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2020.09.28

京都・神楽岡通界隈

 2 (写真はすべてクリックで拡大)

                神楽岡から見る大文字山

<吉田山>

吉田山は別名神楽岡とも呼ばれるが、京都市街の東北に位置する100m余り(ウィキペディアでは105m)の低山であり、学生時代はテニス部のトレーニングで吉田山によく駆け上がったので馴染み深い山である。以前のウェブログ「100年前の吉田山麓」で西島安則先生の寄稿を紹介し、明治から大正にかけて吉田山麓に広大な文教クラスターが形成されたことに触れた。さらに「紅萌ゆる丘の花ー100年前の吉田山-」で、我が家にあった1895(明治28)年(125年前)の京都地図をもとに、その文教クラスターの形成と東大路建設に伴う崩壊の様子、およびそれぞれの学校の再出発について触れた。

100年前の吉田山麓

紅萌ゆる丘の花ー100年前の吉田山ー

これらのウェブログで取り上げた、文教クラスターの形成と東大路通開通による崩壊(現在は京都大学が残るのみ)は、吉田山麓の西側で起こったことであるが、吉田山の北側では百万遍から銀閣寺まで今出川通が開通し、東側では銀閣寺から天王町まで白川通が開通した。私が京都に来た昭和21年から大学を卒業した昭和40年までは、吉田山の周囲はこれらの通りを市電が走っていたが、その後のモータリゼーションの波におされて市電は廃止され、今は走っていない。ちなみに白川通は現在は銀閣寺から宝ヶ池までつながっているが、この区域は私の高校・大学時代まではまだ田園地帯であり、社会人になって京都を離れた昭和40年以降に開通したと思う。

<吉田山の誕生>

吉田山誕生の秘密については、2018(平成30)年5月11日にNHK総合テレビのブラタモリでやっていたので興味深く視聴した。案内者に吉田山誕生の秘密が分かる場所があると言われて、タモリが連れていかれたのは京都大学の北部構内であった。タモリは京都大学北部構内で断層っぽい崖を発見する。案内者はまさにこれは断層で、この断層こそ吉田山を作った痕跡だと説明した。京都大学を走る断層は吉田山とは今出川通を挟んで少し離れているが、この断層を吉田山に向かってたどってみると、吉田山までつながっていて、吉田山で断層が終わっていると解説される。

地質学に造詣の深いタモリは、横にずれた断層がこれ以上横にずれなかったので、そのひずみが上下運動になったのかと予想した。横にずれた断層に強い力が加わり、大地が盛り上がった結果、吉田山ができた、という推定である。こうしてできた丘の名前を、案内者は「末端膨隆丘」というと説明した。末端が膨れ高まる丘というと、タモリはちょっと卑猥だね!とコメントしたので皆が大笑いした、というような番組の内容であったと記憶している。

<神楽岡>

吉田山は孤立した丘であることから神楽岡(かぐらおか)や神楽ケ岡(かぐらがおか)とも呼ばれる。歴史的には吉田山ではなく神楽岡と呼ばれ、東山三十六峰に含まれる、とウィキペディアには出ている。吉田山の山頂広場に「紅もゆる丘の花」の石碑が立っているが、有名な三高寮歌の「逍遥之歌」の最初の一節であることは言うまでもない。石碑のそばに逍遥之歌の歌詞と由来を刻んだ銘板が岩にはめ込んであるが、8番の歌詞には、「神樂ケ丘のはつしぐれ 老樹の梢傳ふ時 穂燈かヽげ、吟む 先哲至理の教にも」とあり、神楽岡が歌われている。

