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2010.02.27

石見の柿本人麿ゆかりの地

Kamoshima_3(クリックで拡大)
      柿本人麿終焉の地、鴨島の展望地(島根県益田市)
  
<万葉の大歌人、柿本人麿>
この正月休みに島根県石見地方の赤瓦の町並みを探訪したことは、前編の「石州赤瓦屋根の町並み」で触れた。知り合った島根県庁の広報課の方から、(石見探訪の目的が)銀山より、赤瓦メインという方は確かにあまりお見かけしませんね(笑)、とのメールを頂いた。

  • 石州赤瓦屋根の町並み

    実は赤瓦の他にもう一つ、ひそかに思いついた石見探訪のネタがあった。そのため最初は江津までの切符を買っていたのを、そのネタが益田市にあるのと、我家の最寄の南草津駅から益田の次の駅まで買うと600kmを超えて乗車券が往復割引になるということも思いついたので、益田を最初の訪問地とすることに変更した。

    そのネタは万葉の大歌人、柿本人麿(人麻呂とも)である。文学の専門家の間では、古来日本の詩人の代表者というと、柿本人麿と松尾芭蕉であるらしい。松尾芭蕉は江戸時代の人なのと、色々な史料でその人生は良く知られている。誕生地は伊賀国で、終焉の地は大阪御堂筋である。遺言で近江の義仲寺(大津市膳所)に葬られたことも有名である。以前のウェブログ「伊賀市上野に残る武家屋敷-入交家住宅-」でも触れた。

  • 伊賀市上野に残る武家屋敷-入交家住宅-

    Hitomaro一方の柿本人麿は7世紀後半~8世紀初頭の飛鳥時代の人であり、万葉第一の歌人、歌聖と崇められるものの、その人生に関する当時の史料はなく、万葉集の歌やそれにつけてある詞書や注によって推し量るしかないらしい。我が子供時代の柿本人麿観は百人一首の歌人で、「足曳の山鳥の尾のしだり尾の」という、長々し夜にかかるとんでもない長い枕詞を用いたおじさんであった。

    石見の益田市は柿本人麿ゆかりの地であり、地元では生誕の地も終焉の地も益田であったと信じられている。特に終焉の地に関しては梅原 猛先生の学術調査も含む詳細な論証から、冒頭写真に掲げた海岸沖合に沈んだ鴨島とされている。益田市には人麿生誕の地とされる戸田の柿本神社と、建立の起源が終焉の地、鴨島に遡る高津の柿本神社がある。

    Sarumarutayuu梅原論文は一般向けには「水底(みなそこ)の歌-柿本人麿論」(新潮社、新潮文庫)として出版され、柿本人麿は古の歌人、猿丸大夫であるとする。猿丸大夫を祀る猿丸神社は滋賀県大津市と京都府宇治田原町の境にあり、私が毎日通っている通勤路の傍にあることは以前のウェブログ「湖南の瀬田川界隈」で触れた。

  • 湖南の瀬田川界隈

    我が通勤路の神社の祭神が実は柿本人麿であるという、それまでの学説を覆す梅原 猛先生の柿本人麿論は、当方には大いに魅力的であり、その論旨も賛同できるものであるので、梅原説に沿って人麿の石見での足跡を辿ることは赤瓦屋根に匹敵するネタである。そんなことから2009年12月31日に島根県益田市の柿本人麿ゆかりの地を巡った。

    <戸田柿本神社とひとまろの里>
    前編で述べたように12月31日の益田の朝は吹雪模様であった。しかし目的を話すとタクシー会社の人はこれくらいの吹雪なら回ってあげますよと言ってくれたので、波子に向う特急に乗るまでの間、柿本人麿ゆかりの地を回って貰った。年配の運転手さんの言に従い、まず戸田の柿本神社、戻って高津の柿本神社、最後に鴨島の展望地へ行くことになった。

    戸田柿本神社はJR益田駅から三里浜海岸沿いの国道191号線を西方に進み、戸田小浜駅の手前を南に入った山里にある。この付近はひとまろの里と呼ばれているらしく、小野推進協議会の名前が入った「ようこそひとまろの里へ」と書かれた案内板がある。タクシーはそこから急坂を駆け上がり戸田柿本神社の境内に着く。雪で白っぽくなっているが境内の建物の屋根は石州赤瓦である。

