100年前の吉田山麓
私は京都で小学校、中学校、高校、(予備校)、大学と過ごしました。滋賀県在住の現在も、京都には大変愛着があります。明治維新時期の京都は東京遷都になったため、混乱や失望と、意気消沈の面もあったと思えるのに、「京都学派」と呼ばれるユニークな学者群や、湯川秀樹博士や朝永振一郎博士を始めとするノーベル賞学者を早くから輩出した教育先進地なので、維新後の京都の活力はどこから生まれたのだろうと以前から疑問に思っていました。
弊出身高校同窓会は京一中洛北高校同窓会といい、「あかね」という会誌が発行されています。2003年11月に発行された第41号に、会長の西島安則先生が、洛北高校の2004年からの中高一貫教育開始を祝って寄稿された、「”中高一貫の原風景”-100年前の吉田山麓-」を拝読し、図らずもその疑問の一端が解けました。
やはり明治初期に京都の将来のため、教育に情熱を注ぎ込んだ偉大な先達がいたのです。洛北高校の同窓生はこの寄稿を読んだでしょうが、京大、京都工繊大、京都芸大などの原風景もこの中に盛り込まれています。同窓会誌は本棚に入るだけなので、京都育ちの弊友人で関心ある人にも見てもらえるよう「あかね」から抜粋しました。
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”中高一貫”の原風景 -100年前の吉田山麓-
京一中洛北高校同窓会長 西島 安則(昭和19年卒)
無定見な維新政府の教育政策と京都の学校
1868(明治元)年正月に元服したばかりの16歳の天皇は、9月に京都で即位の式を挙行して間もなく、東京に向けて行幸、年末に一度帰京したが、翌1869(明治2)年3月には、正式に遷都を告げることもなく千年の都を離れた。
その年、京都では上京・下京の各番組を母体とした小学校による初等教育の基盤を固め、市内64の「番組小学校」がすべて発足して、わが国の近代的学校教育制度の嚆矢となったことは、よく知られている。
このとき、京都府はさらに、上京・下京の両京に一校づつの「中学校」を設けて、小学校中の「学術伸達」の児童を入学させるという構想をすでに建てていたのである。この中等教育に連結した全体の構図は、学問の都・京都の文化風土に根ざしたものであったが、残念ながら、直ちに実現することにはならなかった。
東京に移った成り上がりの維新政府は、権力の東京一極中心主義に汲々として、大言壮語を弄するが、新しい国づくりの根幹となるべき教育については、全く無定見で、ただ朝令暮改を繰り返していた。1872(明治5)年に、「学制」を頒布すると、それまでに、各府県で、それぞれの文化風土に沿って設置されて来た学校を一旦、ことごとく廃止するよう命令するといった「圧制政府」ぶりを発揮し、教育を政治権力の具としてもてあそぶ有様であった。
維新政府は東京を定都とするために、京都にあるものは、役所も学校も廃止し、やむを得ない場合にのみ、学校は府学として京都府に移管するという方針をたてた。
維新頭初の学習院の再興から、京都に建学した「京都大学校」も政府は多事多端で十分な取調べが出来ないとの理由で、仮大学校として認めるということになっていた。一方、東京では、江戸時代の林家の私学にはじまった昌平黌を再興して「大学校」と改称し、学制中央機関と位置づけた上、すでに東京に立派な大学校が出来れば、京都にある大学校は必要ないという政府の意向を表明し、京都大学校を廃止する方針を明らかにした。
京都の大学校には諸藩からの多数の遊学者も来京しており、すでに270名以上の学生が学んでいた。維新の変革の社会に正しく貢献する学識を備えた人材を養成し、維新教育史における重要な学問の府となるべきこの京都大学校は、無学の東京尊都主義者によって摘み取られた。その後紆余曲折を経て、結局、1870(明治3)年に日本最初の中学校として、二条城北の旧所司代邸に開校した「京都府中学校」がその流れを汲むことになったが、それは苦渋に満ちた出発であった。
学問の都の伝統継承の正念場
