伊能忠敬と間宮林蔵
やはり千葉県姉ヶ崎に住んでいた時の話題である。全県千葉という地図帳を開けると、目ぼしい施設が茨城県も含め赤字で記入してある。その中で伊能忠敬記念館(千葉県佐原市)と間宮林蔵記念館(茨城県伊奈町)に目が留った。2人ともまだ科学知識の乏しかった江戸時代に、地理学者・測量家として活躍し、大日本沿海輿地全図の作成に貢献したことは知っていたので、是非行ってみたいと思った。
特に伊能忠敬は商人として大成功したのに、50歳で隠居して好きな天文地理を勉強し、日本地図作成の大業を成し遂げた、いわばリタイア組の鑑みたいな人である。2002年9月14日に佐原の伊能忠敬記念館、10月13日に伊奈町の間宮林蔵記念館と相次いで訪れた。佐原には2003年3月15日にも町並みの写真を撮りに寄った。
<佐原の町並み>
伊能忠敬記念館のある佐原までは、姉ヶ崎からは国道51号線をただただ真っ直ぐ行けば佐倉、成田を通って2時間くらいで十分行ける。佐原から少し行くと利根川を渡って鹿嶋アントラーズの本拠鹿嶋に行くが、利根川の手前である。
佐原の街に入り、伊能忠敬記念館を探し当てたところ、まず周囲の環境に驚いた。丁度、京都祇園の白川とか、木屋町の高瀬川を彷彿させる、小野川という川沿いに古い町並みがきれいに保存してあり、重要伝統的建造物保存地区になっているのである。またその付近には江戸時代から続いていると思われる店構えの商店や、赤レンガ作りの三菱館が現在も営業を続けている。
伊能忠敬旧宅がこの川沿いに保存されており、以前はこの奥の建物が記念館であったが手狭になったため、現在の記念館は川を隔てた反対側に建てられている。個人的には新しい記念館より旧宅の奥の方が雰囲気があって良いと感じたが、これは仕方があるまい。
<伊能忠敬記念館>
中はもちろん伊能忠敬の世紀の偉業、大日本沿海輿地全図の作成の基礎となった伊能図の展示が主体である。伊能家の商売を発展させた50歳までの佐原時代コーナー、江戸へ出て勉強を始め55歳から71歳まで10回に及ぶ全国測量行脚の時代コーナー、伊能図の完成コーナー、地図の世界コーナーに分かれている。
伊能忠敬は1745年に現在の九十九里町で生まれ、17歳の時に佐原の伊能家に入った。1794年に隠居が認められ翌年から江戸へ移った。大阪の天文暦学者、麻田剛立の塾から江戸幕府天文方になった19歳年下の高橋至時に弟子入りし、西洋暦学を学び天体観測や測量学に通じた。
転機は1800年の奥州・蝦夷地測量であった。私費も投じて半年の測量を行い地図を作成して幕府に贈呈した。この地図の完成度の高さに幕府が驚き、全国測量を命じられた。1801年に第2次(関東・奥州)、1802年に第3次(出羽・越後)、1803年に第4次(東海・北陸)と測量を行ったが、恩師の高橋至時が39歳で早逝した。
その後伊能忠敬は正式の幕吏として登用され、1805~6年に第5次(近畿・中国)、1808~9年に第6次(四国・大和)、1809~11年に第7次(九州)、1811~14年に第8次(九州・中国・中部)と測量を行った。1815年の第9次(伊豆)には不参加だったが、1816年の第10次(江戸)で測量行脚が終わり、地図を幕府に上程したのが最後の仕事で、1818年に73歳で江戸で没した。遺言で高橋至時の墓の隣に葬られたとのこと。
伊能忠敬記念館 伊能忠敬と高橋至時の墓(浅草源空寺)
(さわらWebサイトより)
その後、2007年3月に浅草源空寺の伊能忠敬の墓所を訪れ、このウェブログの「伊能忠敬の墓所-浅草源空寺」で触れた。
<間宮林蔵記念館>
間宮林蔵記念館のある伊奈町には、姉ヶ崎からだと国道16号線を柏まで行き、ここで国道6号線に入って我孫子、取手を経て藤代町から伊奈町へ入ると、やはり2時間ほどで行ける。記念館のある上平柳地区は本当にのどかな田園地帯で、まさに江戸時代の農村に来たかという雰囲気で実に良い。林蔵の生家が移築され記念館に隣接している。近くの専称寺には林蔵のお墓があった。
間宮林蔵と伊能忠敬の接点は、1800年の第1次測量で伊能忠敬が蝦夷地へ行った時の函館である。司馬遼太郎の「菜の花の沖」第5巻には、「林蔵」という章があり、林蔵は函館で伊能忠敬に会い、伊能式の測量術の手ほどきをうけていた、とある。
間宮林蔵記念館で貰ったパンフレットの年譜には、1800年に函館で伊能忠敬と師弟の約を結ぶ、と記載されている。また、1811年の秋に伊能忠敬から緯度測定法を学ぶ、とあり、1818年には伊能忠敬の死に会する、ともあるから、2人の交友は師弟としてずっと続いていたのだろう。
間宮林蔵は現在の伊奈町に生まれ、1799年に初めて蝦夷地に渡り、1806年にはエトロフ島に渡っている。1808年からカラフト探検を命ぜられ、1809年に間宮海峡を発見した。土地の首長と清国にまで渡って、帰国後「東韃地方紀行」を幕府に提出する。1812年には松前の獄舎に捕えられたゴローニンと会っている。ゴローニンはその著「日本幽囚記」で林蔵のことを書いている。
間宮林蔵の樺太探検コース
(間宮林蔵の世界へようこそウェブサイトから)
