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2004.02.05

茨城県あちこち

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       県庁所在地 水戸市の夜明け

茨城県といえば、つくば学園都市の研究所くらいしか接点がなかったが、姉ヶ崎に住んだおかげで、つくば市やひたちなか市在住の友人と会う機会があった。伊奈町の間宮林蔵記念館には既に触れたので、その他の茨城県の訪問記である。

<霞ヶ浦>
茨城県は霞ヶ浦という日本第二の湖を抱えているので、日本第一の琵琶湖を抱える滋賀県とその意味では似ている。しかし琵琶湖は滋賀県の総面積に対し16.7%を占めるのに対し、霞ヶ浦のそれは北浦を合わせても高々3.5%に過ぎない。

また滋賀県は琵琶湖があるために可住地面積割合が32%と低く、全国で第24位なのに、茨城県は可住地面積割合が65%もあり、全国第4位である。つまり茨城県では霞ヶ浦があっても居住条件への影響は少ない。

2002年の6月につくば市在住の大学時代の友人が音頭を取り、土浦市の霞ヶ浦総合公園にある国民宿舎「水郷」に同級生5人が集まることになったので、姉ヶ崎から参加した。姉ヶ崎からは国道16号線で八千代まで行き、県道4号線、48号線で印西市、利根町、龍ヶ崎市、牛久市を通って北上すれば土浦市に至る。

霞ヶ浦総合公園というので、ここが霞ヶ浦の中心地かと思ったら、霞ヶ浦の中心地は東に隣接する霞ヶ浦町らしい。城郭様式の霞ヶ浦郷土資料館は霞ヶ浦町にあるとのこと。霞ヶ浦総合公園は46万㎡という広大な公園で、遊歩道が整備されており大変美しい公園である。大賀博士の発見で有名な古代蓮やその他の蓮が栽培されている。

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                      霞ヶ浦総合公園

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       公園内の大ポプラ                古代蓮

土浦市の南の阿見町には陸上自衛隊の武器学校があり、中に予科練記念館(雄翔館)がある。館内には、予科練に在籍し特攻隊で散った若人の父母への遺書や遺品、予科練で使った教科書等が展示してある。当時の我々は4、5歳であり、彼らはそう年が離れていない10数歳年上の有為の青年たちであった。予科練出身のパイロットはその8割以上が散華したという。

遺書は例外なく父母(片方だけのもある)への尊敬や思慕の気持ちと、早く死んでいくことのお詫びが、丁寧にきっちりと書かれてある。この時代、彼らは本当に国のために命を捨てる気持ちであったのだろう。今でも生存者の方が必ずここへ訪れて冥福を祈られているとのこと。初めてこの施設を見学して、日本人は皆一度ここを見るべきと感じた。

<水戸偕楽園>
ひたちなか市在住の友人を訪ねて、2003年3月15日に姉ヶ崎から国道51号線で佐原、潮来、鹿嶋を通り、鹿島灘に沿って北上し、大洗から245号線でひたちなか市に入った。ちょうど梅の季節ということで水戸の偕楽園に案内してもらった。

水戸偕楽園は、金沢の兼六園、岡山の後楽園と並ぶ日本三名園の一つであり、1842年(天保13)、徳川斉昭によって造園され、民と偕[とも]に楽しむ場にしたいという願いから偕楽園と名付けられた。12.7万㎡の広々とした園内には、100種3000本の梅が植えられ、梅の季節が終わると桜、ツツジ、そして9月には萩が園内を彩る。

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                    水戸偕楽園の梅林

偕楽園には徳川斉昭が自分で設計したという好文亭があり、中国の故事から梅を意味する「好文」を命名に用いたとのことである。3階建てで眺望が素晴らしい。

<水戸市内>
水戸市は茨城県の県庁所在地である。水戸市の真ん中には、千波湖というきれいな湖がある。この千波湖のほとりに泊まったので、早朝に周りを散策したら、黒スワンが泳いでいた。偕楽園が出来た頃は、前面の千波湖一帯の景観を借景したとあるから、ここも埋め立てで小さくなってしまったらしい。

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    千波湖展望(ホテルから)               千波湖の朝

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                    千波湖の黒スワン

水戸市の真ん中に茨城県庁があるが、行って見て度肝を抜かれた。およそお役所という感じからは程遠く、その一角だけ汐留あたりの近代建築が突っ立っているという感じである。時の土建知事さんの作品らしく、その後収賄か何かで今は別の知事さんとか。

