1000年の織物 200歳の夢
山口伊太郎さん 山口安次郎さん
(1000年の織物 200歳の夢 図録から)
2004年1月9日(金)23時からのNHKテレビ「人間ドキュメント」は、西陣織の技術の粋を尽くして、1400年後の後世に残る錦織の源氏物語絵巻に挑戦している京都西陣の織元の話であった。彼、山口伊太郎さんの織った帯は数百万円から数千万円するという凄い人である。番組を見た後、感動して日本繊維技術士センターのメーリングリストに投稿した。
<西陣織による錦織源氏絵巻>
素晴らしいテレビ番組でした。国宝源氏物語絵巻がだんだん色褪せてきているのを見て、織物ならもっと長くもち、後世の人に感動を与えられると信じて、10年仕事で始めた山口伊太郎さんですが、3巻製作するのにもう30年かかっていて、漸く最後の第4巻に取り組みだしたそうです。
しかもこの仕事をやることを決意したのが70歳の時。従って現在102歳。55歳の弟子に今もアイデアを指示し、気に入らないと何回も試織させる執念は全く衰えていません。
外観のことを言うと失礼ですが、織物屋は年取っても色気がないとあかん、と月1回4男さんのお嫁さんに散髪して貰っておられ、きれいな銀髪で風貌はまさに70代くらいにしか見えません。
しかも3ヶ月に1回訪ねてこられる弟さんが、99歳で現役の西陣織の職人さん。鮮やかな手つきで織機を操作されています。お2人で地鶏のすき焼きをつつきながら、体力は95歳がピークやったな、95過ぎるとやっぱりきついわ、には参りました。
しかもこの絵巻製作で編み出した新技法を、正倉院御物の絵柄の帯に適用して、やっと長年の念願が達成できたとのこと。偉大な西陣織の織元が先にあって、たまたま102歳であったというNHKの取材態度も良かったと思います。
<1000年の織物 200歳の夢 >
この1ヵ月後の2月6日に東京へ出張した際、訪問した会社の技術士仲間が、神谷町の大倉集古館で山口兄弟の1000年の織物展覧会をやっていると教えてくれたので、早速寄ってみた。本来は2003年12月の行事であったが、好評につき2月まで延長とのことで運が良かった。
知らなかったが、2003年10月に京都平安会館で開催された後、東京での開催になったとのこと。展覧会は、「1000年の織物 200歳の夢」というテーマで、テレビで放映された山口伊太郎氏の西陣織による源氏物語錦織絵巻と、山口安次郎氏の能装束の数々の展示であった。
会場がやや暗く、絢爛豪華な錦織絵巻や唐織の能装束には、もっと明るい照明のほうが映えるのではないかと思ったが、これは田舎者の感覚なのかもしれない。図録を早速買い求め、ご本人の言葉に触れたら、やはりお2人とも卓越した織技術と哲学をお持ちだということが良く分かった。
<源氏物語錦織絵巻 山口伊太郎>
伊太郎氏は、70歳までずっと商売をやってきたので、自分の作品が何も残っていない。この辺で何か残るものをと考えていた時、ツタンカーメン展で4500年という壮大な年月に圧倒された。自分も後世の人に感慨を与えるものを織物で作りたいと模索していた時、源氏物語絵巻の退色した復刻図に出会い、この原画の織物による再現を思い立ったという。
女性の美しい装束の意匠と色彩を、「糸」による「織物」で再現しよう、絵画による表現を「織物」による表現に、絵の具を「染め糸」に、一人ひとり、一枚一枚きものを着せていこう、絵画より立体的に、王朝の世界もかくやと思えるものを織物によって表現しようと考えました、と述べておられる。
山口伊太郎作 源氏物語錦織絵巻
(2000年の織物 200歳の夢 図録から)
自分の寿命を80歳と踏み、10年もあれば4巻出来るやろ、と思ったのが、1巻完成までで既に10年かかった。2巻目からはリヨン帰りの息子さんの協力でコンピュータグラフィックスを取り入れ、コンピュータも手製で高度化したものを作り、2巻と3巻を完成させたら、既に通算30年を経過していたのである。
特に3巻目は、前2巻とは違って夏の薄物装束の表現に大変苦心して、やはり10年かかったとのこと。「薄物の表現には苦心しました。結局、薄物を上から着せました。いまだ誰もやっていないことと思います。」と仰っている。「欄干が薄物の束帯の下から透けて見える、たったこれだけのために3年かかりました。」とも仰っている。
伊太郎氏は、完成した3巻を意外なことに、パリのギメ国立東洋美術館に恬淡と寄贈された。これは、西陣が今日あるは、リヨン生まれのジャカールが発明した紋織機械(ジャカード機)のお陰であるという、氏の特別な思いによる。「西陣はフランスから貰うたジャカード織機で、大きな力を得ましたんや。恩人どす。母親に色鉛筆を買うてもらって、「こんな絵が描けた。お母ちゃん見て」、そんな気持ちで収めました。」と仰っている。
