吉川英治と司馬遼太郎
司馬遼太郎は私が好きな、そして尊敬する作家である。司馬遼ファンのご多分にもれず、若いときから「竜馬がゆく」、「峠」、「国盗り物語」、「項羽と劉邦」、「菜の花の沖」等々の彼の多彩な歴史小説に引き込まれて来た。
晩年になって書かれた「この国のかたち」全6巻や、「街道をゆく」全43巻は、通勤の往復や新幹線の中でゆっくり味わいながら、何年も費やして読破した。こちらも年を重ねてきたお陰で、彼の主張や哲学、特に仏教観に基いた人間愛、太平洋戦争という暴挙の解釈、金権主義による自然破壊への怒り、物事に対する誠実さの大事なこと、等々を感じ取ることが可能になり、一々共鳴した。
2003年10月30日に念願かなって、東大阪の司馬遼太郎記念館を訪れることが出来た。折りしも2003年度文化功労者に輝いた安藤忠雄氏が設計した建物で見事な雰囲気の記念館であった。住宅街のどうということない入口から入場券を買って入ると、司馬遼太郎氏の自宅である。庭を回って記念館のほうに向かう途中に、彼の書斎がありここが彼の仕事場であったことが分かるようになっている。
記念館へ向かう途中この設計思想は、2002年11月に訪れた東京青梅市にある吉川英治記念館と良く似ていることに気がついた。いずれも両氏が執筆活動をした自宅と書斎をまず経由して、その後記念館に向かうというルートになっている。吉川英治は、2003年のNHK大河ドラマが「宮本武蔵」になったため、その原作者として現在の若い世代にも知られるようになったが、司馬遼太郎より、生まれも、活動した時期も、亡くなられた時期も、30年前の先輩作家である。
15年前に他界した弊親父は、吉川英治氏が後半期の代表作「新平家物語」を執筆されたときの編集者を努め、生涯吉川英治氏と仕事をしたことを誇りに思い氏を尊敬していた。1944年~1946年には東京の空襲を避け同じ奥多摩へ疎開していたので、3,4歳の頃の私も吉野村の吉川英治氏宅に父母に背負われて伺ったことがあるらしい。
そんなわけで一度吉川英治記念館と、疎開時代を過ごした奥多摩に行きたいと前から願っていたところ、運良く2002年1月に始めての関東勤務になったので、晩秋の11月に訪れることが出来た。このときの印象が、上記のように司馬遼太郎記念館を訪れた時に思い出されたのである。
そこで両記念館の内容や、両氏の作家活動歴を比較してみることを思い立ち、纏めて見たのが以下の資料である。30年という時代の隔たりはあるが、両氏の活動歴や仏教思想に基いた人間観、文化勲章の受賞、亡くなる直前までの執筆活動、逝去後の記念館建設など、驚くほど良く似ているではないか。司馬遼太郎の30年後に、天はまた吉川英治や彼のような大作家を輩出するのであろうか。楽しみではあるが多分自分はもういない!
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