湖南の野洲川デルタ地帯は古代の遺跡銀座!
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滋賀県野洲川デルタ地帯(栗東市、守山市、野洲市)の夥しい遺跡群
<伊勢遺跡が国指定の史跡に>
以前のウェブログ「邪馬台国は近江にあった?」で触れた滋賀県守山市と栗東市にまたがる伊勢遺跡が、今年になって国の史跡に指定されたと守山市のホームページのお知らせに出ている。直ぐ近くにある守山市の下之郷遺跡は既に国史跡に指定されており、この湖南の一帯は日本の古代史においてますます重要性を帯びてきたというわけである。
「伊勢遺跡は、多数の大型建物群が発見され全国的に知られていますが、1月24日付けの官報で告示され、国史跡に指定されました。伊勢遺跡は弥生時代後期(紀元1世紀末から2世紀末)に発達する遺跡です。弥生時代後期の集落遺跡としては全国でも最大級の遺跡で、遺跡中心部では大型建物が多数発見されています。遺跡中心部には大型建物や楼観(ろうかん)と呼ばれる高い建物があり、その周りには、直径220mほどの円周上に大型建物が配置されていたことがわかっています。」
「伊勢遺跡は滋賀県南部地域に形成された国の中心とみられ、大型建物群は政治や祭祀を執り行う施設であったと考えられています。大型建物が計画的に配置された例は全国的にも例がなく、国が形成される過程を示す貴重な遺跡として評価されています。」という内容である。
昨年、守山市在住の先輩から「邪馬台国近江説」という本が2冊も発刊されたよと聞いて、早速伊勢遺跡を現地探訪し、前記のウェブログ「邪馬台国は近江にあった?」に探訪記を記したので、滋賀県民としては遺跡の保存が確保されて良かったなと思う。情報を下さった我が先輩は下之郷史蹟公園を守る会のメンバーで、前記の下之郷史蹟公園のホームページを立ち上げた方である。
秋にはこの先輩の案内による下之郷遺跡の見学会が予定されており、楽しみにしている。
<湖南地域は遺跡銀座>
伊勢遺跡や下之郷遺跡がある湖南の野洲川デルタ地帯が、本当に邪馬台国であったかどうかは、従来からの九州説や大和説が有力なだけに、おいそれと結論は出ないと思うが、前記のウェブログでも紹介したように、この地域には弥生時代前期、中期、後期そして古墳時代の夥しい遺跡が集中しているので、古代から有力な豪族が支配していた地域であることは確かである。
冒頭写真は、滋賀県教育委員会、栗東市教育委員会、守山市教育委員会、野洲市教育委員会が一緒になって発行した冊子「國、淡海に建つ」の表紙に使用された野洲川デルタ地帯の地図で、上記の伊勢遺跡や下之郷遺跡、新幹線建設工事で銅鐸が多数発見された野洲市の大岩山近傍の遺跡など、この一帯には夥しい遺跡群が存在することが分る。
<弥生のムラ>
冊子の中で、琵琶湖に近い赤野井浜遺跡、霊仙寺遺跡、服部遺跡、市三宅東遺跡近辺は、弥生のムラとして紹介されているが、縄文時代からの遺跡であるらしい。服部遺跡には弥生時代前期の水田遺構があり、近江に稲作が伝来し定着した証拠を示しているという。赤野井浜遺跡からは、弥生時代前期末から中期初頭に集落が成立していたことを示す数々の遺構が見つかっている。
<環濠集落>