インタビューによると、破格の条件での専属をことわったり、人間国宝への要請も辞退されたという。「私はそんな箱の中に入れられたらあきまへんにゃ。とにかく窮屈な状況は最も嫌うことどした。人間回り道しん方が楽なんでしょうが、そういうことが出来ん性質(たち)ですな。」 人柄がにじみ出ているではないか。
<能装束 山口安次郎>
安次郎氏は、「世界各地を旅行して世界の織物は殆ど見た。やはり織物は日本が一番で、その日本というのは西陣である。西陣に勝るところはない。なぜ西陣が良いのか、それは能衣裳があったからだと思う。」と述べておられる。
もともと謡曲や能が好きで、一度は能衣裳を作ってみたいと思っていたが、能衣裳では食べていけない。経営する会社が安定し、息子さんが家業を継いでから、本格的に能装束を手がけるようになったそうである。
能の金剛流宗家から、「帯は20、30年の寿命やが、能装束は300年はもつで」といわれたのが、きっかけと述べられている。300年後の人に、「昭和の時代によくこれ程の丁寧な織職人がいたなあ。」と思って貰えるよう、とくに丁寧な仕事を日々心がけているとも仰っている。
安次郎氏も、明治の初めに西陣の先輩たちがリヨンに留学して、ジャカード装置を譲ってもらって日本へ持ち帰ったことが、今日の西陣の飛躍の元になっており、リヨンの人に感謝の気持ちを持っている、と述べられている。
1999年にリヨンでジャパンウィークが開催されたとき、参加を申し込み、リヨンの歴史博物館に唐織と長絹の能装束を寄贈された。海外で展覧会をしたときは、必ずその土地の博物館に唐織の能衣裳を1領寄贈して、気候の違う各地で、後世の人がどのような思いを抱いてくれるかと夢を見ているとのことである。
インタビューでの、着物文化の衰退についての質問への答は、極めて柔軟で、楽天的である。
「衣食住といいますね。人間の一番初めに「衣」が占めています。人間が美しく装いたいということは、本能でっしゃろ。何も着物にとらわれることはおまへん。そう考えると世界中の人がお客さんでありますわ。織屋さかいいうて、帯にとらわれることはありまへん。欲しい人に欲しい織物を提供するのがほんまと違いまっしゃろか。」
「和装、和装と言うけど、今の形になったのは精々200年から300年違いますか。おそらく元禄・享保の時代と思いまっせ。能装束かて、見ようによってはガウンコートみたいでありますわ。帯かて後ろに太鼓結びしたのは、明治に入ってからと違いますか。歴史としては浅いもんどすわ。」
<ジャカード織機>
お2人が西陣の母と感謝しているジャカード機とは、織機の名前ではない。織機に付属して、タテ糸を上下に押し広げる装置(開口装置という)の名前である。単純な柄の織物はタペットという開口装置を用い、少し込み入った柄の織物はドビーという開口装置を用いる。
しかし織物の幅一杯に複雑な文様や柄を織り込むことは、タペット機やドビー機では不可能で、19世紀初頭にジャカールが発明した開口装置で可能になった。文様に対応して孔の開いた紋紙を用いて、タテ糸を1本1本独立に開口させる。現在では紋紙の替りにコンピュータの信号で操作出来るようになったので、大変複雑な文様も可能になった。
私は織物の専門家ではないので、詳しい知識はないが、繊維総合辞典等を紐解くと、能装束に用いられるような華麗な文様を織り込んだ工芸的織物は錦と呼ばれ、西陣織の代表的織物の綴れ錦は、日本の美術工芸織物の頂点にある、とされている。
それでも、伊太郎翁によると、「正倉院には唐時代の織りが残っているんですけど、それは気の遠くなるような複雑で優れたもんですのや。遠いあんな時代に、既に織られていたんですな。日本では復元できていない。あれに負けんもん織りたいですなぁ。」と言われる。
ということは、古代中国の織りの技術というものは、コンピュータ制御でもかなわない、想像を絶したものであるらしい。正倉院御物には、人間国宝の織職人さんも挑戦されているらしいし、伊太郎翁も4巻目で、それも含め、いろいろな味わいを出そうとされているとのことである。
2007年6月30日<山口伊太郎さんのご逝去>
本日の日経新聞朝刊の訃報欄で、山口伊太郎さんが6月27日に105歳でご逝去されたことを知った。謹んでご冥福をお祈りする。
2010年2月12日<山口安次郎さんのご逝去>
本日の毎日jp訃報で、山口安次郎さんが2月7日に105歳でご逝去されたことを知った。謹んでご冥福をお祈りする。
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