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2004.01.12

房総のお城 

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           (お城ガイドホームページから)

この話題も千葉県市原市に住んでいた時の体験がもとである。房総半島にも昔はお城がゴロゴロしていたのであろうが、現在天守閣を載せたお城はたったの4つしかないと聞いて、これは全部回って見ようと思い立った。房総半島内に限れば千葉城、久留里城、大多喜城、館山城の4つである。これらのお城は全て近年になって再建され、当時の遺品などを集めた博物館や資料館を兼ねている。

<千葉城>
JR本千葉駅からさして遠くない中央区亥鼻1丁目にあり、正式には千葉市郷土博物館というらしい。もとは確かに房総の豪族千葉氏の居城で、12世紀に千葉常重が古城を整備して築城し、足利-上杉抗争の影響や内紛の結果、15世紀に千葉氏が本拠を佐倉に移すまで続いた。その後は荒廃状態であったが、1967年に模造天守閣を抱いた郷土館として千葉市が復元整備した。しかし実際の千葉城は中世の館形式の城なので天守閣などあるわけはなく、小田原城と会津若松城を模してコンクリート天守閣を作ったそうである。

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                 千葉市立郷土博物館(千葉城)

お城は立派な天守閣姿であるが、歴史的価値は全くないと分かってがっかり。しかし本丸土塁や出丸、堀切の一部は当時のものが残り、また千葉介常胤が源頼朝を助けたことから、頼朝ゆかりのお茶の水という遺跡も残っている。千葉市民が歴史を偲ぶ場所としての価値はあるのだろうから文句は言えまい。

<久留里城>
房総半島のちょうど中央部(君津市久留里)に位置しているので典型的な山城である。平安末期に平将門の三男が築いたという説もあるが、1540年に上総武田氏が真勝寺(初期久留里城)を創建したのが始まりとされ、これを攻略した安房の里見氏が1553年頃に新しく久留里城を築いた。徳川家康が関東に入った1602年に大須賀氏が配置されて町作りを進め、土屋氏が引き継いだが1680年に土屋氏は改易となり廃城となった。

62年後の1742年に黒田直純が移封されて久留里城を再興し、黒田氏9代目直養の時に明治維新を迎え、1872年の廃藩置県で城は取り壊された。1979年に君津市が観光シンボルとして本丸跡に天守閣を復元し、二の丸跡に久留里城址資料館を建設した。従ってこの天守閣も歴史的価値はあまりないと思われるが、もともと本丸があった場所だし、周囲には曲輪跡や井戸、土塁、掘切の遺構が残っており、雰囲気的には見事に調和していて、一見の価値は十分ある。

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                        久留里城

<久留里城址資料館と爪楊枝>
「ふるさとの歴史と自然をたずねて」をメインテーマに、君津市と上総地方の歴史や文化を紹介してあり、なかなか充実した資料館である。入場料は無料とのことで都会の博物館や資料館に行き慣れている身には不思議な気がした。他の博物館や美術館もそうだったが、千葉県の公共施設は常設展示の場合は殆ど無料である。千葉県立美術館や佐倉市立美術館では、房総の画家の常設展示があり、浅井忠や都鳥英喜が無料で見られるので大変有難かった。しかし最近の千葉県ホームページでは公共施設の有料化を検討中とあるから、財政難がひどいのであろう。

ここで面白い展示を発見した。弊先輩の1人が大学のフェローとなって産学連携事業に携わっておられるが、三角断面爪楊枝の量産機を大阪の楊枝製造会社と共同開発し、新聞紙上を賑わされた。従ってこういう民俗博物館や資料館に来ると、楊枝が気になるのであるが、ここ久留里城址資料館で楊枝の展示を見つけたのである。

