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2004.02.01

中村修二教授、勝訴!

昨日(2004年1月31日)の日本経済新聞は、第一面に「青色LED訴訟」の東京地裁判決に関し、「発明対価200億円命令」「請求の全額 認定は600億円」「中村氏、貢献50%」という見出しで、米カリフォルニア大サンタバーバラ校中村修二教授の勝訴を報じた。

電子材料の世界では、大変有名な中村修二教授の青色発光ダイオードの発明に対し、日亜化学は中村教授の在職中に特許報奨金2万円しか支払っていない。しかし中村教授は、その発明の大変大きな価値や海外での反響の大きさから、日亜化学の研究者に対する処遇が極めて不当であると感じ、自分の特許で会社が恩恵を受けた利益を算出し、200億円を支払うよう訴訟を起こされた。

また米国での体験で、日本の企業や社会が独創的な研究者の成果に対し、正当な評価をしないことに問題を感じ、その意味でも一石を投じようとされたものである。裁判はさらに最高裁まで行くと思われるので、最終結果はまだ分からないが、今回の判決は創造性や個性を大事にしてこなかった日本の社会に対し、画期的な判断をしたといえるだろう。

2002年9月4日に開催された日本分析学会の特別講演会で中村修二教授の講演を聞き、その内容をメモしていたので、以下に紹介する。中村修二教授の業績や考え方がよく分かる。

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中村修二教授講演骨子「青色発光デバイスの研究を振り返って-日米比較-」

(1)大学受験が日本のガン! 
 自分は偏差値が悪かったため徳島大電子工学科を受けた。日本の受験制度は小学生の頃に持っている夢を実現できるような勉強が不可能な制度になっている。日本の若い人に元気が無いのは受験合格を目指すため嫌いな科目も勉強して疲れきり、受かった途端に目標をなくし自信をなくすことにある。

大学受験をなくし誰でも入れるようにするが、入学後は厳しく教育し卒業が難しいという状態になれば、本当にその勉強が好きな人が残り創造的研究が生まれる。そこを落伍してもまた好きなところへ行くことが簡単に出来れば、切り替え後2、3年は混乱しても市場原理が働き直ぐに落ち着く。

(2)発光ダイオードの開発
 教授から地元ベンチャーの日亜化学を紹介され、開発課(課長と自分だけ)に入りガリウム-リン系発光ダイオードの開発をスタートした。お金が無いので自分で電気炉を自作し、後の研究にずいぶん役に立った。開発に成功し自分で売りに行ったが、誉めてはくれるが小さい企業から買ってもメリットがないとの理由で売れなかった。

 次いでガリウム-砒素系と赤色発光ダイオードを開発したが同様の結果で、10年間に3つの新製品を開発したのに周囲からは非難の的であった。会社の指示でやって開発に成功したのに×をつけられとうとう切れた。今後は会社のためでなく自分の好きなことをやると決め、当時の夢であった青色発光ダイオードをやることにした。もちろん周囲は大反対であった。

(3)社長への直訴
 首を覚悟で上司を飛ばして社長に掛け合いに行った。ここらがベンチャーの良いところである。ところが創業者の社長は「良いよ」と一言。5億円の資金もアメリカ留学もOKをくれた。当時創業者の開発した蛍光体が軌道にのり利益が出ていたことと、次のタネに社長だけは理解があり自分が3つ開発したことを理解してくれていた。

(4)アメリカ留学
 フロリダ大学へ留学したが、博士号を持っていないことで、レベルの低い同僚からエンジニア扱いをされ頭に来た。論文を書いてあいつらを見返してやると思ったが、日亜のような小企業では論文発表は禁止だった。しかし禁止を無視して書くことを決意し帰国後青色の開発を開始した。

(5)青色発光ダイオードの開発
 当時青色の可能性としてセレン化亜鉛と窒化ガリウムがあったが、セレン化亜鉛の方が良い結晶が出来、関係論文も多かった。論文書きたさに論文の出ていない窒化ガリウムを取り上げた。結晶を成長させるMOCVDを2億円で買って貰っ たが、全く駄目で窒化ガリウムはさすがに難しかった。そこでこの装置の改造を自分で始め、午前中改造、午後反応というサイクルを1年半続け、品質的には世界一のものが出来た。

(6)論文提出
 禁止は無視することにし、まず自分の部下の若手に特許を出させ、その後論文を 出した。反応装置が良いからその後も実験を重ねる度に世界一のものが続発し、どんどん論文が出た。しかし2年後大手のS社、M社から論文の内容について営業に問い合わせがありばれた。会社の許可無く論文をだすなという指示書が出たが、製品化に成功した。

(7)人生の方向転換
 会社での地位も上がりハンコ押しに追われだしたので惚けると思った。色々オファーが来ていたが、会社をやめる自信が無く逡巡していた。しかし娘の意見で決断した。結局サンタバーバラ校に決めた。

(8)日米の研究事情比較
 米国の工学部の教授は一言で言って金もうけに徹している。ベンチャーを起こしコンサルティング料で稼ぐし、コンサルティング出来ることが能力のある証となる。これに対し日本では今は少し緩和されたが、コンサルティング料を貰えば収賄で刑務所行きである。

 日本では研究者や学者はどんなに成果を上げても、お金のことを言うと良くないととられる。また米国は直ぐに転職するので良くないととる見方もあるが、違う仕事をやって自分の進歩や能力を把握する機会と捉えている。日本も転職して自分の能力の輪を広げるということが当たり前になればリストラは恐くない。

 ノーベル賞の白川先生は定年後は農業でもやろうかとされていた。同時受賞の米国の先生はベンチャーを起こしてデュポン社に売り、導電性のコンサルティングを続けている。白川先生にも導電性の研究を続けて頂けるような社会が望ましいのではないか。

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以上が骨子であった。この講演から汲み取れるように、日亜化学の創業者社長は中村教授の非凡な能力を認め、小さなベンチャー企業として次代のタネを産むことを期待していたことは、中村教授も認めている。日亜化学の内情は知らないが、今回の問題は、次の経営者が中村教授の業績や研究者としての優秀な性格を、正当に評価・把握しなかったことから、発したのではないだろうか。

TVで経営側の意見として、莫大な投資をしている企業の中での発明には、報償額には歯止めがないと困るというような発言をされていた。しかし今回の判決は、小企業の貧弱な研究環境の中で世界的な発明をしたということが重い事実であり、大企業の整った環境下での職務発明とは全く違うと強調している。

この裁判官はまともな感覚の持ち主であるという感じを持った。

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