弥生時代が中期になると、その前史や後史にあたる縄文時代や古墳時代には見られない集落の形として「環濠集落」が現れる。「環濠集落」とは、周囲に大きな溝をめぐらしたムラのことで、湖南地域では弥生時代中期後葉(2200〜2000年前)に発達し、守山市の下之郷遺跡や二の畦・横枕遺跡、栗東市の下鈎(しもまがり)遺跡で認められている。
<方形周溝墓>
またこの時期には、方形周溝墓という溝を方形に掘り込んだ区画に盛り土をした墓が出現しており、このような弥生時代の墓域が、栗東市の下鈎(しもまがり)遺跡、野洲市の湯ノ部遺跡、市三宅東遺跡、守山市の服部遺跡、吉身西遺跡・酒寺遺跡で見つかっている。この地域の首長や家族の墓と推測されている。
弥生時代後期から古墳時代初頭の野洲川流域には、方形周溝墓が発達した前方後方形周溝墓が現われており、新たな有力首長の墳墓とされている。大和で最古の前方後円墳とされる箸墓古墳が築造される頃には、さらに大型化した前方後方墳が野洲市や大津市に出現するが、大和政権の進出に伴い前方後方墳の築造は行われなくなったという。
<倭国大乱と卑弥呼共立>
伊勢遺跡は上記の守山市のお知らせにあるように、弥生時代後期(紀元1世紀頃)に突如出現し、その規模の大きさや大型建物の存在から、当時の「國」の政治や祭祀を執り行う特異な遺跡であったと考えられ、邪馬台国時代前夜の東西の結節点として、重要な役割を担っていたのではないかというわけである。
伊勢遺跡に隣接する下鈎(しもまがり)遺跡にも、弥生時代後期には大型建物が建ち、祭祀施設が造られていることが分かるので、2つの遺跡は旧栗太郡・野洲郡地域の村々が連合した「國」の中心であり、魏志倭人伝に記載のある倭国大乱と卑弥呼共立の時代に深く関わったのだろうと推測されている。
<弥生社会の終焉と王権の誕生>
野洲市の大岩山から明治14年と昭和37年に合わせて24個の銅鐸が掘り出され、弥生時代後期から古墳時代初頭に大岩山銅鐸埋納祭祀があったと考えられている。このことについては前記のウェブログでも触れた。なぜ大岩山に銅鐸が集められたのかは、国道や新幹線の建設によって大岩山が消失してしまったので永遠の謎である。
この冊子では、2回の倭国大乱によって野洲川流域でも小地域が統合されて地域を代表する首長が現れ、さらに大きな政治権力を持って畿内や東海地域と政治的な交流をする事が出来る王が登場したことによる新たな時代の幕開けと、近江の弥生社会の終焉を象徴した出来事が、大岩山銅鐸埋納祭祀だったのだろうと推測している。
時代はこの頃から古墳時代に入り、野洲川の右岸では平野部や大岩山丘陵に多くの古墳が築かれ、左岸では伊勢遺跡や下長遺跡などの規模の大きな集落が形成されて、急速に成長した有力な王が登場したことをうかがわせるという。邪馬台国近江説は伊勢遺跡の特殊性とこのような背景から唱えられている。
邪馬台国がどこにあったかということはさておき、野洲川デルタ地帯が弥生時代を遡って縄文時代からの人々の生活の場であったことは確かと思われる。日本書紀や古事記が記載する有史時代に入った近江は、渡来人が勢力をもった地域であったことは、以前のウェブログ「志賀の都探訪」や「湖東の渡来人」で触れたが、有史以前はどうなっていたのだろうか?