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          ひとまろの里の案内板            戸田柿本神社本殿

    本殿前に建っている由緒記には、祭神は柿本朝臣人麿で、約1300年前に天武、持統、文武の3天皇につかえた宮廷歌人として令名が高く、万葉集の「石見の海 打歌の山の木のまより わが振る袖を妹見つらむか」の打歌の山が益田市の大道山とされ、その北西の戸田町は生誕の地、北東の高津町は死没地と伝えられています、とある。

    社殿は神亀年代(724-728)に創建され、津和野亀井藩主をはじめ古来地方民の尊崇厚いところであります、とも記され、現在の本殿は文政5(1822)年に再建とある。その時に津和野藩士大島常一(松渓)が人麿七体像を彫刻し御神体に加えられたらしい。麓の案内板にその写真が出ていたことを思い出した。

    一通り拝観してタクシーに戻ると、運転手さんが下にも柿本人麿生誕地の石碑がありますよ、と仰ったのでそこへ連れて行って貰った。民家の傍に島根県知事の恒松制治氏の揮毫になる柿本人麿生誕地の大きな石碑があり、奥に鳥居が建っている。その奥が石杭で囲まれたお墓のような雰囲気になっていて、傍に柿本朝臣人麿御廟所と彫られた石碑が建っている。

    Hitomarobyo
            柿本人麿生誕地          柿本朝臣人麿の廟所(遺髪塚) 

    御廟所であるから柿本人麿の霊を祀る場所であろう。来る前に見た益田市のホームページに、戸田の柿本神社を守る綾部家の傍に遺髪塚があると出ていたので、この御廟所が遺髪塚と思われた。写真を撮っていたら傍のお家から男性が出て来られて名刺を下さった。拝見すると戸田柿本神社49代宮司の綾部 正氏であり驚いた。

    益田市のホームページで、かつて大和で柿本氏に仕えた綾部氏は、柿本氏が石見に下った時、これに従って移住し、柿本氏と綾部氏との間に生れたのが人麿であると伝えられていることや、代々語部(かたりべ)を務めた綾部家49代目が今も神社を守っていることを事前知識として得ていたが、そのお方である。

    綾部氏の名刺には語家(かたらい)とあるので語部を今も続けておられるのであろう。梅原 猛先生の著書に感銘を受けて、滋賀県から来ましたと申し上げたら、遠いところからようこそと仰って快く記念撮影に応じて下さった。梅原 猛先生も何度かお見えになり、この一帯の発掘調査もなさいました、とのお話も伺った。幸運に感謝して戸田のひとまろの里を辞した。

    <高津柿本神社>
    1300年の歴史を背負っておられる綾部氏にお会いした感激を引きずりながら、再び益田市街へ戻り2年連続清流日本一となった高津川の畔にある高津柿本神社の山麓に着いた。柿本神社の本殿はこの山上にあり、タクシーはその近くまで上がってくれたので、先に麓まで降りてもらい、本殿に参拝してから麓まで参道を歩いて下りることにした。

    柿本神社本殿の案内板によると、ここはもともと津和野藩の高津城のあったところで、延宝9(1681)年に津和野藩主の亀井茲政が社殿を設け、ご神体を高津浜の松崎にあった社殿から移したとある。その起源は聖武天皇の神亀年間(724-728)に人麿の終焉地鴨島に、勅命により建立された人丸社(人麿は人丸とも呼ばれる)であるという。

    鴨島は万寿3(1026)年の大地震と津波で海中に没したが、その時に人麿の木像が松崎に漂着したので、松崎の地に地区民により人丸社が再建された。慶長13(1608)年には徳川秀忠の命により石見銀山奉行大久保長安が社殿を造営し、さらに寛文11(1671)年に亀井茲政が修理するものの風砂による欠損がひどいので現在地に移したとある。