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神楽岡は古くは吉田神社の神苑の山であったが、しばしば戦場となり、足利尊氏の軍勢がこの山に陣を敷いて南朝方と戦った歴史もあるという。鎌倉期頃から公家の山荘地として開発が進み、とりわけ西園寺公経(1172-1244)の別荘であった「吉田泉殿」はよく知られている。現在でも吉田泉殿町という地名が残っており、百万遍の西南角にある1696(元禄9)年創業のお菓子屋「かぎや政秋」のご主人が、1979(昭和54)年に「吉田泉殿之跡」の石碑を建てておられる。西園寺公経は「北山第」という別荘ももっていて、1397(応永4)年に室町幕府3代将軍の足利義満が譲り受け、邸宅として使用した山荘「北山殿」が金閣寺の始まりになっている。

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 「かぎや政秋」の石碑(百万遍)

<神楽岡通界隈>

吉田山の東麓に神楽岡通という道路が南北に走っている。北は今出川通から始まるが、銀閣寺から天王町に至る白川通の1本西の道路である。今出川から南へ進むと500mほどの区間は片側一車線が確保されているが、それより南の区間では急に道幅が狭くなる。これは1927(昭和2)年に都市計画道路として岡崎まで開通する計画であったが、計画が廃止されたので、この区間だけが都市計画道路であった名残を感じさせるということらしい。この神楽岡通の西側は吉田山つまり神楽岡であり、かなりな急坂の地が住宅街になっている。この吉田山東麓に町が開けたのは大正末期のことである、とウィキペディアに出ている。

神楽岡通をさらに南へ進むと道幅が狭くなり、対向車とのすれ違いに気を遣う場所が多いが、西側には吉田山荘や宗忠神社があり、東側には真如堂や金戒光明寺があって、まさしくこのあたりは歴史の宝庫であることがわかる。妻の実家がこの地区にありよく付近を散策したが、少し歩くとすぐに何かの史跡にぶつかるということが多く、スマホで撮った写真が増え続けた。冒頭の写真は神楽岡の急坂を上り、閑静な住宅地の間から白川通方向を望んだものであるが、紅葉の間に見える大文字山が美しかった。以下、吉田山の東麓に位置する神楽岡通界隈について触れる。

<茂庵(もあん)>

神楽岡通から西側の住宅街の急坂を上ってゆくと、苔むした石垣のそばに茂庵案内マップという看板を見かけた。足を止めてよく見ると茶室の案内板である。地図に従って進むと山頂の広場に出るので、三高寮歌の石碑とも近い。茂庵はこちらという標識に従って林間を進むと、古民家風のカフェ「茂庵」が現れる。二度ほど前まで行ったが、いつも何人かが玄関前でたむろして順番を待っているという雰囲気なので、中へは入らないままである。ガイドブックでも隠れた穴場として紹介されているらしく人気があるらしい。2004(平成16)年には京都市の「登録有形文化財」になったという。

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    神楽岡住宅街の茂庵案内板             カフェ「茂庵」

茂庵のホームページを見ると、茂庵の元の建物は、京都・八瀬大原出身で、大阪で新聞用紙の運輸業を興して成功した谷川茂次郎が大正末期に建てた茶庵である、ということがわかる。茂次郎は事業に成功した後、裏千家に入門して茶道に親しみ、裏千家を強力に後援して今日庵の長老として遇され、神楽岡の山頂に茶室8席、月見台、楼閣などを建てて森の茶苑を築いたという。茂次郎の没後は数十年閉鎖され、現存するのは当時の食堂棟(現在のカフェ)と茶席2席で、茂次郎の雅号であった「茂庵」が今の茂庵のネーミングになったらしい。たしかに上記の案内マップには、田舎席と清閑亭の2つの茶室が出ているので、茂次郎の茶席の残った2席なのかもしれない。

神楽岡通から茂庵へ至る石段の山道の途中では茂庵の案内マップも目を引くが、ここの高台に整然と区画されて並んでいる住宅の家並みがあるのも目を引く。高台に並んでいるこの住宅街は、谷川茂次郎が大正末期から昭和初期にかけて建設した借家住宅群が奇跡的に残っているものであるという。京都大学に近い立地なので、京大の教官を主な対象とした上質な借家住宅であったらしい。大文字山が真向かいに見えるので、ここの住人は京都の夏、8月16日の大文字送り火を堪能していることであろう。