1819年から蝦夷地内部の測量に従事し1822年に終えている。伊能忠敬の世紀の偉業、「大日本沿海輿地全図」の北海道の大半や樺太部分は、間宮林蔵の測量に負っている。1826年には江戸でシーボルトと会い、その後シーボルトから荷物を送られたが勘定奉行に差し出したため、1828年にシーボルト事件が発覚する。
この事件では、伊能忠敬の死後に「大日本沿海輿地全図」の製作を指導して完成させた幕府天文方で、忠敬の恩師高橋至時の嫡子、高橋景保が国禁を犯したとして投獄され獄死したので、おそらく間宮林蔵にとっても思わぬ展開になったのではなかろうか。何故、高橋景保が伊能図をシーボルトに渡したのかについては当方に知識がない。ただ1832年にシーボルトがドイツで発刊した著書「日本」の中で、伊能図や間宮海峡の名前を世界に紹介したので、日本人の優れた技術が世界に知られる端緒となった。
間宮林蔵は、その後も隠密として幕府に貢献し、密貿易の摘発などしたらしいが、1844年に江戸で65歳で死去した。林蔵はシーボルト事件の密告者として不遇であったとされた時代もあったらしいが、そうではなく長年に渡る蝦夷地探検の実績や、その行動力と探検精神を幕府が認めていた、と間宮家縁者のご子孫がホームページを開いて、林蔵の足跡を紹介されている。
<大日本沿海輿地全図>
大日本沿海輿地全図は伊能忠敬の没後3年にして1821年に完成した。日本では東京国立博物館に明治期の模写図がある。残念ながら、幕府に上程された正本や伊能家旧蔵の副本は、皇居火災や関東大震災で焼失したため、現代に残るものはこのような転写図らしい。仏や米など海外でも見つかっているが、幕末に持ち出されたとか、旧日本軍が模写したものが渡ったとかしたらしい。
伊能忠敬が作成した地図を見れば見るほど、良くこんな細かい作業を測定器や分析器、あるいは印刷機のまだ発達していない時代にやり遂げたなあ、とただただ感心するのみである。地図という機能を持った作品であることは言うまでもないが、色彩や筆による地名の記入が一見装飾のようにも見え、第一級の芸術作品にも見える。
しかも、まだ測量技術が発達していなかった時代に製作された地図としては、驚くべき正確さであり、航空写真により作成される現代の地図と、さして違わない精度を持っていると言うことも、世紀の偉業と言われる所以であろう。伊能図が、シーボルトを始めペリーやハリスに日本を見下させず、その後の正常な開国に繋げたともいえよう。
伊能図(東京、横浜近辺) 伊能図(橙色)と現代図(緑色)の比較
(伊能忠敬研究会ホームページより) (さわらWebサイトより)
<司馬遼太郎の間宮林蔵観>
前述の「菜の花の沖」には、司馬遼太郎氏描くところの間宮林蔵像が出ている。その部分を抜粋する。いかにも隠密が出来そうな性格のように書かれている。現代の植村直己氏のような極地探検家タイプであったのだろうか。
「かれは、自分一個ですべて完結していた。のち、稀代の地理的探検家として後世に知られるこの男は、測量もでき、政治情勢、風俗、民情を見る眼力もあり、観察した事物を報告しうる文章力と画才をもっていた。
どんな環境でも眠ることができたし、食べ物を自然の中から採集して餓えをしのぐこともできた。また、仲間がいなくてもすこしも淋しくなく、むしろ孤独であるほうが目的を達成するのに都合がいいと思っていたし、人間関係に気くばりをしたり、心をわずらわしたりする感覚に欠けていた。」
<伊能忠敬より古い地図があった!>
2004年1月4日付日本経済新聞の美の美面に、「琉球の宝物」という表題で「琉球国之図」が紹介された。リードには「伊能忠敬のものよりも古い精密な地図が沖縄にあった。琉球王室の尚家に長く秘蔵されてきた琉球国之図である。南海の王国として栄えた琉球には、そんな知られざる宝物が眠っている。」と記載されている。
この「琉球国之図」が作られたのは1796年で、伊能忠敬の第一次調査が始まる4年前なので、測量は伊能忠敬の60年前に始まったことになる。そんなに早く忠敬の技術と変わらない高度な測量技術が琉球にはあった。これは、時の宰相、蔡温が中国在勤時に中国に伝わっていた西洋の測量技術を学び、琉球へ持ち帰って独自のものにアレンジしたことによるという。
この図の一部にプルシャンブルー(べろ藍と呼ばれる欧州生れの人工顔料)が用いられている。欧州生れのこの顔料を日本で最初に使ったのは葛飾北斎とされるが、その30年前に琉球では地図に用いられていたということである。
以前NHKの大河ドラマで「琉球の風」が放映され、谷村新司のテーマ曲が良かったことを覚えているが、その裏にこういう事実もあったということは興味深い。
高橋至時は、伊能忠敬が中国暦法に通じているのを知り、いきなり西洋暦法から教えたという。蘭学を通して日本に入ってきた西洋暦法と、中国を経て琉球へ入ってきた西洋暦法が、18世紀末から19世紀初頭にかけて東洋の国、琉球と日本で国図製作に適用されたわけである。
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