杉本健吉画伯を悼む
自然からの勲章(自画像) 我が家の扇子
(杉本健吉画文集から)
2004年2月10日夜のニュースで、杉本健吉画伯が享年99歳で逝去されたと知った。吉川英治氏の小説「新・平家物語」の挿絵を担当され、出版に携わった弊親父ともご縁があったらしく、河童、蛙、亀を描いた扇子を頂き、私が子供の時から使っていたものが、今も残っている。
従って、杉本画伯の挿絵や奈良の風景画は、子供の頃から良く見ており、名前も同じであると思っていたことから、大変親近感を持っていた。ただ後になって直接ご本人から、僕の「吉」は下が長いのだよ、とお聞きしたが、このパソコンではどうしても下の長い「吉」が出ないので、間違いと知っていながら「吉」を使っている。
<杉本美術館>
2001年の正月、NHKテレビが杉本画伯の画業を紹介したので、知多半島に杉本美術館があることを知り、5月の連休に行ってみた。愛知県美浜町美浜緑苑という場所にあり、その名の通り大変綺麗な所である。
杉本画伯は、1905年(明治38年)名古屋に生まれ、愛知県立工業学校図案科を卒業後、岐阜県笠松の織物商、丸半に就職し図案を担当されたということで、繊維にも縁がある。図案やポスター製作の傍ら、絵を描き1925年に岸田劉生画伯の下に弟子入りされた。
<奈良風景>
1940年頃から、文豪志賀直哉が奈良に住んでいたことがきっかけで、奈良通いが始まり、終戦後も東大寺の一隅に住み込まれ、数々の奈良風景が生まれた。杉本作品には東大寺や大仏殿を始めとする奈良の風景画はもちろん多いが、涅槃図や曼荼羅図など仏教に関する作品も多く、画伯が仏教にも通じておられることが良く分かる。
東大寺のお水取りのことを正式には修二会(しゅにえ)といい、千数百年も続いている行事であることは、司馬遼太郎の「街道をゆく 第24巻 奈良散歩」に詳しく、私もそれを読んで多少知っていたが、杉本美術館には、この修二会の儀式を詳細に描いた、杉本画伯の見事な絵巻が展示してあり、奈良散歩を読んだ直後だったので、大変印象深く拝見した。
<新・平家物語の挿絵>
1950年から「新・平家物語」の挿絵を担当され、吉川英治氏とのコンビが始まった。その後も「私本太平記」や、吉川氏の絶筆となった「新・水滸伝」の挿絵を担当された。青梅市の吉川英治記念館には、吉川英治肖像画を始め杉本画伯の手になる作品が展示してある。
我が家にある、1959年(昭和34年)発行の「新・平家物語」(全8巻)から、杉本画伯の挿絵をいくつか拾ってみた。奈良の風景画とは、また異なる感じのする、軽妙なタッチの挿絵である。
<余生らくがき>
知多半島の杉本美術館を訪れた後に、感想やら親父の縁やらを手紙にしたところ、何と、2001年9月名鉄百貨店開催の、杉本健吉画文集「余生らくがき」刊行記念展の案内を頂いたので、喜んで出かけた。
画文集の冒頭には、杉本健吉、96歳の言葉として、「まず驚きだ、感激だね。」がある。さらに、「長生きするのが目的じゃないんだな。絵を描くのが目的で、そのために長生きしてるの。」という言葉がある。ここに杉本画伯の哲学が込められている。
ページを繰ると、この意味を画伯が具体的に語られているので、引用させていただく。
「まず驚きだ、感激だね。「感激は受胎」--感激すれば受胎して、その受胎した子どもが絵なの。受胎しなかったら子どもは生まれないよ。
感激というのは出逢わなければわからない。対面しないとわからないから、対面するために自分がいろんなことをやったり、出かけていく。それが外国でなくてもかまわないし、身近なことでもかまわない。いつも見ているものでも感激したら、それに夢中になる。
だけど言葉ではこうしていえるけど、なかなかできないでうっかりわすれてしまう。だから常に充電していく。充電には限りがない、走れば走るほどガソリンは要るんだから。そのためには健康でなくてはいけないということが、大事と思っている。
絵を描いていて一番よかったね。なにをやってても感激がともなえば、絵でなくてもよかったのかもしれないけど、僕には絵だった。」
本当にうなずける言葉である。死ぬまで、楽しいと思って何かに感激して打ち込むことが、生涯現役の秘訣ということであろう。前編で触れた、西陣織の現役の匠兄弟、102歳の山口伊太郎さんと、99歳の安次郎さんとも、全く共通の哲学がある。
<対面>
送って頂いた刊行記念展の案内葉書を係りの人に見せたら、何と、来場されていた杉本画伯に引き合わせて頂き、憧れの画伯に直接お目にかかれて、大感激した。
「昔のことは忘れてしまったよ。」といいながら、弊名刺をしげしげと見られて、「君の吉の字は下が短いなあ。僕のは下が長いんだ。もともと吉は下が長かったんだけど、日本人は字を大事にしないねえ。」と仰って、日本の漢字文化の乱れをチクリと指摘された。
確かに吉には、上が短いのと下が短いのがあり、昔は名前を言うとき、どちらですかと聞かれた記憶が何回もあるが、このパソコンの辞書では、下が長いのがどう探しても出ないのである。国語審議会で下の短い吉に統一してしまったのだろうか?
ともあれ、2005年に100歳になったら遺作展を開催し、自分もそれを見たいと仰っていたらしいが、残念ながら後少しのところでご逝去された。謹んで、吉の下の棒が長い、杉本健吉画伯のご冥福をお祈りする。
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