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    神楽岡の閑静な住宅街              大文字山が真向かい

<後一条天皇陵>

神楽岡通が狭くなってすぐ右手(西側)に現れるのが後一条天皇陵である。宮内庁が建てた説明板には、後一条天皇 菩提樹院陵(ぼだいじゅいんのみささぎ)と記してある。第68代天皇(在位1016~1036)である後一条天皇(1008~1036)は一条天皇の第二皇子であり、母は藤原道長の長女の中宮彰子であったことが歴史上の大きな転換点を生んだ。つまり、外孫の後一条天皇の誕生によって、藤原道長は幼帝の摂政となることができ、権勢をふるって藤原御堂流一族の栄華の基礎固めをしたのである。藤原道長が「この世をば わが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば」と詠んで自分と一族の栄華を誇った時期が、後一条天皇の御代であった。

よく知られているように後一条天皇の母である中宮彰子には「源氏物語」を執筆した紫式部が仕えていた。「紫式部日記」には後一条天皇の誕生の様子が詳しく述べてあるという。8歳で即位した後一条天皇は、藤原道長の三女で天皇より15歳年上の叔母である威子を中宮とした(させられたのかも?)。しかも藤原御堂流以外に外戚の地位を渡さないという関白頼通や母彰子の意向により、この時代には珍しく他の妃を持たなかった(持たされなかったのかも?)ので、世継ぎの皇子には恵まれず、数え29歳で崩御した。

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    後一条天皇陵の説明板            後一条天皇陵(吉田神楽岡町)

<吉田山荘>

後一条天皇陵を過ぎてさらに南へ進むと、同じく右手(西側)に壮麗な門が現れる。吉田山荘と表札がかかっている。吉田山荘の建物は、1932(昭和17)年に東伏見宮(香淳皇后の弟君)別邸として建てられたもので、2002(平成24)年に登録文化財に認定されているが、現在は料理旅館「吉田山荘」として宿泊や食事ができ、最近のGo Toトラベルキャンペーンの対象にもなっている。壮麗な感じのする門は「表唐門」といい、宮大工棟梁で文化功労者の西岡常一氏により別邸建築と同時期に建てられた。西岡常一氏は法隆寺の昭和の大修理や、薬師寺の復興など奈良の文化財の復興に尽力され、「木のこころ」に関する著書でも有名であるが、この表唐門は京都市内で唯一の同氏の作品であるという。

吉田山荘の玄関から少し離れたところに、真古館という別棟がありカフェになっている。なかなか風情のあるカフェで2階へ上がると、窓から比叡山と大文字山が間近に見えるという、眺望も素晴らしく落ち着いた雰囲気のカフェである。元東伏見宮別邸であることや、西岡常一氏作の表唐門をくぐって入るということで、格式の高さを感じさせる吉田山荘であるが、真古館の内装やテーブル、椅子、コーヒーのスプーンなど全てが古民家風で、木のぬくもりを感じさせるもので揃えてあるので、神楽岡散歩をして少し疲れた時に休息するにはもってこいのカフェである。

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<宗忠神社>

吉田山荘の表唐門を過ぎてさらに南に向かうと、すぐに右手(西側)に吉田山の頂に向かう長い石段がある。宗忠神社の参道である。宗忠神社のホームページには、祭神は上社・神明宮が天照大御神(あまてらすおおみかみ)で、本社は宗忠大明神(むねただだいみょうじん)となっている。この参道の石段を登りきったところに宗忠神社の本殿があるが、本殿の前には説明板が立っており、御祭神は宗忠大明神とあり由緒が書いてある。それによると1780(安永9)年に備前の国に生まれた黒住左京藤原宗忠は、黒住教の教祖で孝明天皇のご信仰が篤く、1856(安政3)年に宗忠大明神の神號(神号)を朝廷から裁許されたとある。

