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2004.01.08

房総の海

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                館山湾

<市原市界隈>
2002年1月から2003年5月末までの約1年半、千葉県市原市に住んだ。市原市は、房総半島の西側の付け根にあり京葉工業地帯に位置する。神奈川、東京、千葉で囲まれた所謂東京湾ベイエリアに入る。JRには市原という名前の駅はなく、五井と姉ヶ崎が主要駅である。居住した寮は姉ヶ崎駅に近く、窓が東京湾方向に面していて、2月には沈む夕日が部屋からとても美しく見えることに気が付いた。

道路公団改革において、低効率道路のシンボルになっている東京湾アクアラインの千葉県側の起点である木更津も近く、ここには1971年に開設された上総博物館があり、江戸時代の上総地方の代表的民家が保存してある。パンフレットには安西氏は元は源頼朝の家来で土着したとある。

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    沈む夕日(市原市今津寮)      旧安西家住宅(木更津上総博物館隣接)

<房総半島>
房総半島は西は東京湾に面して内房と呼ばれ、南と東は太平洋に面していてそれぞれ南房、外房と呼ばれる。千葉県をあまり知らない頃は、JRの外房線と内房線の意味を誤解し、内陸を通るほうが内房線で、海岸線を通るほうが外房線と思っていたが大間違いであった。内房線は富津、館山、千倉、鴨川、天津小湊などの美しい海岸線を通って勝浦に達する。外房線は内陸の大綱、茂原を通って大原から海岸線に入り御宿を経て勝浦に達する。従って外房線の海岸沿いの距離は少ないように思うが、外房線と内房線の境界がどこなのかは明確には知らない。

房総の地名は、安房国の「房」と上総、下総国の「総」の組み合わせから来ている。また司馬遼太郎氏にご登場願うと、「街道をゆく 第42巻 三浦半島記」に房総の海という章がある。1180年に源頼朝が蜂起したが石橋山で敗れ、一旦退いた地が安房国であった。ここの水軍勢力安西(安房西を縮めた名とある)氏が味方をし、次いで千葉常胤、上総介平広常の大勢力を得て鎌倉に戻った。つまり三浦半島と房総半島は同一圏であり、これに伊豆半島を加えた3つの半島が関連し合って、日本史において画期的な武士の世を形成したと司馬氏は見ておられる。

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<東京湾アクアライン>
姉ヶ崎から内房線と同じように海岸線を東京湾沿いに南西へ車で走って行くと、袖ヶ浦を経て木更津に入る。木更津から東京湾アクアラインに入ると「海ほたる」という中間点までは海上を通り、海ほたるから海底トンネルに入って川崎や羽田に繋がる。海ほたるには海底トンネルを掘った巨大なシールドカッターが展示されていて大工事であったことが偲ばれる。

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     海ほたるから川崎方面を望む     海ほたるから木更津方面を望む

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      海ほたるから京葉工業地帯を望む         シールドカッター

日本道路公団の東京湾アクアラインの公式サイトを見ると、全長たったの15km(トンネル10km、海上橋5km)のアクアライン建設に1兆4千億円を費やしたとある。アクアラインは最近の道路公団改革で非効率の見本のように批判されているので、このサイトでは何故建設費が膨大になったのかを、デンマークとスエーデンを結ぶオーレスンリンクと対比して、事細かに言い訳している。市原市界隈に住んでいると、アクアラインを通るバスのお陰で羽田空港や横浜に短時間で混まずに行けるので、私自身は悪感情は持っていない。

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       東京湾アクアラインとオーレスンリンクの建設費比較

<富津岬>
再び房総半島の海岸線沿いに戻って木更津を通過すると、新日鐵のある君津を通り、富津に入る。鶴の嘴のような形をした富津岬が東京湾に5kmほど突き出していて岬全体が公園になっている。東京湾をはさんで反対側の三浦半島観音崎ととともに、浦賀水道から東京湾への入口を形作っている。

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         富津岬入口                  富津公園

<南房の海>
富津から海岸線を一路南下していくと、鋸南町を経て館山に入る。ここまでが内房と呼ばれる。館山からは一旦西へ向かって州崎灯台を回ると、房総フラワーラインに入って素晴らしい南房の海岸風景の連続となる。ここからは太平洋に面した海岸となるので、館山までの比較的穏やかな海の顔が、急に荒々しい大洋的海の顔に変わる。台風が接近した時期にも訪れたことがあるが、その激変振りは言葉では表現し難い。確かに内房と外房という表現は的を得ているように感じられる。

フラワーラインの終点は白浜町で、房総半島の最南端に位置する。野島崎灯台があり見学も出来る。ここから房総半島は東北に向かって海岸線を描き、千倉、和田を過ぎると南房が終わる。和田は捕鯨で有名らしく和歌山県の太地や北海道の網走とともに沿岸捕鯨が許可されているとのこと。行っていないが和田にはクジラ料理店もあるらしい。

