勝 海舟に褒められた近江商人-塚本定右衛門-
(図はクリックで拡大)
五個荘川並地区のツカモト資料館・聚心庵
<塚本定右衛門と聚心庵(じゅしんあん)>
前編の伊藤忠・丸紅の祖:伊藤忠兵衛に続き、再び近江商人のことである。勝 海舟が近江商人の塚本定次(2代目塚本定右衛門)を褒めた逸話が氷川清話に載っていることを、以前のウェブログ「湖東の近江商人郷土館」で触れた。
「江州の塚本定次という男は実に珍しい人物だ。数万の財産を持っておりながら自分の身に奉ずることは極めて薄く、いつも二子のはおりと同じ着物でいて、ちょっと見たところでは、ただ田舎の文盲なおやじとしか思われない」という印象を述べてから、積立金が思いがけず貯まったから、その使途として一半を学校の資本に寄付し、一半を番頭や手代に分けるという考え方をしたり、貧民はなかなか花見や紅葉狩りに行けないから、持っている土地にサクラやカエデの植林をしたところ、今は村の快楽の場所としての公園になったが、人間はこんな無形な快楽もないといけないので、地代をとるよりこの方がためになると思う、という考え方をした塚本定次に勝 海舟はいたく感心している。
その塚本定右衛門の本宅はてんびんの里と呼ばれる現在の東近江市五個荘川並地区にあったが、後継企業である繊維商社のツカモトコーポレーションが、その本宅を「ツカモト資料館・聚心庵(じゅしんあん)」として今も保存していることを同社のホームページで知った。しかし聚心庵は普段は非公開であり、年に一度、9月に開催される東近江市の「ぶらりまちかど五個荘まちあるき」のイベントの時に公開されているものの、ここ2年間はコロナの影響でイベントも開催されていないとのことであった。てんびんの里には2003年に訪れており以前のウェブサイトで触れたが、この時は知識がなく聚心庵の存在を知らなかった。
そこで東京のツカモトコーポレーション本社総務部に今年の公開の予定を問い合わせてみたところ、聚心庵担当で館長をしておられるT氏から連絡をいただいた。近江商人と繊維企業との関りを追っているという当方の目的を申し上げたところ、明日、聚心庵に行きますから良かったらお出でください、との願ってもないお話をいただいたので、翌2022年1月26日に聚心庵を訪ねることができた。聚心庵は塚本定右衛門の近江商人屋敷を整備したもので、冒頭写真に掲げたようなとても落ち着いたたたずまいである。1992(平成4)年に非営利一般社団法人ツカモト資料館・聚心庵として開館した。
<五個荘川並地区>
大津市の我家から五個荘までは国道8号線で40分ほどであるが、約束の時間前に着いたので「東近江市 ぷらざ三方よし」という観光案内所に車をとめ、川並地区を散策してみた。ぷらざ三方よしで貰った地図で見ると、以前訪れた外村邸などがある金堂地区から「あきんど通り」という道を真っ直ぐくれば、川並地区に入れることがわかった。川並地区に入る手前に塚本という交差点があるので、塚本家ゆかりの名前かなと想像する。繊維会社のツカキグループ創業者塚本喜左衛門や、ワコールの創業者塚本幸一もこの地区の出身者である。川並地区に入って集落の中に入ると、目につくのは板塀に挟まれた美しい小道である。今にもてんびん棒を担いだ近江商人が出てきそうな雰囲気である。
今にもてんびん棒を担いだ近江商人が現れそうな川並地区の板塀小路
車の通る表通りに面して広い駐車場がある「近江商人屋敷 八年庵」と書いた看板がある大きな屋敷があったので、裏へ回ってみると狭い小道になっているが、正式な入口と思われる「八年菴」の表札のある門と玄関があり、なるほど車の通る道は後から出来たのであって、昔はこの小道が表通りだったのだと思い当たった。後に述べるように、この八年庵も塚本家に関係する近江商人屋敷であった。付近には表通りを挟んで見事な松と土塀に囲まれた大きなお屋敷もあり、豪商の邸が並んでいた時代を彷彿とさせる。
近江商人屋敷 八年庵 裏通りに八年庵の門 松と土塀の見事なコンビネーション