宗忠神社の名前は吉田山で遊んだ子供の頃から知っていて、宗忠とは偉いお公家さんの名前くらいにしか思っていなかったが、実は黒住宗忠という、祭神になるような偉い人の名前であったということがわかった。黒住宗忠を調べてみると、岡山の今村宮の神職の家に生まれ、父母の他界や自らの不治の病を乗り越えて、34歳の時に天照大御神と神人一体になり、悟りの境地に立ち、黒住教を立教したという。以来、世の中の苦しむ人や助けを求める人のために祈り、教え導いたので、人々から生き神と称えられ、教祖神と仰がれた。1850(嘉永3)年に歿したが、岡山を中心に、日本各地に信者たちによる黒住教の布教が広まり、皇室や公家にも帰依する人が多く、孝明天皇の信心も得たとのことである。

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   宗忠神社の参道(神楽岡通から)           宗忠神社本殿の説明板

宗教心に乏しいので黒住教のことはまるで知らなかったが、幕末に生まれた三大宗教が黒住教、天理教、金光教であるらしい。幕末の動乱で京都は特に騒乱がひどく激動の時代であったので、黒住教は、大衆のみならず当時の朝廷においても、孝明天皇を始め、二條家、九條家といった公家の信仰を集めたらしく、1862(文久2)年に神楽岡宗忠神社が建立され、3年後には孝明天皇が自ら言い出して、国家安泰、万民和楽を祈る唯一の勅願所となったとのことである。尊王攘夷、公武合体、開国のはざまで内乱状態になった幕末の不穏な情勢の中で、政治的に無力な朝廷としては、すがりつく何かが欲しかったのであろうか。

<竹中稲荷>

宗忠神社の本殿を経て吉田山の山頂広場の方向に向かうと、赤い鳥居が続く石畳の参道がある。最初の鳥居の扁額には「竹中稲荷大神」と記してある。鳥居をくぐり終わったところに竹中稲荷の拝殿や本殿、菅原道真を祀る天満宮がある。竹中稲荷社の案内板には、祭神は、宇賀御魂神(うがのみたまのかみ)、猿田彦神(さるたひこのかみ)、天鈿女神(あめのうずめのかみ)とある。由緒には、古記に「在原業平の居を神楽岡稲荷神社の傍らに」とあるので、天長年間(824~)に既に社殿が在ったことが知られる、と記してある。また古伝に「天保年間(1830~)には数千の鳥居が並び雨雪でも傘を要せず」などとある、とも記してある。

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     竹中稲荷の参道の鳥居               竹中稲荷社拝所

さらに、現在の建物は1840(天保11)年に信徒の寄付金で造営されたもので、1872(明治5)年に吉田神社の末社に指定された、とも記されている。本殿の奥には竹劔(たけつるぎ)稲荷神社という奥の院があり、付近には石の塚や墓と思しき石標が無数にある。小さい鳥居があったり、大明神という号をつけた立派な石も多数ある。明治初期までは土葬地であったらしく、パワースポットとして紹介しているウェブサイトもある。吉田神社の節分祭は、室町時代に執行されて以来の京洛の一大行事であり、全国的にも有名であるが、節分の日にこのあたりを訪れた時、ここの社務所から赤鬼と青鬼に扮装した人や、お稚児さんが出発して行くのに遭遇したことがある。

<東北院>

と、ここまでは神楽岡通の西側にある史跡を紹介してきたが、東側にも数々の史跡がある。神楽岡通を南下して吉田山荘の手前の四つ角を左方(東側)へ曲がると、すぐに由緒ありげな古寺がある。門の傍らに「東北院と軒端の梅」という案内板が立っているので、ここが東北院という史跡であることがわかる。案内板やネット記事によると、この寺はもとは荒神口あたりにあった藤原道長が建立した法成寺の東北の地に建てられ、一条天皇の中宮、つまり前述の後一条天皇の母である彰子の住まいであった。その東北院内の小御堂に彰子に仕えていた和泉式部が住んでいて、庭に「軒端の梅」を手植えしたという。

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      東北院本堂と軒端の梅           東北院と軒端の梅の案内板