植村正直知事を中心とした懸命の努力によって、過渡期の激動を何とか乗り越えた京都府がいよいよ正念場を迎えていた1881(明治14)年、北垣国道第3代京都府知事が着任した。彼は新しい時代を拓く学術の中心たるべき京都の百年の計の第一歩として、まず、京都府中学校の初代校長に、今立吐酔を登用した。1882(明治15)年、吐酔27歳であった。
今立吐酔は福井藩の明新館に学んだ英才で、特に、理化学者グリフィス(W.E.Griffis)に見出され、グリフィスの帰国と共に渡米し、ペンシルヴァニア大学で土木建築学を学び、1879(明治12)年に卒業した。帰国間もなく京都府の学務課に出仕していたが、理化学を修めた開明的知識人である吐酔に、京都がかねてより構想していた近代的な学校教育体系としての中学教育の実現を託したのである。
そして、このことはやがて、小学校・中学校・高等学校、そして大学へと、市民とともに構築する学問の都の伝統を立派に継承し、発展させることにつながって行った。
学問の都の再興にとって、重要な転機となったのは、1886(明治19)年の冬の、今立吐酔と、時の文部大臣森有礼との会談であった。吐酔はその時を回顧して次のように述べていた。
”私が東京へ出張した際、森文部大臣をその官邸に訪問した時、大阪第三高等中学校の話が出て、大臣は「大阪でも京都でも宜しいが、敷地と建築費とに10万円を出した方に第三高等中学校を建てよう。しかし自分としては、大阪より京都の方が教育地としては好ましい」と言われた・・・丁度この時幸いに北垣知事が東京に出張しておられたから、直ちにその旅館へ行ってこの話をしたら、知事も早速同意で直ちに馬車を命じて森大臣の官邸に至りて、第三高等中学校を京都へ移す議を定められたのです。”
その前年1885(明治19)年の暮れ近く、西洋の内閣制度を導入した第一次伊藤博文内閣が組閣され、森有礼は初代文部大臣に就任した。閣僚中最年少の38歳であった。彼はまず欧米先進諸国の教育制度にならって、学校組織の統一的再編成をはかった。1886(明治29)年3月に「帝国大学令」ついで4月に「師範学校令」「中学校令」「小学校令」が制定された。
この「中学校令」によれば、中学校を尋常と高等の二等に分け、前者を府県立、後者を官立とし、府県立尋常中学校は各府県1校、高等中学校は全国に5校と定められた。この微妙な時期に、時の文部大臣が京都府中学校の校長にこれだけ突っ込んだ話をしたことは、異様であるが、多分、吐酔の人柄によるもので、両人の意気投合の結果と思われる。
森有礼は、以前1871(明治4)年に、米国への最初の弁務使(のちの大使)として、ワシントンに着任し、国務長官ハミルトン・フィッシュ(Hamilton Fish)に信任状を提出、日本最初の弁務使館(大使館)を開設した。かれは新しい日本の教育について、米国の学界、政界、経済界、そして宗教界の代表的有識者に質問状を送り、広く意見を求めるなど、24歳の若々しい大使として活躍し、1973(明治6)年に帰朝している。一方、吐酔の米国留学は、1870年代の後半であり、森大使とは入れ違いであったが、2人には、共通の関心事や話題が多々あったことと想像できる。
この正念場における北垣知事の決断と実行力は高く評価されるべきである。学問の都はこの転期によって、再生したのである。府会は、第三高等中学校を京都に誘致する事については、勿論賛成であったが、文部省がその資金の一部として十万円(総工費の六割強に当たる)の寄付を慫慂したことについては、議論が一定せず「地方税経済より支出せしものが、府有財産とならずして、文部省の財産となるは甚だ不道理千万なり」という反対論も入り乱れて紛糾した。結局、1887(明治20)年5月の府会で、賛成32、反対30、の僅差でこの特別費目は可決されたのである。この大事な決定に至る間の、北垣国道知事と今立吐酔の懸命の努力は報いられた。なお、高等中学校の設置区域は、東京を第一区、京都を第三区、金沢を第四区、少し遅れて、仙台を第二区とすることが決定された。
最高の学問・芸術・文教のクラスター形成