初代の塚本定右衛門や、勝 海舟が褒めたという塚本定次(2代塚本定右衛門)はどのような近江商人であったのだろうか、などと考えているうちに約束の時間が来たので聚心庵に伺い館長のT氏にお会いした。館長から塚本家に関する詳細なお話を伺い、屋敷の中も見学させていただき、また館長自身が手作りされた聚心庵の解説書や、勝 海舟と福沢諭吉の書簡集、さらに館長が地元の文化研究会の機関誌「蒲生野」に寄稿された「福澤諭吉と塚本定次」と「クラークを師と仰ぎ北大の父といわれた佐藤昌介と近江商人塚本一族」の別刷りなど、大変貴重な資料類も拝読することができたので、塚本家や塚本定次の人物像がずいぶんと明らかになった。
<甲府を拠点に紅花で創業>
聚心庵の解説書の中に、京都新聞社文化報道部の記者が聚心庵を取材して書いた「京近江の豪商列伝 24 塚本定右衛門」という2002年11月4日付の京都新聞記事が挟んであった。この記事によると、江戸時代の紅花(べにはな)は染料や化粧品の原料として藍や麻と並んで重要な商品作物であったが、初代定右衛門(久蔵)はこの紅花で飛躍した近江商人であったと記してある。久蔵は19歳で京都で流行していた紅花から作った「小町紅(こまちべに)」と郷里の麻織物を商品として行商の旅に出、最もよく売れた甲府を拠点とし、紅花産業の中心であった山形に足を延ばし、最上地方で栽培された紅花を京都に運んで染料や化粧品に加工させ、1812(文化9)年に紅花を中心とした小間物問屋「紅屋久蔵」を甲府で開業した。その後呉服や荒物で事業を拡大し1839(天保10)年には京都店を構えて、関東や東北での商いで信用を増したという。
初代の没後、長男の定次が2代塚本定右衛門を継ぎ、それまでの特定顧客向け商売から「薄利多商」に方針転換してさらなる事業拡大に乗り出した。禁門の変で京都店が焼け落ちたが復興に務め、1872(明治5)年には東京日本橋伊勢町に出店して当初は為替業務や金融業務も行ったという。その間定次が定めた「塚本申合書」には、「在所においては耕作を心がけ、御年貢は粗略なきよう上納いたし・・」とあって、近江五個荘の在所における農耕作業を怠りなく遂行するよう強調しているとのことで、半農半商だったと伝わる塚本家の特色を表している内容になっているという。
<勝 海舟と福沢諭吉の両者と親交を結ぶ>
同記事には2代定右衛門の定次は学問の世界にも明るく、勝 海舟や福沢諭吉とも交流があったとある。しかし勝 海舟と福沢諭吉は相性が良くなかったことは知られているのに、なぜ定次は両者と親交が結べたのだろうという疑問がわく。福沢諭吉は「痩せ我慢の説」で、敵に対して徹底的に抵抗するという「士風の美」の精神を無視して、江戸城を無血開城した海舟の講和策を非難し、維新後は敵であった明治政府に仕えて名利をむさぼっていると弾劾した。一方海舟は「批評は人の自由。行蔵は我に存す」と軽くいなして、氷川清話では「福沢は学者だからね。おれなどの通る道と道が違うよ」と言い、徳川幕府しか見ない福沢と、百年先の日本を心配して講和を実践した自分とでは考え方が違うとの意識であった。二人の確執は以前のウェブログ「福沢諭吉と痩せ我慢の説」で触れた。
そのような仲の海舟と諭吉の双方が、なぜ一介の近江商人の定次と親交を持ったのだろうか。記事にはさらに、海舟は定次が滋賀県の学校建設や植林に多額の私財を投じたことを聞いて褒め、定次が古希の時に「家富といえども謙素を守り世の浮華に流れず、さりとて昔になづみ、かたくなならず」などの頌徳(しょうとく:徳を称える)文を寄せる仲だったとあり、一方福沢諭吉の場合は、著作「西洋事情」に感じ入った定次は諭吉とも交流を持つことができ、塚本家家法の前文は諭吉のものである、と出ている。実際、聚心庵館長の手作りの解説書には、定次の記した塚本家心得と、塚本家家法三条を記してこれを贈るという前文のある福沢諭吉の書簡、および塚本家家憲への海舟の思いを書いた書簡が載っており、館長が訳された文も添えられている。