最上階が高級ホテルの展望ルームよろしく、四方が見渡せ素晴らしい眺望である。展望ルームは土日も県民や市民に開放されている。金のやりとりはともかく、県庁の最上階が、観光や実地見聞にも役立っているというのは面白いと思った。

<袋田の滝>
水戸から突然茨城県の北端、福島県との県境近くにまで飛んでしまうが、ひたちなか市の友人が袋田の滝に案内してくれた。久慈川沿いに北上して、大子(だいご)町袋田滝本というところにある。和歌山県の那智の滝、栃木県の日光華厳の滝と並んで、日本三名瀑とされる。

壮観である。高さ120m、幅73mの岸壁を、水が4段に落下していく。滝壺へ行くためのトンネルがちゃんと掘ってあって、間近に滝が見られ、散策路を周遊できるようになっている。このトンネルも例の土建知事さんの作品らしい。

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                     日本の滝百選 袋田の滝

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     滝壺口から               周遊路からの遠景

周遊路には茶店もあり、お茶と田楽や木の芽煮が美味しかった。滋賀県から来たというと、茶店のおかみさんが絵葉書をプレゼントしてくれ、感激と恐縮。この絵葉書には水戸9代藩主徳川斉昭の短歌が載っている。
    もみじ葉を 風にまかせて山姫の 清水をくぐる袋田の滝    烈公

<常陸太田・西山荘>
袋田の滝から茨城街道に出て一路南下すると、日立やら常陸やらの道標が出てきて、どう違うのかなどと考えているうちに、常陸太田に入る。常陸太田の手前から2車線の立派なバイパス道路になっている。故梶山静六議員の作品だそうで、通称梶山道路とも呼ばれているらしい。

水戸家は3人の歴史上名高い人物を産んでいる。2代光圀(1628生)、9代斉昭(1800生)、15代徳川将軍慶喜(1837生)である。光圀はご存知「水戸黄門」として知られ名君の誉れが高い。光圀が晩年(64~73歳)を過ごした地が、常陸太田の西山荘である。

落ち着いた雰囲気とむしろ質素な感じのする庵であるが、光圀没後一旦取り壊され、8代藩主斉脩によって再建されたとある。京都の史跡と比べれば、鷹ケ峰の光悦寺といった感じである。もっとも私が知っている光悦寺は40年以上前であるが。

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            西山荘                    出入り口 

常陸太田は水戸黄門だけでなく、佐竹氏の繁栄の地でもあった。1590年頃に佐竹義宣は豊臣秀吉と手を結び、小田原城攻めや奥州平定に参加して功ありと認められ、常陸・下野を支配する。しかし関が原では判断を誤り、徳川が勝ってから恭順したが、秋田へ国替えとなった。 

<県名命名の苦心>
茨城県は水戸市が県庁所在地であり、県名と県庁所在地の名前が一致しない。多分小学校時代に日本全国の都道府県名を暗記したと思うが、何故か都道府県名と県庁所在地が全部は一致しないので、ややこしいと思った経験がある。

県庁所在地のホームページにアクセスして、県名と県庁所在地の名前の一致、不一致を数えてみた。全国47都道府県のうち、一致している所は30あり、一致していない所は17ある。 

司馬遼太郎の「街道をゆく 第14巻 伊予と愛媛」に、「もとが一国一藩の地で、官軍についた藩地は、鹿児島、山口、佐賀、高知、徳島のように城下町の名が県名になった。加賀藩の場合、金沢県にしてもらえず、石川郡の石川をとって県名にされた。南部藩も盛岡県にしてもらえず、巌手郡の名をとって岩手県になった。県名をえらぶのは、厭味もふくめての苦心があったらしい。」とある。

従って茨城県も水戸県にならなかったのは、水戸徳川家のお膝元であったため、明治の新政府のいじめにあったためかも知れない。とにかく会津若松や新撰組の出身地のある北関東から東北にかけては、明治政府は全く面倒を見なかったと、これも「街道をゆく 第3巻 陸奥の道」に司馬氏が書いておられる。

そういえば薩摩藩が所在した九州は、大分、福岡、佐賀、長崎、熊本、宮崎、鹿児島の全県が、県庁所在地は同じ名前の市になっている。長州が所在した中国は、山口、広島、岡山、鳥取が、同じ名前の県庁所在市で、島根のみが松江市で一致しない。島根藩は長州藩の隣であったが、長州に楯突いたことがあったのだろうか?よく知らない。             

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