京都府の積極的な誘致運動により、第三高等中学校の大阪から京都への移転が正式に決まったのは、1886(明治19)年の12月であった。吉田村に新校舎の建設のため、約16町2反余(約1620アール)の広大な土地の収用がなされ、1887(明治20)年に着工、1889(明治22)年の夏には竣工して、第三高等中学校は大阪から京都へ移り、1869(明治2)年の大阪舎密局の開校以来20年間の大阪時代に終わりを告げた。京都に移って5年後の1894(明治27)年に「高等学校令」が公布され、第三高等学校と改称、「三高」が誕生した。
その頃から、京都に大学を創るという気運が動いて来た。1894(明治27)年秋に文部大臣に就任した西園寺公望は、”政治の中心から離れた京都の地に、自由で新鮮な、そして、本当に真理を探究し、学問を研究する学問の府としての大学をつくろう。”という意図を表明している。かくして、1897(明治30)年に京都帝国大学が創立され、最初に理工科大学が設置され、三高の土地・建物すべてを引きついだ。そして、三高は京大の南に京都府が寄附した敷地に学舎を新築し移転した。時を同じくして、京都府立尋常中学校(後の府立第一中学校)も、吉田の三高の南に新築された校舎に移転して来た。
こうして1897(明治30)年の秋には、吉田山麓に京大・三高・一中が隣接して並んで開学した。まさに、文教クラスターの創生であった。
1902(明治35)年に、京都高等工芸学校が、京都大学の西側に接して、京都市が購入して寄附した土地に設立されて、開校式を挙行した。また、1880(明治13)年に京都府画学校として創立されて以来の伝統ある京都市立美術工芸学校が、高等工芸の西に土地を購入して、創学以来初めて独自の学舎を新築し、1907(明治40)年に移転して来た。そして、1909(明治42)年には、同所に京都市立絵画専門学校も創立した。吉田神社の参道を中軸にして、文化首都・京都の新時代を象徴する最高の学問・芸術・文教の一大クラスターが成熟し、その自由で知的な雰囲気は、やがて、京都学派と呼ばれるような独自の成果を、すべての分野で創成したのである。
都市の近代化と文化の伝統と創造
それは、発展的解消というには、余りにも呆気ない消滅であった。19世紀から20世紀への時代の転換は吉田山麓を直撃した。大正のはじめ頃の思い出に、”京大と高等工芸の間は狭い道で、その上を樹がうっそうと繁って、昼でも薄暗い所であった”と書かれている。この狭い道が、1921(大正10)年からの都市計画による道路新設拡張事業で、東大路といういわゆる外郭幹線道路になり急激に拡幅されることになった。鴨川の東、洛外の吉田山麓まで、平安京の盆地の底面の洛中の東西南北の碁盤の目の道路配置を無理矢理拡張したのである。
無意味というより愚かなこの計画の推進は、20世紀の近代化という画一化の特長とも言えよう。何れにしても、それは贖うことのできない京都の近代文化ゾーンの形成の端緒を壊滅させることになった。1926(大正15)年に、美術工芸学校と絵画専門学校は今熊野へ、1929(昭和4)年に、京都一中は下鴨へ、そして、同年、京都高等工芸も松ヶ崎へと、それぞれの新天地へ散り散りに別れて行った。
ここに、百年前の昔の吉田山麓のことを述べたのは、そのような困難な時代にも、いや、困難な時代にこそ、新しい時代を拓く教育が何よりも大切であり、それは、決して短期の競争や勝負の問題ではなく、百年の計によることを強調するために外ならない。500年前のイタリアのトスカーナの丘にも、また、100年前の京都の吉田山麓にも、新しい時代を拓こうという、空虚でない「自由」の気が満ちていた。
来年の4月から、我らの洛北高校は中学校を併設して、中高一貫校として、新しい歴史を刻むことになった。京一中・洛北高校同窓会は、この勇気ある門出を祝福し、大きな期待をもって見守っている。
参考資料
「京都府百年の年表 五 教育編」 京都府立総合資料館編 1970 京都府
「京都府百年の資料 五 教育編」 京都府立総合資料館編 1972 京都府
「京都府教育史 上」 1940 京都府教育会
「大阪舎密局の史的展開 京都大学の源流」 藤田英夫著 1995 思文閣出版
「今立吐酔の教育思想」 川村覚昭
「京都産業大学日本文化研究所紀要」 第6号 2000