海舟と定次の交流については、氷川清話や海舟日記の記載から知る人は多いかもしれない。しかし諭吉と定次の交流については、この聚心庵所蔵の資料が世に出るまでは専門家にも知られていなかったようである。館長が「蒲生野」第51号(2019)に寄稿された「福澤諭吉と塚本定次」を拝読すると、塚本屋敷で「雪池翁福澤先生書簡」という巻物に出会い、定次と諭吉の交流を示す多くの書簡があったことから日本経済新聞の文化欄に掲載されたところ、多くの問い合わせを受けたという。その中に慶應義塾福澤研究センターからの問い合わせもあり、調査にも来られたとのことである。それまで福澤研究センターでは塚本定次は人物不詳とされていて、館長が掲載された日本経済新聞文化欄の記事には大変驚かれたらしい。
<塚本定次:転換期の近江商人(慶応義塾論文)>
このことがきっかけになって福澤研究センターでも調査を進められ、関連資料がいろいろ出てきて論文にまとめられたと館長から伺ったので、帰宅後ネットで検索してみたところ、慶應義塾大学学術情報リポジトリの近代日本研究第12巻(1995)に掲載された「塚本定次:転換期の近江商人」という論文がヒットした。著者は当時の福澤研究センター所長の西川俊作教授と研究嘱託の山根秋乃氏である。100ページに及ぶ論文で、1.紅屋三翁-塚本前史、2.定次の福澤・勝との交遊、3.塚本家家法と家憲、4.晩年の定次と塚本家訓と章立てされ、幕末から明治末まで八十年間の移行期を生きた一人の近江商人の経営者精神のたゆたいを、福澤・勝との交遊を通じて明らかにしようとするものであるとの前書きがある。論文はダウンロードできるので、通読すると江戸から明治にかけての定次の人生や塚本家のことが非常によくわかる。
<福澤諭吉との出会い>
定次は学問の世界にも明るくとあったので、幼少から教育を受けたのかと思ったが、論文によると、塚本家の古記録「志のぶ草」には、父の久蔵が「自分が幼少の頃はロクに手習いをせず、成長の後誤字を書いて一代不自由しましたから、倅には少し読み書きをさせたく思いますが、床懸け(とこがけ)の軸や屏風襖の書をスラスラとよむ程度迄とは望みません。学才があまりありて実業に疎ければ失敗します。利発にして破産する人も世間には多くあります」と記録してあるので、定次・正之兄弟を寺子屋で学ばせはしたがそれ以上の学問はさせていないとしている。しかし定次は18歳で貝原益軒の「養生訓」を読んでいたこともわかるので、後年諭吉の「西洋事情」を読む力は十分備えていたと見て良いそうである。多忙な実業の傍らでしっかり自分を磨いたと思われる。
聚心庵所蔵の「雪池翁福澤先生書簡」前文から、定次が諭吉に初めて謁したのは明治十年(定次52歳、諭吉44歳の時)であったことがわかるそうだが、定次の甥源三郎が綴った「紅屋三翁」(注:初代久蔵、2代定次、弟正之の3名の賛仰録)の年譜に、明治元年に定次が「西洋事情」を読んだと記載されているという。従って定次は10年経ってから憧れの諭吉先生に晴れて会えたということになるが、その間の経緯が上記の論文や館長の「蒲生野」への寄稿からわかる。それによると、同じ五個荘の近江商人小杉元蔵(甚右衛門)と、江戸日本橋の呉服問屋「堀越」(屋号「丸文」:現丸文株式会社)の堀越角次郎父子が、定次と諭吉を結びつけたということらしい。
小杉元蔵は、小杉産業(現株式会社コスギ)の礎を築いた小杉五郎左衛門の縁者と思われるが、商いの仕入のため「堀越」に出入りしていたという。諭吉はこの堀越角次郎父子と昵懇でしばしば「堀越」を訪れていたらしい。元蔵は根っからの本好きであり、「見聞日乗」という日記もつけていたが、その日記に、明治元年に「堀越」で諭吉からじかに「西洋事情」の話を聞き、直後に角次郎から「西洋事情」を借りて日記に抜き書きしたと、記してあるという。従って時期はわからないが、定次は同郷の近江商人の元蔵から、諭吉と堀越角次郎の昵懇の間柄を聞いて、それなら堀越を通じて諭吉先生に面会させて貰えないかと元蔵に頼んだのであろうと推定でき、実ったのが明治十年ということらしい。それ以降諭吉は定次と昵懇になり、諭吉の終焉迄の書簡のやり取りが聚心庵の巻物に納められている。