    Takatsukakinomoto
        雪を被った高津柿本神社本殿         境内から高津川を見下ろす

    本殿のすぐそばから高津川を見下ろすことができる。背後は県立万葉公園になっていて万葉植物園やキャンプ場があり、自然公園になっている。以前のウェブログ「湖東の額田王ゆかりの地」で触れた滋賀県の万葉の森と同様の万葉スポットになっていて、人麿を通じて万葉ファンを惹きつけようという島根県のアイデアであろう。

  • 湖東の額田王ゆかりの地

    本殿に参拝し参道を下りて行くと立派な楼門がある。この楼門は亀井茲政が延宝9(1681)年の移転の時に建立したものとある。楼門の中はかなり広く、見上げると人麿社の扁額が掛かっているので柿本神社と呼ばれる前は人麿社と呼ばれていたのかも知れない。楼門の内部には多数の和歌や俳句の短冊が奉納されており、さすが人麿社といった雰囲気である。

    Rohmon
        麓から見上げた柿本神社楼門       由緒ありそうな人麿社の扁額

    楼門からさらに参道を下りて麓で待って貰っていたタクシーに戻り、明日が元日なので初詣の幟の立てられた柿本神社を後にし、いよいよ人麿終焉の地の鴨島展望地に向かう。

    <人麿終焉の地、鴨島>
    鴨島展望地はJR益田駅の北方の益田川河口に位置し、松林を抜けた海岸一帯が展望地である。とくに展望台などがあるわけではなく、冒頭写真に掲げたように目の前に茫々たる日本海が広がっている。この日は風も強く白波が押し寄せていて、さすが冬の日本海といった風情であった。

    松林を抜けた砂地に、平成3年3月に益田市が立てたかなり腐食の進んだ説明板があり、柿本人麿が石見国で死に臨んで詠んだ歌とされる万葉集の歌、「鴨山の岩根し枕けるわれをかも 知らにと妹が待ちつつあらむ」と、海底学術調査で得られた深浅測量図が載っている。つまり人麿の終焉の地、鴨山は鴨島を形造っていた山のことであり、万寿3(1026)年の大津波で海底に埋没したことを示している。

    「水底の歌」の著者である梅原 猛先生は、昭和52年に40人余りの調査団を率いて益田川沖合1000mの大瀬で科学的調査を行った。深浅測量図や海底地形、各種岩塊の形から960年ほど前に鴨島が水没したという地質学的結果が得られ、歌聖人麿の秘史解明に貴重な資料を提供することになった、ということである。

    Kamosima_4(クリックで拡大)
    人麿終焉の地、鴨島の水没を示す説明板

    <人麿の終焉の地、鴨山をめぐる諸説>
    「水底の歌」には人麿終焉地を巡る過去の論争の詳述がある。前述の万葉集の歌とその詞書、「柿本朝臣人麿の、石見国に在りて死に臨みし時、自ら傷みて作れる歌一首」から、柿本人麿の終焉の地は、この歌に出ている鴨山であることは古来誰も疑わないが、鴨山の場所については、益田市の他、江津市、浜田市、奈良県など諸説があったという。

    万葉集には、この歌の次に妻の依羅の娘子(よさみのおとめ)が人麿の死を悲しんで詠んだ歌2首が続き、石川という川が出ているので、石川という川の近くの鴨山の場所をめぐって江戸時代末期以降色々論争が始まったという。それ以前は高津沖の水没した鴨島が鴨山であるとの伝説が一般的に信じられていたらしい。

    我家には親父の遺産の、昭和22(1947)年に朝日新聞社から発刊された日本古典全書「萬葉集」があるので、それを見ると、上述の人麿の辞世の歌の鴨山の注には、「江の川の上流、邑智郡粕淵村津目山(つのめやま)かといふ。」とある。つまり今から60年前には江津から国鉄三江線で江の川を遡った粕淵の近くで歌聖人麿は死んだことになっていた。

    この鴨山=津目山説を定着させたのは、大正昭和のアララギ派の大歌人斎藤茂吉である。斎藤茂吉は益田市沖合に沈んだ鴨島伝説は否定し、自分の直感に合う鴨山探しに執念を燃やした結果、江の川上流の津目山を鴨山と考え、鴨山考を著して昭和15(1940)年には帝国学士院賞を受け学界に認められた。その後紆余曲折を経て、茂吉は近くの湯抱(ゆがかえ)に鴨山と呼ばれる山があることを知り、そこを人麿終焉の地としたという。