<縄文人と弥生人>
有史以前の弥生人や縄文人のことは、太古より日本列島に住んでいた我々の祖先が縄文文化を開花させたが、紀元前4世紀頃から大陸や朝鮮半島から弥生文化と呼ばれる先進文化を受け入れて発展し、統一国家を形成して、その国家を統治した王が皇室の祖先であると学校の歴史では習う。
従って野洲川デルタ地帯においても縄文時代には縄文人が生活して縄文文化を形成し、やがて弥生時代に入って大陸や半島からの文化を受け入れた弥生人が弥生文化を形成したということになり、赤野井浜遺跡や服部遺跡における縄文人から弥生人への推移は、学校で習う歴史からは連続性のあるものであったように思える。
しかし近年、人類学研究において、縄文人と弥生人の化石標本の骨格や頭骨の形と歯形からの形質解析、染色体やDNAからの遺伝子解析などの新しい解析手法が発達し、さらに数理統計学による進化予測手法も加わって、科学的には縄文人と弥生人はとうてい同一人種とはみなせないことが判明してきた。
<日本人の二重構造モデル仮説>
このような複雑な知見に対し、人類学者の故埴原和郎氏は「日本人の骨とルーツ」(角川書店)を著して、日本人の二重構造モデルを提唱した。
「日本の旧石器時代人や縄文人は、かつて東南アジアに住んでいた古いタイプのアジア人集団-原アジア人-をルーツにもつということが出発点になる。縄文人は1万年もの長期間にわたって日本列島に生活し、温暖な気候に育まれて独特の文化を成熟させた。」
「気候が冷涼化するにつれて北東アジアの集団が渡来してきたが、おそらく彼らも、もともとは縄文人と同じルーツをもつ集団だったのだろう。異なる点は、長い期間にわたって極端な寒冷地に住んだために寒冷適応をとげ、その祖先集団と著しい違いを示すようになったことである。」
「大陸から日本列島への渡来は、おそらく縄文末期から始まったのだろうが、弥生時代になって急に増加し、以後、7世紀までのほぼ1000年にわたって続いた。渡来集団はまず北部九州や本州の日本海沿岸に到着し、渡来人の数が増すにつれて小さなクニグニを作り始めた。さらに彼らは東進して近畿地方に至り、クニグニの抗争を経てついに統一政府、つまり朝廷が樹立された。」
「その後朝廷は積極的に大陸から学者、技術者などを迎え、近畿地方は渡来人の中心になった。また土着の縄文系集団を『同化』するために北に南にと遠征軍を派遣し、一部の地方には政府の出先機関も設置された。渡来系の遺伝子はこのようにして徐々に拡散したが、縄文系と渡来系との混血は近畿から離れるにつれて薄くなる。」
「現代にもみられる日本人の地域性は、両集団の混血の濃淡によって説明される。混血がほとんど、あるいはわずかしか起こらなかった北海道と南西諸島に縄文系の特長を濃厚に残す集団が住んでいることも、同じ論理によって説明することができる。」
つまり、縄文文化の担い手と弥生文化の担い手とは人種的に異なっており、現在の日本人は縄文人と弥生人の混血であり、日本の地域による文化的な差異は両集団の混血の比率の違いによること、弥生文化の担い手は渡来人たちであり、近畿地方に朝廷をつくったのは彼らである、という仮説である。
この日本人の「二重構造モデル」仮説は、色々な解析からも支持され、ほぼ学会でも受入れられているという。現在関係している科学技術振興機構のさきがけ研究においても、日本人のゲノム進化を統計的に推測する理論研究を進めている研究者がおられるが、その理論からもこの仮説が支持されるとのことである。
<有史以前の野洲川デルタ地帯>
ということからすると、野洲川デルタ地帯に住みついて1万年余りを過ごしていた縄文人は、3千年前頃に北九州から移動してきた渡来系の弥生人と混血を繰り返して置換に近い形で同化され、野洲川デルタ地帯の数々の弥生遺跡に残る弥生文化を築いていったと考えられる。
滋賀県立琵琶湖博物館発行の「ほねほね化石・発見ものがたり」によると、琵琶湖は約400万年前に三重県の上野市付近で発生し、北上して30万年前にほぼ現在の位置に移ったとある。従って縄文時代が始まったとされる1万6千年前には琵琶湖は今とそれほど変わらない姿になっていたと思われ、野洲川も氾濫しては肥沃なデルタ地帯を形成したであろうから、縄文人にとっても、弥生人にとっても住みやすい環境を作ったと考えられる。
しかし土着の縄文人の方が、渡来してきた弥生人に形質の上で凌駕されるのはおかしいではないかとも思えるが、弥生時代中期には、北九州では渡来人が圧倒的多数であったらしい。このことは、弥生人が大量に渡来してきたか、あるいは農耕民である弥生人の人口増加率が、狩猟民である縄文人のそれより圧倒的に高いことから説明がつくらしいが、知識がないのでこれ以上の詮索はまたの機会としたい。
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