その後、室町時代になって世阿弥が、「軒端の梅」をモチーフにして、能の「東北(とうぼく)」を作ったことで、東北院は古典文学・古典芸能の聖地として有名になったという。ちなみにこの能の粗筋は、「東国からの行脚の僧が東北院を訪ね、梅の木のあまりの美しさに魅了され、由来を聞いたところ、その昔、和泉式部が手ずから植え、寵愛した軒端の梅であると聞いて感激を新たにした。僧が法華経を唱えると和泉式部の霊が現れ、東北院での生活や、歌によって得た仏の道を語って消えた。僧が夢から覚めると仄かに梅の香りが漂っていた。」というものらしい。

東北院は、法成寺の火災や応仁の乱などの度々の災難を経て2度移転しており、現在の東北院は元禄年間に後に述べる真如堂などと共に、寺町からこの地に移転してきたという。京都謡曲史跡保存会の手になる案内板には、現在の東北院は元禄年間にこの地に再興されたものといわれ、本堂前の軒端の梅は謡曲「東北」にちなんで植えられたものである、と記してある。寺内には入れないので門から中を覗くと、1本の梅の木が見えるので、これが軒端の梅と思われる。

<陽成天皇陵>

神楽岡通の宗忠神社参道に向かう四つ角を、参道と反対の東側に左折すると、左手(北側)に陽成天皇陵が現れる。前述の後一条天皇陵から歩いて5分もかからない場所である。つまり神楽岡通沿いに2つの天皇陵が鎮座しているのである。陽成天皇(869~949)は第57代天皇(在位876~884)で、清和天皇の第一皇子で9歳で即位した。母は外叔父の藤原基経の妹高子で、基経が前代に引き続き摂政、関白となって政務を執った。882年に元服した頃より基経と対立し、天皇の乳母の子である源益(みなもとのみつ)の殺害事件への関与を基経から迫られ、884年に退位し上皇となった。

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      陽成天皇陵(浄土寺真如町)

藤原基経は自分の意に沿う光考天皇を即位させ、以後藤原氏の権威が確立したとされる。天皇の在位期間は短かったものの、陽成上皇は長命を保ち、上皇歴65年は歴代1位とのことで、949年に崩御後、神楽岡東陵(かぐらがおかのひがしのみささぎ)に葬られたと日本紀略にあるらしい。ただ中世(鎌倉・室町時代)以降、陵の所在が不明となったが、江戸時代になって真如堂門前村に荒墳があったことから、1855(安政2)年に京都町奉行の浅野長祚が現在地の小丘を陵所にしたと記述しているウェブサイトもある。百人一首の「つくばねの峰よりおつるみなの川 恋ぞつもりて淵となりぬる」(陽成天皇)を覚えさせられた人も多いと思う。

<真如堂>

陽成天皇陵を過ぎてそのまま東に向かうと、すぐに真如堂の赤い総門に至る。この総門から振り返ると、宗忠神社の参道まで道路がまっすぐ延びており、宗忠神社と真如堂が神楽岡通を挟んで正対していることがわかる。「真如堂」は通称であり、正式な寺号は天台宗「真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)」である。ウィキペディアによると、984(永観2)年、比叡山延暦寺の僧、戒算が延暦寺常行堂の本尊の阿弥陀如来を、神楽岡東にあった東三条詮子(一条天皇の生母)の離宮に安置したのが始まりとある。992(正歴3)年に本堂が創建され、不断念仏の道場として念仏行者や庶民、特に女性の信仰を得てきたという。

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       真如堂の赤い総門                 真如堂の本堂

しかし応仁の乱に巻きこまれ堂塔は焼失した。応仁の乱後、一条西洞院に寺地を改めたが、すぐに神楽岡に戻って1493(明応2)年に本堂が完成した。1569(天正12)年に、時の将軍足利義昭の命で一条北に移転したが、1587(天正15)年には豊臣秀吉の聚楽第建設のため京極今出川に移転し、1604(慶長9)年に豊臣秀頼の寄進で本堂が建立された。その後2度の火災によって焼失と再建をくりかえし、1693(元禄6)年に東山天皇の勅によって現在地に移転し、1717(享保2)年に本堂が完成したという激動の歴史を持っている。1817(文化14)年には三重塔が再建された。