    江津市もまた柿本人麿ゆかりの地である。石州赤瓦の発祥地、都野津(つのづ)にも柿本神社があり、人麿と妻依羅の娘子が暮らしていたという伝説がある。万葉集の人麿の歌とされる「石見のや高角山(たかつのやま)の木の間より我が振る袖を妹みつらむか」に出ている高角山は、高い都野の山ともとれるので、上記の「萬葉集」の注では「今の島星山(しまのほしやま)だらうといふ」とある。

    島星山は山陰本線江津駅近くの江の川を渡る時に良く見える美しい山である。波子から江津までご一緒した女性もあの山が人麿が歌に詠んだ高角山ですよ、と仰っていた。島星山の麓の神村も鴨山の諸説の一つになっていたらしいが茂吉の直感には合わなかった。高角山は高津の山ともとれるので、鴨山=高津沖説では高角山は島星山ではなく、鴨山そのものということになる。

    Gonokawashimaboshi
       江の川から島星山(高角山?)を望む(江津市)
        
    <斎藤茂吉説の勝利と反論>
    斎藤茂吉の津目山説や湯抱説の論拠はかなり強引なものであったが、昭和の文学界は斎藤茂吉の熱意と名声やカリスマ的な権威に圧倒されて、誰も積極的に反論しなかったらしく当時の学説になってしまった。太平洋戦争後すぐに発刊された上述の日本古典全書「萬葉集」の注からも、当時の学界では茂吉説が採用されていたことが分かる。

    昔から人麿の誕生および終焉伝説を信じて来た益田の人々にとっては、ある日突然、学説が茂吉説になってしまい、湯抱に人麿終焉の地の碑まで建ってしまったことは大変口惜しかったに違いない。しかし益田の郷土史家や柿本神社の宮司といえども茂吉説を打破する論理と名声をもっていなかったため、全く抗弁出来なかったとのことであった。

    斎藤茂吉の死後、昭和39(1964)年になって益田の高等学校の教師をされていた矢富熊一郎氏が、雌伏30年の研究の結果「柿本人麻呂と鴨山」を著して、茂吉説の誤謬を徹底的に切ったそうである。そして矢富氏は伝承の鴨島水没が確かにあったことについての多数の文献的証拠をあげ、鴨島のあととして大瀬の存在を指摘されたという。

    この矢富氏の精細な論究に疑いをはさむ余地はないと感じ、矢富氏の言うように鴨山=高津沖説は間違いないと思われたのが、哲学者、梅原 猛先生であった。このことが鴨島展望地の説明板に記載された昭和52(1977)年の、梅原 猛調査団による高津益田川河口沖合の大瀬の海底学術調査に結びつき、鴨島の水没が地質学的に実証されたということになる。

    <下級官吏と断定されて来た宮廷詩人・歌聖の柿本人麿>
      益田駅の人麿像
    Masudaekihitomaro_2かといって矢富氏と梅原 猛先生の人麿解釈が一致していたわけではない。人麿が鴨島に来た理由を、矢富氏は国府の役人としてと考え、梅原 猛先生は権力に逆らった流人として、と考えていた。矢富氏の考え方は、江戸時代前期から中期にかけての国学者、契沖と賀茂真淵が柿本人麿を国府の下級役人と位置づけて以来の通説に従ったものである。

    私が大学受験の時に使った昭和34(1959)年発行の日本史辞典(泰西社)には、柿本人麻呂、7世紀後半~8世紀初、飛鳥時代の歌人、下級官吏で、のち地方官になったらしいが、伝記不明、とある。つまり宮廷第一の詩人として天皇や皇族に従って華麗な歌を数々詠んだ柿本人麿は、実は下級官吏であったと、我々も教えられていたのである。

    この理由は、万葉集の人麿辞世の歌の詞書に「死」という表現が用いられていることから来ている。古代の養老律令では死亡時の呼称は身分によって異なり、皇族や高官には「薨(こう)」や「卒」が用いられ、「死」は6位以下や庶人につけられるので、前述の契沖、賀茂真淵によって人麿は下級官吏と断定された。