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           野島崎灯台(安房白浜)

<外房の海>
房総半島はさらに東北へ海岸線を伸ばし、鴨川、天津小湊、勝浦、御宿、大原に至る。この辺りまでが外房になるらしい。安房鴨川にはシャチやイルカのショーで有名な鴨川シーワールドがあり、休日は家族連れで賑わっている。またフラワーラインから国道の至る所に季節の花が咲かせてあり、房総の人々の気持ちが伝わってくる。鴨川シーワールドの付近も道路の両側の花が大変綺麗である。交通事故率は他の国道と比べ低いのではなかろうか。

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                  鴨川シーワールド海岸

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                     天津小湊海岸

天津小湊は日蓮の生誕の地で生家跡が誕生寺になっている。また日蓮が12歳から修行し、途中比叡山で学んだ後、戻って日蓮と改名した日蓮宗立教の場所である清澄寺が近くの清澄山にある。清澄寺を訪れてそこの学僧さんにいわれや歴史を聞いたら、清澄寺はもともと天台宗の寺で日蓮宗立教の時から日蓮宗になったとのこと。日蓮宗の本山のような寺かと思い日蓮宗ホームページを見たら、総本山は2代目の日興上人が建てた静岡県富士宮市の大石寺とのことである。

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          清澄寺案内板                 仁王門

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           清澄寺本堂              清澄の大杉(樹齢1000年超)

天津小湊には鯛の浦という鯛の群生地があるが、ここの鯛が日蓮の誕生を祝って飛び跳ねたという伝説のお陰で殺生を禁じられたため群生地になったとされる。

鯛の浦を通り過ぎると安房勝浦に至る。勝浦には八幡岬公園があり外房の海の絶景が楽しめる。戦国時代正木氏が八幡岬の勝浦城を居城としていたが、徳川家康に滅ぼされた。しかし正木氏の娘が家康の側室お万の方となり、御三家の始祖、紀州徳川頼宣、水戸頼房を産んだ。八幡岬の西側には、徳川の攻撃の時に後のお万の方が白い布をたらしてここの断崖絶壁を降り脱出したとの説明板がある。また八幡岬からは勝浦灯台がきれいに見える。

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                 安房勝浦湾(八幡岬から)

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             お万の方が布をたらして脱出した断崖


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            勝浦灯台(八幡岬から)

<九十九里>
勝浦を過ぎると海岸線は北北東にカーブして、童謡「月の沙漠」の舞台となった御宿を通って、大原町に至る。大原からは海岸線は北上して上総一宮、長生村、白子町を経て九十九里町に入る。海岸線はここからまた東北にカーブして銚子に至る。

九十九里浜は大変有名であり、2002年の梅雨時に早速訪れたが、亡羊とした海岸はひっそりしており夏の賑わいに備えているようであった。一度海岸線に沿って銚子まで行ってみたいと思いながら、実現しないままに滋賀へ帰ってしまった。

<地名の類似>
房総半島は内陸部を縦断すれば姉ヶ崎から車で1時間半くらいで南房や外房に達するので、美味しい魚を食べに度々訪れたが、白浜や勝浦という地名がいつも気になった。紀伊半島の和歌山県にも白浜や勝浦があり、ここも美しい海岸で有名である。東京に滋賀県や三重県由来の上野や半蔵門の地名があるように、和歌山県由来の地名かと思って少し調べてみた。

Yahooで「白浜」を検索すると、千葉県白浜町と和歌山県白浜町のことが殆どで、あと伊豆白浜や御座白浜などが出てくる。白浜は白い砂の浜から来ているのだろうから、白浜と名づけた所は多いようである。千葉県白浜町の場合は、もともと乙浜村、真間村、滝口村、根本村に分かれており、真間村が白羽真、次いで白浜に改称し、その後4つの村が合併を繰り返して、昭和29年に現在の白浜町が誕生したとあるから、和歌山県とは無関係のようである。

「勝浦/由来」で検索すると、勝浦市が出てきて地名の由来に、天然の良港を意味する「勝れた浦」から来ているとある。「勝浦」という地名は、千葉県の勝浦市の他に、和歌山県の那智勝浦町(もと勝浦町が那智町他と合併)と徳島県の勝浦町がある。別のウェブサイトの「勝浦市」を見ると、「勝」は「潟」、「浦」は「海浜」を意味し、勝浦という地名は、徳島や和歌山などにもあり、黒潮にのってこれらの人々が移住して来たという説もある、と出ていた。

ということで、どうでも良い私の疑問はかなり解消された。なるほど歴史家のどなたかが、日本民族黒潮渡来起源説を唱えておられたと思ったが、あまり知識がないのでこれ以上の考察は出来ない。


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