真如堂の境内には広大な墓地があるが歴史上の人物の墓も散見される。とりわけよく知られ、案内板も設置されているのは、斎藤利三(さいとうとしみつ)と海北友松(かいほうゆうしょう)が並んだ墓である。斎藤利三は明智光秀の家老であったが、山崎の合戦で敗れて六条河原で処刑されたとき、親交のあった絵師の海北友松が東陽坊長盛とともに遺体の首を奪い取り、真如堂の墓地に埋葬したとされる。海北友松は遺言により斎藤利三の墓の隣に葬られた。斎藤利三の娘、福はその後春日局となって徳川幕府で権勢をふるうが、真如堂には春日局が父の菩提を弔って植えた「たてかわ桜」がある。

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 三井の井桁の家紋がついた真如山荘?

また真如堂は三井家の菩提寺であり、三越の始祖、三井高利(1686~1694)ら三井一族の墓もある。三井高利は真如堂を自らの墓所と望み、檀家を持たなかった真如堂の塔頭の一寺であった東陽坊の檀家に迎え入れられ、明治に入ると真如堂本坊の大檀家となった。三井グループとも関係が深く、三井広報委員会のホームページによると、1981(昭和56)年、三井グループの中核企業で構成される「二木会」により、境内の奥に研修施設である「真如山荘」が寄進されたとある。境内の東のはずれに三井の井桁の家紋が入った黒い門があるので、これが真如山荘かと思うが確認していない。以前のウェブログ「九転十起生ー広岡浅子の生涯」では、明治時代に活躍した三井家出身の女性実業家、広岡浅子について触れた。

九転十起生ー広岡浅子の生涯

<金戒光明寺と会津墓地>

神楽岡通をさらに南下すると黒谷(くろだに)に至り、神楽岡通はここで終わる。東側には、通称くろ谷(くろだに)さんと呼ばれる金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)の広大な寺域がある。金戒光明寺の寺域はちょうど真如堂の寺域の南に位置し、真如堂の門前の道を南へ歩くと金戒光明寺の北門がある。金戒光明寺の正規の入口は岡崎通から近い高麗門である。向かって右側の門柱には「大本山金戒光明寺」、左側の門柱には「奥刕會津藩松平肥後守様 京都守護職本陣 奮蹟」と記した表札がかかっている。「くろ谷」と刻まれた大きな石碑も建っており、傍らに京都市による金戒光明寺の案内板も立っている。

案内板によれば、1175(永安5)に法然上人が浄土宗の確立のために、比叡山西塔の黒谷にならって、この地に庵を結んだのが当寺の起こりと伝えられており、以後、浄土宗の念仏道場として栄え、後光厳天皇より「金戒」の二字を賜り、金戒光明寺と呼ばれるにいたった、とある。また1428(正長1)年に後小松天皇より、法然上人が初めて浄土教の真実義を広めた由緒により、「浄土真宗最初門」の勅願を賜った、ともある。ここで浄土真宗という言葉が出てきたので、浄土宗は法然が開祖、浄土真宗は親鸞が開祖という認識をもっていた当方としては少し疑問を感じたので調べてみた。

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      金戒光明寺「高麗門」              金戒光明寺案内板

ウィキペディアで浄土真宗を検索すると、親鸞の著書に記されている「浄土真宗」とは、宗旨名としての「浄土真宗」のことではなく、「浄土を顕かにする真実の教え」であり、端的に言うと「法然から伝えられた教え」のことであると出ている。親鸞自身は、法然に師事できたことを生涯の喜びとしており、独立開宗の意思はなかったとされる。宗旨名としての「浄土真宗」は親鸞の歿後にその門弟たちが教団として発展させたものである、とも出ている。つまり案内板に出ている浄土真宗とは、浄土教の真実の教えという意味で、法然が浄土真宗最初門と認められたのは至極当然のことらしい。

