのであろう。資料館の前や、館内で歌が聞こえてくる。
中央には、三高ボート部が周航に使用したのと同型の、6人乗りのフィックス艇が展示してある。昭和40年代に、ボートのこの種目が国体競技からはずれたので、姿を消したが、平成5年に琵琶湖周航の復活を願う愛好家の手で2艇が建造され、後に今津町に贈られたとある。
館内には、当時の今津の様子を示す写真や、小口太郎と吉田千秋に関する資料が展示されている。またひつじ草についての説明もあって、面白い。ひつじ草は、日本に自生する唯一の睡蓮らしい。6月から10月にかけて、羊の刻(午後2時頃)に満開になることから、この名がついたとある。
小口太郎の年表を見ると、東大理学部を卒業後、同大学航空研究所に入り、徴兵で松本連隊に入営する予定であったが、26歳で亡くなっている。吉田千秋の年表では、結核を患った後、東京農業大学に入学したが、病状が悪化して退学し、ひつじ草を発表した後、24歳で亡くなっている。
従って、歌は三高の寮歌となって大変有名になったが、作詞者も原曲者も早逝していたため、そのプロフィールや、この歌が誕生した経緯は、かなり後まで分からなかったらしい。ひつじ草の作曲者が吉田千秋と分かったのが1979年(昭和54年)で、彼の実像が分かったのが、やっと1993年(平成5年)になってからだそうである。
小口太郎は、東大在学中に電信関係の特許を出していると前述したが、日本以外に、英、独、豪、加、スエーデンにも出願している。大正の時代に海外出願をするというのは、余程のことであったろうから、大変優秀な学生だったと思われる。1923年(大正12年)に徴兵検査に合格しているのに、翌年亡くなった理由は年表からは分からない。
琵琶湖周航の歌が、多くの人々にこんなにも愛され、当時は無名だった2人の学生を記念する資料館まで出来ているとは、地下に眠るお2人には想像も出来ないことに違いない。
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