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2017.08.29

宇治茶の郷-茶源郷「和束」

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                    京都府和束町白栖・石寺の茶畑

<和束(わづか)>
和束(わづか)と読む。2007年7月から2013年3月まで科学技術振興機構の仕事で、大津市から京田辺市の同志社キャンパスまで毎日車で通勤していた。途中の宇治田原町を通るとき、道路標識に「和束」という地名表示があるのがいつも気になり、どんなところだろうと思っていたが、その頃はフルタイムの勤務であったので、わざわざ足を延ばしてみる機会はなく、日が経ってしまった。

いつの日かは覚えていないが、ある日新聞を見ていたら、日本茶が海外でブームになっていて、京都府和束町では外国人の日本茶伝道師を育てるための研修をやっているというニュースが出ていた。またテレビでも和束町の茶畑ツアーに来た外国人観光客に、米国人女性の研修生が日本茶について説明している模様が報道されていた。

つまり和束はお茶の産地であり、茶畑の広がる郷であると思われたので、一度茶畑を見に和束に行ってみようと思う気持が再燃した。まだ猛暑の続くこの夏であったが、2017年8月22日は曇天で暑さが多少ましだったので、この日に和束行を決行した。大津市の我家から直接和束に行くには、瀬田川を南下し大石から国道422号線で信楽に向かい、国道307号線に出て京田辺方面に進んで、府道5号線に入れば和束に至る。

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<府道5号線>
府道5号線は正確には京都府道・滋賀県道5号線であり、京都府木津川市と滋賀県甲賀市信楽町中野を結ぶ府県道であるが、古くは奈良時代に恭仁宮(くにのみや)と紫香楽宮(しがらきのみや)を結んだ歴史ある古道である。つまり740(天平12)年から745(天平17)までの5年間、平城京を抜け出して彷徨した天皇として有名な聖武天皇の足跡に関係する道である。

740(天平12)年の藤原広嗣の乱の後、聖武天皇は平城京から恭仁京(現在の木津川市加茂)に都を移した。さらに742(天平14)年には近江国紫香楽に離宮(紫香楽宮、信楽宮、後に甲賀宮)を造営して、大仏の建立を発願するが頓挫し、744(天平16)年に都を難波宮に移した後、745(天平17)年に再び平城京に戻した。したがってこの道は恭仁京と紫香楽宮を結ぶ当時の主要な街道として発展したと思われる。

この日は信楽からこの道に入って和束に向かった。国道307号線の沿線に所在する信楽、宇治田原、京田辺などの地域はいずれもお茶の産地であり、国道沿いからもよく茶畑が見える。府道5号線に入っても信楽地区に朝宮茶の茶畑があり、和束町に入ると和束川の渓流沿いに茶畑が散在している。まさに茶処を通っているという感じがする。

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         信楽の茶畑                 和束川沿いの茶畑

<和束天満宮>
和束の中心地に入る手前に和束天満宮という標識が見えたので、立ち寄ってみた。天満宮であるから菅原道真を祀る神社である。横長の平屋の真ん中にかまぼこ型の屋根があるあまり見かけない特徴のある建物で、屋根をくぐると社務所があり、奥に天満宮の本殿がある。

和束町のパンフレットには、和束天満宮は983年に菅原道真公の画像を祀ったのが始まりで、1336年に南北朝の争乱で社殿を焼失したが、1348年に再建された、とある。したがって室町時代の建築様式を残した本殿は重要文化財になっているらしい。丸みを帯びたかまぼこ型の屋根(唐破風)は滋賀県草津市の芦浦観音寺で見たことがあり、以前のウェブログ「再び湖南の芦浦観音寺」で触れた。

  • 再び湖南の芦浦観音寺

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        和束天満宮のかまぼこ屋根            和束天満宮本殿

    <和束茶カフェ>
    和束天満宮を出て和束町の中心地に入ったが、始めての土地なので、まず町役場に行って様子を聞いてみた。茶源郷めぐりと書いたトレイルマップや、観光用のパンフレットを下さり、和束茶カフェがあるのでそこを起点にして散策されたら良いですよ、とのアドバイスであった。ただ散策するには暑過ぎるなと思ったが、とりあえず和束茶カフェに向かった。