<勝 海舟との出会い>
上記の論文には定次と海舟の出会いについても考察してある。海舟日記から定次が最初に海舟邸を訪問したのは、明治21年であったことがわかる。その日の日記には「岡本黄石、江州神崎郡川並村某二人、同道」とあるので定次の名前と他の一人の名前は出ていないが一人は定次だったと見て良いとしている。その後明治25年までの間、塚本定次、江州塚本、塚本定次夫婦、塚本定次・岡本夫婦同伴、八百松へ行く、などの記載が10回以上あるので、定次と海舟はよほど親密な交流を行ったと思われる。それ以降は書簡のやり取りになっているので定次も老境に入ったということであろう。ちなみに八百松とは海舟馴染みの料亭の名と思われるが、「海舟語録」に出ている、海舟が維新後天璋院篤姫を社会勉強のため案内した八百善のことかなと思った。以前のウェブログ「天璋院篤姫雑感」で触れた。
岡本黄石は、井伊大老が桜田門外の変で殺された時の彦根藩家老であったが、海舟は氷川清話で黄石を褒めている。「あの時、血気にはやる井伊藩士がすぐに水戸邸へ暴れ込もうとする騒ぎをおさめ、事を穏便に済ませたので若い人の間ではずいぶん評判が悪かったが、黄石が思慮のない男で一時の感情から壮士どもの尻押しでもしたなら、それこそ幕府が倒れ日本国全体の安危に関わったので、その処置には感心したよ。その後あの男に会った時に、国家の大事を思って一身の毀誉を顧みず至極穏当な処置をしたのは感心だといって褒めてやった」という内容で、以後黄石は己をよく知る人士として勝邸訪問の常連になったという。定次が黄石と近づきになった経緯はわからないが、東京進出後滋賀県人の誼(よしみ)で知り合ったのであろうと論文では推定している。
また論文では、海舟日記に塚本夫婦、岡本夫婦と「夫婦」が記載されていることに注目している。男尊女卑の風潮が一般的であったこの時代に、黄石や定次が夫婦同道で勝邸を訪問しているのはなぜだろうと。海舟は氷川清話で「静岡で多くの家の始末をつける時に、おれは亭主一人ではだめといって、いつも細君と二人を召し寄せた。世間の奴は勝は女好きなどと笑ったが、しかし細君の前で家の仕舞い方を話しておかないとうまく行かないのだ。そこになると女というものは実に守りの固いものだからね」と話しているので、物事をスムースに進めるには妻の教育と理解が欠かせないという考えだったらしく、妻女同伴の訪問客を歓迎したらしいとしている。定次の場合は、妻に海舟版「新・女大学」を聞かせようとしたのか、長年苦労をかけた妻への思いやりのどちらかだろうと推察している。
<塚本家の治山・治水の史跡図>
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海舟が定次を褒めている大きな理由は、塚本家の公益心にもとづく社会奉仕の精神である。氷川清話でも「この男(定次)と弟正之は山林熱心家で、わが県下の山林のためにといって、二万円ばかりを県庁に預けているそうだ。あれが言うには、『この二万円がなくなる時分には山林も大分繁殖して参りましょう。だが私はとてもそれを見ることはできますまい。・・その辺は少しも構いません。私は今から五十年先の仕事をしておくつもりです』と言った。なかなか大きな考えではないか。かような人が、今日の世の中に幾人あろうか。日本人も今少し公共心というものを養成しなければ、東洋の英国などと気どっていたところで、その実はなかなかみることはできまいよ」と感心している。