金戒光明寺は、江戸初期に知恩院と共に城郭構造風に改修された。そのこともあって幕末の1862(文久2)年に会津藩の松平容保が京都守護職に就任すると、表札に出ている通り、この寺を会津藩京都守護職の本陣とし、1,000名の会津藩士が駐屯した。しかし会津藩士だけでは京都の治安維持には手が回らず、京都守護職預かりとして新選組をその支配下においたことはよく知られた歴史である。新選組は市中取り締まりの命を受け、都大路を走り回って京都の治安回復に努めた。新選組の壬生の屯所と黒谷本陣の間では、報告・伝達が毎日のように行われており、このような時代背景のもとに会津藩と新選組の関係が成り立ったといえる。

金戒光明寺の北東域に知る人ぞ知る会津墓地がある。真如堂の寺域と金戒光明寺の寺域を隔てる道路のすぐ近くで、金戒光明寺の高麗門からより真如堂からのほうが近い。会津墓地入口の傍に「會津藩殉難者墓地」と刻まれた石標が建っており、墓地へ入ると會津墓地の由来が刻まれた説明板もある。由来には、京都守護職となった会津藩の活動には目を瞠(みは)るものがあったが、藩士や仲間小者の犠牲も大きかったので、本陣の金戒光明寺の山上に墓地が整備され、1862(文久2)年から1867(慶応3)年の6年間に亡くなった237霊の慰霊碑を建立し、鳥羽伏見の戦いの戦死者115霊を合祀した、と記されている。

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                會津墓地入口               會津墓地の由来の説明石碑

会津墓地西側の西雲院庫裡前に「侠客 會津小鉄」の墓がある。本名は上阪(こうさか)仙吉といい、鳥羽伏見の戦いで賊軍の汚名を着せられた会津の戦死者の遺体が鳥羽伏見の路上に放置されていたのを、官軍の迫害も恐れず子分200名余りを動員して、遺体を収容して荼毘に付し、回向供養したことで知られる。以後の不穏な時期も黒谷会津墓地を西雲院住職と共に死守し、清掃や整備の奉仕を続けたという。京都には、今も京都會津会という会があり、6月の第二日曜日に松平家当主の列席のもとに會津藩殉難者追悼法要を行っていると聞く。会津墓地には何度か足を踏み入れたが、幕末維新の激動の時代を身をもって感じさせる場所の一つである。

会津藩士といえば、京都人にとっては忘れてはいけない会津藩士がいる。同志社を設立した新島襄の夫人である新島八重の兄、山本覚馬である。NHK大河ドラマ「八重の桜」で知った人も多いと思うが、会津藩士であった山本覚馬は目が不自由になったため、鳥羽伏見の戦いには参戦できず薩摩藩に捕らわれ藩邸に幽閉されたが、幽閉中に建白書「管見」を著した。明治になり自由の身になった山本覚馬を京都府が顧問として迎え、「管見」の思想を京都の行政に取り入れて京都の近代化を進めたのである。このことについては、以前のウェブログ「京都の近代化を進めた会津藩士-山本覚馬-」で触れた。

京都の近代化を進めた会津藩士-山本覚馬-

<あとがき>

多少縁があって、神楽岡通というさして長くもない京都の一道路界隈を散歩する機会が多く、左右にある史跡をずっと見てきたので、前編の「大文字の送り火は五山より多かった」、前々編の「南禅寺界隈別荘庭園群」に引き続き、この界隈をまとめてみようと思っていたが、なかなかまとまらないまま1年も経ってしまった。神楽岡通界隈というそれほど広くない地域でも、平安の昔から幕末維新、明治大正の時代に至るまでの史跡がゴロゴロ転がっていて、さすが京都は歴史の街ということを改めて感じた次第である。

 

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