    しかし時代をもっと遡れば、延喜5(905)年に紀貫之が編纂した古今和歌集の序文に、「おほきみつのくらゐ(正三位)柿本人麿」とあることや、柿本大夫と5位以上を示す表現もあるので、古くは柿本人麿は皇室讃歌や皇族の挽歌を歌うにふさわしい高官であったと受け取られていたのである。

    にもかかわらず国学という徳川時代の合理主義は、文献で実証できることのみを正しいとして人麿を下級役人と断定し、賀茂真淵は、紀貫之の序文は後世に誰かが手を加えたものと解釈して、原文はこうであったはずと改竄までしたという。信じ難いが以来それに不審を抱く万葉学者は現れなかったらしい。

    確かに我家の昭和23(1948)年発刊の日本古典全書の「古今和歌集」を見ても、紀貫之が書いたとされる序文の「おほきみつのくらゐ柿本人麿」の注は、「正三位。ただし人麿はかかる高位ではなく・・・」と、江戸時代以降の定説に従った注書になっていて、正三位は否定されている。

    梅原 猛先生は、契沖以来定説化したこのような人麿像と、華麗な詩人の人麿像とのアンバランスに不審を抱いて「水底の歌」を著し、斎藤茂吉の鴨山考を徹底的に批判し、契沖、賀茂真淵によって作られた柿本人麿像を根底から覆して、万葉学や文学界の考証の怠慢を指摘されたように思える。

    <梅原 猛「水底の歌」の柿本人麿>
    「水底の歌」に書かれた梅原 猛先生の柿本人麿像は、契沖、賀茂真淵が断定し継承されてきた下級官吏あるいは地方官といった考え方を根本的に覆す人麿像である。梅原人麿は持統帝時代(690-700年頃)に宮廷歌人として活躍したが、持統帝との愛憎問題か、または藤原不比等との関係悪化から失脚し、流罪人として地方を転々とし最後に鴨島へ移された。前述の人麿の辞世とされる歌は慶雲4(707)年頃の歌であり、この頃に鴨島で人麿の水死刑が執行されたという悲劇的な人生である。

    Minasokonouta_2さらに柿本人麿がいわゆる正史に書かれていないことが契沖らの下級官吏説を生んだが、梅原先生は日本書紀に出ている柿本臣猨(さる)と、続日本紀の柿本朝臣佐留を人麿に比定され、同一人物であり正史に出ていると推論され、その比定から官位も5位以上の大夫職であったとされる。鴨島の辞世の歌に「死」とあるのは、この時には官位を剥奪されて除名になっていたからである。

    また賀茂真淵が解釈に悩んで、改竄までせざるを得なかった古今和歌集の紀貫之の序文「おほきみつのくらゐ(正三位)」についても、平安遷都時に桓武帝が死に追いやった崇道天皇の鎮魂のために、大同1(806)年に万葉集の実質上の選者とされる大伴家持らを復権させるという複雑な時代背景の中で、歌聖人麿に正三位が追贈され、それを100年後に紀貫之が記したものと考えられた。

    これらの推論の過程で、人麿と同じように古の歌人で、その人生が全く不詳である猿丸大夫が人麿そのものであると論じておられる。契沖、賀茂真淵や斎藤茂吉たちが解釈に行き詰った部分は後世の追加とか、不都合部分の切捨てとかを行って強引な考証を進めたのに対し、梅原説は日本史の大きなうねりの中に全体として無理なくはまるような印象を受ける。

    その奥には梅原日本学といわれる日本の古代史に関する深い思索があり、「湖東の額田王ゆかりの地」でも触れたように、藤原不比等が記紀(古事記、日本書紀)の成立に深く関与し、藤原体制の成立に記紀を利用したという、これまで誰も考えつかなかった着眼があり、その着眼に沿った人麿像になっている。上山春平先生も「神々の体系」で同じ見方をされており、現代の歴史作家にも引き継がれている。