    新聞やテレビで紹介されているくらいなのでかなり観光地化されているのかなと思っていたが、全くそんなことはなく、鄙びた感じの素朴な和束茶カフェだったので、何となく安心した。店内では和束のお茶や土産物を売っている。抹茶と茶団子をいただき、お店の女性に近くの見処を聞いてみたら、すぐ近くに安積(あさか)親王の陵墓があることや、車で10分くらいの所に綺麗な茶畑があることを教えて下さった。

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              和束茶カフェ             安積親王陵墓から望む和束の里

    <安積親王陵墓>
    安積(あさか)親王は聖武天皇の第二皇子として生まれたが、皇太子の基皇子が死去したため、聖武天皇唯一の皇子となった。しかし光明皇后を母に持つ阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)が立太子されたため皇太子にはならなかった。744(天平16)年、17歳の時に難波宮に行幸の際、脚気を発して恭仁京に引き返したが死去したとされる。複雑な事情から藤原仲麻呂に毒殺されたという説もあるらしい。

    安積親王陵墓は和束茶カフェのすぐ近くにあり、茶畑に覆われた小高い山を登って行くと、頂上のこんもりとした森の中に社務所と柵で囲まれた陵墓がある。ここからは和束の里が一望のもとに見渡せる。パンフレットには、安積親王は恭仁京と紫香楽宮を結ぶこの街道を愛していたので、この地を陵墓として葬られたと伝わる、とあり、別名太鼓山とも呼ばれる、とある。

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           茶畑の中の参道                 安積親王陵墓

    ウィキペディアによれば、安積親王陵墓は現存する古墳であり、俗称太鼓山古墳とされている。1878(明治11)年に発見され、宮内庁により安積親王の陵墓として認定された、とあり、神上山と呼ばれる丘の上に築かれ、形状から古墳時代の円墳の可能性が指摘されている、とあるので、安積親王に関する地元の言い伝えなども勘案されて認定されたのであろう。

    <白栖・石寺の茶畑>
    和束町の茶畑の眺望風景は、「生業(なりわい)の景観」として京都府景観資産登録第一号に指定され、また京都府選定文化的景観に選定されている。パンフレットには、白栖・石寺の茶畑、撰原の茶畑、釜塚の茶畑、原山の茶畑などいくつもの綺麗な茶畑の景観が紹介されているが、全てを回るのは時間的にも難しいので、和束茶カフェで教えてもらった近くの白栖・石寺の茶畑を目指すことにした。

    町内の曲がりくねった狭い道を10分ほど走ると、石寺景観遺産ビューポイントに至り、眼前に冒頭写真に掲げたような素晴らしい茶畑の景観が広がる。といっても展望台になっているわけでもなく駐車場があるわけでもない。道端に車を停めて対向車が来ない間に写真を撮るのみである。幸い写真を撮っている間は一台も車は来なかったが、観光地化されると大変だなあ、と内心思った。

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       平成27年度文化庁選定日本遺産         白栖・石寺の茶畑

    景観ビューポイントに設置してある案内板には、平成27年度文化庁選定日本遺産、日本茶800年の歴史散歩、和束町の茶畑景観、白栖・石寺の茶畑と記載され、「春、和束の町は西から東へと順に暖かくなり、西に位置するこの地域は「早場」と呼ばれ、4月下旬には早くも茶摘みが始まります。近代的な農園整備がなされ、空まで続くかのような茶畑が見られます」と説明してある。

    <宇治茶の郷>
    ところで和束町は、南山城村、宇治田原町と並んで宇治茶の主産地になっている。学校の歴史で習ったように1191(建久2)年に茶種を宋から持ち帰ったのは栄西禅師で、栄西はそれを明恵に送って京都栂尾で栽培が始まったので、明恵は茶業興隆の祖といわれる。和束におけるお茶の栽培は、鎌倉時代に和束の西にある海住山寺の磁心が、明恵から茶の種子を分けてもらい、和束に栽培したのが始まりとされている。