聚心庵の解説書には館長が作成された「塚本家が行った治山・治水事業の史跡図」が挟み込んである。塚本家が寄付をした植林地や、砂防工事・堤防工事を実施した地域、さらには水害の復興資金を出した地域が出ているが、本拠である滋賀県はもとより、兵庫県、岐阜県、山梨県にまで及んでいることがわかる。本拠地の滋賀県では、地元湖東地域の愛知川・犬上川の砂防工事や堤防工事、五個荘町・永源寺町や衣笠山・観音寺山の植林を行い、さらに湖北地域の小谷村や姉川の水害の復興支援、浅井町七尾村の植林や砂防工事、湖南地域の栗東町葉山村の砂防工事も行っている。滋賀県において塚本家が申し出て治水治山に毎年献金した額は、明治から大正にかけて16万円余り(現在価値を当時の1,000倍程度としても1.6億円!)になるという。
山梨県甲府は紅屋の創業地でもあるので、明治40年の水害時に甲府市内の道路改修を行っている。また海舟が氷川清話で褒めた逸話の植林は山梨県で行われたが、当時の1万円を拠出し、その徳によって塚本山と名付けられている。さらに山梨県では笛吹川の水害時にも支援している。岐阜の美濃や兵庫の須磨明石でも水害時に砂防復興資金や水害義捐金を出している。このような大きな社会貢献は先立つものがないと出来ないわけであるが、日本経済新聞の相場師列伝には2代目塚本定右衛門が出ており、幕末から明治の乱世、特に安政の大地震後に他の近江商人が江戸から撤退する中、逆に物資不足の江戸に進出して巨利を得たこと、維新後一般には信用されなかった新政府発行の紙幣を買い占めておき、新政府の平価切下げ断行によって一挙に利益を上げたこと、などが紹介されている。
<塚本さと・源三郎と八年庵>
川並地区には上記に掲げたように、聚心庵の近くに、八年庵という近江商人屋敷がある。聚心庵の解説書や上記の論文には近江商人の妻の多忙な毎日の生活や、人事管理や店員教育に重要な役割を果たしていたことについて触れてあり、女性の地位が低かった時代にあっても、近江商人の家庭ではむしろ家長の代理、パートナーとして位置づけられていたとし、塚本家の優れた女性を紹介している。その典型が定次の妹塚本さとであり、その本宅が八年庵として残っている。五個荘では2月~3月に「商家に伝わるひな人形めぐり」というイベントが開かれ、八年庵も公開されると知ったので、2022年2月12日に再び川並地区を訪れた。
初代定右衛門(久蔵)には8人の子供がいて、長男の2代定右衛門(定次)、次男の定之、五女のさとの三人が塚本家の発展に活躍したという。塚本さとは幼少時は寺子屋で読書、習字、算術を学び、家庭においては裁縫、生け花、茶道など女子手芸一般の修行を積んで、番頭の原三を養子に迎え入れた。この屋敷で豪商塚本家の経理主任として経理の全てを兄たちから任され、塚本家の年間二千五百万円余りの巨額を切り回していたと記録されているそうである。五個荘はもともと商人の教育に熱心な町だったようで、寺子屋の就学率でも他の地域に比べて女性の就学率が高く、算術の授業も7割の寺子屋で行っていたらしい。
このような環境からさとは自分の子女、さらには一族の子供たちの教育に非常に熱心で、京都から儒者を招くなど教育に意を払ったという。隠居の身になった77歳の時に私財を投じて「淡海(たんかい)女子実務学校」を創設した。東京で実践女学校を創立した下田歌子が、さとの和歌の師であったことから感化を受けたと思われるが、近江商人の娘、妻、母としての自分の体験からも商家における女子教育の必要性を感じていたためという。現在も淡海書道文化専門学校として竜田地区で継承されている。この学校の当初の校名を命名したのは、近江膳所藩出身の著名な教育者、杉浦重剛であったと記録されているとのこと。杉浦重剛については以前のウェブログ「杉浦重剛誕生の地-大津市膳所-」で触れた。
原三とさとの次男が塚本源三郎となってこの屋敷の主となるが、母さとの幅広い文人との交友に感化されて和歌や書画に興味をもち、書家としても著名になったらしい。柿が好物であったことと、辛抱強さを人生のモットーとし「桃栗三年、柿八年」の諺から、雅号を「八年」としたので、この屋敷も「八年庵」と名付けられたという。母さとと共に多くの文化人と交流をもったので「八年庵」には、太田垣連月、富岡鉄斎、中林梧竹、巌谷一六、山岡鉄舟、伊庭貞剛、徳富蘇峰、大山巌、鈴木大拙、野村文挙、山元春挙らの著名な文人墨客が訪れたという。これら文人墨客の手になる書画や作品が八年庵に多数残されており、今回展示されていたのでじっくり拝観することができた。