    多くの日本人が尊敬し、お札にもなっている聖徳太子についても、聖徳太子が建てたと学校で習った法隆寺は、実は太子一族を滅亡させた天智、天武一族と藤原氏が太子の怨霊を鎮めるために建てた鎮魂の寺であったという「隠された十字架」も同じ着眼である。

    <梅原 猛説の学界のうけとめ>
    あとがきの中で梅原 猛先生は、「水底の歌」は「神々の流竄(るざん)」、「隠された十字架」と並んで自分の初期日本古代学の三部作であると述べられている。そしてこれらの著書は学界や読書界に大きな波紋を投げたが、学界の反応は概して冷たく、日本歴史や日本文学の研究者、特に日本古代の研究者には容易に理解されそうになかったと仰っている。

    この著書は、今までの通説を根本から疑い、新しい仮説をたて、多くの文献や事実の検証から証明してゆくという、我々技術屋には分かりやすい手法がとられている。自然科学の学者にはこの説を素直に認めてくれる人が多いが、人文科学ではこういう方法はほとんどとられてなく、小さい事実の実証学か、学説の解説と紹介にとどまっている現状においては、違和感を与えるのだろうとも仰っている。

    この著書の発刊後もう37年ほど経過しており、現在の学界でどのようなうけとめをされているのかの知識はないが、ウィキペディアを見ると、梅原説の紹介はあるが学会において受け入れられるに至っていない、とある。古代の律に水死刑がないことや、高官であったのなら続日本紀などになに一つ残っていない点などに問題があるからである、とある。

    しかし「水底の歌」には、律からは水死刑が読み取れないが、当時水死刑が存在していたことも指摘してあるし、続日本紀の柿本朝臣佐留を人麿と比定してあるので、これらは問題にはならない。ウィキペディアの記事を書いた人は自分でちゃんと読まずに、梅原説批判派の言を受け売りしているに過ぎないようである。

    あとがきの中で、梅原 猛先生は何度か学会や雑誌で私と批判者の対決の場が企画され、一旦それを了承しながら、どうしたわけかその日が近づくとあいにく病気になったり、急に用事ができて対決を断ってくると、皮肉っぽく語っておられるので、未だに学界では受け入れようとしていないのかもしれない。

    <島根県は日本のチベット?>
    石州赤瓦と柿本人麿で島根県を少しだけ散見したが、実は島根県への旅行は始めてであった。長年住んでいる京都や滋賀からさして遠くないのに、学生時代の旅行でも会社時代の仕事でも行く機会がなく、出雲神話、宍道湖、石見銀山、故竹下 登首相の出身地などの雑知識しかなかったが、今回の訪問で文化的にもレベルの高い地域であると感じ、親近感も湧いている。

    ところがその島根県やお隣の鳥取県の高い文化レベルを冒涜する政治家がいることが分かった。オカメインコが取り持つ縁で知り合った早稲田大学のチベット学の先生が、ご自分の最近のブログに次のような新聞記事を紹介され大変怒っておられたのである。島根県が出ていたので身内を貶された気がして、私も同じく大変怒りを覚えた。

    民主・石井氏「鳥取、島根は日本のチベット」2月22日21時30分配信 読売新聞
    民主党の石井一選挙対策委員長は22日、都内で開かれた川上義博・同党参院議員(鳥取選挙区)のパーティーであいさつし、「鳥取県とか島根県と言ったら、日本のチベットみたいなもので、少し語弊があるかもわからないが、人が住んでいるのか。牛が多いのか。山やら何やらあるけど、人口が少ない所」と述べた。川上氏が夏の参院選に向けて鳥取選挙区の候補者を発掘したため、保守地盤の鳥取での活動を評価した発言とみられる。しかし、会場からは「失礼だ」との声もあがった。

    チベットを、チベット仏教を生み、現在もダライラマ14世のような世界から尊敬される偉人を輩出した文化レベルの高い国として認識した上で、島根県や鳥取県を人口は少ないがチベット同様の高い文化レベルの県として紹介したのなら、さすが日本の国会議員と言えるが、スタンフォード大学出身のこの議員さんは、要するにチベットも島根県もド田舎であると発言しているのである。自らの無知蒙昧ぶりをさらけだしているのがわからないのだろうか。

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