    宇治茶は、南北朝時代は栂尾茶に次ぐ存在であったが、足利義満の庇護のもとに発展し、織田信長、豊臣秀吉の安土桃山時代に天下一の茶としての地位を固めた。江戸時代には他産地の増加により斜陽の時期を迎えたこともあったが、1738(元文3)年、宇治田原の永谷宗円が宇治茶製法を確立し、宇治は煎茶の産地として復活した。さらに1834(天保5)年、宇治で玉露製法が創製された。

    現在では、京都の宇治茶は静岡の静岡茶、埼玉の狭山茶と並んで日本三大茶、もしくは静岡茶と並んで日本二大茶といわれる。関西に住んでいるとお茶といえば宇治茶が代表的なお茶であり、宇治地域の茶園で生産されたものが宇治茶であると思ってしまうが、実は宇治市の茶園面積はそれほど大きくはないので、宇治茶には定義がある。

    <宇治茶の定義>
    近年は食品表示基準が厳格になってきたが、お茶も例外ではない。伝統ある宇治茶を護るため京都府茶業会議所は、2004(平成16)年3月に宇治茶を次のように定義している。「宇治茶は、歴史・文化・地理・気候等総合的な見地に鑑み、宇治茶として、ともに発展してきた当該産地である京都・奈良・滋賀・三重の四府県産茶で京都府内業者が府内で仕上加工したものである。ただし、京都府産を優先するものとする。」

    つまり京都府産の茶葉を優先するが、ブレンド率は公表していない。前年の試案では「府内産茶葉50%以上で、ブレンドは奈良、滋賀、三重産に限る」となっていたが、府内産茶葉の不足などから製造及び生産団体の承認が得られなかったと、ウィキペディアに記載がある。また平坦部の茶園は宅地開発の波に押されて減少しているが、山間部では増加しているという実情もあり、宇治茶ブランドの維持には苦労が多いのであろう。

    <文化としての宇治茶>
    将来に向けた動きとしては、京都府が宇治茶の世界文化遺産登録を目指してどのようなコンセプトにするかを検討している。宇治茶の産地が抹茶、煎茶、玉露を生み出して日本全国に伝えた文化的景観に着目して作られた、「日本茶800年の歴史散歩」というコンセプトは、文化庁が2015(平成27)年に設けた日本遺産制度の第一号に認定となった。石寺の景観ビューポイントの案内板にもこのコンセプトが記載されていた。

    たしかに茶畑の景観は独特であり、新幹線に乗っていても静岡県を通過するときは車窓から見る茶畑の美しい景観に見入ってしまうことが多い。そのような景観を文化と捉え、そのふるさとが宇治にあるというコンセプトは面白い。東海道新幹線から見た茶畑については以前のウェブログ「新幹線の車窓から」で触れた。

  • 新幹線の車窓から

    <宇治茶の香り>
    緑葉が発するみどりの香りは洋の東西を問わず研究者の探究心を捉え、日本では、昭和の初めに理化学研究所から京都帝大農学部へ着任された武居三吉先生が、京都の茶処宇治の産業発展の意義もあって、緑茶の香りの本格的な研究を取り上げられた。そして宇治茶の生葉3トンから、僅かな量の青臭い香りの本体であるアルコールを発見され、「青葉アルコール」と名づけられた。

    さらにこの研究は山口大学の畑中顯和先生に引き継がれ、みどりの香りの全貌が明らかになった。その研究内容については以前のウェブログ「みどりの香り」で触れた。

  • みどりの香り

    <所感>
    ということで、和束という地名への疑問から発して宇治茶にまでたどりついた。美しい茶畑の景観は、日本独自のものかと思っていたが、インドネシアに在住した方から、自分もそう思っていたが、インドネシアにも綺麗な茶畑があるんですよと、教えていただいた。

    写真愛好家がこぞって撮影する茶畑とか棚田は、その国の農民のそれこそ汗の結晶である。今回訪れた和束町でも、この暑い夏にもかかわらず農家の皆さんが茶畑の世話をされていた。そして手入れの行き届いた茶畑はこの上ない美を発揮する。日本の茶畑の美を守るためにも我々はもっと日本茶を飲まないといけないのではないか、などと考えて帰途についた。

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