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以上が西島先生の寄稿文です。維新政府は、廃藩置県で城郭文化財を取り壊したり、廃仏毀釈で仏教文化財を破壊するなどの愚挙を犯したと私には思えるので、あまり良い感じは持っていませんでしたが、教育についても賢くなかったようで、さもありなんという感じが一層強くなりました。
しかし、京都においてはあの時期に北垣知事と今立吐酔がいなければ、一中、三高、京大が京都の地に生まれていなかったかも知れないという事情には驚きます。逆に大阪の立場から見ると、せっかく高等中学校が出来ていたのに何故京都に移すことに頑強に反対しなかったのかという疑問がありますね。さらに政府レベルでは森有礼があの若さで日本の教育の根幹を決めていったということにも驚かされます。やはり何時の世の中でも人材が居るか居ないかが、その国の進路を決定付けるということが如実に現れていると思います。
ただせっかく形成された京都の吉田山麓文教クラスターが、近代化の波に壊滅したとは、当時を知らないだけに何故だろうという思いを禁じ得ません。物心ついて京都に来た1946(昭和21)年には、今の洛北高校前は「一中前」という市電の停留所でしたから、一中はここにあったのだとばかり思っていました。
このことについてもう少し調べた結果、100年前の京都地図が見つかったので、この後のウェブログ「紅萌ゆる丘の花-100年前の吉田山-」で触れました。
近代化による人口増加と環境保全の問題は、何時の世も両立が難しいのでしょうが、その時の市長の考え方が永久に残るという、まさに百年の計が要るわけですね。逆に百年の計が出来たとしても、次の市長が守らなければ(ということは市民がその気になっていなければ)、10年で終わってしまうという見本かもしれません。
上記の中に、番組小学校という言葉が出ていますが、どんな学校なのだろうと疑問を持っていましたら、丁度2004年1月13日付日本経済新聞夕刊の「あすへの話題」のコラムに、経済学者の猪木武徳先生が、京都の番組小学校と、やはり明治初期における京都の教育環境に触れられていましたので、これも抜粋しました。幕末から明治初期にかけて、やはり京都は教育最前線、先進地だったことが良く分かります。京都市学校歴史博物館にはそのうち行って見たいと思っています。
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明日への話題 番組小学校 経済学者 猪木武徳
京都の御幸町通を四条からさらに南に行くと、仏光寺と高辻の間に京都市学校歴史博物館がある。近くをとおりかかったついでにふと中へ入ってみた。資料や美術工芸品を観たあと、ボランティアと思しき係の夫人に案内され、所蔵品のあらましの説明をうけて驚いた。
富岡鉄斎、竹内栖鳳、上村松園、西村五雲などの画、西郷隆盛、伊藤博文、東郷平八郎、清浦奎吾、若槻礼次郎らの墨書がある。昔の小学校はなかなか豊かな文化財を所有していたものだ。その多くは卒業生が母校へ寄贈したものだという。次世代の子どもに願いを託すという気持ちが強かったのだろう。
京都では、明治5年(1872年)の「学制」公布以前に、日本で最初の学区制の小学校が誕生している。「番組小学校」と呼ばれ、明治2年に64校が開校した。番組小学校は単に教育の場所だけではなく、区役所、警察署、消防署、保健所などの役割も果たす自治機能を持っていた。その多くは寺子屋から小学校へと転身したものだ。
明治5年に福沢諭吉は京都へ行き、府下の小・中学校を視察している。教員と生徒の数、カリキュラム、履修要領、給与と予算などの調査が目的であった。その結果をまとめた「京都学校の記」を、次のような感動の言葉で結んでいる。
「民間に学校を設けて人民を教育せんとするは、余輩、積年の宿志なりしに、今、京都に来たり、はじめてその実際を見るを得たるは、その悦、あたかも故郷に帰りて知己朋友に逢うが如し」。民間の活力と知徳の向上を信じた福沢らしい言葉だ。
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