ここには、「上総楊枝」と「雨城楊枝」が展示してある。久留里地方の楊枝は雨城楊枝とよばれ、上総楊枝とは区別されている。明治維新で失職した久留里藩の武士達が内職としてせっせと楊枝作りをやったので盛んになったとのことで、ザクと呼ばれる2寸2分の小楊枝と、房楊枝がこの辺で作られていたが昭和に入り衰退したらしい。館内は撮影禁止とのことであったが、知り合いに楊枝の研究家がいるのでと言ったら、職員のお嬢さん立会いの下に撮影させてくれた。

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         上総楊枝                    雨城楊枝

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                   楊枝の材料と製法

雨城楊枝は、この地区の問屋の森家が始めた細工楊枝というのが、森光慶さんという方に引き継がれ、「雨城楊枝」銘の高級楊枝として茶道家に愛用されているとのこと。ただしもう90歳くらいで後継者難だと職員の方が言っていた。

<大多喜城>
房総の中央部の夷隅郡大多喜町にあり、中世は小田喜と呼ばれていたとある。16世紀に武田氏が入城したのが始まりと言われ、その後正木氏の居城となり、1590年の徳川家康の江戸入りで徳川四天王の1人本多忠勝が城主となった。本多忠勝はこの城を大修復し近世城郭の大多喜城とした。

本多氏が1617年に播州龍野に転封となった後、安倍、青山、稲垣氏と引き継がれ、1703年から松平氏がこの地を治め、9代目で明治維新を迎え、1871年に廃藩となった。千葉県は大多喜城の本丸跡に城郭様式の千葉県立総南博物館の建設を企画し、1975年に開館したものが現在の天守閣である。久留里城と同じく天守そのものには歴史的価値はない。しかし土塁跡、水道跡、井戸や薬医門が現存しており、天守閣も周囲の雰囲気と良く調和しているので、ここも一見の価値のあるお城である。

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                 千葉県立総南博物館(大多喜城)

大多喜の城下町を車で通過したとき、街道の両側にかなり古い構えの店が連なって見えた。おそらく江戸時代から続く店が現在も営業しているのだろうと推測し、次回ゆっくり見ようと思っていたが果たせなかった。

<館山城>
内房の南端館山市にあり、付近一帯が城山公園として整備されている。その頂きの台地に三重の天守閣が立っており大変美しい姿であるが、正式には館山市立博物館の分館である。まさにここは館山市が観光用に建てた天守で歴史的価値は全くない。オリジナルの館山城が良く分からないので、築城した里見氏の財力と年代を推し量って犬山城を模したらしい。しかしここからの眺望は抜群で、晴れた日は館山湾越しに大島や富士山が見える。館山市民の憩いの場としては十分目的を達しているのであろう。

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                 館山市立博物館分館(館山城)

館山城は1578年に里見義頼が築城を命じ1590年その子義康の時に完成した。しかし里見氏は徳川家康に良く思われなかったらしく大久保忠隣事件に巻き込まれ、1614年に領地を没収され伯耆国倉吉に配流された。館山藩は廃藩、館山城も廃城となり取り壊された。その後天守は再建されることなく、太平洋戦争時はこの地が高射砲陣地になり、山頂が削られ周辺も破壊されたという不運な歴史を持っている。

倉吉に配流された里見忠義はそこで死去し里見氏は途絶えた。この時に殉死した8人の忠臣の遺骨が密かに館山に持ち帰られ、城山に葬られた。江戸時代に書かれた滝沢馬琴の有名な小説「南総里見八犬伝」はこの8人の忠臣をモデルにしたと言われる。城山にそびえる館山城の中は、実は南総里見八犬伝の資料館になっている。古今東西の南総里見八犬伝の本があり、NHKの人形劇の人形も展示してある。

城山中腹の林間の少し開けた場所に八遺臣の墓がある。里見氏が手塩にかけて築城整備したこの地から追い出されて断絶したということは、当時の感覚では哀れ里見氏、徳川幕府憎しという庶民感情を産んだのではなかろうか。それが滝沢馬琴の小説が大ヒットした背景ではないかと思った。