<北大の父といわれた佐藤昌介との交流>
館長が「蒲生野」第53号(2021)に寄稿された「クラークを師と仰ぎ北大の父といわれた佐藤昌介と近江商人塚本一族」を拝読して、北海道における定次や源三郎の交流も知った。定次は京都府第三代知事の北垣国道と親交があったが、北垣が北海道庁長官になったころ、北のウォール街といわれた小樽に小樽塚本商店を設立した。また北垣は、Boys be ambitious!の言葉を残したクラーク博士が設立した札幌農学校での講演で、北海道庁長官として学校の存続意義を述べたので、クラークの教え子で後に北海道帝国大学総長になる佐藤昌介が感銘を受けて北垣と親交をもった。そのような縁で塚本家と佐藤昌介の交流が始まったらしい。小樽は滋賀とも縁があり、訪問して親近感を感じた街だったので以前のウェブログ「小樽運河」で触れた。
定次の没後は源三郎が小樽塚本も含めた全塚本の営業責任者となったが、源三郎は商才とともに上述したように書や文芸にも優れた人物であったので、北大の父と呼ばれた佐藤昌介夫妻と親交を結んだとのことである。源三郎の息女二人の媒酌の労をとった時の佐藤夫妻の写真や、昭和天皇の即位式が京都御所で行われた時、源三郎の京都邸で礼服に改めた夫妻と源三郎家族の記念写真も残されているらしい。大正時代に制定された塚本家の家訓には、前出の近江の人である杉浦重剛、伊庭貞剛とともに佐藤昌介の意見も盛り込まれているという。塚本さとの女学校開校時には農学博士佐藤昌介から祝辞が贈られている。ちなみに佐藤昌介と新渡戸稲造は日本で最初の農学博士になったと館長の寄稿にある。
<所感>
これまで訪問した五個荘、日野、近江八幡、湖東の近江商人の史跡についてまとめているうちに、新たに塚本家関連の史跡の存在を知ったので再び五個荘の地を訪れてみた。よく知られている近江商人の「三方よし」の理念は、多くの日本企業の経営理念の土台にもなっており、日本企業に長寿企業が多い一つの理由にもなっている。塚本定右衛門はまさにその「世間によし」の理念を実践した代表的な近江商人であったのだろう。その公益心に富む行動や人間性に、勝海舟や福沢諭吉という時代を代表する人物が惹かれて交流を続けたのだろうと思える。令和時代の今、岸田内閣が新しい資本主義を模索しているが、公益性を重視する近江商人の商法は公益資本主義ともいえ、貧富格差拡大・弱肉強食・強欲・ハゲタカ資本主義といわれる行き過ぎた今の資本主義に対する一つのロールモデルになるのかもしれない。
塚本さとや前編の「湖東の近江商人-伊藤忠と丸紅の祖:伊藤忠兵衛」で触れた伊藤八重は、近江商人の妻でもあり母でもあった。当時はまだ男尊女卑の色濃く残る時代であり、家系図に女性の名前が記載されないとか、女に学問はいらないなど、女性差別があった時代である(大正生まれの我が母も、行きたい女学校があったのに女に学問はいらないと言われて行けなかった、と死ぬまでブツブツ言っていた)。しかし近江商人の家では女子にも寺子屋へ通わせて教育をしているし、さとが私財を投じて女学校を創設したり、八重が近江麻布の仕入れを一手にやったように、女性を商売や事業に介入させるな、ということはなかったようである。むしろ主人が商売で本宅を留守にしている間は、妻は家長代理であり、店員の採用やその教育、財産管理など、本宅の一切を切り盛りする大きな責務を負っていて、主人の良きパートナーという地位であったと思える。しかもそれに恥じない努力を女性もしていたようである。
三方良しの理念とともに、女性の地位に関する近江商人の意識がもっと早く一般化していれば、日本の女性活躍問題も今ほど欧米に遅れを取っていなかったのかもしれない。
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