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                  里見氏の殉死八遺臣の墓

山頂のお城から降りてくると館山市立博物館の本館がある。歴史展示室や民俗展示室があり、原始・古代の安房、対岸の鎌倉との関わり、東京湾の利権をめぐる抗争、安房を支配した戦国大名里見氏の興亡、里見氏滅亡後の江戸時代の人々のくらし、安房地方でよくみられる分棟型の民家、調度品や農具などが展示されている。ここも無料であった。

2002年8月訪問時の収蔵資料展の資料に安房にゆかりの人々が出ており、藤田嗣治画伯のご尊父が安房長尾藩士で藤田画伯の本籍も北条町にあったとある。城山公園を探して行く時に館山市内で北条という交差点を通ったのであの辺りらしい。

<日本のお城>
ということで、房総の天守閣をもつお城は皆自治体が近年に再建したということが分かったので、日本のお城がどうなっているのかを調べてみた。司馬遼太郎氏が一旦執筆に入られると、神田の古本屋からその主題に関する本が消えてしまうということであったが、我々のレベルはウェブサイトという武器で十分であり、古本屋には迷惑をかけなくてもすむ有難い時代にいる。

お城の愛好家は多いらしく関係するホームページは多かったが、要約すると「城」の定義は、砦から天守閣付まで全て含み、記録に残る日本の城は2万5千に達する。江戸時代の末期にはその数は200を切り、そのうち天守閣があった所謂お城は70くらいとのこと。その中で現在も残るお城はたったの12だそうである。当然房総の4つのお城はこの数には含まれない。

<お城の分類>
お城データというウェブサイトがあり、それによると天守閣をもつお城は、次のように分類されている。

「現存天守」 お城の建物が廃城時の位置にそのまま残っている。(12)
         弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城
         備中松山城、松江城、丸亀城、伊予松山城、宇和島城、高知城

「復元天守」 建物は廃城時のものではないが材質を含め復元。(2)
         掛川城、首里城(復元正殿というらしい)

「外観復興天守」 建物は廃城時のものではないが元の位置に外観
            のみ復元。(14)
         松前城、会津若松城、小田原城、高島城、名古屋城
         岡崎城、大垣城、福知山城、和歌山城、岡山城
         広島城、福山城、島原城、熊本城

「模擬天守」 元の建物の資料がないため想像で復元したか、元の
         建物の資料を無視して復元。(17)
         横手城、逆井城、大多喜城久留里城、関宿城
         忍城、長岡城、浜松城、清州城、岐阜城、長浜城
         大阪城、岸和田城、岩国城、今治城、小倉城、平戸城

この他「観光用模擬天守閣」があり、これは廃城時には無かったが、それ以降に観光用に作られたものを指し、日本全国で63を数える。千葉城館山城はここに入る。殆どが・・城と名前をつけているが、中には霞ヶ浦郷土資料館(茨城)や茶臼山公園(岡山)という名前もある。

<現代におけるお城の意義>
何れにしろ天守閣をもつお城は日本文化の象徴であり、上のお城を全て合計すると108になる。もちろん遺跡・史跡保存の目的で残されているものもあるが、それだけではなくわざわざ作ったものもある。住民の移動の多い現代において、その土地への帰属意識を高めるとか、歴史認識を深めるという効果を狙って、各自治体が苦労している結果がこのような数字に表れているのであろう。

しかし明治維新後の廃藩置県により、大変多くの今なら文化財というべきお城が取り壊されたということは考えさせられる。明治政府はもう一つ排(廃)仏毀釈という暴挙を行い、多くの仏教文化財を壊してしまった。明治維新は素晴らしい事業であったという歴史家は多いが、こと日本の伝統文化を大事にしなかったという点では、司馬遼太郎氏が憎む金権屋と同じかもしれないなどと感じた。そういう観点からは、薩長連合軍を相手に江戸城を無血開城した勝海舟などは文化勲章に値するのではないか。

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